君なくは何(な)ぞ身装(みよそ)はむ 櫛笥(くしげ)なる黄楊(つげ)の小櫛(をぐし)も取らむとも思はず
絶等寸(たゆらき)の山の峰(を)の上(へ)の桜花 咲かむ春べは 君し偲はむ
かくのみし恋ひし渡れば たまきはる命もわれは惜しけくもなし
石上布留(いそのかみふる)の早稲田(わさだ)の 穂には出でず 心のうちに恋ふるこのころ
豊国(とよくに)の香春(かはる)は我家(わぎへ) 紐児(ひものこ)にいつがりをれば 香春は我家
冬ごもり春べを恋ひて植ゑし木の 実になる時を片待つわれぞ
妹(いも)が門入(かどい)り泉川(いづみがは)の常滑(とこなめ)に み雪残れり いまだ冬かも
玉くしげ明けまく惜しきあたら夜(よ)を 衣手(ころもで)離(か)れて ひとりかも寝む
秋風に山吹の瀬の響(な)るなへに 天雲(あまくも)翔(か)ける雁に会ふかも
巨椋(おほくら)の入江響(とよ)むなり 射目人(いめひと)の伏見が田居に雁渡るらし
旅であるので、この夜中をさして照る月が、高島山に隠れてゆくのが惜しい
あぶり干す人もあれやも 濡衣(ぬれきぬ)を家にはやらな 旅のしるしに
白鳥(しらとり)の鷺坂山(さぎさかやま)の松蔭に 宿りて行かな 夜もふけ行くを
今造る久邇(くに)の都は 山川の清(さや)けき見れば うべ知らすらし
前日(をとつひ)も昨日(きのふ)も今日(けふ)も見つれども 明日さへ見まく欲しき君かも
あらかじめ君来(き)まさむと知らませば 門(かど)に宿(やど)にも玉(たま)敷かましを
橘は 実さへ花さへその葉さへ 枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木
馬の歩み押さへ止(とど)めよ 住吉(すみのへ)の岸の黄土(はにふ)に にほひて行かむ
雲隠(くもがく)り行方を無みと わが恋ふる月をや君が見まく欲(ほ)りする
雨隠(あまごも)り三笠の山を高みかも 月の出で来ぬ 夜(よ)は降(くた)ちつつ
ますらをの行くとふ道ぞ おほろかに思ひて行くな ますらをの伴(とも)
わが背子(せこ)に恋ふれば苦し 暇(いとま)あらば拾(ひり)ひて行かむ恋忘貝(こひわすれがひ)
隼人(はやひと)の瀬戸の巌(いはほ)も 年魚(あゆ)走る吉野の滝(たぎ)になほ及(し)かずけり
梅柳過ぐらく惜しみ 佐保の内に遊びしことを 宮もとどろに
須磨の海人(あま)の塩焼衣(しほやきぎぬ)の なれなばか 一日(ひとひ)も君を忘れて思はむ
鏡なすわが見し君を 阿婆(あば)の野の花橘の玉に拾(ひり)ひつ
咲く花の色は変らず ももしきの大宮人ぞたち変りける
千鳥鳴くみ吉野川の川音(かはと)なす 止む時なしに思ほゆる君
泊瀬女(はつせめ)の造る木綿花(ゆふはな) み吉野の滝(たぎ)の水沫(みなわ)に咲きにけらずや
天(あめ)にます月読(つくよみ)をとこ 幣(まひ)はせむ 今夜(こよひ)の長さ五百夜(いほよ)継ぎこそ
月立ちてただ三日月の眉根(まよね)掻(か)き 日(け)長く恋ひし君に会へるかも
凡(おほ)ならばかもかも為(せ)むを 畏(かしこ)みと振りたき袖を忍(しの)びてあるかも
いざ子ども 香椎(かしい)の潟(かた)に 白たへの袖さへぬれて朝菜摘みてむ
朝凪(あさなぎ)に楫(かぢ)の音(と)聞ゆ 御食(みけ)つ国野島(のしま)の海人(あま)の船にしあるらし
み吉野の象山(きさやま)のまの木末(こぬれ)には ここだも騒く鳥の声かも
若の浦に潮満ち来れば 潟(かた)を無み 葦辺(あしべ)をさして鶴(だづ)鳴き渡る
山高み白木綿花(しらゆふはな)に落ち激(たぎ)つ 滝(たぎ)の河内(かふち)は 見れど飽かぬかも
