第54回 最終回、訪ね歩いた47人の思い出をアーサーさんが振り返りました。
1年4か月の取材、1年間の放送もついに最終回を迎えました。
「昔の戦争話」を聞くつもりでこの番組を始めたアーサーさんでしたが、「これから生きていく智恵を学んだ」との思いを吐露し番組は終わりを迎えました。この番組の秋の出版化を目指しアーサーさんの旅はまだまだ続きます。
[更新 8月4日]
[TIME 26:29]
第53回 アーサーさんの義母・栗原澪子さん。身近な人に聞く戦争。
全国様々な方々の戦争体験を探してきたアーサーさんですが、もっとも近い存在である人に聞いていなかった事に気づきました。向かったのはお姑さんにあたる澪子さんのお宅。愛国少女だった澪子さんには、戦争に負けると語った母の言葉が信じられなかったそうです。
[更新 8月4日]
[TIME 72:03]
第52回 日系人特集、第三回。今村ミノルさんと兵坂米子さん。
日系人部隊の一員として欧州戦線に向かった今村さんは洋上でドイツの降伏を知りました。兵坂さんは、日系人とともに志願して収容所に入ったフィリピン系の義兄のエピソードを語ってくれました。
[更新 4月10日]
[TIME 18:15]
第51回 日系人強制収容所の記憶〜ジーン三島さん メリー大家さん ジェーン日高さん
1942年の大統領令署名を受け日系アメリカ人達12万人は収容所や拘置所などに強制的に送られることとなりました。このうちの7割は、アメリカの市民権を持つ二世、三世の人たちでした。
[更新 4月10日]
[TIME 13:42]
第50回 日米開戦で生活が一変した日系二世、リッチ日高さん
カリフォルニアで生まれたリッチ日高さんは真珠湾攻撃の日以来、厳しくなった周囲の視線を今も覚えています。連行された父親に続いてリッチさんもまたコロラド州の強制収容所に送られました。
[更新 4月10日]
[TIME 12:31]
第49回 広島を世界に向けて伝える通訳者の小倉桂子さん
核の恐ろしさを通訳の立場から世界に伝え続けている「平和のためのヒロシマ通訳者グループ」代表の小倉桂子さん。広島には世界中の「核の被害者達」が日々訪れています。
[更新 4月10日]
[TIME 73:50]
第48回 ポーランドに生まれホロコーストを生き延びたユダヤ人のモリス・チャンドラーさん
第二次世界大戦中、ナチス・ドイツがユダヤ人などに対して組織的に行った
大量虐殺「ホロコースト」では数百万人の命が奪われました。
しかし現在アメリカに暮らすモリス・チャンドラーさんは、
カトリック教徒の習慣とポーランド語を徹底的に身に着け、
ユダヤ人であることを隠し続けることで生きて戦後を迎えることができたのです。
[更新 4月7日]
[TIME 23:20]
第47回 「戦争の不条理」を探し続ける作家、山中恒さん
児童文学の名作を数多く世の中に送り出してきた山中恒さん。
軍国少年だった自らの経験を元に膨大な資料を調べあげ戦時中の軍国主義教育を描いた
「ボクら少国民」シリーズやテレビドラマにもなった「あばれはっちゃく」シリーズなどの
著者としても知られています。
[更新 4月7日]
[TIME 57:04]
第46回 捕虜としてアメリカ本土に送られた秋草鶴次さんのその後(後編)
硫黄島の戦いで重傷を負うものの九死に一生を得た秋草さん。捕虜として送られた先はアメリカ本土、バージニアの捕虜収容所でした。秋草さんは太平洋戦争が激しさを増す中、ドイツ人、イタリア 人の3人で収容所の厨房係を命じられます。
[更新 2月11日]
[TIME 38:13]
第45回 硫黄島の戦いから生還した元通信兵の 秋草鶴次さん(前編)
日本軍よりも米軍に多くの死傷者を出した硫黄島の戦いは、2万1千人余りの日本兵のうち生き残った者がわずか1023人という悲惨な戦いでもありました。そのわずかな生存者の一人が、通信兵として硫黄島に赴任していた秋草鶴次さんでした。
[更新 2月11日]
[TIME 75:05]
第44回 今も戻らない北方領土、択捉島。この島で生まれ育った鳴海冨美子さんの思い出
択捉島で生まれ育ち、5歳で追われるように一家で島を離れた鳴海さん。川の豊潤な流れや遡上してくるカラフトマスの群れは雄大な自然とともに新鮮な記憶として残っています。進駐してきたロシア兵たちは意外にも皆とても優しく人たちでしたが、ある日豹変し、鳴海さんの自宅から金品を奪っていったのでした。
[更新 1月25日]
[TIME 58:01]
第43回 元BC級戦犯として戦後を生き抜いた飯田進さん。隠すことなく語り続けてきた戦争の真実
