第443話『孤独を恐れない』-【京都にまつわるレジェンド篇】数学者 森毅-
京都大学の名物教授で、数多くのエッセイを書いた文筆家としても有名な、数学者がいます。
森毅(もり・つよし)。
東京大学数学科を卒業後、北海道大学の助手になり、29歳で京都大学で教鞭をとってから34年間、独特の語り口やユーモアあふれる授業で人気を博しました。
63歳で大学を退官後、多くの大学からオファーを受けましたが、全て断り、フリーランスとしてエッセイや評論を書き、積極的にマスコミにも顔を出し、数学の楽しさ、人生のよりよき生き方を指南。
多くのファンに愛されました。
森が提唱したものに、『人生20年説』というのがあります。
まずは過去の遺産で生きるのはやめよう、20年前の自分は、赤の他人。
そう考えれば、人生が80年とすれば、ひとは、4回生まれ変わることができる。
これは楽しい。ワクワクする。
第一の人生でつまずいても、大丈夫。
次の20年をまっさらな気持ちで生きればいい。
60歳を迎えたとき、森が下したのは、大学を去り、自由な大海原に漕ぎ出そう、という決断でした。
そしてそれを支えているのは、あえて孤独を恐れない、ということ。
京都の東山三条に、古い宿屋がありました。
そこには、年老いた犬が一頭いました。
犬は、いつもひとりで悠々と道を渡ります。
旧国道一号線。
どんなにクルマが通っても、急がず、動じず、堂々と渡ります。
その様子を見た森は、これだと思ったのです。
「みんなで渡れば怖くない」ではなく、「ひとりで渡れば危なくない」じゃないか、と。
たったひとりの、犬。
彼を見たドライバーは、クルマを停め、微笑んで彼が道を渡るのを見届けます。
これがもし、何匹もの犬が、おどおど、ビクビクして渡っていたら…。
ドライバーは、つい、クラクションを鳴らしてしまうかもしれません。
ひとりだから、認められる。ひとりだから、カッコいい。
おのれの生き方でよりよい人生を指南した賢人、森毅が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/24/2024 • 11 minutes, 48 seconds 第442話『責任感を持つことで成長する』-【京都にまつわるレジェンド篇】女優 高峰秀子-
今年、生誕100年を迎える、伝説の大女優がいます。
高峰秀子(たかみね・ひでこ)。
1924年3月27日生まれの彼女の「高峰秀子生誕100年プロジェクト」は、昨年10月から始まり、今年もさまざまな企画が目白押しです。
彼女が愛した「きもの展」、エッセイでも綴られた、美学をひもとく展示や写真展。
もちろん、出演した映画の上映会も多数予定されています。
戦前の無声映画の時代、5歳で銀幕デビューを果たしてから、およそ50年間、300本以上の作品に出た高峰は、今も多くのファンを魅了してやみません。
また、エッセイストとして、多くの本を執筆。
軽妙で含羞と含蓄があふれる筆運びは、時代に色あせることなく、健在です。
4歳のとき、結核で母を亡くし、父の妹に養子に出された高峰。
5歳で、いきなり映画の世界に放り込まれ、以来、自分が役者としての素養があるやなしやの自省するいとまもなく、ひたすら走り続けてきたのです。
5歳のとき、いきなり参加した映画のオーディションに合格。
お金を出してでも我が子を映画に出したいというお金持ちが多い中、高峰の出演作は絶えません。
男の子の役までも、頭を丸刈りにされて依頼がきてしまう。
養母は、まわりからずいぶん嫌味を言われ、いじめられたといいます。
子役の役者に多額の出演料がもらえることはなく、暮らしは、貧しく、質素。
養父は全国を飛び歩く興行師、養母は内職をしていました。
そんな中、京都の賀茂川のほとりから撮影所に通うのは楽しかったと、エッセイに書いています。
撮影所では、駄々をこね、お菓子をもらったり、多くの大人たちと遊び、誰にでも可愛がられました。
ほとんど学校にも行けず、眠い目をこすりながら撮影所に通う日々。
そんな幼い高峰の心には、自分を育ててくれている母に、何か役に立つことをしたいという思いが、ささやかに、でも確実に芽生えていったのです。
戦前戦後を駆け抜けたレジェンド・高峰秀子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/17/2024 • 11 minutes, 50 seconds 第441話『自分の好奇心を信じる』-【京都にまつわるレジェンド篇】伊丹十三-
2022年の『朝日新聞 be on Saturday』5月14日号の「今こそ!見たい日本映画の巨匠」読者ランキングで、黒澤明、小津安二郎を抑え、1位に輝いたレジェンドがいます。
伊丹十三(いたみ・じゅうぞう)。
『お葬式』『タンポポ』『マルサの女』など、独特のユーモアやペーソスで社会問題をくるんだ傑作を、世に送り出しました。
伊丹が映画で大切にしたこと、それは、次の3つでした。
「びっくりした」「面白い」「誰にでもわかる」。
世の中で何が流行っているかには、全く関心を持たず、常に「自分の好奇心」というアンテナだけを信じて企画を考え、細部にこだわり抜き、普遍的なエンターテインメントに仕上げたのです。
51歳にして、初の監督デビュー作となった映画『お葬式』。
妻・宮本信子の父親の葬儀を伊丹が仕切ることになった体験を反映しています。
突然の肉親の死に翻弄される夫婦の3日間を描いたこの作品で、いきなり日本アカデミー賞最優秀作品賞など、多くの賞を獲得しました。
偉大な映画監督・伊丹万作(いたみ・まんさく)を父に持つ十三は、自分は映画監督になることはないと思っていましたが、お葬式の火葬場で、立ち昇る煙を見たとき、ふと自分が小津安二郎の映画の中にいるような錯覚に陥りました。
そのとき「あ、これ、映画になるかもしれない…」、そう思ったと後に語っています。
伊丹の監督ぶりは、決して声を荒げたり、上から圧をかけるようなものではなく、ただひたすら「はい、もう一回」「うん、そうだな、もう一回やってみましょう」とダメ出しを続けたのだといいます。
自分のイメージが明確にあり、揺るぎないビジョンが存在する。
それを支えているものが、好奇心というアンテナにひっかかった、日々の何気ない日常の中にある、人間のささいな行動やしぐさ。
伊丹は、常に自分の好奇心を羅針盤にして、創作に向き合ってきたのです。
映画監督のみならず、俳優、作家、イラストレーターなど、マルチな才能で時代を駆け抜けた賢人・伊丹十三が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/10/2024 • 11 minutes, 17 seconds 第440話『心に物語を持つ』-【京都にまつわるレジェンド篇】紫式部-
生涯でただ一つの長編小説『源氏物語』を書いた、平安時代中期の歌人がいます。
紫式部(むらさきしきぶ)。
紫式部は、本名ではなく、父・藤原為時(ふじわらのためとき)が式部省の役人だったことに由来する、いわばペンネーム。
平安時代は、女性の名前が正確に記録されることはなく、当初は、藤原氏出身ということで「藤式部(とうのしきぶ)」と呼ばれていました。
それがどのような経緯で紫式部になったのかは、諸説あります。
生まれ育った京都の紫野からとった、という説、藤の花の色から、という説、そして『源氏物語』の紫の上からつけられた、という説など、さまざまです。
世界最古の長編小説と言われている、『源氏物語』。
その唯一無二の作品は、名立たる有名作家に訳されてきました。
「紫式部は私の12才の時からの恩師である」と語った与謝野晶子。
円地文子(えんち・ふみこ)は、現代語訳をするためだけに、専用のアパートを借り、5年半かけて完成させました。
瀬戸内寂聴もまた、『源氏物語』を訳するためにマンションを購入、人生を賭けて対峙したのです。
近年では、角田光代さんによる現代語訳も大きな話題となりました。
海外でも早くから翻訳が進み、1966年には、日本人として初めて、ユネスコの「偉人年祭表」に加えられました。
なぜ、それほどまでに人は『源氏物語』に魅せられるのでしょうか。
およそ500人もが登場する、全54帖の大長編では、天皇家に生まれた光源氏の恋愛模様を中心に、宮廷でのさまざまな出来事、権力闘争が描かれます。
性格の違う女性を描き分ける筆力はもちろん、光源氏の哀しさや、人生に対する深い洞察は、千年の時を越えて、私たちの心の湖に大きな石を投げるように、幾重もの波紋を呼び起すのです。
平安時代、文学作品を書けるのは、御后や子どもたちが暮らす後宮に勤める、女房と呼ばれた女性でした。
紫式部が、女房文学の頂点に立つことができた理由とは?
そして、人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/3/2024 • 12 minutes, 24 seconds 今週は、特別編。
私、長塚圭史が、長野県の「ホクト小諸きのこセンター」に、yes!を探す旅に出かけたルポルタージュです。
そこには、想像を超える工場の風景や、きのこを愛する熱い人たちのドラマがありました。
1/27/2024 • 23 minutes, 24 seconds 第438話『目線を低く保つ』-【長野県にまつわるレジェンド篇】白土三平-
常に弱者の視点に立ち、『サスケ』『カムイ伝』などの名作を遺した、漫画家のレジェンドがいます。
白土三平(しらと・さんぺい)。
白土にとって、長野県上田市真田町で暮らした少年時代は、自身の稀有な作風の原点だったと、のちに回想しています。
光文社の漫画雑誌『少年』に、1961年から1966年まで連載され、アニメ化もされた『サスケ』。
江戸時代、甲賀流の少年忍者・サスケが、さまざまな刺客と闘いながら成長していく様を描いた傑作ですが、絵柄の子どもらしさとは対照的に、登場人物たちは、理不尽に、そして残酷に切られ、死んでいきます。
そこに救いはなく、哀しさと寄る辺なさだけが余韻として残るのです。
彼のライフワークになった『カムイ伝』は、階級差別を受ける出自を持つ主人公が、冷酷な社会に対峙しながら、自然の猛威にも翻弄され、「食うために生きぬく」姿を描いた、名作です。
白土は漫画の中に、当時では珍しい、解説を差し込みました。
少年たちは、それを読み、枯れ葉を集め、雲隠れの術を真似たのです。
忍者たちが切り合った場面を画いた後、どんなふうに刀を使ったか、スローモーションで見てみましょうと、刀さばきも解説しました。
戦時下、中学生の時に都会から長野に疎開してきた、白土少年。
彼の父が、「日本プロレタリア美術家同盟」に属する画家だったことも重なり、中学での扱いは決して優しいものではありませんでした。
配給の長靴はもらえず、彼は片道2時間かかる雪道を、藁草履で通い続けたのです。
さらに白土少年を驚かせたのは、過酷な自然との闘い。
イノシシを解体する様子を間近で見ました。
ひとは、平気で差別し、階級をつくる。
ひとは、生きるために、獣をさばき、野山をめぐる。
この体験は、彼の心に深く刻まれ、生涯、忘れることはありませんでした。
戦国の世の無常を描いた、唯一無二の漫画家・白土三平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/20/2024 • 11 minutes, 9 seconds 第437話『枠をはみだす』-【長野県にまつわるレジェンド篇】越路吹雪-
昭和の音楽界を華やかに彩った「シャンソンの女王」がいます。
越路吹雪(こしじ・ふぶき)。
現在、NHKの朝の連続テレビ小説のモデルと言われる、「ブギの女王」・笠置シヅ子(かさぎ・しずこ)の、10歳年下。
宝塚音楽歌劇学校に入れなかった笠置とは違い、越路は、長野県飯山高等女学校在学中に、宝塚に合格。
男役トップスターとして、戦中、戦後を駆け抜けました。
しかし、入団当初、そのふるまいは、破天荒で規格外。
同期だった、美貌の月丘夢路、才能の乙羽信子に対抗するかのように、喫煙、飲酒に、門限破り。
ついたあだ名は「不良少女」だったのです。
トップに登り詰める欲もなく、ただ淡々と日々を過ごしていた越路。
ただ、ダンスだけは大好きで、レッスン場で人知れず練習していたと言われています。
背が高い彼女は男役として舞台に立ちますが、最初は目立つ存在ではありませんでした。
転機は、19歳のときの舞台『航空母艦』。
水兵役の彼女が甲板で浪花節『清水次郎長』をうなるシーン。
美しいハイトーンではなく、いきなり渋い浪花節。
客席はどよめきから拍手に、やがて大喝采に変ったのです。
越路の存在を世間に知らしめるワンシーン。
実は、この舞台のために、彼女は浪曲師・広沢虎造のレコードを擦り切れるまで聞き込んでいたのです。
他の人と比べると、足りないものばかりが目に入る。
そんなとき、彼女がとった行動は、「枠をはみだす」ということでした。
真正面からぶつかっていてはかなわないのであれば、自分は自分のやりかたで、努力し、学んでいく。
そうして彼女は、トップスターへの階段を上って行ったのです。
『愛の讃歌』で知られる唯一無二のエンターテイナー、越路吹雪が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/13/2024 • 11 minutes, 38 seconds 第436話『歩みをとめない』-【長野県にまつわるレジェンド篇】永六輔-
坂本九が歌い、一世を風靡した名曲『上を向いて歩こう』を作詞したレジェンドがいます。
永六輔(えい・ろくすけ)。
『上を向いて歩こう』は、1961年、NHKの音楽バラエティ番組『夢であいましょう』の今月の歌で初披露するや、またたく間に大ヒット。
3か月連続ヒットチャート1位を記録。
さらに『SUKIYAKI(スキヤキ)』とタイトルを変え、アメリカ、ビルボードのヒットチャートで3週連続1位の快挙に輝きました。
時は安保闘争真っただ中。
永は、放送作家の激務の合間をかいくぐって、デモに参加します。
あまりに熱心にデモに参加するので、テレビ局のディレクターから、「キミは、仕事とデモ、どっちが大事なんだ?」と責められます。
永は、「デモです」と即答。
そのまま番組を降りたという逸話が残されています。
終戦後、目覚ましい復興を遂げた日本でしたが、再び、戦争の影が忍び寄っているのではないか、永は、繊細な感性で怖れを感じたのです。
終生、反戦、反権力を訴えた彼は、「本当に戦争に関わるのはよそう。戦争を手伝うのもよそう。どっかの戦争を支持するのもよそう。それだけを言い続けていきたい」と話しました。
『上を向いて歩こう』の歌詞には、彼の二つの強い思いが込められているように感じられます。
ひとつは、安保闘争に敗れた悔しさ、怒り、それでも生きていこうとする決意。
もうひとつは、戦時中の幼少期、疎開先の長野県で感じた思いです。
親元を離れ、ひとりで通学する夜道。
ひとりぼっちが身に沁みます。
さびしい、つらい。
こらえても、後から後から涙がこぼれてくる。
涙を止めることができないのなら、せめて、上を向いて歩こう。
それはどこか、永の人生観にも通じます。
彼の優しさは、涙を流すなとは言いません。
人生は理不尽で、思うようにならない苦難の連続。
唯一、それに打ち勝つには、歩くのをやめないこと。
涙がこぼれないように、上を向いて。
軽妙な語り口と鋭い視点で多くのひとを魅了した、唯一無二の賢人、永六輔が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/6/2024 • 12 minutes, 20 seconds 第435話『自分を否定して、新しい自分に出会う』-【音楽家のレジェンド篇】ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン-
年末の風物詩、通称『第九』を作曲した、音楽家のレジェンドがいます。
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
交響曲第9番がウィーンで初演されたとき、ベートーヴェンは54歳で、このとき彼の耳は、ほとんど聴こえなかったと言われています。
初演のときに曲が終わっても気づかず、隣の女性が客席を振り向かせたとき、聴衆が立ち上がり、激しく拍手をしている姿を見て、初めてこの曲の成功を確信しました。
第九は、新しい試みに満ちています。
70分にも及ぶ演奏時間の長さは、当時、破格でした。
のちに、CDの最長録音時間がおよそ74分に設定されたのは、この第九を一枚に収めるためだったという説があります。
これまで使われていなかった打楽器、シンバルやトライアングルなどの導入、さらに最も世間を驚かせたのは、第4楽章の合唱です。
4人の独唱と混声合唱団が歌うのは、ドイツの詩人、シラーの『歓喜に寄せて』。
しかし、歌いはじめのフレーズは、ベートーヴェンが自ら作詞したものなのです。
「おお、友よ!この音色ではない!
そうではなくて、我々をもっと心地よい世界に導く、喜びにあふれた音色に、心をゆだねよう!」
そうではない、という否定から入る歌詞。
実は、第4楽章の合唱に入る前にも、ベートーヴェンは、第1楽章から第3楽章までの全ての主題を否定します。
自らが奏でた調べを全否定してからの、歓喜の歌。
最後にして集大成の、ベートーヴェン、交響曲第9番がなぜ全世界のひとに愛され続けるのか。
そこには、これまでの自分を否定し、さらなる高みを目指す戦いの軌跡があったのです。
56歳でこの世を去った音楽界の至宝、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/30/2023 • 11 minutes, 41 seconds 第434話『ぶれない軸を持つ』-【音楽家のレジェンド篇】セルゲイ・ラフマニノフ-
ロマン派音楽を大きく飛躍、大成した、ロシアの音楽家がいます。
セルゲイ・ラフマニノフ。
ラフマニノフと言えば、2014年のソチ・オリンピックで、浅田真央のフリー演技で流れた楽曲『ピアノ協奏曲第2番』を思い出すひとがいるかもしれません。
前回大会のバンクーバーで、オリンピック史上女子初となる、3回転アクセルを成功させ、堂々の銀メダル。
今大会こそは金メダルだと、日本の期待を一身に背負ったオリンピックでした。
しかし、ショートは、まさかの16位。
失意の中、フリーでどんな演技を見せるのか。
ほぼノーミスの圧巻の演技は、ラフマニノフと共にありました。
今年生誕150年を迎えるロシアのレジェンドは、生前、非難にさらされることの多い作曲家でした。
天才の呼び声が高かったラフマニノフは、22歳のときに、自分の人生を賭けた大作に挑みます。
『交響曲第1番 二短調』。
2年後の24歳のとき、ペテルブルクで初演されますが、これが、記録的な大失敗に終わったのです。
奇しくも、浅田真央がソチ・オリンピックに出場したのが、24歳のときでした。
ラフマニノフが魂を込めて作った曲は、批評家から酷評され、コンサート会場では、途中で席を立つ者までいました。
一説には、指揮をしたグラズノフの失態が原因と言われていますが、全ての非難の矛先は、作曲者に向かいます。
この『交響曲第1番』は、ラフマニノフが生きている間は、二度と演奏されませんでした。
この失敗で彼は、神経衰弱に陥り、作曲ができなくなってしまいます。
ピアノに向かうと、手がふるえ、譜面を見ると、吐いてしまう。
そんな彼を必死に励ましたのが、16歳年上のロシアの文豪、アントン・チェーホフでした。
チェーホフは、手紙に書きました。
「言いたいやつには、言わせておけばいい。
私が書いた『かもめ』も初演はさんざんなものだった。
でも、2年後は大絶賛。
わからんもんだよ 世間なんて。全ての軸は自分の中に持てばいい」
挫折を繰り返しながら名曲を世に送り出したレジェンド、セルゲイ・ラフマニノフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/23/2023 • 10 minutes, 37 seconds 第433話『人生にyesを』-【音楽家のレジェンド篇】ザ・ビートルズ-
今年11月2日、『ナウ・アンド・ゼン』という最後の新曲を世界同時発売した、伝説のロックバンドがあります。
ザ・ビートルズ。
オフィシャル・ミュージック・ビデオは、カセットデッキに、あるテープがセットされるところから始まります。
このカセットテープに、40歳のとき銃弾に倒れた、ジョン・レノンの歌声が録音されていたのです。
最新のAI技術を駆使し、デモテープから歌声だけを抽出。
そこに81歳のポール・マッカートニー、83歳のリンゴ・スターの声を重ね、58歳で亡くなったジョージ・ハリスンの歌声と演奏を加えました。
「時々、キミがいなくて、さみしい」
「時々、ボクたちは、スタート地点に戻らなくてはいけない」
そう歌うジョンの声はせつなく響きます。
この新曲の裏ジャケットに使われた時計のエピソードが話題を呼んでいます。
ジョージ・ハリスンの妻、オリヴィアの話。
それは…昔、ジョージが時計店に入ったときのこと。
壁にかかっていた時計に目を止めます。
家をモチーフにした壁掛け時計には、はめこまれたアルファベットで、「NOW」と「THEN」の文字がありました。
ひと目でそれが気に入ったジョージは、壁から時計をはずしてもらい、購入したのです。
彼は自宅にロシア風の小屋を建て、そこに時計を飾りました。
なんと25年間、時計はそこで時を刻んでいたのです。
ジョージ亡きあと、妻のオリヴィアは、ふと思い立ち、その時計を綺麗にして、暖炉の上に置きました。
とそこへ、一本の電話がかかってきたのです。
ポール・マッカートニーからでした。
「カセットテープに録音された歌があるんだけど」
それが…『ナウ・アンド・ゼン』でした。
そのとき今は亡き、ジョージ・ハリスンも、今回の新曲リリースに参加していたのです。
今も伝説を創り続けるロックバンド、ザ・ビートルズが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/16/2023 • 10 minutes, 42 seconds 第432話『絶望は気づきの時間』-【音楽家のレジェンド篇】フレデリック・ショパン-
ピアノ音楽に革命をもたらした、ポーランドの天才作曲家がいます。
フレデリック・ショパン。
自身も優れたピアニストとしてその名をとどろかせたショパン。
彼が創る楽曲は、そのほとんどがピアノ曲で、これまでになかった美しく哀しい旋律や新しい表現形式にふちどられ、彼は、『ピアノの詩人』と呼ばれています。
華々しい功績の影で、そのわずか39年の生涯は、孤独と病魔との闘いでした。
さらに財力のない自分に不安を覚え、常にお金を稼がねばならないという強迫観念に追われていたと言われています。
1810年、ポーランドのワルシャワに生まれたショパンの、最初の大きな挫折は、20歳の時。
音楽の都、ウィーンでの生活が始まり、本格的な音楽家の道を歩もうとした矢先でした。
1830年11月。故郷ワルシャワで起こった、武装蜂起。
当時、ワルシャワ公国は、ロシア帝国の支配下にありました。
しかし、7月のパリ革命を契機に独立の機運が高まり、ついにふるさとは、戦場と化したのです。
愛するポーランドが、心配でならないショパン。
一緒にウィーンにやってきた親友のティトゥスは、兵士になる決意を胸に、すぐに帰国しますが、体の弱いショパンは、父から、こう告げられます。
「おまえは体が弱い、こっちに帰ってきてはダメだ。
おまえには一流の音楽家になる使命があるんだ。
神様からのギフトを持っている者は、それを使い、ひとびとを幸せにする責任がある。
こっちは、大丈夫だ。
ただ、ポーランドはいつだって、おまえの味方だ。
安心して、がんばりなさい」
ショパンは、悩み、自分を責めます。
故郷の愛する家族、大切な人々が苦しんでいるときに、自分は、ここにいていいのか。
さらに、誰も後ろ盾がいないウィーンでの孤独。
ウィーンの人々は、ワルシャワ蜂起をよく思っておらず、ポーランド出身のショパンへの態度は、冷たいものでした。
やがて、ショパンは心を病んでいきます。
それでも彼は、ピアノに向かいました。
ピアノだけが、彼にとって唯一のよりどころであり、生きる意味だったからです。
ピアノに一生を捧げたレジェンド、フレデリック・ショパンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/9/2023 • 11 minutes, 52 seconds 第431話『スペシャリストにならない』-【音楽家のレジェンド篇】クロード・ドビュッシー-
印象派、象徴派と言われ、独自の世界観を切り開いた、フランスの作曲家がいます。
クロード・ドビュッシー。
今年3月に亡くなった坂本龍一は、ドビュッシーを敬愛していたことで知られています。
新潮文庫の自伝『音楽は自由にする』では、中学2年生のときに、初めて弦楽四重奏曲を聴いたときの衝撃が綴られています。
自分自身をドビュッシーの生まれ変わりではないかと考えたことがあったと語り、その傾倒ぶりがうかがえます。
毎年行われるクラシックコンサートで、必ずといっていいほど、全国のどこかで演奏される、ドビュッシー。
彼の音楽の何が、ひとびとを魅了するのでしょうか。
ドビュッシーは、こんな言葉を残しています。
「私は、スペシャリストになりたくない。
自分を専門化するなんてバカげている。
自分を専門化してしまったら、それだけ、自分の宇宙を狭くしてしまうんだ。
みんなどうしてそのことに気がつかないんだろうか」
ドビュッシーは、自分を枠にあてはめられることを嫌がりました。
伝統的な奏法を無視したことで、彼が発表する曲の評価は、安定しませんでした。
高評価があるかと思えば、演奏中に観客が帰ってしまうほどの不評もあり、社会的な成功は、なかなか得られません。
内向的で頑固な気質と、女性にのめりこむ性格。
音楽院の教師や音楽出版の編集者など、周囲のひとたちは、扱いづらい芸術家に、手を焼いていました。
それでも、ドビュッシーは、前に進むことをやめません。
ガムランの響きに感動し、絵画や文学にインスパイアされ、唯一無二の音楽世界を求めたのです。
その結果、昨年生誕160年を迎えた彼の音楽は、後世に多大な影響を与え、ガーシュウィン、デューク・エリントン、マイルス・デイビスなど、ジャズ界においても、彼の格闘の歴史は引き継がれていったのです。
創っては壊し、壊しては創ることをやめなかった賢人、クロード・ドビュッシーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/2/2023 • 12 minutes, 6 seconds 第430話『信念が明日を切り開く』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】フランク・ロイド・ライト-
東京・日比谷の帝国ホテル。
今年、開業100周年を迎えた二代目本館「ライト館」を設計した、近代建築の巨匠がいます。
フランク・ロイド・ライト。
「ライト館」は、東洋風の屋根や庭、石・煉瓦が作り出す精巧な美しさから「東洋の宝石」と呼ばれました。
また、幾何学模様の内装・家具など、ライトが愛した装飾も随所にほどこされました。
一説によれば、この「ライト館」設計のベースにあるのは、1893年、ライトが26歳のときに見たシカゴ万博の、平等院鳳凰堂をモチーフにした日本館「鳳凰殿」だと言われています。
左右対称の美しさは、ライトが考案した革命的な建築様式「プレーリー・スタイル」を踏襲しています。
この建物が地震や火事にも強いことは、落成したその日に証明されました。
100年前に起きた、関東大震災。
帝国ホテルはほとんど被害がなく、復興の拠点として、多くのひとびとに安心とやすらぎの空間を提供したのです。
「ライト館」は老朽化のため、1967年にその幕を閉じましたが、当時の壁画などが今も館内のバーに残されています。
また、来年からは、現在の本館も含めて建て替えが行われ、さらなる「東洋の宝石」の継承が待たれています。
フランク・ロイド・ライトの人生は、まさに波乱万丈でした。
特に40代は、不倫、駆け落ちなど、スキャンダルにまみれ、クライアントの信頼を失い、仕事の依頼は激減してしまいます。
そんな失意の中、当時の帝国ホテルの支配人だった林愛作(はやし・あいさく)が、彼に新館設計を依頼したのです。
日本建築に感動を覚え、いつか日本で設計をしたいという信念を持っていた、近代建築の巨匠と呼ばれるライトに、世界に名立たる設計をしてほしいと願った林。
二人の思いは、100年を越えてもなお、日比谷の地に息づいているのです。
ライトは、人間的には、あまりに自由で奔放であるがゆえ、時に誹謗中傷の対象となり、マスコミに叩かれ、罵詈雑言を浴びせられました。
しかし、建築に関しては、強い信念のもと、どの作品に対しても妥協なく向き合い続けたのです。
アメリカが生んだ建築界のレジェンド、フランク・ロイド・ライトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/25/2023 • 13 minutes, 7 seconds 第429話『優しさは全てにあふれ出る』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】アルヴァ・アアル ト-