世間(よのなか)を憂(う)しとやさしと思へども 飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
常知らぬ道の長手(ながて)を くれくれといかにか行かむ 糧米(かりて)は無しに
春されば我家(わぎへ)の里の川門(かはと)には 鮎子(あゆこ)さ走(
ばし)る 君待ちがてに
銀(しろかね)も金(くがね)も玉も 何せむに優(まさ)れる宝 子に及(し)かめやも
春風の音にし出(で)なば ありさりて今ならずとも君がまにまに
忘草(わすれぐさ)わが下紐に着けたれど 鬼(しこ)の醜草(しこくさ) 言(こと)にしありけり
夕闇は道たづたづし 月待ちていませ わが背子その間(ま)にも見む
わが背子を相見しその日 今日までに わが衣手は乾(ふ)る時も無し
恋は今はあらじ とわれは思へるを いづくの恋ぞつかみかかれる
何すとか使の来(き)つる 君をこそかにもかくにも待ちがてにすれ
うつせみの人目を繁み 石橋(いははし)の間近(まちか)き君に恋ひ渡るかも
大和へに君が立つ日の近づけば 野に立つ鹿もとよみてぞ鳴く
韓人(からひと)の衣染(ころもし)むとふ紫の こころに染みて思ほゆるかも
古人(ふるひと )の賜(たま)へしめたる吉備の酒 病めばすべなし貫簀(ぬきす)賜(たば)らむ
庭に立つ麻手(あさで)刈り干し 布さらす 東女(あづまをみな)を忘れたまふな
わが背子が著(け)せる衣の針目落ちず 入りにけらしも わがこころさへ
秋の田の穂田(ほだ)の刈(かり)ばかか寄り合はば そこもか人の吾(あ)を言(こと)なさむ
み熊野の浦の浜木綿(はまゆふ) 百重(ももへ)なす心は思(も)へど 直(ただ)に会はぬかも
君待つとわが恋ひをれば わが宿のすだれ動かし秋の風吹く
軽(かる)の池の浦廻(うらみ)行き廻(み)る鴨すらに 玉藻のうへにひとり寝なくに
夜光る玉といふとも 酒飲みてこころをやるに あにしかめやも
憶良らは今は罷(まか)らむ 子泣くらむ それその母も吾(あ)を待つらむぞ
しらぬひ筑紫(つくし)の綿は 身につけていまだは着ねど暖かに見ゆ
大海(わたつみ)の沖に持ち行きて放つとも うれむぞこれがよみがへりなむ
矢釣山(やつりやま)木立(こだち)も見えず 降りまがふ雪にさわける朝(あした)楽しも
苦しくも降り来る雨か 神(みわ)の先狭野(さの)の渡りに家もあらなくに
近江の海 夕波千鳥 汝(な)が鳴けば こころもしのにいにしへ思ほゆ
東(ひむかし)の市の植木の木垂(こだ)るまで 会はず久しみ うべ恋ひにけり
かくゆゑに見じといふものを 楽浪(ささなみ)の旧(ふる)き都を見せつつもとな
我妹子(わぎもこ)に猪名野(ゐなの)は見せつ 名次山角(なすきやまつの)の松原いつか示さむ
桜田へ鶴(たづ)鳴き 渡る 年魚市潟潮干(あゆちがたしほひ)にけらし 鶴鳴き渡る
旅にしてもの恋(こほ)しきに 山下の赤(あけ)のそほ船沖へ漕ぐ見ゆ
もののふの八十宇治川(やそうぢがは)の網代木(あじろき)に いさよふ波の行く方(へ)知らずも
馬ないたく打ちてな行きそ 日(け)ならべて見てもわが行く志賀にあらなくに
天離(あまざか)る鄙(ひな)の長道(ながち)ゆ恋ひ来れば 明石の門(と)より大和島(やまとしま)見ゆ
淡路の野島の崎の浜風に 妹が結びし紐吹きかへす
隼人(はやひと)の薩摩(さつま)の瀬戸(せと)を 雲居なす遠くもわれは今日見つるかも
聞くがごと まこと貴(たふと)く奇(くす)しくも 神さびをるか これの水島
不聴(いな)と言へど強(し)ふる志斐(しい)のが強語(しひがたり) このころ聞かずて 朕(われ)恋ひにけり