南方の激戦地に資源調査隊員として赴任した飯田さんは、やがてゲリラの討伐隊にも狩り出されていきました。戦後はBC級戦犯として死刑を求刑され、重労働20年の判決を受けるなど辛苦を味わいます。10年間の収容生活を送った飯田さんが紡ぎだす思いにアーサーさんも心震わせずにはいられませんでした。
[更新 1月25日]
[TIME 17:23]
第42回 樺太(サハリン)で終戦を迎えた中島邦男さん。3年後帰国を果たすまで。
8月15日。気象観測所に郵便局から電話が入り、女性局員が中島さんに「日本が負けた」と告げました。翌日、機密資料を焼却中にソ連機による機銃掃射を受け逃げ惑った中島さん。その後 逞しく樺太で3年の月日を過ごします。
[更新 1月12日]
[TIME 40:54]
第41回 戦時中は国家機密だった気象情報。陸軍 気象部の元職員、中島邦男さん
子どもの頃から雲を眺めるのが好きだった中島さんは陸軍気象部に合格し軍属として勤務する事に。父親が単身赴任で暮らす樺太(現サハリン)への配属替えを願い出た中島さんの希望はかない極北の地を踏むことになりました。
[更新 1月1日]
[TIME 34:02]
東大在学中、学徒動員で心ならずもゼロ戦パイロットに選抜された手塚さん。沖縄戦では特攻隊に選ばれずほっとしたのも束の間、本土決戦のための出撃を命じられます。手塚さんは覚悟を決め出発基地の観音寺に向かったのでした。
[更新 1月1日]
[TIME 63:49]
第39回 原田要さん ミッドウェー海戦からガダルカナルへ。死線を越えて
原田さんは真珠湾攻撃の後、ウェーク島の戦い、ボートダーウィンの空襲、コロンボ空襲、ミッドウェー海戦、ガダルカナル島の戦いと幾度もの死線を越えて終戦を迎えました。戦後は敵機パイロット達との再会も果たします。
[更新 1月1日]
[TIME 71:25]
第38回 哨戒部隊として真珠湾攻撃に向かったゼロ戦パイロット原田要さん
17歳で海軍に入隊した原田さんは真珠湾に哨戒部隊として出撃します。真珠湾攻撃は大成功に終わりますが、前線の攻撃部隊から詳細な報告を聞いた原田さんには攻撃が成功とはどうしても思えないのでした。
[更新 1月1日]
[TIME 28:50]
第37回 返還間近のGHQで職員として務めた篠原栄子さん
日本の主権回復目前のGHQ。面接に合格し職員となった篠原さんは、カフェで語らうアメリカ人の男女たちの姿に洋画の中にいるような気分に。一方で机に脚を乗せてリ ンゴにかぶりつく上官の姿には茫然とする日々でした。
[更新 1月1日]
[TIME 51:09]
第36回 戦時中、NHKの新人アナウ ンサーとして活躍した近藤富枝さん
近藤さんがアナウンサーとしてNHKに入局したのは1944年10月、男性アナたちの多くは戦地に出征していた時代でした。8月15日、近藤さんは同僚アナたちとともに局に集合を命じられ玉音放送を聴きます。
[更新 1月1日]
[TIME 71:29]
第35回 八丈島駐留の自動車部隊と生活した持丸真喜男さん
当時、小学生だった持丸さんのお宅は中国戦線から帰還した自動車部隊の兵士たちの宿舎となりました。それはわんぱく盛りの持丸少年にとって楽しい記憶として残っています。
[更新 1月1日]
[TIME 63:18]
第34回 八丈島から軽井沢へ。集団疎開を体験した沖山操さん
八丈島で生まれ育った沖山さん。旅館に呼ばれ硫黄島に出撃する特攻隊員たちの前で歌った思い出や、その後見知らぬ軽井沢へ集団疎開に向かった思い出などを語ってくれました。
[更新 1月1日]
[TIME 54:55]
第33回 小笠原から戻る船が撃沈され九死に一生を得た奥山公男さん
八丈島から小笠原に軍属として徴用された奥山さん。八丈島に戻る船が米軍の魚雷攻撃を受け船は2分も経たないうちに轟沈しました。八丈島から小笠原に向かった仲間で助かったのは奥山さんを含めわずか3人でした。
[更新 12月26日]
[TIME 45:18]
第32回 「サッちゃん」などで知られる作曲家、大中恩さんが特攻に向かう戦友たちを見送った海軍生活
童謡「サッちゃん」や「いぬのおまわりさん」などで知られる作曲家、
大中恩(おおなか めぐみ)さん。
大中さんは、72年前神宮外苑競技場で行われた出陣学徒壮行会で
スタンドから出征してく先輩学徒を笑顔で見 送りました。
そして後に自身も士官候補生として海軍に入隊し、特攻隊を志願しました。
[更新 12月26日]
[TIME 66:00]