フィンランドが生んだ、建築家のレジェンドがいます。
アルヴァ・アアルト。
彼の名前は知らなくても、彼がデザインした、北欧食器の有名ブランド、イッタラのフラワーベースやキャンドルスタンドは見たことがあるかもしれません。
流れるような曲線は、フィンランドの森の中の湖、かすかな波、あるいは、白樺の切り口をイメージしたもの、と言われています。
また、発売90周年を迎えるスツール界の王様、アルテックの「スツール60」も、アアルトのデザインです。
誰もがどんなシチュエーションでも使えるシンプルで普遍的な椅子は、今も世界中のひとに愛されています。
そのデザインが、優しく、温かみに満ちているように、彼が手掛けた建築も、自然との融和をイチバンに考えた、環境にも暮らしぶりにも優しい設計が、最大の特徴です。
生誕125年の今年、彼のドキュメンタリー映画が公開されました。
その名も『アアルト』。
彼と同じく建築家だった妻、アイノとの創作の歴史が描かれています。
同じく映画になった建築家のレジェンド「ル・コルビュジエ」との最大の違いは、女性とのスタンスの取り方かもしれません。
男性社会の建築家の象徴、コルビュジエに対し、アアルトは、妻への深い尊敬と愛情で、共作を続けました。
創作のスタイルも、画家にたとえれば、コルビュジエはエネルギッシュで活動的なパブロ・ピカソ。
アアルトは、ひとつのモチーフに優しく向き合い続けるアンリ・マティスと言えるかもしれません。
そこには、彼の故郷がフィンランドであることも大きく起因していると思われます。
彼が生まれた1898年という年は、フィンランドがロシア帝国から独立するために紛糾していた過渡期でした。
シベリウスは、名曲『フィンランディア』を、その翌年に作曲しています。
緊張と移り行く時代の中に生まれたアアルトには、激しさや暴力こそ、最も嫌悪すべきものであり、融和、調和、平和こそが、彼の祈りにも似た願い、だったのです。
建築に優しさを刻印した世界的な巨匠、アルヴァ・アアルトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/18/2023 • 12 minutes, 4 seconds 第428話『人と同じ生き方をしない』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】ル・コルビュジエ-
20世紀モダニズム建築の巨匠と呼ばれるレジェンドがいます。
ル・コルビュジエ。
19世紀の建築は、レンガと石で造る組積造が主流でした。
古代ローマ、古代ギリシャの様式建築を踏襲するのが、建築家の役割だったのです。
しかし、コルビュジエは、鉄筋コンクリート構造を学び、床や屋根、柱、階段だけが建築の大切な要素だと主張する、ドミノシステムを考案。
パリの都市構想においても、低層階の住宅をまんべんなく広げるより、高層マンションを建て、空いた土地に緑あふれる公園を造ることを提案しました。
採用には至りませんでしたが、斬新で大胆な発想は、既成概念にとらわれていた建築家、芸術家を驚かせました。
彼は、建築だけではなく、絵画、家具のデザイン、彫刻など、さまざまなジャンルで世の中をあっと言わせた唯一無二のアーティストなのです。
昨年、日本で唯一のコルビュジエ建築が、およそ1年半をかけてリニューアルされました。
上野の国立西洋美術館。
この世界的に有名な美術館の設計は、コルビュジエが担当。
建設にあたっては、彼の弟子であり、日本の建築界を世界に押し上げた重鎮、坂倉準三(さかくら・じゅんぞう)、前川國男(まえかわ・くにお)、吉阪隆正(よしざか・たかまさ)が協力しました。
世界遺産に登録されたこの建造群、リニューアルの最大のポイントは、前庭。
この前庭の景観を、1959年の開館時に戻したのです。
西門から入る導線は新鮮で、コルビュジエのこだわりが垣間見られます。
彼は、スロープ、ストロークを大事にしました。
建築物にどうやってアプローチするか、まず最初に見える風景は何か。
人間の微妙で繊細な目線に注目したのです。
なぜ彼は、日常に寄り添った視線を獲得できたのでしょうか。
そこには、彼の辛い挫折の日々が関係しているのです。
世界中に自らの痕跡を残した芸術家、ル・コルビュジエが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/11/2023 • 12 minutes, 48 seconds 第427話『自分に満足しない』-【建築の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】辰野金吾-
日本の近代建築の父と言われ、東京駅をつくった男として有名な建築家がいます。
辰野金吾(たつの・きんご)。
彼が手掛けた20以上の建築物は全国に点在し、100年以上の時を越え、いまなお、その堂々たる風格を見せてくれます。
日本初の石造建築として知られる、日本銀行本店本館。
和風建築の最高傑作、天見温泉の南天苑。
アインシュタインも講演を行った、大阪中央公会堂。
さらに、先月はこんなニュースで報じられました。
「辰野金吾のふるさと、佐賀県唐津市『旧唐津小学校』の校舎の礎石群が、唐津市役所で出土した」
辰野は、唐津を愛し、自らすすんで小学校の設計を引き受けたのです。
さらに、唐津の子どもたちのために奨学金を設定。
地域の発展のために尽くしました。
彼の建築技術は、頑丈で耐震性に優れ、「辰野堅固」と称され、彼が造った多くの建築物が現存する理由でもあります。
まだ建築家という職業がなかった時代に、近代建築の礎を築いたレジェンドですが、彼の残した金言には、謙虚なものばかりが並んでいます。
たとえば、「俺は頭が良くない。だから人が一する時は二倍努力してきた」という言葉。
辰野は、工部大学校、現在の東京大学工学部を首席で卒業して、国からヨーロッパへの留学を命じられても、「ほんとうに俺なんかでいいんだろうか、とにかく努力して、期待に答えるしかない」と考え、がむしゃらに建築に打ち込みました。
彼は、「うぬぼれる」というのを最も嫌悪しました。
英語が誰よりもうまいのに、さらにイギリス人について学ぶ。
建築に関しては、自分への追込み方が尋常ではありませんでした。
そこには、彼が味わった挫折の経験があったのです。
日本で最初の「建築家」のひとり、辰野金吾が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/4/2023 • 12 minutes, 30 seconds 第426話『幸せは自分の中にある』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】アンドリュー・ワイエ ス-
アメリカン・リアリズムに革命をもたらした画家がいます。
アンドリュー・ワイエス。
ワイエスの作品は、自身が生活した半径100メートル以内の日常に根差しています。
人種差別が激しかった時代にも関わらず、黒人と交流を持ち、彼らをモチーフに描きました。
画かれる題材には、ある意味、ドラマティックな華やかさはありませんが、彼は国民芸術勲章や大統領自由勲章を授与されるまでになったのです。
彼の幼少期は、孤独そのものでした。
虚弱体質、神経衰弱。
学校に通うことができず、家庭教師と父親だけが先生でした。
しかも、優秀な姉に対するコンプレックスは計り知れず、常に「ボクなんかが生きている意味あるのかな」という思いでいっぱいだったのです。
ただ彼は、絵を画くことだけは大好きで、その「好き」を生涯手放しませんでした。
ワイエスの代表作『クリスティーナの世界』。
メイン州の沿岸地域の小高い丘に、ひとりの女性が寝そべりながら、遠くの家を目指しています。
この桃色のワンピースを着た女性は、ワイエスの隣人、アンナ・クリスティーナ・オルソン。
彼女は、病気の後遺症で筋肉が衰えていく障害を持っていましたが、車いすを拒否。
両腕を使い、匍匐前進して移動しました。
その姿は、ある人から見れば滑稽に映り、子どもたちは彼女を真似して笑いました。
でも、ワイエスは、彼女の前に進む姿を見て、涙を流します。
「クリスティーナは、体は不自由かもしれないが、心は誰より自由だ。私もそうありたい」
クリスティーナも、唯一、ワイエスにだけは心を許したと言います。
「あなたには、嘘がありません。私はこういう境遇なので、ひといちばい、ひとの嘘には敏感なのです」
ワイエスは、知っていました。
幸せは、どこか遠い国にあるのではない。
自分の心の中にある。
20世紀を代表する、奇跡の画家。アンドリュー・ワイエスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/28/2023 • 11 minutes, 50 seconds 第425話『納得がいくまで前に進まない』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】レオナルド・ダ ・ヴィンチ-
イタリア、ルネッサンス期に活躍し、「万能の天才」と謳われたレジェンドがいます。
レオナルド・ダ・ヴィンチ。
彼の名は世界に轟いていますが、『モナ・リザ』や『最後の晩餐』を画いた画家だということ以外、いったい何をやった偉人なのか、彼について知っているひとは、それほど多くないかもしれません。
画家のほかに、解剖学者、物理学者、発明家、建築、音楽、天文学、飛行機の航空力学や軍事技師、さらには式典の舞台芸術や演出まで、彼の肩書や実績は、枚挙にいとまがありません。
そもそも、彼の名は「ヴィンチ村のレオナルド」という意味で、近年では、彼をダ・ヴィンチと呼ぶより、レオナルドと呼ぶ風潮が本流です。
つまり、彼には苗字がなかった。
というのも、彼の父は裕福な公証人で、母は不倫関係にあった年若い農家の娘。
つまり、私生児だったのです。
レオナルドは、満足に学校に通うこともなく、あらゆるジャンルの学問を全て独学でおさめました。
彼は生涯に、絵画をたったの16点しか画いていませんが、膨大な手記、日記、覚書を残しています。
彼は、疑問をすぐさまメモし、それを調べ、解決したら、やはり文書にしたためる、という一連の作業を己のルーティンにしていました。
しかも残された遺稿のほとんどが、鏡文字。
鏡文字とは、書いた字を鏡に写して初めて読める文字のことです。
なぜ、そんな面倒なことをしたのか。
レオナルドは左利きだったので、そのほうが書きやすかった、当時は特許がなく、自分の発見や発明を盗まれないため、など、所説ありますが、真相はわかっていません。
レオナルドの特徴のひとつに、異常なまでに完璧主義者だった、というのがあります。
細部にこだわりすぎて、とにかく作品が完成しない。
そのため、30歳になる頃まで、生活は貧しく、彼に仕事を発注するスポンサーは減っていったのです。
それでも彼は、自分の流儀を変えませんでした。
のちに残る作品になると知っていたからこそ、自分が納得するまで手を入れたかったのです。
世界で最も有名な芸術家のひとり、レオナルド・ダ・ヴィンチが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/21/2023 • 13 minutes, 18 seconds 第424話『哀しみから逃げない』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】棟方志功-
青森県出身の、20世紀の日本を代表する板画家がいます。
棟方志功(むなかた・しこう)。
今年、生誕120年を迎える彼の展覧会が、現在、東京国立近代美術館で開催されています。
『棟方志功展 メイキング・オブ・ムナカタ』。
この展覧会の特徴のひとつは、青森、東京、富山と、棟方が暮らした三つの土地をたどる、初の大回顧展であるということです。
ヴェネチア・ビエンナーレでの受賞を始め、版画絵の世界に革命を起こした彼は、「世界のムナカタ」として国際的に多大なる評価を得ました。
その創作の秘密を、彼が暮らした三つの場所からひもとく試みは、必見です。
特に注目は、久しぶりの公開となる、棟方が疎開した富山県福光町の光徳寺から依頼を受けて画いた『華厳松』。
墨がはじけ飛ぶダイナミックな筆致が堪能できます。
今もなお、世界中のファンを魅了してやまない棟方ですが、その人生は、苦難の連続でした。
そのひとつに、視力があります。
幼い頃から、右目がよく見えない。
歳とともに視力は低下し、やがて、右目は全く見えず、左目も半分は闇の中だったのです。
木版に顔をくっつけるようにして対峙する姿は、彼にとって、止むに止まれぬもの。
ただ、棟方は、日本図書センターが発刊した『人間の記録』でこう語っています。
「ただまことにおかしなもので、わたくしの右眼は、板画の刃物を持つと見えてきます」
彼は、うまくいかないこと、不器用にしか生きられない哀しみを大切にしました。
あるインタビューで、こう答えています。
「哀しむことを裏に持っていて、驚くことと喜ぶこと。
哀しみは、人間の感動の中で、いちばん大切なのであります」
絶えず笑顔でひとに接し、生きることの素晴らしさを説いた賢人、棟方志功が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/14/2023 • 12 minutes, 30 seconds 第423話『自分だけの楽園を探す』-【絵画の世界に革命をもたらしたレジェンド篇】アンリ・マティス-
強烈な色彩で美術界に革命をもたらした画家がいます。
アンリ・マティス。
今年4月から8月まで東京都美術館で開催された、20年ぶりの回顧展には、連日多くのひとが訪れ、マティス人気が不動のものであることが改めて証明されました。
20世紀を代表するフランスの巨匠、マティスの特徴は、なんといっても、豊かで常識を打ち破る色彩です。
「形のピカソ、色のマティス」と称されるように、形を壊し、平面に立体を焼き付けたパブロ・ピカソに対し、マティスは、色で世界を驚かせました。
黒い輪郭線の人物や家具、金魚たち、そして、赤や青、黄色の原色が画面にあふれます。
彼の色彩美は、晩年の色紙を切って貼る、切り紙絵に結実。
こちらは、来年2月から5月まで国立新美術館で開催される「マティス 自由なフォルム」という展覧会で本格的に紹介されます。
ポップでモダンなアート作品は、現代作家にも多大な影響を与え、お店や自宅のインテリアに彼の作品のレプリカを飾るひとは絶えません。
なぜ、彼は色彩に目覚め、その才能を開花することができたのでしょうか。
マティスが生まれたのは、フランス北部のひなびた村でした。
他国との国境が近く、絶えず、侵略や戦争の脅威にさらされ、第一次世界大戦のときは、激しい銃撃戦が勃発。
村人たちは、「死」の恐怖に怯えました。
マティスの幼少期の記憶は、暗く灰色の空とレンガ色に統一された家や工場群。
そこに、色はありません。
穀物や種を扱う商いをしていた父は、子どもたちを働かせ、いつも怒鳴り散らしていました。
「早く、ここから抜け出したい。
光や色で満ち溢れた世界がどこかにあるはずだ」
それが、幼い頃の願いでした。
しかし、高速道路までおよそ80キロ。
鉄道はありませんでした。
どこにも行けない閉塞感を抱えたまま、20歳まで、ふるさとで過ごしたのです。
だからこそ、旅の行商人が都会から持ってきた、色鮮やかな織物を見たときのときめきは、生涯、彼の心に残り続けました。
彼はこんな言葉を残しています。
「見たいと願うひとたちのために、花はいつも、そこにあります」
色彩の魔術師、アンリ・マティスが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/7/2023 • 12 minutes, 36 seconds 第422話『自分のアイデンティティーを守る』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】グリム兄弟-
ドイツに古くからある民間伝承を丁寧に集め、童話を文学の1ジャンルとして確立したレジェンドがいます。
グリム兄弟。
兄ヤーコプ・ルードヴィヒ・カール・グリムと、弟ヴィルヘルム・カール・グリムの二人は、協力し合い、『グリム童話』を世に送り出しました。
『赤ずきん』『シンデレラ』『ヘンゼルとグレーテル』『白雪姫』『ラプンツェル』など、その多くはディズニー映画のもとになり、全世界で最も知られる物語のひとつになったのです。
鬼才テリー・ギリアムは、2005年に『ブラザーズ・グリム』というファンタジー映画を撮りましたが、童話がこんなにも有名である一方、作品を紡いだグリム兄弟については、意外に知られていません。
彼らはなぜ、民間伝承に興味を持ち、気の遠くなるような作業を経て、童話に心血を注いだのでしょうか。
彼らが生きていた時代は、ドイツという国家はなく、ナポレオンひきいるフランス軍が侵攻、神聖ローマ帝国が崩壊していきました。
ドイツ民族である自分たちのアイデンティティーが戦争によって、脅かされる、そんな激動の渦の中にあったのです。
グリム兄弟は、優れた言語学者として『ドイツ語辞典』や『ドイツ語文法』を出版する一方、古くから伝わる民話を集め始めます。
『童話集』の前書きには、こんな言葉が書かれています。
「今こそ、昔から伝わる物語を、しっかりと心にとめる時であると思います。
なぜなら、昔話を覚えているひとがどんどん減っていくからです。
人間は、昔話から離れてはいけない。
そこには大切な教えが書かれているのです。
私たちは、家の隅や庭の暗がりに潜むものを守らなくてはいけないのです」
グリム童話集が刊行された1812年は、奇しくも、ナポレオン軍が大敗をきっした年でもありました。
先祖代々、口伝えで語り継がれてきた物語を、あたかも、古い箪笥の引き出しから取り出して、ほこりを払い、ほころびを直すかのように、再び世に出し、後世に残す。
そんな地道な作業こそ、彼らにとっての己を守る戦いだったのです。
貧しさに苦しみながらもドイツ民族の誇りのために生きた賢人、グリム兄弟が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/30/2023 • 14 minutes, 18 seconds 第421話『しっかりした眼差しで自分を見る』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】アントン・チェー ホフ-
世界的に最も偉大な劇作家のひとりであり、短編小説の名手としても知られる、ロシアの文豪がいます。
アントン・チェーホフ。
『かもめ』『ワーニャ伯父さん』『三人姉妹』『桜の園』など、毎年、必ずどこかで彼の演目が上演され、多くの観客を魅了し続けています。
当時のロシア文壇では長編小説が主流でしたが、チェーホフは、巧妙に計算された短編小説で革命を起こしました。
戯曲にも通底している彼の作品の特徴は、「何かが起こっても、何も起こらない」。
大きな事件や派手なクライマックスはなく、ただ淡々と日常が切り取られ、情けない人やうまく生きることができない人間を過度な感情を削ぎ取り、描いていくのです。
彼の小説は、海外の作家にも大きな影響を与え、日本の小説家もチェーホフの作品に触発されました。
井伏鱒二、志賀直哉、そして太宰治の『斜陽』は、チェーホフの『桜の園』に着想を得たのではないかと言われています。
影響を受けた作家のひとり、井上ひさしは、チェーホフの演劇的な革命として、次の3つを挙げています。
主人公という概念を変えたこと、テーマを排除したこと、物語の構成を変えたこと。
チェーホフは、24歳で感染した結核に苦しみながら、医者として多くの患者を時に無料で診断、治療し、その一方で戯曲や小説を書き続けます。
わずか44年の生涯を、一秒足りとも無駄にしないように、走りぬけました。
『ワーニャ伯父さん』に登場する医者・アーストロフに、こんなセリフがあります。
「朝から晩まで、一日中、立ちっぱなし。
休む暇なんてないよ。
夜は夜で、いつ何時、患者から連絡があるかと、毛布にくるまってビクビクしているんだ。
私はね、この10年、たったの一日だってのんびり過ごした日はないんだ」
チェーホフは、なぜそこまで自分を追い詰め続けたのでしょうか。
生涯、自分を冷静に見つめることをやめなかった賢人、アントン・チェーホフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/23/2023 • 12 minutes, 18 seconds 第420話『NOと言い続ける』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】大岡昇平-
『俘虜記』『野火』『レイテ戦記』という作品群で、近代日本の戦争文学の在り方を一変させた、レジェンドがいます。
大岡昇平(おおおか・しょうへい)。
特に、1952年に発刊した『野火』は、極限状態での人間のあり方を説いた戦記小説の金字塔として、世界各国で翻訳され、いまなお読み継がれている名作です。
大岡自身、戦地を体験しました。
召集されたのは、35歳という兵士としてはかなりの高齢。
サラリーマン生活を送っていた頃のことでした。
1944年3月、終戦までおよそ1年5か月。
日本は、じりじりと追い詰められ、各地で消耗戦を余儀なくされていました。
7月、大岡はフィリピンに送られ、ミンドロ島のサンホセという場所で暗号の解読係の命を受けました。
しかしその3か月後、大日本帝国海軍連合艦隊は、レイテ沖海戦で撃沈。
ミンドロ島にいる陸軍兵士たちは、支援のないまま、取り残されてしまったのです。
翌1945年、マラリアに犯された大岡は、ひとり密林をさまよいます。
このときの孤独、想像を絶する飢え、恐怖体験が、『野火』に結実したのです。
手りゅう弾を使って自害をはかりますが、失敗。
銃で命を断とうとしますが、これも未遂に終わり、意識を失ったところをアメリカ兵に捕らえられました。
捕虜収容所で、終戦。
捕虜時代の体験をもとに、『俘虜記』を書きました。
なぜ、彼は書いたのでしょうか。
それは、戦地で亡くなっていった戦友への鎮魂、贖罪、そして、言葉で残さないかぎり、人間はまた戦争という同じ過ちを繰り返すのではないかという危機感だったのかもしれません。
彼は、言葉の力を信じていました。
発言することの重要性も、ことあるごとに提示しました。
あるインタビューでは、こんな言葉を残しています。
「NOと言い続けるのが文学者の役割である」
常に忖度を嫌い、己の思いを隠さなかった賢人、大岡昇平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/16/2023 • 12 minutes, 59 seconds 第419話『自らの自由を守る』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】ジョージ・オーウェル-
今も読み継がれているディストピア小説『1984年』の作者で、今年生誕120年を迎えるレジェンドがいます。
ジョージ・オーウェル。
本名は、エリック・アーサー・ブレア。
イギリス植民地時代のインドに生まれた彼は、誰も書いたことのない、未来の預言書をこの世に送り出しました。
衝撃作『1984年』は、こんなストーリーです。
1950年代に核戦争が起こり、世界は、オセアニア、ユーラシア、イースタシアの3つに分断。
三国は、常に戦争状態にありました。
物語の主人公、ウィンストン・スミスは、オセアニアの真理省に勤務。
「過去のデータの改ざん」を仕事にしています。
オセアニアは、ビッグ・ブラザーと呼ばれる独裁者に支配された全体国家。
市民の思想や言動、教育も厳しく統制されています。
街中に設置された巨大なテレスクリーンが、24時間、人々を監視しているのです。
スミスは、過去のある新聞記事を見つけたことから、社会、政府への疑念を抱きます。
彼は、政府の目を盗み、反逆ともいえる「日記」をつけ始め、日常が大きく傾いていくのです…。
報道の捏造や、増え続ける監視カメラ、さらに今も続く戦争。
今から74年前に書かれた小説が、現実のものとして、私たちに迫ってきます。
小説『1984年』は、多くの芸術家、文化人に影響を与え続けてきました。
デヴィッド・ボウイは、この小説にインスパイアを受け、アルバム『ダイアモンドの犬』をリリース。
『1984年』という曲も発表しています。
ジョージ・オーウェルがこの小説を書いたのは、45歳のとき。
亡くなる1年前のことです。
出版後、彼はこんな言葉を残しています。
「私の描いた社会が、必ず出現するとは思いません。
ですが、おそらく出現すると思っています」
未来を予感し、自由と平等を奪われた世界の恐ろしさを描いた賢人、ジョージ・オーウェルが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/9/2023 • 14 minutes, 30 seconds 第418話『今を切に生きる』-【文学に革命をもたらしたレジェンド篇】瀬戸内寂聴-
波乱の人生の果て、51歳で出家。
常に「愛すること」の大切さを説いた規格外の作家がいます。
瀬戸内寂聴(せとうち・じゃくちょう)。
2021年11月9日、99歳で亡くなった寂聴の作品は、今もなお読み継がれ、彼女のストレートに響く言葉は、多くのひとを救っています。
今年6月、幻冬舎から出版された一冊の本が、話題になっているのをご存知でしょうか。
延江浩(のぶえ・ひろし)著・『J』。
85歳の作家で尼僧の「J」と、37歳のビジネスマンとの恋愛を描いた衝撃作です。
「J」のモデルが瀬戸内寂聴であることは、明白。
フィクションの体をとっていますが、まるでそこに寂聴がいるかのように息遣いまでも再現された小説は、延江浩の端正な筆致と膨大な取材量に裏打ちされて、私たちの心に、これまで味わったことのない感動を与えます。
この小説は、人間の業を肯定し、愛に生きた「J」を描くと共に、作家・瀬戸内寂聴の人生をリアルな湿度と痛切で辿っているのです。
寂聴は、大正11年生まれ。
大学在学中に結婚。娘を出産しますが、夫の教え子と恋に落ち、夫と幼い娘を捨て、家を出ます。
その後、小説家としてデビュー。
41歳のとき、自身の体験をもとに女性の愛と性を描いた『夏の終り』で、女流文学賞を受賞して、作家としての地位を不動のものにします。
ベストセラー作家として、これからというとき、彼女は突然、出家を発表。
しかし、その後も旺盛な創作欲は変わらず、生涯で書いた作品は400点を超えます。
寂聴を表するとき、多くのひとが口にするのは、笑顔です。
仏教の言葉「和顔施(わがんせ)」を、そのまま具現化したような笑い顔。
相手に笑顔を施すことがひとつの徳になる。
笑えば自分も元気になる。
ただ、その笑顔の下に、どれほどの苦しみや後悔が隠されていたか、うかがい知ることはできません。
ただ、彼女は晩年、言い続けました。
「人生の意味とは、愛すること。そして愛するとは、ゆるすこと」
己の欲や業に真っすぐ向き合ったレジェンド、瀬戸内寂聴が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/2/2023 • 12 minutes, 13 seconds 第417話『自分と未来は変えられる』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】野口英世-
ノーベル賞に3度、候補として名を挙げられたレジェンドがいます。
千円札の肖像でおなじみの、野口英世(のぐち・ひでよ)。
1歳のときに、囲炉裏に落ちて左手を大やけど。
そのハンデキャップと家の貧しさを跳ね除け、ロックフェラー医学研究所で細菌学の進歩に貢献した賢人は、親孝行の代表として、たびたび教科書でまつりあげられていますが、実際、どんなひとだったのでしょうか。
彼の功績は、主に、梅毒菌の培養に成功したこと、さらに、アフリカで猛威をふるっていた黄熱病の病原体を特定したことが挙げられます。
そのどれもが気の遠くなるような地道な研究の成果でしたが、細菌とウイルスの違いがあやふやだったこと、のちの実験で彼の実証が覆ったことなどから、ノーベル賞を逃したと言われています。
また、野口自身、決して品行方正な人物ではなかったようです。
お金があればあるだけ、お酒に使ってしまう。
ひとの同情や情けにすがり、借金三昧。
留学の機会を得て、支度金をもらったにも関わらず、送別会を自ら開き、そこで大盤振る舞い。
支度金全てを使い果たしてしまうのです。
さらに異常なまでの負けず嫌い。
野口と将棋をさせば、彼が勝つまで帰してもらえなかったと言われています。
本名は英世ではなかったのですが、自分と近い名前の主人公が出てくる小説を知り、その主人公の末路が不幸なことを気にやんで、名前を変えてしまったのです。
繊細で、臆病。
そんな人間味あふれる野口ですが、研究に関してだけは、心血を注ぎました。
ナポレオンが3時間しか寝ないというのなら、自分も3時間睡眠で頑張ろうと決意。
寝食はほとんど、研究室だったと言います。
なぜ彼は、そこまで頑張ることができたのでしょうか?