大王(おほきみ)は神にしませば 天雲(あまくも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも
古(ふ)りにし嫗(おみな)にしてや かくばかり恋に沈まむ 手童(たわらは)のごと
遊士(みやびを)とわれは聞けるを 宿貸さずわれを帰せりおその風流士(みやびを)
たけばぬれ たかねば長き妹(いも)が髪 このころ見ぬに掻き入(れ)つらむか
人言(ひとごと)を繁(しげ)み言痛(こちた)み 己(おの)が世にいまだ渡らぬ朝川渡る
山の辺(へ)の御井(みい)を見がてり 神風(かむかぜ)の伊勢をとめども相見つるかも
大和恋ひ眠(い)の寝らえぬに こころなくこの渚崎廻(すさきみ)に鶴(たづ)鳴くべしや
いづくにか船泊(ふ なは)てすらむ 安礼(あれ)の崎漕ぎたみ行きし棚無(たなな)し小舟(をぶね)
嗚呼見(あみ)の浦に船乗(ふなのり)すらむ をとめらが玉裳(たまも)の裾に潮(しほ)満つらむか
これやこの 大和にしてはわが恋ふる 紀路(きぢ)にありとふ名に負ふ背の山
わたつみの豊旗雲(とよはたくも)に入日(いりひ)さし 今夜(こよひ)の月夜(つくよ)さやけかりこそ
君が代もわが代も知るや 岩代(いはしろ)の丘の草根(くさね)をいざ結びてな
秋の野のみ草刈り葺(ふ)き宿れりし 宇治のみやこの仮廬(かりいほ)し思ほゆ
山越(やまこ)しの風を時じみ 寝(ぬ)る夜おちず 家なる妹(いも)をかけて偲(しの)ひつ
たまきはる宇智(うち)の大野に 馬並(な)めて朝踏(あさふ)ますらむその草深野(くさふかの)
大和(やまと)には 群山(むらやま)あれど とりよろふ 天(あめ)の香具山 登り立ち 国見をすれば 国原(くにはら)は 煙(けぶり)立ち立つ 海原(うなはら)は 鷗(かまめ)立ち立つ うまし国ぞ あきつ島 大和の国は
籠(こ)もよ み籠(こ)持ち 掘串(ふくし)もよ み堀串(ぶくし)持ち この丘に 菜摘(なつ)ます子 家告(の)らせ 名告らさね そらみつ 大和の国は おしなべて われこそ居(を)れ しきなべて われこそ座(ま)せ われこそは 告らめ家をも名をも
山吹のにほへる妹が 朱華色(はねずいろ)の赤裳(あかも)の姿 夢(いめ)に見えつつ
河蝦(かはづ)鳴く神名備(かむなび)川に影見えて 今か咲くらむ 山吹の花
花咲きて実は成らずとも 長き日(け)に思ほゆるかも山吹の花
わが背子(せこ)にわが恋ふらくは 奥山の馬酔木(あしび)の花の今盛りなり
池水に影さへ見えて 咲きにほふ馬酔木(あしび)の花を袖に扱入(こき)れな
鴛鴦(をし)の住む君がこの山斎(しま)今日見れば 馬酔木(あしび)の花も咲きにけるかも
水伝ふ磯の浦廻(うらみ)の岩つつじ茂(も)く咲く道を また見なむかも
春柳(はるやなぎ)葛城山(かづらきやま)にたつ雲の 立ちても居ても妹(いも)をしぞ思ふ
直(ただ)に行かず此(こ)ゆ巨勢路(こせぢ)から石瀬(いはせ)踏み 求めぞ吾(あ)が来し 恋ひてすべなみ
巨勢山(こせやま)のつらつら椿 つらつらに見つつ偲(しの)はな巨勢(こせ)の春野を
海原の沖行く船を 帰れとか 領巾(ひれ)振らしけむ 松浦作用姫(まつらさよひめ)
玉鉾(たまほこ)の道に出で立ち別れ来(こ)し日より思ふに 忘るる時なし
わが門(かど)の片山椿(かたやまつばき) まこと汝(なれ)わが手触れなな土に落ちもかも
紫は灰さすものぞ 海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に会へる子や誰(たれ)
海石榴市(つばいち)の八十(やそ)の衢(ちまた)に 立ち平(なら)し結びし紐を解かまく惜しも
梅の花今盛りなり 思ふどち插頭(かざし)にしてな 今盛りなり
春されば 木末隠(こぬれがく)れて鶯ぞ鳴きて去(い)ぬなる 梅が下枝(しづえ)に
新(あらた)しき年の始(はじめ)の初春の今日降る雪の いや重(し)け吉事(よごと)
新(あらた)しき年のはじめに 豊(とよ)の年しるすとなら し 雪の降れるは
新(あらた)しき年の初めに 思ふどちい群れてをれば 嬉しくもあるか
霜枯(しもが)れの冬の柳は 見る人の蘰(かづら)にすべく 萌えにけるかも
霜曇(しもぐも)り為(す)とにかあらむ ひさかたの夜わたる月の見えなく思へば
君待つと庭のみをれば うちなびくわが黒髪に 霜ぞ置きにける
露霜の衣手(ころもで)濡れて 今だにも妹がり行かな 夜はふけぬとも
おし照る難波(なにわ)堀江の葦辺には 雁寝たるかも 霜の降らくに
秋の田の穂の上(へ)に置ける白露の 消ぬべくも吾(あ)は思ほゆるかも
朝露ににほひそめたる秋山に 時雨(しぐれ)な降りそ あり渡るがね
秋づけば尾花が上に置く露の 消(け)ぬべくも吾(あ)は思ほゆるかも
月草(つきくさ)に衣は摺(す)らむ 朝露にぬれて後には移ろひぬとも
恋しけば袖も振らむを 武蔵野のうけらが花の色に出(づ)な ゆめ
外(よそ)のみに見つつ恋せむ 紅(くれない)の末摘花(すえつむはな)の色に出(い)でずとも
このころの秋の朝明(あさけ)に 霧隠(きりこも)り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
山辺には猟夫(さつを)のねらひ恐(かしこ)けど 雄鹿鳴くなり 妻が目を欲(ほ)り
恋しくは形見にせよと わが背子が植ゑし秋萩花咲きにけり
わが宿の一群萩(ひとむらはぎ)を 思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも
わが丘の秋萩の花 風を疾(いた)み散るべくなりぬ 見む人もがも
わが丘にさ雄鹿来鳴く 初萩の花妻(はなづま)問ひに来鳴くさ雄鹿
難波潟(なにはがた)潮干(しほ ひ)なありそね 沈みにし妹が姿を見まく苦しも
渡守(わたりもり)舟出(ふなで)し出でむ 今夜(こよひ)のみ相見て後は 会はじものかも
ひさかたの天(あま)の川津(かはつ)に舟浮けて 君待つ夜らは明けずもあらぬか
風吹きて川波立ちぬ 引船(ひきふね)に渡りも来ませ 夜のふけぬ間に
君に会はず 久しき時ゆ織る服(はた)の白栲衣(しろたへころも) 垢づくまでに
ぬばたまの夜霧隠(こも)りて遠けども 妹(いも)が伝(つたへ)は早く告げこそ
あからひくしきたへの子を屢(しば)見れば 人妻ゆゑにわれ恋ひぬべし
橘は 実さへ花さへその葉さへ 枝(え)に霜降れどいや常葉(とこは)の木
卯の花を腐(くた)す霖雨(ながめ)の水始(みずはな)に寄る木屑(こづみ)なす 寄らむ子もがも
霍公鳥(ほととぎす)鳴く声聞くや 卯の花の咲き散る丘に 田葛(くず)引くをとめ
山吹の咲きたる野辺のつほすみれ この春の雨に盛りなりけり
石上(いそのかみ)ふるとも雨に障(つつ)まめや 妹に会はむと言ひてしものを
草枕旅を苦しみ恋ひをれば 可也(かや)の山辺にさ雄鹿鳴くも
草枕旅の衣の紐解けぬ 思ほせるかも この年ころは
旅にありて恋ふれば苦し いつしかも都に行きて君が目を見む
わが門(かつ)の五株柳(いつもとやなぎ) 何時(いつ)も何時(いつ)も 母(おも)が恋ひすす業(なり)ましつつも
うちのぼる佐保の川原の青柳は 今は春べとなりにけるかも
ますらをが伏し居嘆きて作りたる しだり柳の蘰(かづら)せ我妹(わぎも)
わが背子が古き垣内(かき つ)の桜花 いまだ含(ふふ)めり 一目見に来(こ)ね
春雨はいたくな降りそ 桜花いまだ見なくに散らまく惜しも