研究中に自ら黄熱病を発症。
51歳の若さでこの世を去った偉人・野口英世が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/26/2023 • 11 minutes, 20 seconds 第416話『子どもの頃描いた理想を大切にする』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】アルベルト・シュ バイツァー-
今から70年前に、ノーベル平和賞を受賞した、「密林の聖者」がいます。
アルベルト・シュバイツァー。
彼が受賞した部門が、なぜ医学・生理学賞ではなく、平和賞だったのか。
40年にわたる、アフリカ、ガボンでの献身的な医療活動が評価されての賞だと、誰もが思いました。
しかし、彼の90年の生涯を知れば、平和賞こそが最もふさわしい賞であることがわかります。
『生命への畏敬』。
それは、シュバイツァーが一生を捧げて全世界に伝道した哲学です。
この世の生命は、全て、生きようとしている。
自己を実現したいという意志を持っている。
それは、どんなことよりも優先されるべきものであり、畏れと尊敬を持って、他人の命は尊重しなくてはならない。
彼は戦争を心から憎み、排除したいと願いながら、世界中で講演や演奏活動を行い、アフリカの密林で多くの患者と向き合ったのです。
彼が医学部に学んだのは、30歳のときです。
すでに名門シュトラスブルク大学の神学科の講師の職を得ており、学長は驚きました。
「シュバイツァー君、君はもうすぐ神学科の教授になろうという人間だ。
なぜ、今更、医師の資格を得たいと思うのかね?」
シュバイツァーは、学長にこう答えました。
「満足な医療を受けられずに目の前で亡くなっていく人を見たら、なんとしても救いたい、そう思うのは自然なことではないでしょうか。
私は21歳の時、決めたのです。
30歳までは、学門と芸術を身につけよう。
そして30歳からは、ひとのために尽くそう。
私の理想の実現に、医学が必要なのです」
二度の世界大戦を経験し、一時は捕虜収容所にとらえられても、己の理想を手放さなかった賢人、アルベルト・シュバイツァーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/19/2023 • 12 minutes, 22 seconds 第415話『開拓者になる』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】エリザベス・ブラックウェル-
19世紀初頭、世界に女性医師がひとりもいなかった頃、多くの苦難を乗り越え、初めての医師になった女性がいます。
エリザベス・ブラックウェル。
彼女が医師を目指したのは、24歳の時でした。
末期がんにおかされた、知り合いの女性の介護をしていると、車いすの女性は、つぶやくように言ったのです。
「エリザベス、どうして女性のお医者さんがいないのかしらねえ。
私、男の先生に診てもらうのが恥ずかしくて…」
そのとき、エリザベスは、父親が亡くなる前に言ったひとことを思い出しました。
「いいかい、何かを始めることを恐れてはいけない。
どんな仕事だって、最初に始めたひとがいたんだ。
だったらエリザベス、お前がその『初めて』になったっていいんだよ」
父親のサミュエルは、奴隷解放運動に熱心に参加したり、女性の参政権獲得のために活動したり、当時のイギリスでは、かなり進んだ考えの持ち主でした。
だから、女性は結婚して家に入るという選択しかなかった時代に、エリザベスに十分な教育を受けさせたのです。
ただ、医師になると決意した彼女の前には、多くの障壁が立ちはだかります。
そもそも、医学校への入学が困難。
優秀な成績にも関わらず、入学試験すら受けさせてもらえない学校もあり、11校、落ち続けました。
それでも諦めなかったエリザベスは、12校目のジェネバ医学校に合格。
しかし、学内での女性蔑視は驚くほどひどかったと言います。
さらに医師になってからも、患者から感染した化膿性眼炎のため、右目を失明。
度重なる厳しい現実にも、彼女は歩みを止めませんでした。
次世代に女性の医師を増やしたいと、フローレンス・ナイチンゲールと共に、ロンドン女子医学カレッジを設立。
亡くなる直前まで、後進の指導にあたりました。
なぜ彼女は、挫けることなく、先駆者として前進することができたのでしょうか?
エリザベス・ブラックウェルが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/12/2023 • 12 minutes, 27 seconds 第414話『誰かの役に立ちたいと願い続ける』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】ルイ・パスツール-
近代細菌学の父と言われる、フランスの科学者がいます。
ルイ・パスツール。
パスツールの功績は、はかりしれません。
牛乳やワイン、ビールなどが腐らないようにするため、低温で殺菌する方法を発見。
そのおかげで、私たちは今も安心して、牛乳やワインを飲むことができるのです。
彼の最も大きな偉業は、ワクチンという概念の構築と、予防接種の開発かもしれません。
ジェンナーの考えた天然痘を予防する種痘法に「ワクチン」という名前をつけ、ワクチンが他の病気にも応用できるのではないかと考えたのが、パスツールでした。
近代医療は、伝染病との戦いと言っても過言ではありません。
さまざまな伝染病に対抗するため、事前にワクチンを打って免疫をつくるという発想は、細菌学において、いわばコペルニクス的転回。
予防接種のおかげで救われた命は、全世界で今も増え続けていますが、それがパスツールの絶え間ない努力の賜物であることを知っているひとは、それほど多くはないかもしれません。
フランス、パリにあるパスツール研究所に、不思議な銅像があります。
犬に噛まれそうになっている少年の銅像。
少年の名は、ジュピーユ。
彼は、多くの仲間を助けるため、ひとりで狂犬に立ち向かいました。
奮闘のさなか、噛まれてしまいます。
狂犬病の犬に噛まれれば、命はありません。
でも、ジュピーユは助かった。
なぜなら、彼はパスツールが開発したワクチンを打っていたから…。
さらに、こんな話もあります。
フランスがナチス・ドイツに占拠されたとき。
パスツール研究所も没収されました。
守衛のジョゼフは、パスツールの墓を掘り起こそうとするナチスに鍵を渡すのを拒みました。命にかえて。
なぜならジョゼフは、9歳のときに狂犬に噛まれますが、ワクチンのおかげで助かったのです。
パスツールへの恩義は、一生をかけて守られたのでした。
近代細菌学の扉を開いたパスツールは、聖人君主、生まれながらの天才、だったのでしょうか。
ひとつでも多くの命を救いたいと願い続けたレジェンド、ルイ・パスツールが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/5/2023 • 12 minutes, 45 seconds 第413話『負けない心を持つ』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】マリー・キュリー-
放射能の研究とラジウムの発見で、2度のノーベル賞を受賞した女性がいます。
マリー・スクウォドフスカ・キュリー。
通称・キュリー夫人。
なぜ、後世のひとが、彼女を「キュリー夫人」と呼ぶようになったのか。それには、二つの理由が考えられます。
ひとつは、マリー自身、昔の同級生への結婚報告の手紙で、「次に会う時は、キュリー夫人になっています」と書いたことから。
もうひとつは、マリー亡きあと、娘のエーヴが書いた、マリーの伝記のタイトルが『キュリー夫人』だったから。
ともすれば夫に隷属し、献身的に夫を支える妻、というイメージを与えかねない名前ですが、彼女ほど、対等な夫婦関係を構築し、女性の人権を主張し、闘った科学者はいません。
彼女の功績には、多くの「初」「初めての」という言葉がついてまわります。
裏を返せば、それまで、いかに女性の活躍する場が奪われてきたか、という証でもあるのです。
最初のノーベル物理学賞は、同じく科学者だった夫・ピエールと二人に贈られたものでしたが、二度目のノーベル化学賞は、夫亡きあと、マリーだけに贈られた賞でした。
当時彼女が所属していたフランス科学アカデミーは、古い体質が幅を利かせ、何かにつけ、女性蔑視的な風潮が色濃くありました。
マリーが有名になればなるほど、彼女への誹謗中傷が連日、マスコミで報じられたのです。
年下の研究員との不倫報道、彼女がユダヤ人であるというデマ、マリーの夫は不倫を知って自ら命を絶ったというフェイクニュース。
それでも彼女は毅然と立ち向かい、パリ大学の教授として、後進の指導にあたりました。
さらに彼女の強さは第一次世界大戦勃発で証明されました。
ドイツ軍の空襲を受けた、パリ。
放射線を扱える彼女は、X線が照射できる車に乗り込み、危険な戦地に向かったのです。
体のどこに銃弾があるかを認識できれば助かる命は多い。
ひとりでも多くのひとの命を救うために研究を続けて来た彼女の行動は、いっさいブレることはありませんでした。
なぜ、ここまで彼女は強くなったのか。
そこには、幼い頃受けた、屈辱と温情の二つがあったのです。
世界中の子どもたちに、科学への夢を与えたレジェンド、マリー・キュリーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/29/2023 • 13 minutes, 15 seconds 第412話『憎しみは何も生まない』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】野中婉-
江戸時代中期に活躍した、日本で最初の女性医師と言われるレジェンドがいます。
野中婉(のなか・えん)。
彼女の運命は、想像を絶するほど過酷なものです。
4歳になるころ、幽閉。
いわゆる座敷牢に閉じ込められ、それからおよそ40年間、一歩も外に出ることを許されませんでした。
しかし、狭い部屋の中で、父が懇意にしていた儒学者の谷秦山(たに・じんざん)と手紙のやりとりをして勉学に励みます。
儒学、詩歌、漢学に、医学。
44歳でようやく自由の身になったとき、彼女は、医者として生きていくことを決めるのです。
彼女の数奇な人生は、作家の大原富枝(おおはら・とみえ)が小説化し、岩下志麻主演で映画にもなりました。
なぜ、婉は、幽閉されることになったのか。
それは彼女の父、野中兼山(のなか・けんざん)への、報復でした。
兼山は、土佐藩の家老。
干ばつで苦しむ農民のために、新田開発を積極的に行うなど、地域の発展のために尽力した賢人です。
特に、彼が作った山田堰の技術は革新的で、アフガニスタンの灌漑(かんがい)事業に身を捧げた、中村哲(なかむら・てつ)医師に受け継がれました。
藩の英雄であるはずの兼山でしたが、そのやり方に独裁的な様相が混じり、藩士の恨みを買ってしまいました。
1663年、反対派の謀略により、失脚。
謀反の罪に着せられ、49歳の若さで、この世を去りました。
反対派の兼山に対する恨みは強く、野中家の血筋をいっさい断つことに執着します。
野中家には、母、乳母、兄弟姉妹が7人いましたが、全員が獄舎に閉じ込められ、婉の兄や弟がこの世を去り、女性たちが子どもを産めなくなる年齢まで、座敷牢から出ることを禁じ、子孫を残せないようにしました。
監視の目が一日中ある、狭い獄舎の中、次々と亡くなっていく兄弟たち。
44歳で外に出ることを許された婉は、何を思い、何を胸に抱いて、その後の人生を生きたのでしょうか。
伝説の女性医師・野中婉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/22/2023 • 12 minutes, 47 seconds 第411話『無欲に学び続ける』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】ヴィルヘルム・コンラッド・レント ゲン-
1895年にX線を発見し、第一回ノーベル物理学賞を受賞した、科学者のレジェンドがいます。
ヴィルヘルム・コンラッド・レントゲン。
第一次世界大戦によって傷ついた多くの兵士たちは、いわゆるレントゲン写真のおかげで、死をまぬがれました。
そして、発見から130年近く経った今も、X線によって救われている命があるのです。
医療の現場にここまでX線が広まった理由には、レントゲンの「無欲」があります。
彼は、X線を発見したとき、新聞記者に聞かれました。
「特許を申請されますよね? あなたは、大富豪になれます!」
しかし、彼はこう答えたのです。
「いいえ、特許など必要ありません。
そもそも、私がX線を発明したわけではないのです。
X線は、ただただ、そこにあったのですから。
これから、X線を研究したいと思う科学者、X線装置を作りたいと思う学者には、喜んで、私の実験資料を提供いたします。
私は、自分の研究を独占したいなどとはいっさい思わないのです」
そんなレントゲンの言葉に、嘘はありません。
彼は、ひたすら実験し、探究し、おのれの仮説を確かめたかったのです。
大金持ちになるより、名誉を得るより、自分がやった仕事に誇りと充実感を持つことができるか。
そこに幸せの秘密があると、レントゲンは知っていたのです。
また彼は、こんな言葉も残しています。
「いいですか、若い学生たちよ。
その仕事があなたに向いているかどうかは、人生の後半になってみないとわかりません。
だから、どんどん試せばいい。探せばいい。
必ず、見つかります。あなたにふさわしい仕事が」
若い頃に苦難を味わった彼だからこそ、そう言えたのです。
「無欲のひと」と称えられた伝説の物理学者、ヴィルヘルム・コンラッド・レントゲンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/15/2023 • 12 minutes, 27 seconds 第410話『ひとの真似をしない』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】高峰譲吉-
アドレナリンを発見し、タカジアスターゼを開発した、近代バイオテクノロジーの先駆者がいます。
高峰譲吉(たかみね・じょうきち)。
アドレナリンは、体の機能を調節するホルモンの一種。
心臓の動きを活発にするなど、臓器の働きを調整する役割があります。
また止血作用があるため、現在も外科手術の際には、世界中で使用されています。
高峰は、このアドレナリンを結晶の形で取り出すことに成功。
のちのホルモン研究の礎となる画期的な発見でした。
タカジアスターゼは、酵素の分解作用を利用した消化を助ける薬。
消化不良を解消してくれる効果は話題を呼び、世界に広まりました。
高峰は、アメリカで「サムライ化学者」と呼ばれた独創的な研究者という一面と、もうひとつ、スタートアップの先駆者、起業家の先駆けとしても知られています。
彼は雑誌『実業之日本』に書きました。
「いかにして発明国民となるべきか」
高峰は、真似、模倣、コピーを嫌いました。
模倣ではなく、発明を産業に応用しなければ、欧米列強にかなわない。
そもそも、日本人の「発明力」は素晴らしい、それを使わずして欧米の真似ばかりしていては、いつまで経っても日本は勝てない。
そう訴えたのです。
渋沢栄一の協力を得て設立した化学肥料の会社も、鉱石を使えば効率よく肥料が作れることを、彼自身が発見して、大ヒットを産み出しました。
会社の跡地、東京都江東区の釜屋堀公園には、「化学肥料が生まれた場所」として、石碑が建っています。
ひとがやらないことをやってみる、この精神なくして、進歩も発展もないことを、自分の人生を通して証明してみせました。
彼が歩んだ道は、決して平たんではなく、挫折や苦労の連続でした。
なぜ彼は、発明という名の剣を一度も手放さず、戦い抜くことができたのでしょうか。
日本の近代化学を推し進めた賢人・高峰譲吉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/8/2023 • 11 minutes, 55 seconds 第409話『自分が生まれてきた意味を知る』-【医学の発展に貢献したレジェンド篇】フローレンス・ナイチンゲール-
近代看護教育の母といわれる、イギリスのレジェンドがいます。
フローレンス・ナイチンゲール。
彼女の誕生日、5月12日は、国際看護師の日に制定されています。
看護の世界においてその名は世界中に轟いていますが、ナイチンゲールがいったい何をしたひとなのか、意外に知られていないのかもしれません。
しかも、今からおよそ200年前のイギリス社会に生きた彼女が、どれほどの苦労、苦悩を経験したかは、おそらく、安易に想像するのは難しいのではないかと思われます。
貧富の差。男女差別。女性に対する偏見。
何より病院における看護師の位置づけは、驚くほど低かったのです。
そもそも、当時、病院は富裕層にとって、決して行ってはいけないところ。
病気になれば、屋敷まで医者に来てもらうのが通例でした。
病院は、どこも汚く、暗く、運営もひどいものだったのです。
同じベッドに、二人の患者。
足を骨折したひとと、伝染病で余命いくばくもないひとが、重なるように寝ていました。
床は埃にまみれ、至る所にカビ。
マットレスやシーツは一度も洗濯されず、医者は手を洗わず、手術の際は、血だらけのうわっぱりを着るだけでした。
看護師に至っては、ほぼ小間使い。
ひとつの病棟にひとりしかいない看護師は、火をたき、食事を作り、患者の世話をするよりも、やらなければならないことが多すぎたのです。
朝5時から夜まで働き、中には昼間から酒を飲まないとやっていられない看護師も多かったと言います。
裕福な家庭に生まれたナイチンゲールは、初めて病院という場所に足を踏み入れたとき、愕然としました。
このありさまでは、この国は滅んでしまう…。
なぜ、ナイチンゲールが病院に関心を持ったのか。
それは、16歳の時に、自分の人生の意味を考えたからです。
自分には、一生を捧げるに値する仕事があるはずだ。
自分がこの世に生まれてきた意味が知りたい。
そして、できれば、その使命を全うしたい。
誰かの役に立ちたい!
たとえ、その先に、壮絶な苦難が待っていようとも…。
結婚もせず、裕福な地位も捨て、看護の道に一生を捧げた賢人、フローレンス・ナイチンゲールが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/1/2023 • 12 minutes, 59 seconds 第408話『理不尽に立ち向かう』-【今年周年のレジェンド篇】アルベール・カミュ-
コロナ禍を受け、再びベストセラーになった小説『ペスト』の作者、アルベール・カミュ。
今年、生誕110年を迎えます。
カミュの『ペスト』には、不条理な不幸にみまわれた人間の格闘と、未来への可能性が描かれています。
14世紀にヨーロッパで、黒い死の病と書く「黒死病」と呼ばれ、大流行した感染症、ペスト。
その勢いはすさまじく、わずか数年でヨーロッパ全土に拡がり、一説によれば、全人類総人口の3分の1が死滅したと言われています。
カミュは、このペストを、アルジェリアの港町、オランを舞台に書きました。
オランのおよそ20万人の住民は、とてつもない厳戒態勢のもと、一歩も外に出ることを許されず、家に閉じ込められます。
まさに我々が、コロナ禍で外部との接触を断たれたように。
この小説が書かれた当時は、この物語が、ナチス占領下のユダヤ人たちの生活を象徴していると考えられていました。
共通しているのは、理不尽で抗いがたい、不条理です。
人々は、苦悩し、嘆き、ただ、のたうちまわって、不条理の前にひれ伏します。
しかし、カミュは、この理不尽に真っ向から向き合う医者の姿を通して、人間の行動の可能性、人生に対する向き合い方を提示します。
カミュは、こんな言葉を残しています。
「希望というのは、一般的に信じられている事とは反対で、実は、あきらめにも等しいものなのです。
ただ、生きることは、あきらめないことです」
カミュは、自動車事故を恐れ、「自動車事故で亡くなるのだけは避けたい」と家族に話していましたが、1960年1月4日、午後1時45分。
友人が運転するクルマで、事故死。享年46歳。
ほんとうは、妻や子どもと共に、汽車でパリに帰る予定でした。
時代を予見し、傑作を世に出し続けたノーベル賞作家、アルベール・カミュが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/24/2023 • 12 minutes, 7 seconds 第407話『できない、と言わない』-【今年周年のレジェンド篇】ベーブ・ルース-
WBC、ワールド・ベースボール・クラシックの記憶もそのままに、二刀流・大谷翔平の活躍は連日、ニュースをにぎわせています。
オオタニの偉業が報じられることで、再び、その伝説がクローズアップされているメジャーリーガーがいます。
ベーブ・ルース。
今年、没後75年を迎える彼の本名は、ジョージ・ハーマン・ルース・ジュニア。
ベーブは、ベイビーから来たニックネーム。
童顔、子どものように邪気がない笑顔、子どものようにやんちゃで、常識知らず。
ぷっくり太った体型も、ベーブという愛称にピッタリでした。
「子ども」というのは、ある意味、彼のキーワードかもしれません。
無類の子ども好き。
ベーブ・ルースは、デビューした当時から、球場に来た子どもたちにホットドッグをご馳走するなど、特別に、大切にしてきました。
子どもたちもまた、いつも彼のまわりに集まり、背中を叩いたり、お腹の肉をつまんだりして、ふざけあい、でも、試合になると、いきなりホームランをかっとばしてスタジアムから賞賛を浴びるベーブを、特別な大人として尊敬したのです。
メジャーリーグを代表する超有名選手になり、多忙になっても、ベーブは、養護施設や孤児院を足しげく訪れ、靴をプレゼントしたり、サインをしたり、抱き上げ、ハグを繰り返しました。
それは売名行為ではないかと揶揄されたこともありましたが、すぐに見当違いであるとわかりました。
どんな有名新聞やカリスマ雑誌のインタビューより、彼が子どもとの時間を優先したからです。
その姿は、球場で子どもたちが差し出すボールに丁寧にサインする、大谷翔平にかぶります。
ベーブ・ルースは、親の愛をほとんど知らずに育ちました。
7歳から、まるで捨てられるように全寮制の矯正学校に入れられ、家族の団欒を経験することがなかったのです。
そんな彼が、子どもたちに、常に言い続けたこと。
それは「できないと最初に言うな。なんでもできる、まずは、そこから始めるんだ」という言葉でした。
貧しさと孤独の淵からスポーツ界のレジェンドになったメジャーリーガー、ベーブ・ルースが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/17/2023 • 12 minutes, 18 seconds 第406話『信念を貫く』-【今年周年のレジェンド篇】オードリー・ヘプバーン-
今年、没後30年を迎えた、伝説の映画女優がいます。
オードリー・ヘプバーン。
彼女は、晩年の多くの時間を国際連合児童基金、ユニセフの仕事に費やし、親善大使としてアフリカ、南米、アジアを訪問。
恵まれない子どもたちのための援助活動を、積極的に行いました。
1992年に、アメリカ合衆国から大統領自由勲章を授与されましたが、そのわずか1か月後の1993年1月20日、病のため、スイスの自宅でこの世を去りました。
享年、63歳。
大女優の早すぎる死は、全世界に哀しみをもたらしました。
子供のころ、ナチス占領下のオランダで、迫りくる死の恐怖と飢餓状態に襲われた彼女は、ユニセフ親善大使を受けるとき、こんな発言をしています。
「わたくしの全人生は、このお仕事のためのリハーサルだったのです。
わたくしは、ようやく、この役を得ました!」
24歳のときに出演した『ローマの休日』で、アカデミー賞主演女優賞を受賞して以来、『麗しのサブリナ』『ティファニーで朝食を』など、立て続けにヒット作に恵まれ、美の象徴として、名実ともに大スターであり続けた彼女ですが、実は、容姿へのコンプレックスや、父を失ったトラウマなど、多くの苦しみの中にいました。
ユニセフの活動をしているときでさえ、こんな揶揄する言葉を受けました。
「あなたがしていることは、実際のところ、全く無意味なことなんですよ。
子どもたちの苦しみは、ずっと昔からあったし、今後も続いていくことでしょう。
オードリー、あなたは子どもを救うことで、彼らの苦しみをただ単に長引かせているだけなんです」
そう言われたオードリー・ヘプバーンは、静かに、こう返しました。
「なるほど、そうですか、じゃあ、あなたのお孫さんのことで話を考えてみましょう。
いいですか、お孫さんが肺炎になっても、決して抗生物質を使わないでください、お孫さんが事故にあっても、断じて、病院に連れて行かないでください」
オードリーは、自らの体験から、ある信念を持っていました。
その強い思いを、生涯、手放すことはありませんでした。
彼女が抱えた苦しみ、そして、揺るぎない信念とはなんだったのでしょうか。
ハリウッド黄金時代を支えた偉大なる女優、オードリー・ヘプバーンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/10/2023 • 12 minutes, 24 seconds 第405話『自分に従う』-【今年周年のレジェンド篇】小津安二郎-
今年、生誕120年、没後60年を迎える、映画監督のレジェンドがいます。
小津安二郎(おづ・やすじろう)。
神奈川近代文学館では、先月まで回顧展が開かれていました。
この展覧会には、直筆の日記や台本、小津が愛用した、丸いツバ付きの白い帽子、ピケ帽も展示されていました。
1903年12月12日生まれの小津は、還暦を迎えるちょうどその日に、60年の生涯を閉じました。
彼の映画人生を映し出す、言葉があります。
「なんでもないことは、流行に従う。
重大なことは、道徳に従う。
芸術のことは、自分に従う」
実際、小津のフィルム製作へのこだわりは、並大抵のものではありませんでした。
俗に「動の黒澤、静の小津」と言われるとおり、アクションシーン、活劇にドラマティックな展開を得意とした黒澤明に対して、小津は、ささやかな日常、親子の情愛や生きることの哀しさを、ローポジション、短いセリフ、計算されたカット割りで、静かに描き切りました。
ハリウッド映画に影響を与えた黒澤と、ヨーロッパやアジア映画に影響を与えた小津。
二人の巨匠の作品を比べれば、小津安二郎が言った、「自分に従う」という意味が見えてきます。
ただ、己の芸術観を押し付けるためだけの『小津調』ではありませんでした。
当時の撮影に関わったひとの証言によれば、ローポジション、カメラの低いアングルは、観客への配慮からだったことがわかります。
まず、観客を見下して作っているわけではないということ、そして、大スクリーンの1階席。
もっとも映画に没入できるポジションが、この位置だったからだ、ということ。
小津は「わかりやすく」「親切に」を、大切にしたのです。
そうした「優しさ」は、小津映画全編にあふれ、ささいな目線ひとつで、観客はフィルムの向こうの登場人物たちに感情移入し、涙を流すのです。
頭を垂れ、より低い位置から命を見つめた、日本映画界の至宝・小津安二郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/3/2023 • 13 minutes, 20 seconds 第404話『夢の世界に生きる』-【今年周年のレジェンド篇】江戸川乱歩-
今年デビュー100年を迎えた、推理小説家のレジェンドがいます。
江戸川乱歩(えどがわ・らんぽ)。
本名は、平井太郎(ひらい・たろう)。
ペンネームの由来は、彼が敬愛したアメリカの作家、エドガー・アラン・ポーです。
1923年、大正12年に発表したデビュー作『二銭銅貨』にも、ポーの名前が出てきます。
不思議な暗号解読と、どんでん返し。
雑誌に掲載された乱歩の作品は絶賛され、「日本初の本格探偵小説」現る!と、もてはやされました。
ただ、探偵小説家として食べていけるとは、とうてい思いませんでした。
お金があれば、全部使ってしまう。
いつも貧乏のただなかにいて、いくつも職を変えました。
貿易商、造船所の職員、古本屋さん、屋台のラーメン屋さん、数え切れません。
ただ、乱歩にとって小説家という職業は、特別なものでした。
幼い頃から、誰ともつるまず、孤独に妄想を繰り返す日々。
友だちは誰もいませんでした。
そんなとき、彼を救ってくれたのは、物語の世界。
だから、なんとかその世界に恩返しがしたい。
ただ、いつも自分が書くものに、不安を抱えていました。
すぐに書けなくなり、放浪。
その繰り返しが続きます。
世の中は、乱歩に、エキセントリックで異様なフェティシズムやサディズム、グロテスクを求めますが、本当に書きたかったのは、本格的な探偵小説でした。
皮肉なことに、通俗的な怪奇小説で生活は安定していきますが、絶えず、自分の中の乖離(かいり)に苦しんだのです。
乱歩は、ファンに色紙を頼まれると、こう書きました。
「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」
うつし世とは、現実。
それよりも、夢こそ真実だと詠んだのです。
現実が嫌なら、すぐに夢に逃げればいい。
終生、妄想の世界に生きた推理小説家、江戸川乱歩が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/27/2023 • 11 minutes, 46 seconds 第403話『ピンチでチャンスを拾う』-【今年周年のレジェンド篇】ポール・ゴーガン-
今年没後120年を迎える、後期印象派の巨匠がいます。
ポール・ゴーガン。
長らく、ゴーギャンという呼び方が定着していましたが、最近の美術展、書物は、よりフランス語表記に近い、ゴーガンを採用しています。
6月11日まで、東京上野公園の国立西洋美術館において開催中の「憧憬の地 ブルターニュ ―モネ、ゴーガン、黒田清輝らが見た異郷」で出色のゴーガンの絵画が、12点展示されています。
ゴーガンというと、タヒチでの作家活動が有名ですが、実は、ブルターニュ地方のポン=タヴェンこそが、彼独自の絵画を確立した、大切な場所なのです。
ブルターニュで彼が見つけたもの、それは、「野生とプリミティヴ」。
深い信仰に裏打ちされた、素朴な心を持つ現地の人々に、ゴーガンは、人間の根源を見ます。
印象派を取り入れ、自身のオリジナリティに悩んでいた彼にとって、一生を賭けても足りない、壮大なテーマがそこにあったのです。
ゴーガンの人生は、混迷と苦難の連続でした。
パリ株式取引所に就職、家庭を持ち、平穏で満ち足りた生活をしていましたが、やがて絵画に興味を持つ。
世界恐慌を機に、妻の反対を押し切り、絵だけで生きていこうと決意。
しかし、現実はうまくはいきません。
貧困の中、妻は子どもを連れ、コペンハーゲンの実家に帰ってしまいます。
経済的にも精神的にも追い詰められていく、ゴーガン。
それでも、絵を画くことは諦めませんでした。
彼を襲うピンチの数々。
そんなときこそゴーガンは、大好きな絵に立ち戻り、あらたな画風を身に着けていったのです。
晩年、彼はこんなふうに語っています。
「苦しいときは、自分よりもっとつらい人間がいたことを考えればいい。
若者よ、人生は君が思うほど長くない。
人生の長さは一秒にも満たないのだ。
その僅かな時間に永遠に向けての準備をしなければならない!」
波乱万丈の一生を送りながら、唯一無二の作品を後世に残したレジェンド、ポール・ゴーガンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/20/2023 • 12 minutes, 16 seconds 第402話『微弱なる電流を強くせよ』-【今年周年のレジェンド篇】司馬遼太郎-
今年生誕100年を迎える歴史小説家のレジェンドがいます。
司馬遼太郎(しば・りょうたろう)。
『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『国盗り物語』などの歴史小説はもちろん、『この国のかたち』『街道をゆく』をはじめとする、随筆・紀行文でも、圧倒的な筆力・取材力で、国民的な作家として君臨しつづけています。
司馬は、「なぜ、小説を書いてきたのですか?」という問いに、こう答えていました。
「ことさら簡単に申しますと、私は二十二歳の自分にずっと手紙を書きつづけてきたような気がします」
司馬遼太郎が、22歳になったとき。
それは、昭和20年8月7日。
その8日後に、日本は降伏します。
「明治、大正を経て、日本人は、すっかり変わってしまった、日本人は、おのれの原点を見失ってしまった」
終戦後、そう確信した彼は、日本人の規範であった「武士道」を再認識したのです。
終戦間際。
栃木の佐野にあった戦車 第一連隊に所属していた司馬は、そのときのある体験を忘れることができません。
連隊の将校が少佐に尋ねました。
「少佐殿、我々の連隊は、敵が上陸すると同時に南下、敵を水際で撃退する任務を持っております。
しかしながら、東京都民が避難のため、北上することは必至。街道の大混雑が予想されます。
そんな中、我が戦車隊は、立ち往生してしまうと考えられます。
いかがいたしますか?」
少佐は、すぐさま、こう言ったのです。
「ひき殺して進め」
それを聞いていた司馬は、思いました。
「日本人のために闘っているはずの軍隊が、味方をひき殺す?
その論理はいったいどこから来るんだ?
おかしい、何かがおかしい!」
そのときの違和感が、一生、彼の創作の背後にあったのです。
日本人が、日本人であるために、何が必要か。
彼は、晩年、若者たちにこう言いました。
「いいですか、みなさん、自己を確立するのです。
そのために、みなさんひとりひとりの『微弱なる電流』を強くしてください」
唯一無二の世界を描き続けた大ベストセラー作家・司馬遼太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/13/2023 • 11 minutes, 21 seconds 第401話『水のように』-【今年周年のレジェンド篇】ブルース・リー-
今年没後50周年を迎える、伝説のアクションスターがいます。
ブルース・リー。
1973年7月20日、32歳の若さでこの世を去ったレジェンドは、多くの名言を残しました。
「私が恐れるのは、1万通りの蹴りを一度ずつ練習した人ではない。
たった一つの蹴りを、1万回練習した人だ」
この言葉の通り、地道な日々の努力を絶やさないひとでした。
何不自由なく育ち、街で札付きの不良になった青年は、ある日、喧嘩に負けます。
ショックでした。
自分が負けるとは、思わなかった。
その悔しさから、本気で武術を学ぼうと決意したのです。
決して大柄な体格でなく、人種的な差別にも耐え、彼は、スーパースターへの道を一気に駆け上がりました。
『燃えよドラゴン』の監督、ロバート・クローズは、撮影現場に現れたブルース・リーの体を見たとき、驚きます。
鍛え抜かれた鋼のような筋肉は、今まで一度も見たことがないほど、輝いていたのです。
ブルース・リーが目指した体は、鉄でも木でもコンクリートでもありませんでした。
彼が目指したのは、水。
宮本武蔵の『五輪書』に通じる、思想。
「心をからにしなさい。
形を捨て、形をなくすのです、水のように。
コップに注げば、コップの形になり、ボトルに注げば、ボトルの形になる。
そんな変幻自在な水は、ときに、とてつもないチカラを持つ。
わが愛しき友よ、水になりなさい!」
今も愛される唯一無二の武術家にして、ムービースター、ブルース・リーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/6/2023 • 11 minutes, 14 seconds 第四百話『直感を信じる』-【音楽家のレジェンド篇】ジョージ・ガーシュウィン-
ポピュラー音楽とクラシックの融合を成し遂げた、「アメリカ音楽の父」と呼ばれる音楽家がいます。
ジョージ・ガーシュウィン。
1924年2月12日、ニューヨークのエオリアンホールに集まった聴衆は、今まで聴いたことがないような旋律に驚きます。
若干25歳の青年が作曲した、『ラプソディ・イン・ブルー』。
ガーシュウィンは、この作品をわずか2週間で書き上げました。
ボストンに向かう列車の走行音から着想したと言われる楽曲で、彼は一夜にして、富と名声を得るのです。
専門的な音楽学校に通うこともなく、独学でオーケストレーションを学び、ミュージカルや映画音楽だけではなく、クラシックの作曲家として、世界的にその名を知られるようになりました。
さらに自分を高めるため、当時、一世を風靡していたモーリス・ラヴェルに教えを請うたのですが、こう言われます。
「ガーシュウィンさん、あなたはもうすでに一流のガーシュウィンなのだから、今更、二流のラヴェルになる必要はありません」
東欧系のユダヤ人の移民の子として、ブルックリンに生まれた彼は、決して裕福な環境に恵まれたわけではありませんでした。
やんちゃで粗野だった彼の、その人生を変えるきっかけになったのは、6歳の時の直感でした。
場末のゲームセンターから流れてくる音楽を聴いて、思わず立ち止まったとき、ガーシュウィンの音楽人生が始まったのです。
彼は、こんな言葉を残しています。
「人生は、ジャズととてもよく似ている。
直感に従った即興のときほど、全てうまくいく」
アメリカ音楽の新しい扉を開いたレジェンド、ジョージ・ガーシュウィンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/29/2023 • 13 minutes, 29 seconds 第三百九十九話『変わり続ける』-【音楽家のレジェンド篇】筒美京平-
50年以上続く、『サザエさん』のテーマ曲。
モータウン風の爽やかなメロディは、今も人々の心をとらえて離しません。
では、この曲を作曲した人の名前をご存知でしょうか。
その人の本名は、渡辺栄吉(わたなべ・えいきち)。
作った楽曲は、3000曲以上、シングル総売り上げ数は、歴代第1位の7560万枚。
希代のヒットメーカー、筒美京平(つつみ・きょうへい)です。
1960年代の、いしだあゆみ『ブルー・ライト・ヨコハマ』、
1970年代の、南沙織『17才』、郷ひろみ『男の子女の子』、
1980年代の、早見優『夏色のナンシー』、少年隊『君だけに』、
1990年代の、NOKKO『人魚』など、年代ごとにヒット曲を連発。
時代の流行を敏感にとらえ、洋楽のサウンドを随所に織り交ぜながら、唯一無二の楽曲を世に送り出してきたのです。
特に1975年に発表した、太田裕美の『木綿のハンカチーフ』は、従来の歌謡曲を大きく進化させた作品として、日本の音楽シーンに衝撃を与えました。
筒美は、表舞台に出るのを嫌がり、裏方に徹したことで有名です。
さらに「歌謡曲が好きだったわけではない」と言って、はばかりませんでした。
大学時代は、地味で、決して明るいとは言えない学生。
ただ音楽が好きで、洋楽の沼にどっぷりはまっていました。
そんな彼が、いかにして日本の音楽史にその名を刻むレジェンドになったのか。
そこには、職業作曲家として変化に殉じる、強い覚悟があったのです。
誰も到達できない頂に登り詰めた、歌謡曲の神様、筒美京平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/22/2023 • 10 minutes, 49 seconds 第三百九十八話『苦悩を突き抜け、歓喜に至る』-【音楽家のレジェンド篇】ルートヴィヒ・ヴァン・ベー トーヴェン-
4年ぶりに、世界最大級のクラシック音楽祭が、日本に帰ってきます。
「ラ・フォル・ジュルネ TOKYO 2023」。
5月4日から3日間行われるこのイベントのテーマは、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。
交響曲やピアノ協奏曲はもちろん、ベートーヴェンへのオマージュ作品も演奏される予定です。
ベートーヴェンの楽曲に流れるヒューマニズムこそ、今の時代にあらためて享受すべきなのかもしれません。
56年の生涯は、貧困と病に翻弄される、苦悩の連続でした。
特に、20代後半から彼を絶望の淵に陥れたのは、難聴。
耳が聴こえなくなっていったのです。
ピアニストとして、作曲家として、音が聴こえないということは、どれほどの苦難でしょうか。
ベートーヴェンは、医者から治る見込みがないことを告げられ、最高難聴者となった28歳のとき、遺書をしたためます。
それでも、孤児救済のための慈善演奏会を休むことなく、会場に姿を見せました。
晩年は、ピアノに耳をぴったりつけて、振動を感じることで、作曲を続けたと言います。
ハンディキャップがあったからこそ、広い音域と豊かな響きを求めたベートーヴェンは、西洋音楽史を語る上で、エポック・メイキングな存在。
ハイドン、モーツァルトというウィーン古典派の二大巨匠の強い影響を受けながらも、宮廷のものだったクラシック音楽を民衆のものにしたのです。
彼は、言いました。
「神がもし、世界でもっとも不幸な人生を私に用意していたとしても、私は運命に立ち向かう。苦悩を突き抜ければ、歓喜に至る」
古典派音楽の集大成を成し遂げ、ロマン派音楽の先駆者になり、のちの音楽家たちに多大な影響を与えた音楽の神様、ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/15/2023 • 12 minutes, 38 seconds 第三百九十七話『自分のやることを愛する』-【音楽家のレジェンド篇】クイーン-
4月17日が何の日か、ご存知でしょうか?
1975年4月17日、イギリスのあるロックバンドが、初めて日本の地を踏みました。
その伝説のロックバンドの名は、クイーン。
JAL61便、羽田空港、午後6時25分すぎ。
集まった熱狂的なファンは、1000人とも3000人とも言われています。
響き渡る黄色い歓声。
あまりのヒートアップぶりに、空港関係者は、急遽、メンバーを税関横の裏口に誘導。
しかし、駐車場で待ち構えていた観衆に、あっという間に囲まれてしまったと言います。
この日を記念すべく、2015年に4月17日が「クイーンの日」に制定され、クイーン・ファンの聖地、羽田空港での音楽イベント「クイーン・デイ」を開催。
2023年は4月15日に、9回目となるイベントが行われます。
今年はクイーンのファースト・アルバム『戦慄の王女』のリリース50周年にちなんで、2人のトーク・ゲストを迎えます。
ひとりは、このアルバムの担当ディレクターだった加藤正文。
もうひとりは、日本でのクイーン人気を支え盛り上げた音楽雑誌『ミュージック・ライフ』の元編集長、東郷かおる子。
今もなお、クイーンを愛してやまないファンの貴重な祭典になることでしょう。
さらに今年は、世界一と称されるクイーンのトリビュート・バンド「God Save the Queen」が、4年ぶりの来日を果たします。
ますますその火を大きく燃やす唯一無二のバンド、クイーン。
そんな彼らにとって、エポックとなった曲があります。
当時は、ラジオで流れないとヒットしないという鉄則があり、シングル1曲の長さは、ラジオでかけやすい3分から4分が基本でしたが、1975年10月にクイーンが世に出した曲は、なんと6分あまり。
プロデューサーやレコード関係者が反対する中、彼らはかたくなにこの曲を推しました。
ロックにオペラを持ち込んだ革命的な楽曲は、彼らが自分たちを信じていたからこその作品でした。
常に前に進むことをやめなかった伝説のバンド、クイーンのメンバーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/8/2023 • 11 minutes, 7 seconds 第三百九十六話『常に挑戦する心を忘れない』-【音楽家のレジェンド篇】エンニオ・モリコーネ-
2020年に91歳でこの世を去った、映画音楽の巨匠がいます。
エンニオ・モリコーネ。
モリコーネの名前を知らなくても、この音楽は聴いたことがあるかもしれません。
『ニュー・シネマ・パラダイス』
1988年公開の映画『ニュー・シネマ・パラダイス』。
世界中の映画ファンの涙をさそった名作は、この音楽なしには考えられません。
当時、30歳になったばかりの無名だった映画監督、ジュゼッペ・トルナトーレは、無謀にも、すでにマエストロと呼ばれていたモリコーネに音楽のオファーをします。
最初は忙しさのあまり断ったモリコーネでしたが、脚本を読んで、「よし、わかった、やりましょう」とOKを出したのです。
トルナトーレは、新人の自分にも公平に、ごくごくフツウに接してくれるモリコーネに感動したと言います。
「彼の頭の中には、常に映像が沸き起こり、登場人物たちの心の流れが見えているのです」
映画は大ヒット。
アカデミー外国語映画賞や、カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリを受賞しました。
先ごろ公開された『モリコーネ 映画が恋した音楽家』というドキュメンタリー映画は、トルナトーレがメガフォンをとり、ブルース・スプリングスティーン、クエンティン・タランティーノ、クリント・イーストウッドやクインシー・ジョーンズなど、モリコーネに影響を受けたアーティストたちが名前を連ねます。
父から教わったトランペットを吹いていた少年は、やがて、作曲の道に未来を見ます。
声をかけられた映画音楽の世界は、当時、ありものの音楽をあてはめる、ただの伴奏にしかすぎませんでした。
作曲を生業とする芸術家を望んでいたモリコーネにとって、映画音楽は、当初、命を賭けてまでやるものではなかったのです。
でも、彼は挑戦を続けることで、映画音楽を芸術の高みへと押し上げていきました。不断の、文字通り血のにじむ努力で。
映画音楽の新しい扉を開いたレジェンド、エンニオ・モリコーネが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/1/2023 • 11 minutes, 43 seconds 第三百九十五話『他人と違う自分を大切にする』-【福島篇】作家 横光利一-
志賀直哉と共に「小説の神様」と呼ばれる、福島県生まれの文豪がいます。
横光利一(よこみつ・りいち)。
小説家の辻邦生(つじ・くにお)は、文章修業時代に、名立たる先人の作家の中で、唯一、横光の文体だけを模写して学んだと言います。
戦時中の戦争協力を非難され、一時、文壇から排除される運命にさらされましたが、のちに再評価運動が勃発。
特に『機械』は、新感覚派の小説として、今も多くの文人の心をとらえています。
それにしても、同時代の川端康成や、菊池寛、芥川龍之介に比べ、圧倒的に知名度が低いのは何故なのでしょうか?
そこには、おそらく、横光の「他のひとと違う己を大切にする」という信条があったからかもしれません。
彼は決してひとを信用せず、己の心を見せることもせず、ひたすら孤独の中にいました。
「理解できないやつは、理解しなくていい…」
そんなつぶやきが、彼の創作活動の原点だったのです。
早稲田大学英文科の同窓生、作家の村松友視(むらまつ・ともみ)の祖父、村松梢風(むらまつ・しょうふう)によれば、横光は、いつも和服に黒マント。
授業に出ても、瞑想してノートもとらない。
獅子がたてがみを振るように、長い髪をぶるっとゆさぶり、左右をにらみながら、右手で髪をかきあげたと証言しています。
その姿は、異様。
自分はおまえらと違うんだという自意識に、周囲の学生は扱いに困っていたそうです。
その背景には、横光の幼少期の体験があるのかもしれません。
父は鉄道工事の技術者。
おびただしい転勤に、家族は振り回されます。
横光も、福島を皮きりに、千葉県の佐倉市、東京の赤坂、山梨、三重、広島、滋賀と、各地を転々としたのです。
途中で友だちをつくるのは、諦めました。
どこにいっても、ひとり。
どうせ、ひとり。
だったら、ひとと違う自分を大切にしよう、どうせ、誰も大切にしてくれないのだから。
絶えず貧困にあえぎ、49歳で生涯を終えた孤高の作家・横光利一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/25/2023 • 13 minutes, 26 seconds 第三百九十四話『「どのように」ではなく「なぜ」を大切にする』-【福島篇】東京帝国大学総長 山川健次 郎-
会津藩の白虎隊士から、のちに帝国大学の総長になった偉人がいます。
山川健次郎(やまかわ・けんじろう)。
今年は、戊辰戦争の最後とも言われる会津戦争の終結から115年にあたります。
戊辰戦争とは、薩摩・長州・土佐を中心とした新政府軍と、徳川率いる旧幕府軍との戦いの総称です。
日本が文明開化の明治政府へと向かう、節目の戦い。
その壮烈な最期の場所が、会津だったのです。
会津藩が組織した16歳から17歳の武家の男子によって構成された部隊、白虎隊は、当初、城下を警備するだけの役目でしたが、板垣退助が会津に攻め入るや、戦いの前線に駆り出されました。
1868年8月23日、命を受けて出撃した白虎隊士20名は、戦闘の末、たどり着いた飯盛山で、鶴ヶ城付近から上がる煙を見て、城が陥落したと思い込み、鶴ヶ城の方角を向き、自らの命を絶ったのです。
その悲劇は、のちに伝えられ、飯盛山には、亡くなった19名の墓や、白虎隊の記念館があります。
山川健次郎は、そのとき15歳。
白虎隊入隊が決まりますが、15歳組は、重い鉄砲を担ぐことができず、全員除隊。
白虎隊は、16歳以上に設定されたのです。
しかし、厳しい戦局で少年兵も動員することになり、健次郎も刀を持ち参戦しましたが、籠城虚しく、降伏。
そこから健次郎の苦難の道が始まるのです。
屈辱と悔しさの中、会津人としての誇りを失わず、新しい日本のために教育の大切さを説いた健次郎は、アメリカ留学を経て、物理学の教授となり、さらに九州帝国大学、京都帝国大学、そして、東京帝国大学の総長に就任。
後進の育成に生涯を捧げました。
健次郎が、学生たちに向けて説いた、こんな言葉があります。
「日本の学生は、ハウ、どのようにということには深く注意するが、ホワイ、なぜなのかという言葉を発さない」
激動の幕末から日本の夜明けを駆け抜けた賢人・山川健次郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/18/2023 • 11 minutes, 59 seconds 第三百九十三話『すべてのものと共に生きる』-【福島篇】詩人 草野心平-
福島県いわき市出身の、カエル語が話せる詩人がいます。
草野心平(くさの・しんぺい)。
文化功労者となり、今年生誕120周年を迎える草野は、生涯、カエルをモチーフに詩を書き続け、「カエルの詩人」と呼ばれています。
小学生の国語の教科書にも掲載されている『春のうた』。
ほっ いぬのふぐりがさいている。
ほっ おおきなくもがうごいてくる。
ケルルン クック。
ケルルン クック。
冬の間、冬眠していたカエルが、春になって土の中から姿を現す様子が、優しく瑞々しく描かれています。
草野の生まれ故郷、福島県いわき市小川町に、「いわき市立草野心平記念文学館」があります。
常設展示室では、草野の生涯と作品を紹介。
室内は、時間の経過とともに音や光が変化し、カエルや虫たちの声、水のせせらぎと、さまざまな光の色の組み合わせによって、彼のテーマでもある「すべてのものと共に生きる」という世界観を体感することができます。
さらに企画展も開催し、絵本や草野の著作も読めるようになっており、市民の憩いの場所としても活用されているのです。
アトリウムロビーの窓ガラスには、彼の詩が印字され、まるで言葉が空に浮かんでいるように見えます。
草野の人生は、平坦なものではありませんでした。
学校は中退。中国への留学も頓挫。
職を何度も変え、貧困にあえぎ、夜逃げ同然で引っ越しを繰り返す日々。
でも、どんなときも、彼は自然と語らい、カエルに話しかけて、自らの思いを詩につづりました。
85年の生涯を終えた草野の自宅に、一匹の大きなガマガエルがやってきて、周囲のひとを驚かせたと言います。
書くことで自然とつながり、万物と一緒に生きている自分を感じることで苦難を乗り越えた詩人・草野心平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/11/2023 • 13 minutes, 27 seconds 第三百九十二話『弱くて、いい』-【福島篇】イラストレーター 長沢節-
福島県会津若松市出身の、日本のファッション・イラストレーターのレジェンドがいます。
長沢節(ながさわ・せつ)。
彼は、戦後の日本ファッション界に、突然現れた風雲児。
繊細でナイーブなファッションイラストは先鋭的で、画家で編集者の中原淳一(なかはら・じゅんいち)の目にとまり、これまでなかった、ファッション・イラストレーターというジャンルを確立します。
1967年には、男性もスカートを!と提案した「モノ・セックス・モード・ショウ」というイベントを企画。
男女が性差なく、同じスカートで観衆の前に立ちました。
このショーは、マスコミにも大きく取り上げられ、賛辞がおくられた一方、多くの誹謗中傷も巻き起こり、長沢は渦中の人になりました。
「観客は初めのうちだけ、果たしてどっちが美しいか?見比べて見ていますが、やがて男女の違いを全く意識しなくなってしまうだろうという私の計算だったのです。
1人1人のパーソナリティこそが何よりも優先して尊重されなければならないのだと私は絶叫したのでした」
2017年4月、東京都文京区の弥生美術館で、「生誕100年 長沢 節 展 ~デッサンの名手、セツ・モードセミナーのカリスマ校長~」が開催されました。
全国から訪れる、多くのファン、そして教え子たち。
彼の学校は、惜しまれながら閉校しましたが、彼の功績は次世代に確実に引き継がれています。
長沢が、大切にしたもののひとつに「弱さ」があります。
戦中、戦後、まだ男性に強さや頼もしさを求めていた時代にあって、彼は、弱さこそ優しさであり、弱さこそ愛おしさの原点であると主張したのです。
「あのひとは、弱いから素敵」
「あのひとは、弱いからキレイ」
「あのひとは、弱いからセクシー」
そこにファッションの真髄があると言い続けました。
学校では、デッサンを重視。
何枚も何枚も画くことを生徒に伝えました。
「まぐれは、必然。
ただ、その確率をあげなくてはいけない。
そのためには、まず、ひたすら画くこと。近道はない」
82歳で、不慮の事故で亡くなる寸前まで、生徒たちに交じって1日6時間絵を画き続けたレジェンド・長沢節が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/4/2023 • 13 minutes, 10 seconds 第三百九十一話『驚き、不思議がる心を忘れない』-【島根篇】絵本作家 安野光雅-
島根県津和野町出身の、世界的に有名な絵本作家がいます。
安野光雅(あんの・みつまさ)。
42歳のときに、『ふしぎなえ』でデビュー。
この絵本は、不思議な魅力に包まれています。
描かれた階段をあがると上の階へ、またあがると、なぜか元の階に戻ってしまう。
迷路に入っていくと、いつのまにか天地が逆さまになり、蛇口から流れ出した水は、川となってまた水道に循環していきます。
以来、人々を驚かせたり、不思議な気持ちにさせる画風で、絵本の世界に新しい風を起こしました。
ブルックリン美術館賞、ボローニャ国際児童図書展グラフィック大賞、国際アンデルセン賞など、世界的にも高い評価を受け、いまなお、多くの読者に愛されています。
彼が生まれ育ったふるさと、津和野は、山々に囲まれた美しい町です。
そこに、「安野光雅美術館」があります。
漆喰の白壁と赤い石見瓦の、まるで酒蔵のような外観。
ロビーでは、数字の魔法に出会える『魔方陣』というタイルの壁画が出迎えてくれます。
彼の作品の展示だけではなく、昭和初期の学校の教室を再現したコーナーやプラネタリウムなど、懐かしさと温もりを感じられる空間が拡がっています。
来館者ノートは、手書きの文字で埋め尽くされ、中には、親子三代にわたって、彼の絵本に触れた思い出を書きしるす人もいます。
安野は、常々、言っていたそうです。
「小学校時代の勉強が一生を左右する」
幼少期に、何に驚き、何を不思議がるか。
そこに想像力が宿り、そのチカラは大人になってからも、崖っぷちから自分を救ってくれる原動力になると、彼は信じていました。
誰も気づかなかったことを、自分は気づいた。
そんな子どもの頃の体験が、安野の創作の原点だったのです。
淡い色調にこだわり、常に少年の心を失わなかった賢人・安野光雅が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/25/2023 • 11 minutes, 51 seconds 第三百九十話『夢とロマンに生きる』-【島根篇】実業家 足立全康-
島根県安来市出身の、世界にその名をとどろかせる日本庭園をつくった、実業家がいます。
足立全康(あだち・ぜんこう)。
昨年末、あるニュースが世界中に配信されました。
「島根県安来市の足立美術館が、アメリカの専門誌による日本庭園ランキングで、なんと20年連続の1位に選ばれる!」
『ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン』でも三ツ星と掲載された、この庭園をつくったのが、足立全康です。
およそ17万平方メートル、5万坪の敷地に植えられた、赤松、黒松、サツキやモミジたち。
そして、枯山水や苔の庭、全康が敬愛してやまない横山大観の絵をモチーフにした、白砂青松の庭など、四季折々の景色は、連日、多くの観光客の五感を刺激し、その目を楽しませています。
「庭園もまた一幅の絵画である」と唱えた全康の思いが、草木一本まで沁みわたっているのです。
庭園もさることながら、展示された日本画や、北大路魯山人(きたおおじ・ろさんじん)のコレクションも、圧巻です。
これだけの美術館をつくった男は、生まれながらの大富豪だったのでしょうか?
全康は、安来の農家出身。
子どもの頃は劣等生だったと言います。
夢とロマンを持ち続けて、彼が『足立美術館』に着手したのは、1968年、69歳のときでした。
開館は、2年後の1970年。
およそ10年あまり、入館者は伸び悩み、閑散とした館内をひとり歩く全康の姿がありました。
それでも、365日、1日たりとも庭園の手入れを怠らず、大好きなふるさと・安来にどうやったらひとが来てくれるかを考え続けたのです。
全康は、人間には3つのタイプがあると言っていました。
用心深く、なかなか腰をあげないタイプ、行動しながら考えようとする現実主義タイプ。
そして、やってみないことにはわからない、まずは動いてみて、あとから善後策を講じるタイプ。
彼は3番目の、いきなり走り出すタイプでした。
だからこそ、挫折も経験する、でも、それゆえ足腰が強くなる。
彼は、いかにして日本一の庭園をつくることができたのでしょうか?
明治・大正・昭和を生き抜いたレジェンド。足立全康が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/18/2023 • 13 minutes, 22 seconds 第三百八十九話『泰然と事態を見守る』-【島根篇】細菌学者 秦佐八郎-
島根県益田市出身の、世界的な細菌学者がいます。
秦佐八郎(はた・さはちろう)。
当時、不治の病だった梅毒の特効薬「サルバルサン」を、ドイツのパウル・エーリッヒと共に開発。
世界中の患者の命を救ったレジェンドです。
受賞には至りませんでしたが、1911年から3年連続でノーベル賞にもノミネートされ、我が国だけでなく、世界の医学の発展に貢献しました。
秦が生まれた島根県都茂村には、彼の記念館が建てられています。
記念館には、恩師・北里柴三郎(きたさと・しばさぶろう)や、友人・野口英世(のぐち・ひでよ)の写真や、帝国学士院会員に選ばれたときに着用した大礼服などが飾られ、サルバルサンの標本など、医学的に貴重な文献も展示されています。
20世紀を迎えたばかりの頃。
産業革命に代表される技術革新は、世界を席巻し、人類は今まで経験しなかった未曾有の発展を経験しますが、ただ一点、頭を悩ませた問題がありました。
それは、伝染病・感染症。
たとえば、ペスト、コレラ、結核、それに、梅毒。
どんなに便利で快適な世の中になっても、感染の恐怖は、人々の心までむしばんでいったのです。
感染する細菌だけを攻撃し、人体には危害を加えない薬品。
それこそが、近代医学の最大課題になったのです。
島根のとある村に生まれた秦が、いかにしてその課題に果敢に取り組む細菌学者になったのか。
そこには、彼の持って生まれたある性格が、大いに影響していると思われます。
それは、何事も泰然と見守る癖。
島根から岡山の学校に行ったとき、岡山から東京の大学に進学したとき、日本からドイツに留学したとき。
彼は、いつも思っていました。
「ここで一番になったからといって、もっと広い世界があるんだ。どこに行っても、井の中の蛙であることに変わりはない」
そんな冷静な目線があったからこそ、彼は偉業を成し遂げたのです。
島根県出身の細菌学者・秦佐八郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/11/2023 • 13 minutes, 3 seconds 第三百八十八話『実行あるのみ』-【島根篇】劇作家 島村抱月-
島根県浜田市出身の、近代演劇の父と言われる劇作家がいます。
島村抱月(しまむら・ほうげつ)。
抱月が旗手となった新劇活動とは、歌舞伎や新派に対抗する、型にはまらない、人物の感情や苦悩に寄り添った演劇の潮流です。
お手本は、文豪・トルストイ、チェーホフ、イプセン、そして、シェイクスピアでした。
抱月は、師匠である坪内逍遥とともに文芸協会を立ち上げ、大正デモクラシーの流れにのって、翻訳劇を成功に導いていったのです。
島根県浜田市にある「島村抱月生誕地顕彰の杜公園」には、抱月の胸像とともに、彼の運命を象徴する、ある唄が吹きこまれたミュージックボックスがあります。
その唄とは、トルストイの『復活』という舞台の中で、松井須磨子(まつい・すまこ)が歌って一世を風靡した名曲『カチューシャの唄』。
抱月が作詞したとされる「カチューシャかわいや わかれのつらさ」というフレーズは、流行語になり、新劇活動の後押しを担いました。
しかし抱月は、妻子がありながら、看板女優だった須磨子と恋に落ち、文芸協会を脱退。
自ら、劇団・芸術座を結成します。
当時、大流行していたパンデミック「スペイン風邪」にかかった須磨子を看病し、罹患。
結局、その病がもとで、47歳でこの世を去るのです。
抱月の信条は、「実行すること」にありました。
『序に代えて人生観上の自然主義を論ず』に、こんな文章を綴りました。
「人生の中枢意義は言うまでもなく実行である。
四十の坂に近づかんとして、隙間だらけな自分の心を顧みると、人生観どころの騒ぎではない。
わが心は依然として空虚な廃屋のようで、一時凌ぎの手入れに、床の抜けたのや屋根の漏るのを防いでいる。
継ぎはぎの一時凌ぎ、これが正しく私の実行生活の現状である」
抱月は、継ぎはぎの一時凌ぎこそ人生の真髄であり、だからこそ、前に進むために、実行することの大切さを説いたのです。
演劇界に新しい舞台を開いてみせた賢人・島村抱月が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/4/2023 • 12 minutes, 50 seconds 第三百八十七話『人生に勝ち負けはない』-【長野篇】映画監督 降旗康男-
長野県松本市に生まれた、映画監督のレジェンドがいます。
降旗康男(ふるはた・やすお)。
高倉健主演の映画を数多く監督し、1999年公開の『鉄道員(ぽっぽや)』で、日本アカデミー賞 最優秀監督賞を受賞しました。
80歳になってもメガフォンをとり続け、岡田准一主演のヒューマンサスペンス『追憶』が、最後の作品になりました。
降旗のテーマは、常に、人生をうまく生きられないひとを描くこと。
東映に入社し、監督デビューをしたばかりの頃、ある企業の創業者を主人公にした映画を撮らないか、という話がきました。
会議室に呼ばれた降旗は、上司にこう言います。
「せっかくのお話ですが、僕は、成功したひとの映画は撮りたくありません。
映画は、不幸なひと、幸せや運を捨ててしまう、人間の哀しさを描くものだと思っています。
失敗したひと、負けたひとを撮りたいんです」
ジャン・リュック・ゴダールなど、フランス映画の影響を受けた彼にとって、芸術や芸能は、立身出世を謳うものでも、強いヒーローが悪者をこらしめるものでもなく、日々の営みに翻弄され、うまく生きることができずにもがく人間たちを、負けた者の立場で描くものだ、という考えがあったのです。
現場では大声を出さず、口数も少なく、淡々と撮影を進めていきますが、高倉健は、こんな感想を周囲のひとに話したそうです。
「映画が完成すると、不思議なことに、全部、降旗さんにしか撮れない、降旗さんの作品になっているんです」
降旗康男の目線が、光と影の、影のほうに向いているもうひとつの大きな理由に、戦争の体験、特攻隊の隊員とのふれあいがあります。
彼が幼い頃、ふるさと松本市の浅間温泉には、特攻隊の若き隊員たちが待機していました。
降旗たちが遊んでいると、隊員たちはお菓子や果物を分けてくれたそうです。
そうして、ある隊員は言いました。
「いいかい、キミたちは兵隊になんかなるんじゃないよ。
お国のためになるのは、何も兵隊じゃなくてもできるんだ。
僕たちが死んだあとのお国を、頼んだよ」
降旗は、『ホタル』という映画で特攻を描き、若くして散っていった彼らの無念をフィルムに刻みました。
常に弱者の心に寄り添った映画監督・降旗康男が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/28/2023 • 13 minutes, 5 seconds 第三百八十六話『人生は、微笑みと苦笑い』-【長野篇】小説家 久米正雄-
長野県上田市に生まれた、文豪がいます。
久米正雄(くめ・まさお)。
大正時代から昭和にかけて、芥川龍之介、菊池寛(きくち・かん)たちと共に、文壇を支えた重鎮です。
その活動は、小説にとどまらず、劇作家、俳人としても名をなし、さらに趣味で野球、ゴルフ、社交ダンス、麻雀など、多芸多才な人物として知られています。
彼が監督・撮影したドキュメンタリーフィルムには、徳田秋声(とくだ・しゅうせい)、田山花袋、さらには木によじのぼる芥川龍之介の姿が映っていて、近代文学史の貴重な資料になっています。
若くして才能を開花した久米を、こんなふうに評するひともいます。
「器用貧乏」。
親友の芥川も、彼の文章力を評価していましたが、純文学と大衆文学の狭間で揺れ、非難や批判を受ける久米を、どこか冷ややかに見つめていました。
とかく誹謗中傷を受けがちな久米は、私生活でも、マスコミの格好の的でした。
師匠である夏目漱石の娘・筆子(ふでこ)に恋をして、結婚寸前までいきますが、何者かが久米を揶揄する怪文書を送り付けたことがきっかけで、破談。
その後、筆子は、久米の親友・松岡譲(まつおか・ゆずる)と結婚してしまいます。
このセンセーショナルな出来事を新聞や雑誌は書きたてますが、久米は平然とそれを、破れた船と書く、『破船』という私小説にしたためます。
筆子も松岡も責めない優しい語り口に、大衆は賛辞をおくりました。
久米正雄のモットーは、「微苦笑(びくしょう)」。
微笑む微笑と、苦笑いの苦笑が入り交じった、久米の造語です。
人生は、ままならない。
うまくいくどころか、カッコ悪いことばかり。
そんなときは、仕方なく微笑むしかない。
それを、彼は「微苦笑」と呼んだのです。
上田市で生まれた久米は、幼くして父を亡くし、母の郷里、福島県郡山市に移り住みます。
「こおりやま文学の森資料館」の中にある「久米正雄記念館」には、彼の波乱万丈の人生を知ることができる、貴重な資料が展示されています。
特に、晩年暮らした神奈川県鎌倉市の自宅が移築され、ひょっこり久米が顔を出しそうなたたずまいを残しています。
微笑むような、苦笑いするような彼に、逢えるかもしれません。
度重なる誹謗中傷に耐えながら、この世を生き抜いた賢人・久米正雄が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/21/2023 • 13 minutes, 22 seconds 第三百八十五話『我が道を貫く』-【長野篇】思想家 佐久間象山-
長野県長野市松代町に生まれた、江戸時代後期の開国論者がいます。
佐久間象山(さくま・しょうざん)。
1864年8月12日、象山は京都で、尊王攘夷派の河上彦斎(かわかみ・げんさい)らによって暗殺されてしまいます。享年54歳。
勝海舟や吉田松陰、坂本龍馬を育てた教育者であり、哲学者だった彼は、生涯を通して「東洋の道徳、西洋の芸術」と唱え続けました。
ここでいう道徳とは、人間の規範、儒学に基づいた思想。
ひとの道に反してはいけないという教えです。
本来、儒学の世界では、道徳と政治は切っても切れない関係。
政治家に求められるのは、道徳を心身で具現化できる素養なのです。
この道徳という東洋ならではの美徳こそ、手放してはいけないと、象山は説きました。
そしてもうひとつ、近代化に向けて日本が学ぶべきは、西洋の芸術だと訴えました。
ここでいう芸術とは、絵画や音楽のことではなく、科学技術。
文明発展のために必要なテクノロジーのことです。
実際に象山自身、大砲の鋳造方法を考案し、大砲をつくり、使う、砲術家として、その名をとどろかせました。
長野県松代町の真田宝物館にある、象山記念館には、彼が自作した電気治療器が展示されています。
この機械で、妻のコレラを治療したと言われています。
発明家としての才能もあり、弁も立つ、幕末のカリスマ。
そんな象山は、ふてぶてしいまでに自信過剰な一面を持ち、勝海舟から諭されることもあったといいます。
しかし、彼はどこ吹く風。
40歳のとき、満を持して、群衆や藩主の目の前で大砲の演習を実演。
しかし砲身が爆発し、全てが粉々に壊れてしまいました。
人々は、大笑い。藩主もカンカンに怒ります。
でも、当の象山は高笑い。
「失敗があるから、成功があるんです! 西洋式大砲を作れるのは僕しかいないわけだから、もっと僕に実演の機会を与えてください!」と言い放ったのです。
誰かの顔色を気にせず、我が道を進んだ賢人・佐久間象山が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/14/2023 • 12 minutes, 9 seconds 第三百八十四話『あらゆる可能性を試す』-【長野篇】日本画家 菱田春草-
長野県飯田市に生まれた、日本画家の革命児がいます。
菱田春草(ひしだ・しゅんそう)。
37年に満たない短い生涯で、彼ほど新しい画風を模索し、西洋画の台頭に真っ向から挑んだ賢人がいるでしょうか。
「朦朧体」と呼ばれる、線画をなくした画法で描いた『王昭君』。
細かな点描で画いた『賢首菩薩』。
春草・最高傑作と言われる、斬新な奥行きを成功させた『落葉』など、彼は常にその場にとどまることを嫌い、新しい画風に挑戦し続けました。
春草の絵を所蔵している日本画専門の美術館が、長野県長野市にあります。
水野美術館。
長野県千曲市出身の実業家・水野正幸(みずの・まさゆき)が、長年かけてコレクションした珠玉の作品が展示されています。
水野は、なぜ、日本画を集めたのか?の問いに、こう答えたと言います。
「日本人だから」
菱田春草もまた、日本人が画く、日本画にこだわりました。
明治維新以降、日本に急速に流れ込む、西洋の文化。
日本画壇も、その大きな流れに翻弄され、西洋風な日本画がもてはやされます。
しかし、西洋画のリアリズムには、かなわない。
どこまでも三次元な画風を、日本画に移植するのは、至難の技だったのです。
そこに臆することなく挑んだ画家のひとりが、春草でした。
彼は、言いました。
「それにつけても、すみやかに改善すべきは、従来ゴッチャにされていた距離なのです」
空間、奥行き、三次元。
春草は、悩み、試し、失敗し、また悩み、試す。
その繰り返しでしか、新しい可能性の芽は育たないと、知っていたのです。
春草の師匠だった岡倉天心は、若くして亡くなった春草に、こんな言葉を投げかけました。
「菱田君のごときは、各時代に僅少なる、すなわち、美術界に最も必要なる人物の要素を備えていた人である」
明治期のレジェンド、日本画の巨匠・菱田春草が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/7/2023 • 11 minutes, 45 seconds 第三百八十三話『日常に光を探す』-【愛知篇】作詞家・作家 山口洋子-
名古屋市に生まれた、有名な作詞家であり、直木賞作家でもある、レジェンドがいます。
山口洋子(やまぐち・ようこ)。
五木ひろしの『よこはま・たそがれ』『夜空』『ふるさと』、彼女が作詞してヒットした曲は、枚挙にいとまがありません。
そのひとつ『千曲川』で、五木ひろしは、1975年、第26回NHK紅白歌合戦の白組のトリに、初めて抜擢されました。
長野県千曲市にある、「山口洋子 千曲川展示館」に行けば、どの仕事も手を抜かなった、彼女の足跡を知ることができます。
作曲家・猪俣公章(いのまた・こうしょう)が作ったメロディを聴き、山口は、大好きな島崎藤村の『千曲川旅情のうた』の一節を思い出しました。
そうして書いた歌詞は、多くのひとの郷愁を誘い、歌碑として、今も千曲川のほとりで言葉のチカラを示しています。
歌碑が万葉公園にできたことで、山口はたびたび近くの上山田温泉を訪れるようになりました。
その縁で山口が亡くなったあと、貴重な遺品の一部を譲り受け、功績をたたえる場所として、展示館ができたのです。
展示館には、自筆原稿や愛用したソファ、数々の著書やレコードジャケットが並べられています。
みどころは、再現された仕事場。
彼女は、寝る間を惜しんで、書いて書いて、書き続けました。
適当にやっていると思われるのが嫌で、作詞も本気。小説も本気。
山口の生涯は、まさに波乱万丈でした。
複雑な家庭環境に生まれ、16歳で高校を中退。
喫茶店の店主を経て、東映ニューフェイスに選ばれ、女優デビュー。
わずか2年ほどでやめてしまい、その後、銀座でクラブのママとして手腕を発揮。
店には、吉行淳之介や柴田錬三郎など、名立たる作家や俳優、歌手が集いました。
30歳を過ぎた頃、友人の歌手に詞を提供したことがきっかけで、作詞家デビュー。
42歳からは、小説を書くようになるのです。
彼女の創作の源は、常に、日々向き合い悪戦苦闘する、日常の中にありました。
何気ない暮らしの中にこそ、人間の真実が隠れている。
それを独自の目線で掘り起こしていった稀代の作家・山口洋子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/31/2022 • 12 minutes, 53 seconds 第三百八十二話『負けることを知りて、勝つ』-【愛知篇】徳川家康-
来年の大河ドラマでも話題の、三河国、岡崎城に生まれた武将がいます。
徳川家康(とくがわ・いえやす)。
1603年の江戸開府から始まった徳川幕府は、世界的にも例を見ない安定した政権で、260年以上、平和を保ちました。
織田信長や豊臣秀吉が、領土拡大、海外出兵を第一に掲げたのとは対照的に、家康は、旗印にこう書きました。
『厭離穢土欣求浄土』(おんりえど・ごんぐじょうど)。
意味は、「この世は地獄のようなものだけれど、それを極楽浄土に変えていこう」。
先祖からの教えを貫き、万人の民が平和に暮らせる世の中を願ったのです。
また、家臣を大切にしたことも有名で、三河出身の家臣で構成された、三河武士の忠誠心は絶大。
家康のピンチをことごとく救いました。
秀吉に「家康、おまえが持っている最高の宝はなんだ?」と聞かれて、こう答えたと言います。
「私にとって一番の宝は、私のために命をなげうつ武士500騎でございます」
では、家康は、一点の曇りもない、誰からも尊敬される聖人君主だったのでしょうか?
家康の裏の顔を示す言い伝えも、数多くあります。
何を考えているのかわからない「たぬきオヤジ」。
策略家で冷徹、表面では笑い、心は氷のよう。
信長や秀吉のようなスター性、カリスマ性が少なく、地味で平凡。
屈辱を受けても、ただひたすら耐えるだけ…。
しかし、そんな家康の影の側面にこそ、彼が誰も成し遂げられなかった、長きに渡る天下統一を成し遂げる礎があったのです。
家康を天下人に押し上げた原動力。
そこには、二つの大きなコンプレックスがありました。
ひとつは、物心ついた頃から18歳になるまで、人質として暮らしたこと。
もうひとつは、三方ヶ原の戦いで、武田信玄に敗れたこと。
負けることで勝つことを知った戦国時代のレジェンド。
徳川家康が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/24/2022 • 12 minutes, 19 seconds 第三百八十一話『道を切り開く最初のひとになる』-【愛知篇】作家 坪内逍遥-
愛知県で多感な幼少期を過ごした、近代文学の先駆者がいます。
坪内逍遥(つぼうち・しょうよう)。
岐阜で生まれた坪内は、10歳で引っ越し、18歳まで、現在の名古屋駅近くに住みました。
少年時代の住居跡には、記念碑が建っています。
明治18年、1885年に坪内が発表した『小説神髄』は、それまでの勧善懲悪な物語を真っ向から否定し、小説の概念を芸術の域にまで高めるきっかけになりました。
「小説の主脳は人情なり、世態風俗これに次ぐ」
そう『小説神髄』に書いた坪内逍遥。
ここでいう人情とは、人間の情欲、百八つの煩悩のこと。
世態とは、日常のさまざまな出来事。
それがどんなにささやかでも、大げさでありえない展開より、現実の描写を丁寧にすること。
それまでの文学は文学にあらずと、今なら炎上必至な発言に、世間はざわつきました。
江戸時代の小説は、物語の面白さだけを追求するがあまり、登場人物の心、心情に寄り添うことは稀でした。
さらに、現実を忘れたいひとたちが、リアルな日常の描写を好まず、それゆえ、小説は、奇想天外なひとたちが荒唐無稽な話の中で動き、善が悪を駆逐する、お決まりの展開。
でも、海外に目を向ければ、すでに小説は芸術でした。
坪内は、シェイクスピアの翻訳を手掛けることで、演劇にも目覚めていきます。
小説、演劇、さらには早稲田大学創設にも関わった坪内は、常にパイオニア精神を持った、開拓者でした。
誰もやっていないから辞めておくのではなく、誰もやっていないから、あえて挑戦する。
こんな坪内の心意気が、世の中を変え、芸術の幅を広げていったのです。
彼は、叩かれました。
エリートでありながら破天荒。
常にまわりをざわめかせる。
坪内は、まわりの目を気にして、本来の自分から遠ざかっていく若者を憂いて、こう鼓舞しました。
「やりたいと思ったら、常に開拓者であれ!」
現在の日本文学の礎を築いたレジェンド・坪内逍遥が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/17/2022 • 12 minutes, 49 seconds 第三百八十話『まわりのひとを幸せにする』-【愛知篇】家老・画家・蘭学者 渡辺崋山-
愛知県田原市にゆかりのある、幕末の先覚者がいます。
渡辺崋山(わたなべ・かざん)。
崋山は、すぐれた画家であり、蘭学の研究者であり、そして田原藩に仕える家老でした。
田原市博物館には、彼の波乱万丈の人生や功績をたどる貴重な資料が展示されています。
1839年、46歳のとき、江戸幕府の鎖国政策に反した罪、いわゆる蛮社の獄で重罰に処せられ、そのおよそ3年後に、罪をかぶって自害。
田原藩の家臣や自分の家族に追手が来ないようにという判断によるものでした。
崋山は幼い頃から、貧困のため、お金を稼がねばならないという宿命を背負いつつ、常に「まわりのひとを幸せにするにはどうしたらいいか」という祈りにも似た願いを大切にしました。
田原藩は、渥美半島の付け根にある、一万石ほどの小さな藩。
海風の害を受けやすく、土地も痩せていたため、思うような収穫は望めない地域でした。
しかし、全国に多くの犠牲者を出した「天保の大飢饉」の際に、崋山の政策により、田原藩はひとりの死者も出さずにすみました。
幕府はこれをたたえ、全国で唯一、田原藩を表彰したのです。
彼には、画家になる夢がありましたが、いつしか絵のうまさはお金を稼ぐ手段になり、気がつけば、家老としての仕事が評価を受け、忙しくなり、絵画だけで生きていくことが許されなくなっていきます。
家族の笑顔が見たいから、寝る間を惜しんで模写の絵を描き、農家の財政を救うために、日夜、実地調査や政策に奔走し、国の未来のために、蘭学など外国の文化や風習を学ぶべきだと後進の指導にあたり、いわば、二刀流ならぬ、三刀流の生き方を貫いたのです。
その精神の根幹にあったのは、自分だけが幸せになることなどありえない、という考えでした。
まわりのひと、自分が所属する藩、そして、それらの集合体の国が豊かでないと、己の幸せは実現できない。
激動の幕末に、自らの信念を曲げずに戦い続けた賢人・渡辺崋山が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/10/2022 • 12 minutes, 6 seconds 第三百七十九話『自分の気持ちに嘘をつかない』-【愛知篇】政治家 市川房枝-
87歳のときに、参議院議員選挙・全国区で278万4988票を獲得し、第1位当選した女性がいます。
市川房枝(いちかわ・ふさえ)。
彼女は、企業からの献金に頼らず、全国の支持者からの献金だけで政治資金をまかないました。
大音量の拡声器による演説を拒み、理想選挙を掲げた上での快挙でした。
惜しくも翌年、議員在職のまま、病でこの世を去りますが、彼女が生涯を賭けた「女性の地位向上のための活動」は、今も引き継がれ、多くの女性たちを励ましています。
全ての始まりは、幼い頃に見た家庭内の光景にあります。
気の短い父が癇癪を起し、母に暴力をふるっている…。
幼い市川は、必死で母をかばう。
「お母ちゃんを、ぶたないで!」
怒りの矛先を見失い、やがて家を飛び出す父。
決まって母は、言いました。
「女に生まれたのが、因果だから…」
家事、育児、出産、介護に、さまざまな労働。
働き続けて一生を終える女性たちが多かった時代でした。
幼いながらに、市川は思いました。
「女性に生まれたことが因果だなんて、おかしい」
理不尽さへの怒りと悲しみが、彼女の原点になったのです。
大正時代初期は、参政権どころか、女性は、政治的な集会に参加、傍聴することすら禁止されていました。
治安警察法第5条です。
1919年、大正8年。
市川は、平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)らと、日本で最初の婦人団体、新婦人協会を設立。
治安警察法第5条の改正を求める運動を開始しました。
さまざまな妨害や弾圧にも屈することなく、前に進む市川。
でも、彼女はいつも強く、いつも失敗をしない、完璧な女性だったわけではありません。
笑顔を絶やさない、人間味あふれた、ごくごくフツウの人間でした。
ただ、何かおかしい!と、ひとたび感じると、こう言いました。
「私は、憤慨しとるんですよ!」
自分の心が間違っていると叫べば、間違いだと言い続けたのです。
女性の地位向上のために奔走した政治家・市川房枝が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/3/2022 • 13 minutes, 45 seconds 第三百七十八話『一人だまって、仕事を積んで行く』-【秋田篇】画家 岸田劉生-
現在、秋田県立美術館で展覧会が開催されている、日本近代洋画の巨匠がいます。
岸田劉生(きしだ・りゅうせい)。
彼の作品では、愛する娘を描いた『麗子像』が特に有名ですが、この企画展は、水彩画、油絵、本の装丁画など、ときに奔放に、ときに先進的に、その画風を変え続けた画家の軌跡を丁寧に展示しています。
10代は、流行だった水彩画にはまり、20代にはゴッホやセザンヌという後期印象派の影響を受け、その後、北欧のルネサンス絵画に傾倒。
晩年は、中国の古典画や浮世絵に対するオマージュも垣間見られます。
38年の短い生涯で、迷い、苦悩しながら、彼が追い求めたものは何だったのでしょうか?
武者小路実篤や志賀直哉とも親交が深かった劉生は、文人としての才能も持ち合わせていました。
それを表すのが、岩波文庫に収められている『劉生日記』です。
繊細に、仔細に綴られた日常の風景。
何時に起きたか、餅を何個食べたか、誰が客として訪れ、何を話し、どう思ったか。
日記の中には、こんな一節があります。
「画家は自己の中の文学者によって、より深い美を見る機縁を造り、文学者は自己の内なる画家によって、より美しい世界とその力を見る機縁を造る」
より深い美を見る、ということは、彼にとって、物事の真実を解き明かす、ということでした。
人物を描けば、その人物の内面にいかに辿り着けるかに心を砕き、たった一本の道を描く際にも、その道に人生の深淵を見出そうとしたのです。
そのためであれば、流派や画風が一貫している必要はない。
時に昨日までの自分を否定してもかまわない。
そんな生き方が周囲に理解されるのは、難しいことでした。
でも、たったひとりで前に進む。
ひとつひとつの仕事を積む重い荷車を引きながら、彼は黙々と歩き続けたのです。
日本近代画壇に一石を投じたレジェンド・岸田劉生が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/26/2022 • 12 minutes, 32 seconds 第三百七十七話『井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ』-【秋田篇】農村指導者 石川理紀之助-
秋田県出身で、その生涯を農家の救済、農業の発展に捧げた指導者がいます。
石川理紀之助(いしかわ・りきのすけ)。
幕末に生まれた理紀之助は、明治、大正を生き抜き、秋田県種苗交換会の発足や、農民が結束して売り上げをあげるための経済会の設立など、農村の更生や、農地の改良に心血を注ぎました。
その活動は、秋田県だけにとどまらず、全国各地からの依頼を受け、遠く宮崎県の村にまで指導に出向いたのです。
理紀之助は、カリスマ的な指導者になることを望まず、農民ひとりひとりが当事者として意識することを主眼におきました。
最初に取り組むのが、規律ある生活。
毎朝、午前3時に起床。
理紀之助は、木の板を木のカナヅチで叩き、村人を起こすことから一日を始めます。
カーン、カーンと村中に響き渡る、板木の音。
早起きして、農作業に出る前に、藁(わら)を編む仕事をすれば、家計の助けになります。
農民の意識を変え、借金返済のため、みんなで協力。
肥料は共同で購入し、売り上げも均等に配分。
南秋田郡山田村に、山田経済会を立ち上げ、7年かかると言われていた借金返済を、5年で成し遂げました。
この噂が新聞で報じられ、理紀之助は一躍有名になり、全国の貧しい農村から指導の依頼が来るようになったのです。
どこに行っても、彼はまず、午前3時に板木を鳴らします。
ある日、妻が言いました。
「こんな吹雪の朝に、あなたの板木の音など、誰にも聴こえないんじゃないですか?」
しかし、理紀之助は、こう返しました。
「ああ、そうかもしれないね。
でも、私は、この村のひとたちだけのために、木の板を叩いているんじゃないんだよ。
ここから、500里離れた九州のひとにも、あるいは、500年後に生まれるひとたちにも聴こえるように、打ち鳴らしているんだ」
彼は、中途半端を嫌いました。
やるなら、とことんやる。同じことを、何度も続ける。
若い衆に言いました。
「井戸を掘るなら水が湧くまで掘れ」
秋田県の農業の父・石川理紀之助が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/19/2022 • 12 minutes, 12 seconds 第三百七十六話『次の世代につなぐ』-【秋田篇】生物学者 山本時男-
秋田県出身で、その一生をメダカの研究に捧げた、生物学者がいます。
山本時男(やまもと・ときお)。
米代川の中流域、秋田県二ツ井町に生まれた山本は、幼少の頃から自然豊かな河畔で遊び、昆虫や魚など、さまざまな生物への関心を深めていきました。
メダカ博士、あるいはメダカ先生と呼ばれる山本の最大の功績は、「メダカの人為的な性転換実験」。
1950年当時、脊椎動物の性は、遺伝子で決まり、生涯、変わることがないと考えられていました。
しかし、山本は、性ホルモン処理で、オスをメスに、メスをオスに転換させることに成功。
発生の過程のさまざまな要因で、性転換が起こりうることを実証したのです。
この研究は、人間にとって、男性とは何か、女性とは何かを考える、根源的な問題につながるものになりました。
山本のメダカ研究の道のりは、決して平坦なものではありませんでした。
戦争により研究室は全焼。
ほとんどの研究資料を失い、失意のどん底に叩き落される。
それでも山本は、また一からコツコツと、性を分けるものとは何かに向き合い続けたのです。
その信念を裏打ちしていたのは、何だったのでしょうか?
あるむ発行『めだかの学校 山本時男博士と日本のメダカ研究』という本によれば、山本の心の背景には、蓑虫山人(みのむしさんじん)の存在が色濃くあると書かれています。
蓑虫山人とは、蓑虫のように生活用具一式を袋につめ、全国を放浪した、幕末の絵師です。
絵画だけではなく、造園や土器の収集など、その活動は多岐にわたり、孤高の精神と独特のユーモアは、後の世に語り継がれています。
自分が生まれる前、山人が我が家に立ち寄ったことがある、という話を聞いてから、山本は、山人に夢中になりました。
その自由奔放な生き方、他人のために奉仕する精神、そして地位や名誉にこだわらず、次の世代に功績をつなぐ心を、山本は蓑虫山人から学んだのです。
己の研究を貫く信念を伝説の絵師に重ねた、世界に冠たる生物学者・山本時男が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/12/2022 • 12 minutes, 10 seconds 第三百七十五話『とことん好きになる』-【秋田篇】映画監督 黒澤明-
秋田県にゆかりのある、映画界のレジェンドがいます。
黒澤明(くろさわ・あきら)。
黒澤の父は、秋田県仙北郡豊川、現在の大仙市豊川出身で、黒澤は、幼い頃から何度も訪れました。
東京で生まれ育った彼にとって、秋田の大自然は最高の遊び場。
野山を駆け回り、滝に飛び込み、渓流で魚をつかまえる。
まさかその原体験が、あの名作『七人の侍』や『影武者』など、多くの監督作品に投影されることなど、当時の黒澤少年は思ってもみなかったでしょう。
彼が、「自伝のようなもの」と称したエッセイ『蝦蟇の油』によれば、生まれてから最初の記憶も、秋田の実家でした。
1歳の黒澤は、裸で洗面器の中にいます。
なんだか薄暗い場所。
洗面器は両方から傾斜した板の間の真ん中、そのいちばん低いところで、グラグラ揺れています。
それが面白くなって、洗面器のふちをつかみ、自分でゆする、何度もゆする。
やがて、洗面器はくるんとひっくり返ってしまう。
そのときの激しい動揺と、裸で、ぬるぬるした板の間に落ちた感触、そして、見上げた天井にぶら下がる石油ランプの光を生き生きと覚えていました。
『蝦蟇の油』には、他にも幼児期の記憶が記されています。
金網の向こうに、白い服を着たひとたちが、棒っキレを振り回して球を打ったり、転がった球を追いかけたりしている。
これは、住んでいた場所が、父が勤める日本体育大学の前身、日本体育会体操学校の敷地内にあった教職員住宅だったからです。
野球場のネット裏から、野球を見ていたのでしょう。
元・軍人の父は、体操学校に勤め、日本古来の柔道や剣道の普及に貢献、プールを初めて日本につくるなど、日本スポーツ界の発展に寄与した重鎮でした。
その厳格そのものの父が、映画は教育上よくないという風潮に抗い、積極的に家族で映画鑑賞に出かけたことも、のちの世界的な巨匠を生む素地を作りました。
黒澤のデビュー作は、戦争のさなかに作った『姿三四郎』。
「用意ッ、スタート!」
そう初めて声をかけたとき、照れくさい思いがしましたが、二度目から、ただもう面白く、映画監督に夢中になっていきます。
好きだから、もっと学ぶ。もっと学べば、さらに好きになる。
そんな幸福のスパイラルこそ人生の醍醐味であると、彼はインタビューに語っています。
ひとつのシーンも手を抜かない。
出てくる役者さん全てに愛情を注ぐ「世界のクロサワ」、黒澤明が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/5/2022 • 14 minutes, 24 seconds 第三百七十四話『ほんとうを追い求める』-【日本の文豪篇】宮沢賢治-
来年、没後90年を迎える、岩手県出身の文豪がいます。
宮沢賢治(みやざわ・けんじ)。
37年の短い生涯で産み出した作品は多く、詩編およそ800、童話およそ100と言われています。
さらに驚くべきは、詩作だけに時間を費やしたわけではなく、農業、学校の教師、砕石工場の技師など、さまざまな仕事に従事、その合間を縫って、エスペラント語の習得や、オルガンやチェロなどの楽器の練習を続けたのです。
その姿は、名作『セロ弾きのゴーシュ』に投影されています。
セロがうまく弾けずに、楽団長にいつも怒られているゴーシュ。
ヘトヘトで自宅に帰ると、猫や鳥、タヌキが次々やってきて、音階やリズム、音の奏で方を伝授していきます。
ゴーシュは、毎晩、満足に眠ることができません。
それでも、動物たちのおかげで、少しずつ少しずつ上達していくのです。
賢治は、全国どこに旅するときも、大きなトランクを抱えていました。
そのトランクの中には、書き溜めた、あるいは書いたばかりの原稿が、びっしり詰まっていたのです。
最初にトランクいっぱいに原稿を書いたのは、東京・本郷菊坂町でのことでした。
宮沢賢治、25歳にして初めての本格的な上京は、父と信じる宗教の違いによる、家出同然の逃避行。
父からの仕送りは送り返し、昼間は活版の印刷所で働きながら、夜は童話や詩を書き綴りました。
8か月足らずで、妹の病の報を受け、岩手に戻りますが、トランクの中は作品でいっぱいでした。
手紙に、こんなふうに書き記しています。
「私は書いたものを売ろうと折角しています。
それは不真面目だとか真面目だとか云って下さるな。
愉快な愉快な人生です」
生前、賢治が作品で原稿料をもらったものは、童話『雪渡り』ただひとつだけと言われていますが、彼はいつもトランクに詰めた「希望」を抱え、彼なりの「ほんとう」を探す旅を続けました。
生涯、「ほんとう」を追い求めた唯一無二の作家・宮沢賢治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/29/2022 • 12 minutes, 41 seconds 第三百七十三話『心に革命を』-【日本の文豪篇】太宰治-
今年、執筆75周年になる小説『斜陽』を書いた文豪がいます。
太宰治(だざい・おさむ)。
39歳で亡くなる、1年前に書かれたこの作品は、戦後の日本にとっても、そして太宰治にとっても、世間を揺るがすベストセラーになりました。
「斜陽族」という流行語まで生んだ小説には、チェーホフの『桜の園』を思わせる貴族の没落が描かれています。
執筆75周年を記念して、今月末から11月にかけて『鳩のごとく 蛇のごとく 斜陽』という映画が公開されます。
この映画の脚本は、世界的な映画監督・増村保造(ますむら・やすぞう)と、脚本家・白坂依志夫(しらさか・よしお)が、生前残した草稿を元にしています。
日本映画界を牽引した二人の、どうしても映画化したかった積年の想いが、ようやく結実するのです。
太宰は、『斜陽』を東京・三鷹の田辺肉店の離れで完成させました。
三鷹駅周辺には、太宰ゆかりの場所がいくつも点在しています。
よく通った酒屋の跡地には「太宰治文学サロン」があり、旧宅の玄関前にあった百日紅の木も健在です。
2020年12月8日には、三鷹市美術ギャラリー内に「太宰治展示室 三鷹の此の小さい家」が開設されました。
『斜陽』他、初版本や直筆原稿も展示され、かつての太宰宅を訪れたような、不思議なトリップ感を味わうことができます。
太宰が、『斜陽』で書きたかったこと…。
それは本編の中にある、こんな一文に集約されるのかもしれません。
「私は確信したい。人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」
わずか39年の生涯でしたが、太宰は多作でした。
それを可能にした一因に、多くの作家が筆を休めた戦時中も、旺盛に書き続けたことがあげられます。
検閲を逃れるために、古いおとぎ話になぞらえて小説を書いたり、自らの体験をベースに世の中を描いたりしました。
戦争が終わり、日本に革命は起きたか?
起きませんでした。
それどころか、戦時中、声高に語っていた常識は崩壊し、手のひらを返すように、体制におもねる大人が散見されたのです。
太宰は、思いました。
「この世の中は嘘つきばかりだ…そして自分もまた、その中のひとりだ」
心の革命を最後のよりどころにした無頼派・太宰治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/22/2022 • 12 minutes, 23 seconds 第三百七十二話『純粋さを失わない』-【日本の文豪篇】泉鏡花-
その名を配した文学賞が、50周年を迎える文豪がいます。
泉鏡花(いずみ・きょうか)。
先日、50回目の受賞作が発表された泉鏡花文学賞は、金沢市が1973年に制定したもので、地方自治体が主催の文学賞は当時全国で初めてでした。
鏡花は、1873年11月4日、金沢で生まれ、この街を生涯愛し続けました。
ただ、16歳で上京してからは、転居の連続。
湯島、麻布、浅草、神田、本郷、鎌倉と、落ち着きません。
尾崎紅葉(おざき・こうよう)に憧れ、小説家を志し、意気揚々と東京の地にやってきた鏡花は、世間の厳しさに打ちのめされます。
食べるものもない、寝る場所もない。
1年間の放浪生活に見切りをつけるときがきました。
ただ、ひとつだけ心残りがありました。
憧れの大作家・尾崎先生に、せめてひと目会いたい。
明治24年10月19日。もうすぐ18歳になる泉鏡花は、早朝の神楽坂通りを、ひとり歩いていました。
木綿の着物に書生袴、色は白く、痩せていて小柄。
眼鏡は、興奮のためか曇っています。
目指すは、牛込横寺町にある、尾崎紅葉先生の家。
神楽坂を歩いていると、不思議と心が落ち着いていきました。
坂や路地の風景が、ふるさと・金沢に似ていたからかもしれません。
「食べるのにも困るありさまなので、もう故郷に帰ろうと思います。ただ、一度だけ先生のご尊顔を拝したく…」
鏡花がたどたどしくそう話すと、尾崎は言いました。
「おまえも、小説に見込まれたな。都合ができたら、世話をしてやっても良い」
少年・鏡花の純粋な小説への想いが、尾崎の心をうったのです。
玄関先のわずか二畳の部屋をあてがわれ、鏡花は、尾崎邸で暮らすことになります。
魑魅魍魎(ちみもうりょう)、妖怪や化け物、異界との境界線を描く幻想小説を得意とした鏡花ですが、異形の者たちの人間らしさや、純真な人間への救いの手が印象に残ります。
彼は、いかにして自らの純粋さを守ったのでしょうか。
今もなお、多くのファンを魅了してやまない唯一無二の文豪・泉鏡花が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/15/2022 • 12 minutes, 14 seconds 第三百七十一話『天にのっとって、私心を捨てる』-【日本の文豪篇】夏目漱石-
今年、生誕155年を迎える文豪がいます。
夏目漱石(なつめ・そうせき)。
漱石初の本格的記念館「新宿区立漱石山房記念館」は、2017年9月24日に開館し、今年5周年を迎えました。
東京メトロ・早稲田駅1番出口を降り、地上に上がれば、路面に記された黒猫のシルエットが記念館にいざなってくれます。
記念館がある早稲田南町は、漱石が、亡くなるまでの9年間を過ごした場所です。
この地で、『三四郎』『こころ』『道草』など、多くの名作を産み出しました。
家は、和洋折衷の平屋。
当時としてはモダンな、ベランダ式の回廊が家屋を囲っていました。
創作に疲れた漱石は、ベランダの椅子に腰かけ、庭の大きな芭蕉の木や、その下に生える砥草をぼんやり眺めたと言います。
記念館は、このたたずまいを見事に再現。
長さが1メートルにも及ぶ芭蕉の大きな葉が、時代を越えて風に揺れています。
毎週木曜日、漱石の門下生たちは、この漱石山房に集いました。
漱石の家を訪れる若者があまりに多いので、のちに児童文学の父となる鈴木三重吉(すずき・みえきち)が、「先生だって、執筆でお忙しい。訪問は、毎週木曜日の3時以降に決めようじゃないか」と提案したのが始まりとされています。
三重吉自身、神経衰弱を患い、文学を諦めようとしていたところ、漱石が高浜虚子(たかはま・きょし)に紹介。
『ホトトギス』への掲載が認められ、世に出ていったひとりです。
漱石は、門下生たちが議論し、語り合う様子を、ただ黙って聞いていました。
重度の胃潰瘍を抱え、死の恐怖にさらされ、絶望的な孤独の最中にあっても、ただ静かに弟子たちを見守り続けたのです。
天にのっとって私心を捨てること。
いわゆる、「則天去私」の心境に至るまで、どれほど心の血を流したことでしょう。
今もなお読み継がれる、日本を代表する文豪・夏目漱石が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/8/2022 • 12 minutes, 24 seconds 第三百七十話『虚しさから逃げない』-【日本の文豪篇】森鴎外-
今年、生誕160年、没後100年を迎える、明治・大正期の文豪がいます。
森鴎外(もり・おうがい)。
『舞姫』『山椒大夫』『高瀬舟』など、学校の教科書や夏休みの課題図書としてもおなじみの作品群。
ドイツ留学を経て医学の道に進み、医者と小説家の、いわゆる「二刀流」を貫いた唯一無二の賢人です。
晩年は、陸軍軍医のトップとして人事権も掌握、一方でゲーテの『ファウスト』を翻訳し話題になるなど、政治と芸術、双方の知識人として、その名を轟かせていました。
そんな超一流のエリート、森鴎外。
しかしながら、彼の心は、長らく深い闇に包まれていました。
鴎外の書いた随筆『空車(むなぐるま)』には、そんな彼の内面の哀しさが書かれています。
立派な大八車。
しかし、何も積んでいない。
空っぽ。
空の車を、彼は、むなしい車、むなぐるまと読んだのです。
それは、まさに自分自身のことでした。
ドイツで学んだ衛生学。
日本でもっと研究に没頭したいと願っても、「君の研究より、まずはドイツの文献の翻訳をやりたまえ」と言われ、小説を書こうと頑張って出版社にかけあっても、「あなたの小説より、ドイツの優れた小説を翻訳してもらえますか?」と告げられたのです。
やりたいことが、やれない。
いつも理不尽な風に吹かれ、本来の自分から遠ざかってしまう。
そんな虚しさを、彼は小説にぶつけました。
思うように生きられない人生に、意味はあるのか…。
その答えを必死で探したのです。
鴎外の『妄想』という作品の中に、こんな一節があります。
「生まれてから今日まで、自分は何をしているのか。
始終何物かに策うたれ駆られているように学問ということに齷齪している。
自分がしている事は、役者が舞台へ出てある役を勤めているに過ぎないように感ぜられる。
その勤めている役の背後に、別に何物かが存在していなくてはならないように感ぜられる」
苦悩の中、虚しさから逃げなかった文豪・森鴎外が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/1/2022 • 12 minutes, 7 seconds 第三百六十九話『語るな、ひたすら描け!』-【メモリアルイヤー篇】画家 グスタフ・クリムト-
今年、生誕160年を迎える、ウィーン世紀末の画家がいます。
グスタフ・クリムト。
代表作『接吻』は、斬新で、妖艶な作品です。
女性を抱きすくめる男性の顔は見えません。
女性は、首を直角に曲げ、目を閉じ、恍惚の表情を浮かべています。
金色のマントに抱かれているような二人。
まるで、日本の屏風絵のようです。
抽象的な背景が、二人の愛に永遠性を加え、華やかさと静けさが共存しています。
抽象と具体。平面と立体。
二つの相反するものを一枚のキャンバスにとどめることで、クリムトは、誰もやったことがない黄金様式を確立しました。
しかし、そこにたどり着くまで、彼には苦難の壁がいくつも立ちはだかり、そのたびに絶望し、失意のどん底に叩き落されたのです。
その最たる出来事は、ウィーン大学講堂の天井画の依頼でした。
「医学」「哲学」「法学」の3つを表す絵画を描いてほしい。
大学関係者は、誰もが保守的で文化的な絵を想像していました。
ところがクリムトが描いたのは、革新的、前衛的なものでした。
立体や遠近法を無視した構図。
ギリシャ神話からモチーフを得た、どこか官能的な匂いのする女性の絵。
「人間の知性なんて、どうでもいい。そんなものに振り回されるから、ほんとうの愛に気づかないんだ」
クリムトのメッセージを感じとった大学側は、「愚作だ! この天井画は、我が大学にふさわしくない!」とクリムトを全否定したのです。
それでも彼は、一歩もひかず、無言でその仕事から姿を消しました。
「画きたいものを画いてだめなら、何も言うことはない」とでも言うように。
一貫して、クリムトは女性を描き続けました。
自身の運命的な女性、いわゆる、ファム・ファタル。
その手法は、象徴派、印象派、デカダン派、アールヌーボーなど多岐に渡りました。
「誰かにほめられたくて、絵を画くわけではない。ただ、画きたいから画く。だから、言い訳はしない」
そんなシンプルな姿勢は、彼の作品に普遍性をもたらしました。
いまなお、世界中のひとを魅了してやまない孤高の画家、グスタフ・クリムトが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/24/2022 • 12 minutes, 25 seconds 第三百六十八話『なりたい自分になる』-【メモリアルイヤー篇】マリリン・モンロー-
今年、没後60年を迎えた、伝説の女優がいます。
マリリン・モンロー。
『ナイアガラ』『七年目の浮気』『お熱いのがお好き』など、数々のヒット映画に出演し、ハリウッドにその名を刻む一方、私生活では、メジャーリーグのスター選手 ジョー・ディマジオや劇作家 アーサー・ミラーとの結婚や、度重なるスキャンダルで常に話題を集め、マスコミにさらされていました。
彼女の悲劇的な結末は、1962年8月5日に突然やってきます。
36歳の若さでこの世を去ったのです。
死因は、睡眠薬の大量摂取と言われています。
しかし死後も、彼女の存在感は薄れるどころか、さまざまなアートや流行に反映され続けました。
マリリン・モンローについての伝記や研究本は、1000冊を超え、学者、小説家、評論家など、多くの知識人が今も彼女の内面に近づこうとしています。
没後50年のときに公開されたドキュメンタリー映画『マリリン・モンロー 瞳の中の秘密』は、ユマ・サーマンやグレン・クローズといった名女優がモンロー役に扮し、日記や手紙を朗読して、彼女の実像に迫っています。
モンローの生涯は、コンプレックスとの激しい格闘の歴史だと言えるかもしれません。
親の愛を知らない出自。
高校中退という学歴や教養についての劣等感。
「頭の弱いセクシーなブロンド娘」というアイコンから、なかなか逃れられない現実。
名前も髪の色もファッションもメイクも、本来の自分とはかけ離れているという虚無感。
自分が思うように社会と折り合うことができない、孤独。
でも、モンローはどんなに劣等感にさいなまれ、屈辱に涙しても、女優という仕事から逃げませんでした。
「なりたい自分になる」ために、本を読み、考え、自分を磨くためならどんなことにでも挑戦したのです。
「私は、自分がひとりの、かけがえのない人間であることを見つけたい。
多くのひとは、それを見つけずに生涯を終えてしまう。
私は、自分自身に会うために、女優を選んだ」
持て余すほどの繊細な感受性を抱き、短い生涯をかけぬけた伝説のムービー・スター、マリリン・モンローが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/17/2022 • 12 minutes, 6 seconds 第三百六十七話『明日はもっといいものをつくろう』-【メモリアルイヤー篇】建築家 アントニ・ガウディ -
今年、生誕170年を迎えた、スペインが誇る大建築家がいます。
アントニ・ガウディ。
世界遺産がひときわ多いスペインにあって、「アントニ・ガウディの作品群」という個人名で登録されている、唯一無二のレジェンドです。
最も有名な建築物は、「サグラダ・ファミリア」。
今からおよそ140年前に着工された、この偉大な作品は、いまだ完成していません。
建築にたずさわるスタッフに、毎日、ガウディは言いました。
「諸君! 明日はもっといいものをつくろうじゃないか!」
決して妥協しない彼の言動は、ときに大きな軋轢を生みましたが、ガウディは一歩もひきませんでした。
バルセロナの街に突如現れた、ある種、異様な建物。
それは、建築というより彫刻に近い、芸術作品のようです。
ガウディは、言いました。
「建築は光をあやつり、彫刻は光と遊ぶ」
サグラダ・ファミリアの内部に入れば、その言葉が理解できます。
そこに踊る光の粒は、細かな彫刻が演出した無数の穴。
天空に突き出す尖塔は、まるで未来に向けたメッセージのように、私たちの心を鼓舞してくれます。
幼い頃のガウディは、リウマチに苦しめられ、痛みとの格闘でした。
痛みは、結局誰とも分かち合えないことを知った彼は、幼心に悟るのです。
「明日はきっと少しはよくなっているはずだ。そう信じることで、なんとか今を乗り切っていこう」
病気の療養のため、母から引き離され、田舎に預けられたときも、「明日はきっとお母さんが迎えに来てくれる、きっと来てくれる」
そう願いながら、毎日を過ごしたと言います。
明日、明日、明日。
幼い頃から、ガウディは、明日に夢を見ることで生きてきたのです。
今も建築界に影響を与え続けるカタルーニャの至宝、アントニ・ガウディが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/10/2022 • 12 minutes, 9 seconds 第三百六十六話『過去など焼き捨てればいい』-【メモリアルイヤー篇】音楽家 アストル・ピアソラ-
今年、没後30年を迎えた、アルゼンチン出身のタンゴの革命家がいます。
アストル・ピアソラ。
幼い頃からバンドネオンを弾くことが大好きだったピアソラは、4歳から15歳までニューヨークに暮らします。
再びアルゼンチンに戻ってきて、たまたまラジオから流れていたタンゴに魅了されました。
彼の言葉を借りれば、「タンゴと恋に落ちた」。
作曲家としても優れていたピアソラは、踊るためのタンゴの概念そのものを崩し、クラシックやジャズとの融合をはかりました。
従来のタンゴを愛していたブエノスアイレスのひとたちから、「こんなのは、タンゴじゃない!」と激しい抵抗を受けても、ピアソラは、自分の革命をやめませんでした。
苛立った一部の過激な若者たちは、ピアソラの家に石を投げ、演奏を妨害したといいます。
移民の街、ブエノスアイレスにとって、自分たちが作り上げたタンゴという文化は、多様性をつなぐ、大切なアイデンティティだったのです。
ピアソラは、晩年、バンドネオン奏者であることにこだわり続けました。
楽器の重さは10キロにも及び、一晩の演奏で2キロ痩せることもある、過酷なパフォーマンス。
ドキュメンタリー映画『ピアソラ 永遠のリベルタンゴ』の中で、娘に「バンドネオン奏者をやめて、サメを釣る毎日をおくったら?」と聞かれ、「バンドネオンもサメ釣りも、どちらも体力勝負。サメを釣る体力があるんだったら、私はバンドネオンを選ぶよ」と答えました。
彼は、バンドネオンという楽器をたずさえ、音楽にさまざまな改革、革命を起こしましたが、過去を振り返ることを嫌いました。
家族とのバーベキューで、自分の楽譜を燃やす父に、息子がたずねます。
「せっかく作曲したものを、どうして燃やしてしまうの?」
ピアソラは、こう答えました。
「いいか、過去を振り返るな! 昨日、成したことは、ゴミだ!」
ジャンルを超えた伝説の音楽家・アストル・ピアソラが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/3/2022 • 12 minutes, 5 seconds 第三百六十五話『人生に絶望しない』-【愛知篇】小説家 二葉亭四迷-
愛知県名古屋市で幼少期を過ごした、近代小説の先駆者がいます。
二葉亭四迷(ふたばてい・しめい)。
二葉亭四迷は、ペンネーム。
本名は、長谷川辰之助(はせがわ・たつのすけ)。
ペンネームの由来は、自分に対するダメ出し、「くたばってしまえ」だと言われています。
二葉亭は、小説家、翻訳家、政治家、ジャーナリストなど、さまざまな職にトライしますが、己への厳しさと不運が重なり、どのジャンルでも長続きしません。
自身、成功することはなかったと振り返っていますが、小説家として、当時の文壇やのちの作家たちに、多大な影響を与える作品を残しました。
近代小説の幕開きと評される『浮雲』。
この小説は、未完に終わっていますが、それまでの文学と一線を画する文体で書かれています。
すなわち、言文一致体。
たとえば、『浮雲』のこんな一節。
…文三には昨日お勢が「貴君もお出なさるか」ト尋ねた時、行かぬと答えたら、「ヘーそうですか」ト平気で澄まして落着払ッていたのが面白からぬ。
文三の心持では、成ろう事なら、行けと勧めて貰いたかッた。
それでも尚お強情を張ッて行かなければ、「貴君と御一所でなきゃア私も罷しましょう」とか何とか言て貰いたかッた…
言文一致とは、書き言葉ではなく、話し言葉で綴られる文体。
このまま読んでも、日常会話となんら変わらない話法なのです。
明治時代にあっては、小説とは、基本、文語体。
「へーそうですか」などというセリフが書かれることはありませんでした。
文壇には革命だと思われた挑戦も、二葉亭の中では完全なる失敗作。完成を待たず、筆を折ってしまったのです。
その後は、ロシア文学の学者や新聞の記者など、志をもって臨みますが、ことごとくうまくいきません。
ある程度まで突き進むと、飽きてしまったり、壁にぶち当たり、嫌になってしまうのです。
名前通りの、迷いの多い人生。
しかし、彼はどんなふうに転がっても、この不条理極まりない人生をどこかで笑っていたのです。
「まあ、どう生きようが、しょせん、一回きりの人生だ」
絶えず動き続け、もがき続けた明治の文豪・二葉亭四迷が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/27/2022 • 13 minutes, 25 seconds 第三百六十四話『工夫をする心を持つ』-【愛知篇】元プロ野球選手 山内一弘-
愛知県一宮市出身の、伝説のプロ野球選手がいます。
山内一弘(やまうち・かずひろ)。
現役時代は、毎日オリオンズ、阪神タイガース、広島東洋カープでプレーし、「打撃の職人」、「シュート打ちの名人」、「オールスター男」などの異名を持ったレジェンドです。
19年間の選手人生で、打点王4回、首位打者1回、ホームラン王2回を獲得。
引退後は、巨人や阪神でコーチを歴任。
ロッテオリオンズ、中日ドラゴンズで監督を務め、2002年、野球殿堂入りしました。
山内の名が再び注目を集めたのは、昨年夏の文春オンラインの記事でした。
文春野球コラムでは、山内と、阪神の若きスラッガー・佐藤輝明(さとう・てるあき)との共通点が論じられました。
二人とも外野手で、背番号「8」。
出身高校は、決して野球強豪校ではなく、打率、本塁打、盗塁など、全体のバランスが酷似しています。
現役の4番打者、佐藤の成績から、あらためて山内の凄さが再評価されたのです。
さらに山内の注目すべきは、RCWIN。
RCWINとは、勝利数を基準として打撃貢献を測る指標です。
平均的な打者と比べて、打撃でチームの勝利数をいくつ増やしたかを示します。
山内はその値が、王貞治、張本勲、長嶋茂雄に次いで、歴代第4位なのです。
この成績は、彼の非凡な努力の賜物だと言われています。
山内は、自分が天才でも野球エリートでもないことを、早い段階で認識しました。
それでも大好きな野球で生きていくためには、どうしたらいいか。
同僚が遊ぶ時間、飲みにいく時間を、全て自主練に捧げたのです。
「腕で打たず、腰で打つ」
たったひとことで済んでしまう打撃の神髄のために、手を血だらけにしてバットを振り続けました。
「平凡な人間が非凡なことをするには、ひとが休んでいる間、練習するしかない」
生涯、最高のバッティングのために練習と研究を欠かさなかった賢人・山内一弘が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/20/2022 • 13 minutes, 1 second 第三百六十三話『楽しむことを忘れない』-【愛知篇】物理学者 小柴昌俊-
愛知県豊橋市に生まれた、物理学者のレジェンドがいます。
小柴昌俊(こしば・まさとし)。
星の終末期に起こる現象「超新星爆発」によって放たれたニュートリノを、小柴は世界で初めて、実験装置『カミオカンデ』で観測することを実現。
2002年、ノーベル物理学賞を受賞しました。
ニュートリノという小さな粒は、今、この瞬間も宇宙から降り注いでいますが、あまりに小さな粒子なので、電気や磁力には反応せず、私たちの体を通り抜けています。
小柴は、この原子よりも小さな素粒子の観測に情熱を傾けました。
ニュートリノを観測できれば、素粒子物理学の世界で予言された陽子崩壊が検出できる。
岐阜県飛騨市にある神岡鉱山に、地下1000メートルの観測装置をつくり、「超新星爆発で大量のニュートリノが宇宙に放出される」という仮説を証明しようとしたのです。
この小柴が開拓した「ニュートリノ天文学」は、1987年2月23日、奇跡のときを迎えます。
地球からおよそ17万光年離れた大マゼラン星雲で超新星爆発が起こり、見事、その観測に成功したのです。
小柴の研究者としての人生は、決して平坦ではありませんでした。
自らを「落ちこぼれ」と称する彼は、いくつかの障害をものともせず、ここまで来られたのはなぜかと後輩に聞かれると、こう答えたと言います。
「なんでも能動的に、なんでも楽しもうとしたからだよ」
科学は、楽しいものじゃない。
だから私の講演を、ただ、楽しいだろうと思って受け身で聴いていても、ちっとも楽しくない。
楽しむということ。
なんでも、楽しもうと思ったひとだけが、その道を歩き続けることができる。そう説いたのです。
日本物理学会に光を灯した偉人・小柴昌俊が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/13/2022 • 11 minutes, 45 seconds 第三百六十二話『痛みに向き合う』-【愛知篇】画家 フリーダ・カーロ-
愛知県 名古屋市美術館に、『死の仮面を被った少女』という絵が所蔵されています。
この絵を画いた世界的に有名な画家の名前は、フリーダ・カーロ。
彼女の作品を所蔵しているのは、日本で名古屋市美術館だけと言われています。
『死の仮面を被った少女』は、奇妙な絵画です。
縦長の絵の左側には、ピンクのワンピースを着た少女が、マリーゴールドを一輪持って立っています。
ただ、この少女は髑髏(どくろ)のような死の仮面を被っていて、彼女の傍らには、虎のお面が置かれているのです。
メキシコでは、マリーゴールドは死者を無事に導く花として墓地に供えられ、死の仮面は「死者の日」の祭礼に用いられるもの。
さらに虎のお面は、子どもを魑魅魍魎(ちみもうりょう)から守る、魔除けとして使われています。
フリーダ・カーロは、流産で亡くした我が子への思いを、この絵に託しました。
事故や病で著しく損傷した、自分の身体。
そのせいで、子どもを亡くしてしまった…。
その失意と無念は、彼女の心に耐えきれぬ痛みを与えました。
フリーダの47年の人生は、まさに、痛みとの格闘でした。
幼い頃の病、さらには交通事故による脊髄や骨盤へのダメージ。
生涯で30回を超える手術を重ね、絵画制作のほとんどを、病床や、椅子に座ったままで続けたのです。
今年6月末から7月にかけて、日本のオリジナルミュージカル『フリーダ・カーロ -折れた支柱-』が上演されました。
連日満員御礼で話題になりましたが、今も、彼女の絵画、彼女の生き方は、多くのファンを魅了してやみません。
没後68年を迎えても、なぜ、彼女がこれほどまで支持されるのか。
それは彼女が、どんな時も痛みと向き合い、自らの痛みから逃げなかったからではないでしょうか。
メキシコが生んだ唯一無二の画家、フリーダ・カーロが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/6/2022 • 13 minutes, 18 seconds 第三百六十一話『汝の立つ所を深く掘れ』-【沖縄篇】民俗学者 伊波普猷-
今年没後75年を迎える、沖縄学の父がいます。
伊波普猷(いは・ふゆう)。
彼は、言語・文学・歴史・民俗など、あらゆる角度から、自分のふるさと、沖縄を研究し、沖縄のひとたちに、「誇りを持とう」と呼びかけました。
言語学を学んでいた東京帝国大学時代に発表した「浦添考」は、沖縄の浦添が、首里以前に都であったことを始めて説いた優れた論文として、注目されました。
国の指定史跡に、一個人の墓が建立されるのは珍しいことですが、浦添城跡には、伊波の墓があります。
そこには、彼の功績がこんなふうに刻まれています。
「帰郷して県立図書館長となった伊波は、歴史研究のかたわら、琉球処分後の沖縄差別で自信を失った県民に自信と誇りを回復する啓蒙活動を行います。
大正15年に再び上京しますが、戦争で米軍に占領された沖縄の行く末を案じつつ、東京で亡くなりました。
その後、伊波の研究にゆかりの深い浦添の地に墓が作られ、永遠の深い眠りについています」
伊波の多大な功績のひとつに、『おもろさうし』という琉球の古き歌を集めた歌謡集の研究があります。
それは、『万葉集』にも『古事記』にも通じる、琉球文化をひもとく、大切なテキストでした。
彼は、琉球の言葉を守りぬく決意を胸に、亡くなる寸前まで、沖縄研究に一生を捧げたのです。
あるとき、「先生は、どうしてそこまで沖縄のことに集中できるのですか?」と聞かれ、彼はこう答えたという。
「じゃあ、逆に尋ねるが、どうしてみんな、自分の出自たるふるさとを研究しないのかね? 自分が生まれ育った場所を愛せないひとが、どこか他の土地を愛せるとは、私は思えない」
伊波は、ドイツの哲学者・ニーチェのこんな言葉を、座右の銘にしていました。
「汝の立つ所を深く掘れ 其処には泉あり」
沖縄を愛し、沖縄人としての誇りを失わなかった賢人、伊波普猷が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/30/2022 • 12 minutes, 43 seconds 第三百六十話『不屈の精神で立ち向かう』-【沖縄篇】政治家 瀬長亀次郎-
沖縄の祖国復帰運動に身を捧げた、伝説の政治家がいます。
瀬長亀次郎(せなが・かめじろう)。
那覇市長も務めた瀬長は、生涯を通して沖縄復帰に尽力しました。
投獄されても、資金を断たれても、市長を追放されても、彼は決してくじけませんでした。
2013年、沖縄県那覇市にできた彼の資料館の名称には、瀬長が大好きだった言葉がつけられています。
その名は『不屈館』。
文字通り、瀬長は、どんな障害にあっても、不屈の精神でアメリカ政府に抵抗し、「アメリカが最も恐れた男」として語り継がれています。
『不屈館』の特長は、瀬長の功績を讃えるためだけの資料館ではなく、彼を愛し彼を支えた民衆の歩みが学べるところにあります。
多くの県民から寄せられた膨大な資料を収集。
アメリカ統治下の貴重な戦後史が展示されています。
県内外の平和学習の場にもなっている『不屈館』には、平和を願った瀬長の強い思いが宿っているのです。
行政の力を借りず、有志の支援だけで運営している『不屈館』にとって、いつ終わるとも知れぬコロナ禍の打撃は計り知れません。
『不屈館』の館長が呼びかけたクラウドファンディングは、1か月も経たぬ間に、目標を達成。
たくさんの支援者による激励の手紙、毎日なり続ける電話に、館のスタッフは目頭を熱くしたと言います。
「ここに、民衆の力がある、まずは声をあげることです」
館内に展示された瀬長の写真が、そう語っているようでした。
SNSのおかげで若い人たちの来館が増え、彼らは瀬長の生きざまを通して、戦後の日本を、沖縄の歴史を知っていくのです。
今年、沖縄復帰50周年を迎え、北海道の苫小牧の映画館では、5年前に公開された瀬長のドキュメンタリー映画が上映されました。
この映画を監督したのは、TBSのキャスターとしても有名な、佐古忠彦(さこ・ただひこ)。
彼は映画を書籍化しました。タイトルは『「米軍が恐れた不屈の男」瀬長亀次郎の生涯』。
佐古は、瀬長のこんな言葉を大切にしています。
「大地にしっかりと根をおろしたガジュマルは、どんな嵐にさらされてもびくともしない」
沖縄の復帰と平和な社会の実現に命を捧げた闘士・瀬長亀次郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/23/2022 • 13 minutes, 39 seconds 第三百五十九話『プライドは己の素手でつかみとる』-【沖縄篇】起業家 照屋敏子-
沖縄県の最南端、沖縄戦の終戦地で知られる糸満市で生まれた、伝説の女性がいます。
照屋敏子(てるや・としこ)。
戦後、返還前の沖縄にあって、沖縄人のプライドの復権と独立を掲げ、数々の事業を起こした起業家です。
ジャーナリストの大家・大宅壮一(おおや・そういち)は、自身のルポルタージュの中で、照屋をこう書き記しています。
「彼女の生きる道はどこまでも海だ。
彼女は見るからに精悍で、“海の女豹”といった感じである」。
芥川賞作家・火野葦平(ひの・あしへい)は、彼女をモデルに小説を書き、脚本家で作家の高木凛(たかぎ・りん)は、綿密な取材と卓越した文章力で、照屋敏子の伝記を書きあげました。
そのルポルタージュのタイトルは、『沖縄独立を夢見た伝説の女傑 照屋敏子』。
この作品は、第14回小学館ノンフィクション大賞を受賞しました。
照屋の何が、作家たちの心を揺さぶるのでしょうか。
照屋敏子の人生は、困難にまみれ、逆境に次ぐ、逆境。
それでも彼女は、へこたれません。
一度たりとも、足を止めません。
それはなぜか?
沖縄に生まれた誇り、プライドがあったから。
人間は生まれた時から、己が己の尊厳を守らないと生きていけないと、知っていたから。
激しさのあまり、彼女は、いつも多くのバッシングを受けます。
それでも彼女は前に進む。
ひとには、言わせておけばいい。
ひとの顔色ばかりうかがっていては、自分の人生が台無しになってしまうことを、知っていたのです。
照屋は、ことあるごとに、こんな言葉を吐きました。
「私の正義感が黙っていない!」
幼くして両親を亡くした彼女にとって、全ての基準は、自らの正義感でした。
これを見過ごして、私は後悔しないか?
ここを逃げ去って、自分はおてんとうさまに顔を上げていられるか。
「沖縄に“男”がいる」と言われ、女海賊の異名までつけられた糸満市の巨人! 照屋敏子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/16/2022 • 13 minutes, 29 seconds 第三百五十八話『他人に勝たなくていい』-【沖縄篇】武術家 松村宗棍-
琉球王国時代に活躍した、最も偉大な空手の達人がいます。
松村宗棍(まつむら・そうこん)。
今日の、空手の流派・首里手系統のほとんどは、今も松村の流れを継いでいると言われています。
自身も空手有段者の作家・今野敏(こんの・びん)は、渾身の小説『宗棍』で、松村宗棍の生涯を描き切っています。
2020年東京オリンピックで追加種目として正式採用された空手が、実は琉球王国、沖縄が発祥の場所で、その後、中国武術と融合し、全国、あるいは世界に広まったことは意外に知られていません。
東京オリンピック、空手の形の部門で、見事金メダルを獲得したのは、沖縄出身の喜友名諒(きゆな・りょう)でした。
彼の圧倒的な技は世界を魅了し、空手のルーツである沖縄代表として躍動しました。
形とは、全日本空手道一友会によれば、「空手道を学ぶ者の己の表現」。
身体の鍛錬と内面的な精神統一からなる、究極的な自己防御の姿勢なのです。
これこそ、松村が求めた真の姿でした。
強くなりたい、だから空手を習う。
そんな若者を松村は制します。
「空手とは、本来、戦って勝つことではない、戦わずして勝つ。
あるいは、相手を傷つけず、自分も傷つかず、やり過ごす。
空手は人生と同じく、誰かに勝つことが目的ではないのです」
強さとは、ひとに誇るものでも、他人を叩くためのものでもない。
自分の中に強さを蓄えておくのは、むしろ戦わないためであると、松村は説きます。
だからこそ、空手の形は、美しく、荘厳で清々しいのです。
琉球国王の三代にわたるボディガードとして仕え、後進の教育に半生を捧げた、武術界のレジェンド・松村宗棍(まつむら・そうこん)が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/9/2022 • 11 minutes, 34 seconds 第三百五十七話『信じることをやめない』-【沖縄篇】脚本家 金城哲夫-
『ウルトラマン』をこの世に送り出した、沖縄出身の脚本家がいます。
金城哲夫(きんじょう・てつお)。
1963年に設立された円谷プロに入った金城は、『ウルトラQ』、『ウルトラマン』、『ウルトラセブン』などの脚本を担当しただけではなく、企画文芸室のリーダーとして、企画立案や脚本家へのプロットの発注、プロデューサーとしての予算管理など、その仕事は多岐にわたり、黎明期の特撮番組の発展に寄与しました。
出身地、沖縄県南風原にある彼の実家は、料亭を営んでいますが、離れの二階にある金城の書斎は「金城哲夫資料館」として、そのまま残っており、今もファンの聖地として訪れるひとが絶えません。
また、「金城哲夫ウェブ資料館」も立ち上がり、金城ゆかりの関係者のインタビューを見ることができます。
特に、彼と苦楽を共にした同郷の脚本家・上原正三(うえはら・しょうぞう)のインタビューは、必見です。
「ウルトラシリーズ」を牽引した脚本家に、二人の沖縄出身者がいたことは、作品の深みや重みに大きく影響を及ぼしていると言えるかもしれません。
金城が東京の大学に進学し、円谷プロで働いた頃、沖縄はまだ日本に返還されていませんでした。
アメリカ軍の基地が島の2割を浸食している我がふるさと。
ウチナーンチュとヤマトンチュの間で揺れる思いは、地球人ではない宇宙人・ウルトラマンが、地球人のために必死で戦う姿に投影されていきます。
自分のアイデンティティは、何か、どこにあるのか。
金城は、その問いにいつも立ち戻り、それが創作の原点になっていったのです。
勧善懲悪ではない世界。
地球にやってきた怪獣たちにも、ふるさとがあり、地球を攻撃する意味がある。
子ども向けの特撮ドラマが哀しみにあふれるとき、思うように視聴率は伸びませんでしたが、今もなお、多くのひとの心を動かします。
人間と人間が心の底から信じあう世界を求め、描き続けた孤高の脚本家・金城哲夫が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/2/2022 • 12 minutes, 38 seconds 第三百五十六話『好きなものを手放さない』-【奈良篇】画家 上村松園-
明治、大正、昭和と、美人画を書き続けた女流日本画家がいます。
上村松園(うえむら・しょうえん)。
毛筆で繊細に描かれた、気品ある美人画は、今も人気が高く、今年開催された山種美術館での企画展には、あらゆる世代の多くのひとが訪れ、「美人画の大家」という称号が健在であることを証明しました。
奈良市にある「松伯美術館」は、上村松園、その息子の松篁(しょうこう)、孫の淳之(あつし)の三世代にわたる作品が、保管・展示されている稀有な美術館です。
現在は、「熱帯への旅―極彩色の楽園を求めて―上村松篁展」が開催されています。
上村松園が画家を志した封建的な明治時代は、女性が画家になって身を立てるというのは、かなり難しいことでした。
男性ですら、絵で成功することなど、至難の業。
保守的な画壇にあって、女性が絵で食べていくなど、到底かなうはずのない夢のまた夢だったのです。
それでも、松園は諦めませんでした。
男性の中にたったひとり混じり、どんなに陰口をたたかれ、時には罵詈雑言を受けても、絵を画くことを手放さなかったのです。
弱冠15歳の時、第3回内国勧業博覧会で一等褒状を受賞。
上野公園に集まったおよそ100万人のひとたちが絶賛、しかもその作品を、イギリス皇太子コノート殿下がお買い上げになったことで、さらに話題になりました。
松園の波瀾万丈の生涯は、多くの作家の創作欲を刺激し、宮尾登美子は、松園をモデルにしたとされる『序の舞』で、第17回吉川英治文学賞を受賞。
映画化もされ、松園ブームを加速させました。
彼女の人生の、何が私たちの心をうつのでしょうか。
「西の松園、東の鏑木清方(かぶらき・きよかた)」と称された美人画のレジェンド・上村松園が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/25/2022 • 12 minutes, 26 seconds 第三百五十五話『心の右肩を上げて歩く』-【奈良篇】映画監督 溝口健二-
たびたび奈良を撮影場所に選んだ、日本映画界のレジェンドがいます。
溝口健二(みぞぐち・けんじ)。
1952年、ヴェネチア国際映画祭で国際賞を受賞した『西鶴一代女』も、冒頭の荒れた寺は奈良で撮影されました。
時は江戸時代。モノクロの画面に映しだされる、奈良郊外の寺。
そこで、つかの間の暖をとるのは、お客にあぶれた娼婦たちです。
その中のひとり、田中絹代扮するお春は、ふらふらと羅漢堂に入り、頭上高くまで並んだ五百羅漢を見つめます。
羅漢像に、かつての男たちの面影を重ねたお春は、齢・五十になった自分のこれまでの人生を振り返るのです。
封建制度に抗って生きる女性の心の行方が、流麗なカメラワークで描かれていきます。
溝口健二の真骨頂と言えば、「ワンシーン・ワンカット」。
長回しは、出演俳優たちへの最大のプレッシャーになり、現場の緊張感は、はかりしれません。
でも溝口は、一回きりの真剣勝負、長回しにこだわりました。
一切の妥協なく、人間の本質をえぐる気迫に、俳優やスタッフは圧倒されたといいます。
溝口の映画にいち早く衝撃を受け、影響を受けた映画監督に、ジャン=リュック・ゴダールがいます。
彼は、インタビュアーに「好きな映画監督を3人あげてください」と聞かれ、こう答えました。
「ミゾグチ、ミゾグチ、ミゾグチ」。
溝口健二と数多くの映画で組んだ脚本家・依田義賢(よだ・よしかた)は、執拗なダメ出しもめげず、溝口作品を支え続けました。
依田の著書『溝口健二の人と芸術』には、カリスマ性にあふれた映画監督の、人間臭くも哀しい一面が綴られています。
溝口は、ひとになめられないように、幼い頃から、右肩を上げて歩く癖があったそうです。
どんなことがあっても、自分が納得するところまで行きたい。
そのためには、自分を大きく見せることも、自分の弱さを隠すことも、必要だったのかもしれません。
小津安二郎、黒澤明と並ぶ、日本の名監督・溝口健二が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/18/2022 • 12 minutes, 27 seconds 第三百五十四話『己の本分を守りぬく』-【奈良篇】作曲家 セルゲイ・プロコフィエフ-
奈良に滞在し、鹿と戯れ、日本を味わった、偉大な作曲家がいます。
セルゲイ・プロコフィエフ。
現在のウクライナ、ドネツク州の近く、ドニプロペトロウシクで生まれた彼をたたえ、ドネツク国際空港は「セルゲイ・プロコフィエフ国際空港」と呼ばれています。
彼の人生は、戦争や革命など時代の波に翻弄され、まさに波乱万丈。
音楽的にも、新しい嵐が吹き荒れるカオスの中、ひたすら自分の音楽に向き合い、名曲を世に送り出してきたのです。
1918年、27歳の時に日本を訪れたのも、ロシア革命による混乱を避け、アメリカに向かう道中のことでした。
ウラジオストクから日本に入り、アメリカ行きの船を待つ間のおよそ2か月。
ピアニストでもあった彼は、東京で2回、横浜で1回、演奏会を行い、大阪、京都を訪ね、奈良にも立ち寄ったのです。
幼い頃から筆まめで、なんでもメモをとり、文章にして残すのを常としていた彼は、奈良での出来事も日記にしるしています。
奈良公園で出会ったたくさんの鹿について、こんな記述があります。
「公園には神聖なる鹿が歩き回っている。
ひとによくなついていて、パンをあげると、ものすごい勢いでたくさん寄ってきて、あっという間に周りを取り囲まれた」
日本滞在中に聴いた『越後獅子』が、プロコフィエフの代表的な楽曲『ピアノ協奏曲第3番』のヒントになったという説があるそうですが、真偽のほどはわかっていません。
ただ、異国をめぐるその理由が、意に沿わないものであったにせよ、全ての経験、体験が、彼の作曲に影響を与えたことは、少なからずあったに違いありません。
時代の波は、彼の最期においても、皮肉な演出をたくらみます。
61歳でプロコフィエフが息をひきとったその同じ日に、ソビエト最高の指導者と言われたスターリンが、74歳で亡くなったのです。
その時間差は、わずか3時間と言われています。
スターリンの死を悼む多くの群衆。
その中にあって、プロコフィエフの葬儀はひっそりと行われ、参列者はおよそ30人ほどでした。
その中には、共に新しい音楽を求めた旧友、ショスタコーヴィチの姿もありました。
どんな状況にあっても自らの本分を守り抜いた音楽家・プロコフィエフが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/11/2022 • 13 minutes, 8 seconds 第三百五十三話『他人を敬う心を持つ』-【奈良篇】作家 武者小路実篤-
奈良県に移り住み、『新しき村』という理想郷を広めようとした文豪がいます。
武者小路実篤(むしゃのこうじ・さねあつ)。
白樺派の同志、志賀直哉から奈良に住まないかと誘われた彼は、40歳のとき、東大寺大仏殿の西の一角、白壁のたたずまいが美しい水門町にやってきます。
志賀はこんな手紙を書きました。
「大体こんな家だ、手入れはきれいにしてある、とに角ここにきめては如何か」。
奈良に住んだ武者小路は、さっそく『新しき村』の友人に、『奈良通信』と題して、文章をしたためました。
「一言でいうと奈良は気に入っている。
実際散歩の好きな自分には奈良はいい処だ。
川も海もないが、なんとなく落ち着いている。
奈良でいいのは、なんといっても古美術であろう。
くわしいことはわからないが、東洋的な内面的な沈黙的な深さでは、之以上ゆくのはむづかしいと思う」。
自然と社会の共存。
みんながお互いを尊敬し、尊重するユートピア『新しき村』の実現に奔走していた彼にとって奈良は、豊かな自然と芸術性に優れた、理想の地だったのでしょう。
彼は『新しき村』奈良支部を創設。
若き文学青年を集め、激論をかわしたり、画家や詩人を自宅に招き、発表の場を作ったり、地域に文化を根付かせるための活動に、寸暇を惜しみませんでした。
ゲーテ祭、トルストイのお祭り、講演会や展覧会や朗読会を積極的に開催。
1年ほどの奈良での生活で、若者たちに多大な影響を与えたのです。
武者小路が掲げた思想は、「自他共生」。
自分があり、他人があって、共に成長し生きることで社会は発展していく、という考えです。
彼は常々、言っていました。
「人間は自分のために生きていると考えるのはつまらない」。
『友情』『真理先生』『お目出たき人』で知られる作家・武者小路実篤が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/4/2022 • 13 minutes, 31 seconds 第三百五十二話『己の眼差しを守り抜く』-【山口篇】洋画家 香月泰男-
山口県出身の、昭和を代表する洋画家がいます。
香月泰男(かづき・やすお)。
生誕110年を迎える今年、記念展が全国を巡回しています。
宮城、新潟、神奈川、東京、そして現在は栃木県・足利市立美術館。
戦後の日本美術界に多大な影響を与えた作家の足跡を、年代順に辿ることができます。
香月の代表作といえば、自身の戦争や抑留体験を描いた、「シベリア・シリーズ」。
全57点のキャンバスに彼が刻んだのは、戦争の残忍さや、日常が破壊され、生死の境を生き惑う人間の哀しさ、怒り、死者への鎮魂、そして平和への祈りです。
黒い画面に、まるで骸骨のように白く浮かび上がる人々の顔、顔、顔。
およそ2年の厳しいシベリア抑留から引き揚げてきた香月は、しばらく、日常の絵しか画けませんでした。
親子の情愛、台所の風景、ふるさとの植物たち。
シベリアでの体験は、決して家族に語ることはなかったそうです。
ただ、あるとき、息子が学校の工作でグライダーを作ろうとしたとき、静かにこう言って止めました。
「おまえたちがそんなものを作るから、また戦争になる」。
香月は、その生涯のほとんどを、ふるさと、三隅町、現在の山口県長門市で過ごしました。
「ここが、私の地球だ」と語り、三隅の自然や人々を愛したのです。
三隅にある「香月泰男美術館」には、彼が戦時中も決して手放さなかった絵具箱が展示されています。
彼はどんな時も、絵具箱を抱え、いつでも絵が画けるように、対象を見つめ続けました。
その眼差しは、常に優しく、一方で、常に冷静。
人物や植物の奥底にある「心」を映し出そうとしたのです。
彼の妻が書いた珠玉のエッセイ『夫の右手 ~画家・香月泰男に寄り添って』には、長年連れ添った妻だからこそ知りえる、香月の素顔が綴られています。
香月は、よくこう言っていたそうです。
「わしは いらん者じゃった」
自分はこの世にいらないもの、そんな孤独と絶望が、彼の視線を研ぎ澄まし、日常の中のささやかな愛を見つけ出していったのです。
62年の生涯を全て絵に捧げたレジェンド・香月泰男が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/28/2022 • 14 minutes, 28 seconds 第三百五十一話『聞くチカラを取り戻す』-【山口篇】民俗学者 宮本常一-
40年に渡って日本全国をくまなく歩き、民間の伝承を「生活」という観点から後世に伝えようとした、民俗学者がいます。
宮本常一(みやもと・つねいち)。
宮本は「暮らしの中の工夫こそが文化」と考え、農村漁村を訪ね、失われていく民具や、生活の中に残る言い伝えを、丁寧に掘り起こしていったのです。
彼のアプローチは至ってシンプル。
とにかく聞くこと。
地域の老人、先人の話に、ひたすら耳を傾けました。
そのフィールドワークを書き記したエッセイは、現在の旅の形、観光業にも影響を与え続け、多くのファンの支持を集めています。
明治29年6月15日、三陸地方を襲った大きな津波。
宮本は、ある村のひとたちは、みな高台に逃げ、全員助かったと、老人に聞きました。
なぜ、逃げたか。
それは、沖の方で、ノーンノーンという音がしたから。
昔から、その音がしたら危ない、という伝承があったのです。
静けさの中では、自然の音を聴くことができる。
さらに人間同志の心も、読み取ることができる。
宮本は思いました。
人間は、生活とともにあった自然界の音を、そして、人間同志の何気ない言葉の響きを、聞き分けるチカラを失ってしまったのではないか…。
彼は、全国を歩きながら、生活に根差したたくさんの物語、言い伝えを聞くことで、自らの、そして現代に生きる我々が早々に捨て去ったものを、取り戻そうとしたのです。
瀬戸内海に浮かぶ、屋代島で生まれた宮本は、農家、郵便局員、学校の教師など、職を転々としますが、ひとつだけ、心に決めていたことがありました。
それは、「誰かに必要とされる人間になること」。
おまえは、邪魔だと言われないように、存在理由を意識する。
貧困や病気と闘いながら、自分なりに生涯をかける仕事に出会えたのは、32歳のときでした。
聞くチカラで、日本人の生活誌をまとめあげた賢人・宮本常一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/21/2022 • 12 minutes, 27 seconds 第三百五十話『鈍く平凡であることから始める』-【山口篇】経済学者 河上肇-
大正デモクラシーの最中にあって、いち早く格差社会、貧困について論じた経済学者がいます。
河上肇(かわかみ・はじめ)。
彼が書いた大ベストセラー『貧乏物語』を題材にした舞台が、先月、紀伊國屋サザンシアター TAKASHIMAYAで上演されました。
このこまつ座の公演は、劇作家・井上ひさしが24年前に書いた戯曲の再演。
河上肇をめぐる、妻、娘、女中など、6人の女性の生きざまを描いた秀作です。
大正5年、第一次世界大戦の好景気に沸く日本に、少しずつ、でも確実に押し寄せる貧富の差に翻弄される人々。
河上は、「貧富のない世界は、実現できないのか」、それでいて、「頑張ったものには、頑張っただけ富がもたらされる社会」は、存在しえないのか。
悩み、苦しみ、その答えをマルクス経済学や無我の愛、利他主義に求めたのです。
いま、なぜ河上肇なのか。
いま、なぜ『貧乏物語』なのか。
あらためて、時代や作品を繙くと、今、私たちが直面している問題に重なるものが見えてきます。
全てのひとが公平に扱われる平等な社会。
その持続の背景にある、経済の発展。
そのために必要な開発という名の欲望。
河上肇は、さまざまな先人の影響を受けつつ、人類永遠の命題ともいえる「貧困」を、生涯のテーマにしました。
戦争の渦の中、危険分子のリーダーと目され、検挙、投獄。
牢獄の中でも、経済や哲学を学び、真理を追い求める姿勢を崩すことはありませんでした。
彼は、最初から頭脳明晰、才気煥発な人物だったのでしょうか。
自叙伝では、自らを、鈍い根っこと書く、「鈍根の私」と称しています。
「鈍く、平凡だから、私は誰よりも時間をかけるしかないと悟りました。私は優秀でも天才でもないところからスタートしたのです」
山口県岩国市出身の唯一無二の経済学者・河上肇が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/14/2022 • 12 minutes, 46 seconds 第三百四十九話『人生は落丁の多い本に似ている』-【山口篇】小説家 芥川龍之介-
今年、生誕130年、没後95年を迎える文豪がいます。
芥川龍之介(あくたがわ・りゅうのすけ)。
彼の実の父・新原敏三(にいはら・としぞう)は、現在の山口県岩国市美和町の出身です。
龍之介は、母の病気にともない、幼くして芥川家に養子に出されるのですが、幼名は、新原龍之介でした。
美和町の山間にある父の菩提寺には、文学碑があります。
碑文に書かれている言葉は、「本是山中人」。
山の中の人、と書いて、山中人。
龍之介が、岩国を訪れた記憶を懐かしんで、自分自身のことを称した言葉だと言われています。
隣にある副碑文には、こんな一節が刻まれています。
「人生は落丁の多い本に似てゐる。
一部を成してゐるとは称し難い。
しかし兎に角一部を成してゐる。 芥川龍之介」
この言葉には、もともと人生に失敗やトラブルはつきもので、むしろその失敗こそ、楽しみ受け入れなくては、一冊の書物にならないのだ、という芥川の思いが読み取れます。
奇しくも、岩国の文学碑にある、この二つの言葉は、芥川の一生を象徴する言葉に思えてきます。
実の父・新原敏三と、育ての父・芥川道章は、あらゆる点で正反対な人間でした。
敏三は、渋沢栄一の耕牧舎に勤めていた実業家。
粗野で癇癪持ち。
教養に欠けるが行動的で、商売の才覚に長けていました。
反対に道章は、俳句や南画をたしなむ繊細な人格者。
礼儀正しく、作法にうるさい都会人だったのです。
母が心を病むことによって、実の親から引き離され、まったく真逆の環境に放り込まれた龍之介。
彼の内なる分裂は、やがて、たぐいまれなる観察眼を育んでいったのです。
35年の生涯を文学に捧げた小説家・芥川龍之介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/7/2022 • 13 minutes, 3 seconds 第三百四十八話『自分の歌を歌う』-【伝説のミュージシャン篇】エルヴィス・プレスリー-
今年没後45年を迎える、「キング・オブ・ロックンロール」と称されるミュージシャンがいます。
エルヴィス・プレスリー。
彼がいなければ、ビートルズもクイーンも存在しなかった、と言われる偉大なアーティストの人生を描いた伝記映画が、7月公開されます。
タイトルは『エルヴィス』。
監督は、『ムーラン・ルージュ』、『華麗なるギャツビー』の、バズ・ラーマン。
歌もダンスも吹き替えなしでエルヴィスを演じるのは新鋭、オースティン・バトラー。
エルヴィスをサポートした悪名高きマネージャーは、名優・トム・ハンクスが演じます。
アメリカ・テネシー州メンフィスで、満足に服も買えない貧しい少年時代を過ごしたエルヴィスが、世界史上最も売れたソロアーティストにまで昇りつめた半生は、まさにアメリカンドリームの先駆けでした。
42年という短い生涯で、彼は、自身がたどり着きたかった場所に、ほんとうに到達できたのでしょうか?
彼は、若きミュージシャンに、こんな言葉を残しています。
「どこへ行きたいのかわからなければ、目的地に着いても気づかないんだよ」
幼い頃から黒人音楽に触れ、黒人のように歌う初めての白人としてマスコミに取り上げられたとき、彼を取り巻く時代や環境は、決して、おだやかなものではありませんでした。
激しく動く下半身やパフォーマンスも、熱狂するファンがいる一方、非難の的でもあったのです。
賞賛とバッシング。
成功と孤独。
嵐のさなかにありながら、彼が守ったもの。
それは、自分の歌を歌う、ということでした。
最愛の母に約束した、唯一の矜持(きょうじ)。
誰のものでもない自分の人生を、価値あるものにするかしないかは、全て、自分がどう生きるかにかかっている。
伝説のミュージシャン、エルヴィス・プレスリーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/30/2022 • 12 minutes, 34 seconds 第三百四十七話『自分の心を言葉にする』-【伝説のミュージシャン篇】尾崎豊-
1992年4月25日、26歳の若さでこの世を去った、伝説のミュージシャンがいます。
尾崎豊(おざき・ゆたか)。
高校在学中のデビューから亡くなるまでのおよそ8年半で発表した曲は、全部で71曲。
『15の夜』『卒業』『I LOVE YOU』『シェリー』『OH MY LITTLE GIRL』などの大ヒット曲は、今も歌い継がれ、その圧倒的なライブパフォーマンスと、繊細で心を揺さぶる歌詞は、色あせるどころか、今を生きるひとに強烈なメッセージを投げかけています。
没後30年を記念した回顧展「OZAKI30 LAST STAGE 尾崎豊展」は、3月下旬から4月上旬まで松屋銀座で開催。
そのあと、静岡、福岡、大阪、広島など全国各地を巡回予定です。
この回顧展では、生前愛用した楽器や、創作ノート、楽譜、ステージ衣装など、200点以上の貴重な資料が展示されています。
この展覧会を契機に、2012年に没後20年を記念して、新潮社から刊行された書籍、尾崎のおよそ10年にわたる制作ノートをまとめた『NOTES―僕を知らない僕 1981-1992―』が再び話題になり、10年ぶりに重版されています。
『NOTES』の冒頭、まだアマチュア時代の尾崎の言葉は、こんなふうに始まっています。
「正直に生きたい。そう思う。
けど、この世の中、やりたいことだけ やって生きてゆくことはどうも出来ない様だ。
ぼくの心には 夢を見て夢を追いかけても しょせん 夢は夢でしかなく 夢に敗れ 挫折してゆくとゆう不安がいつもある。
そして ぼくは どうすればこの世の中で現実に夢をつかむことが出来るのか 思いをめぐらして見るんだ。」
尾崎豊の創作ノートを読むと、彼の心が浮かび上がってきます。
彼はいつも、あらゆることに全力でぶつかり、傷つき、どんなときも、自分の心を言葉にすることを忘れませんでした。
彼が遺した『NOTES』は、彼の戦いの歴史そのものだったのです。
「10代のカリスマ」と言われた孤高のシンガー・尾崎豊が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/23/2022 • 12 minutes, 29 seconds 第三百四十六話『自分の背中の押し方を自分で学ぶ』-【伝説のミュージシャン篇】フレディ・マーキュリ ー-
今も絶大な人気を誇る、唯一無二のボーカリストがいます。
フレディ・マーキュリー。
イギリスのロックバンド・クイーンのボーカルとして、数々の伝説を残しました。
昨年から今年はじめにかけて、クイーン50周年、フレディ没後30年の記念イベントが日本でも開催され、大きな話題を呼びました。
今年3月20日には、2008年、ウクライナで開催された「クイーン&ポール・ロジャース」のライブ映像をYouTubeで公開。
フレディ亡きあと、ポール・ロジャースをボーカルに加えた新生クイーンが、ウクライナ第2の都市・ハリコフの自由広場でライブを行ったのです。
オープニング曲は、『One Vision』。
メンバーのロジャー・テイラーが、マーティン・ルーサー・キング・ジュニアの有名な演説の言葉をもとに作った曲です。
音楽には、チカラがある。
音楽には、自分の命をかけても、それに値する奇跡がある。
音楽には、世界中のひとをつなぐ魔法がある。
そう信じ続けたフレディの魂が宿ったようなライブでした。
彼らの願いは届き、ウクライナへの募金活動をより広めることになったのです。
フレディは、自らの病の重さを知り、限りある命を実感したとき、メンバーにこう語りました。
「僕は、今までと違う感じにはしたくないんだ。
病気のことは、なるべく他のひとに知られたくないし。
とにかく、ただ、働けなくなるその時まで、これまで通り仕事がしたい。
残された時間がないなら、なおさら、多くのものを遺したい。
そうすることで、ようやく、正気を保っていられるのかもしれない」
映画『ボヘミアン・ラプソディ』のクライマックスは、ライヴ・エイドでの演奏シーン。
フレディが大切にしてきた父からの教え「善き思い、善き言葉、善き行い」が、具現化されたようなコンサートでした。
彼は常に、自分で自分の背中を押すような人生を歩んできました。
それがイバラの道であっても、かまわない。
前に進むために、背中を押すのは、自分しかいないと信じていたからです。
多様性を歌い、己の生きざまを歌に込めたアーティスト、フレディ・マーキュリーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/16/2022 • 11 minutes, 57 seconds 第三百四十五話『静かに力を蓄える』-【伝説のミュージシャン篇】ジェームス・ブラウン-
黒人のアメリカ文化を音楽としてまとめ上げた、伝説のゴッドファーザー・オブ・ソウルがいます。
ジェームス・ブラウン。
2003年、70歳になったばかりのジェームス・ブラウンは、ロサンゼルスのハリウッド・コダックシアターで、長年の音楽活動の功績をたたえられ、特別功労賞を受賞しました。
そのときのサプライズ・プレゼンテーターは、マイケル・ジャクソンでした。
マイケルは、自身のムーン・ウォークの源が、JBにあることを証明するような共演を果たしたあと、涙で声をつまらせながら、スピーチしました。
「天才とは、いったいなんでしょうか? それは、人生が変わるほどの刺激を与えてくれるひと。隣にいるジェームス以上に、刺激を与えてくれたひとはいません。6歳のボクは、このひとのようなエンターテイナーになりたいと、心から願ったのです。そして今も、ボクは彼に憧れ続けています」
場内は大きな拍手に包まれ、ジェームスとマイケルは、固く抱擁しました。
ジェームス・ブラウンは、ファンク、ゴスペル、ブルースなどの多彩な音楽と、軽妙な足さばきがトレードマークの圧倒的なエンターテイメント性で、世界を席巻。
多くのミュージシャンに影響を与え続けたのです。
音楽ばかりではなく、「Don't Be A Drop Out」と黒人の子供たちに呼びかけ、コンサートの売上から奨学金のためのお金を寄付。
米国黒人地位向上会議の永久会員として、非暴力の立場での公民権運動を支持し、黒人の地位向上のために活動しました。
親交のあったキング牧師の暗殺。
その翌日のボストンでのコンサートは、暴動を恐れた主催者が開催を反対しましたが、ジェームスは、やらなければもっと大変なことになると、コンサートを決行。
生放送でのテレビ中継も敢行し、「平静を保つことで、キング牧師の名誉をたたえよう」と呼びかけました。
幼い頃から貧困と屈辱に耐えてきた彼には、わかっていたのです。
ただ大騒ぎしても何も変わらない。
静かに力を蓄えたものだけが、世の中を変える。
ファンクの神様、ジェームス・ブラウンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/9/2022 • 14 minutes, 53 seconds 第三百四十四話『手を抜かない、気を抜かない』-【伝説のミュージシャン篇】忌野清志郎-
71年前の今日4月2日、この世に誕生した、伝説のミュージシャンがいます。
忌野清志郎(いまわの・きよしろう)。
伝説という言葉は、少し違うかもしれません。
なぜなら、清志郎は常に現在進行形。
亡くなって13年の月日が経っても、少しも色あせることなく、多くのひとに支持され続けているのです。
シンプルで骨太なメロディーと、心にズシンと届く歌詞。
音楽で伝えるメッセージだけではなく、今を生きる若者たちへの言葉も発信しました。
新潮文庫『ロックで独立する方法』では、「成功」ではなく、「独立」を目指そうと提言。
現実と夢のギャップに悩む人たちに優しく語りかけています。
彼の名言集を集めた、百万年書房刊『使ってはいけない言葉』に、こんな言葉があります。
「今日で最後だって思って働けば、いい仕事できると思うんだよね。
特にボーカルなんてそう思わないと、やってらんないですからね。
今日はちゃんと歌えなくても明日やればいいやと思って、手を抜いて歌うなんてことできないですからね」
清志郎の晩年は、病との壮絶な戦いでした。
喉頭がん。
医者に手術をすすめられても、自分の喉にメスを入れることを最後まで拒否しました。
歌えなくなることは、死ぬことと同じ。
最後の直筆メッセージは、こんな言葉で終わっています。
「何事も人生経験と考え、この新しいブルースを楽しむような気持ちで治療に専念できればと思います。
またいつか会いましょう。夢を忘れずに!」
ザ・キング・オブ・ロック。
唯一無二のミュージシャン・忌野清志郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/2/2022 • 11 minutes, 37 seconds 第三百四十三話『いかに生きるかを考える』-【宮城篇】哲学者 梅原猛-
宮城県仙台市に生まれた、哲学者のレジェンドがいます。
梅原猛(うめはら・たけし)。
法隆寺建立の秘密をひもとく『隠された十字架』や『ヤマトタケル』『オオクニヌシ』などのスーパー歌舞伎の台本執筆など、その活動は多岐にわたり、日本の歴史や文化を独自に読み解く思想は『梅原日本学』と呼ばれました。
その特異な発想は、ときに学術界から猛反発を受け、批判の渦に飲み込まれることもありました。
でも彼は、自由な発想、自分のオリジナリティを、何よりも大切にしたのです。
梅原は、日本人の根底にあるのは、稲作文化ではなく、縄文時代の狩猟採集文化だと論じています。
青森の三内丸山遺跡の発掘にも多大な関心を寄せた彼は、田の文化の中に脈々と残る、森の文化に注目しました。
また、人間中心主義の西洋哲学だけでは、環境破壊や自然災害に答えが出せないと考えたのです。
「我思う、ゆえに我あり」というデカルトの哲学。
我、すなわち人間が中心となって自然を支配しようと思っても、意のままにはならない。
梅原は、「自然と調和する文明に変わらないと、人類の持続的発展はありえない」と説きました。
特に心を痛めたのは、東日本大震災。
政府の復興構想会議の顧問になり、哲学者として発言したのは、この震災が、天災であり人災であり、文明災であること。
自然と仲良く、動植物と仲良くしていくことが、人間の本来の生き方だと語りました。
梅原は、母を知りません。彼を産んですぐに他界。
幼くして「死」を見つめたことが、のちの彼の言動の源になりました。
死を身近に感じながら、「ひとはいかに生きるべきか」と問い続けて走り抜けた、93年の生涯。
哀しみに裏打ちされた、伝説の哲学者・梅原猛が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/26/2022 • 13 minutes, 12 seconds 第三百四十二話『道を探し続ける』-【宮城篇】作曲家 早坂文雄-
黒澤明の映画『羅生門』や『七人の侍』の映画音楽で知られる、宮城県仙台市出身の作曲家がいます。
早坂文雄(はやさか・ふみお)。
41歳の若さで亡くなった彼は、亡くなる直前まで作曲を続けました。
亡くなる1年前に公開された『七人の侍』は、肺結核だった早坂の病床に録音編集機が持ち込まれての作曲。
容赦ない黒澤監督の要望に、命の限界まで応えようとする早坂とのやりとりは、周りの人間がはらはらするほど、熾烈で過酷なものだったと言われています。
黒澤と早坂の間には、絶大なる尊敬と信頼関係がありました。
早坂が、一度はボツになった音楽を再構成して提案すると、「それだ! それだよ! 早坂さん!」と黒澤は大声をあげました。
よりよいものを創るために、決して妥協しない。
二人の芸術家は、常に道を探し続けたのです。
病いに苦しむ中、早坂が音楽を担当した溝口健二監督の『雨月物語』が、「ベネチア国際映画祭で銀獅子賞を受賞した」という知らせが届きます。
黒澤監督の『羅生門』での金獅子賞に次ぐ、早坂音楽の快挙でした。
早坂文雄が目指した音楽は、汎東洋音楽、すなわち、パン・エイシアニズムです。
西洋的な音楽の合理的なリズムを真っ向から否定し、日本人の感性に根差した、無調、無限形式を採用しました。
日本人とは、何か。
民族のアイデンティティは、どこにあるのか。
早坂が探求してたどり着いた方法論です。
雅楽の雰囲気を多く入れ込んだ、飛鳥や奈良、平安朝のイメージを醸し出す日本的な楽曲は、多くの音楽家に影響を与え、弟子ともいえる武満徹は、『弦楽のためのレクイエム』という曲を早坂に捧げています。
早坂文雄は、幼い頃から英才教育を受けた、選ばれた神童だったのでしょうか。
親に養ってもらえず、妹や弟を育てるため、高校進学を諦めざるを得ない、境遇でした。
それでも彼は、自分の道を探し続けたのです。
日本の音楽を世界に知らしめたレジェンド・早坂文雄が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/19/2022 • 13 minutes, 53 seconds 第三百四十一話『己に還る』-【宮城篇】小説家 志賀直哉-
宮城県石巻市で生まれた、日本文学界を代表する文豪がいます。
志賀直哉(しが・なおや)。
『和解』、『城の崎にて』、『暗夜行路』など、研ぎ澄まされた文体と、人間の心を深くえぐる文章は、多くの作家に影響を与え、「小説の神様」と呼ばれています。
没後50年を迎えた昨年、彼の小説『流行感冒』がドラマ化されました。
今からおよそ100年前に流行ったスペイン風邪。
その猛威に翻弄される人々を描いたこの作品は、コロナ禍と類似点が多く、主人公の小説家が我が娘を感染から守る姿が、哀しく、あるときは滑稽に描写されています。
正体がわからぬ感染症に、過度に敏感になるひと、ルールを守らぬひと、それを徹底的に攻撃するひと、どうせいつかは死ぬのだからと楽観的になるひと。
有事に遭遇した人間の業を、冷徹ともいえる筆致で紡いでいくのです。
志賀は2歳のとき、父の仕事の関係で石巻を離れ、東京・麹町に転居しました。
宮城の記憶はないと語っていますが、実は、幼い頃見た原風景が、彼の作品の根幹にあると論じる評論家も多くいます。
北上川の岸辺で見た風景は、深く志賀の心に刻まれ、のちに彼が引っ越した先には、その光景に似た場所が広がっていたのではないか。
たとえば『暗夜行路』に描かれる広島・尾道の景色。
高台から見下ろす瀬戸内海は、どこか、日和山から見える景色に似ているのです。
『暗夜行路』は、志賀直哉の唯一の長編小説。
何度も執筆を中断し、完成するまでに、実に26年の月日を費やしました。
迷い、悩み、書けなくなったとき、彼をふるいたたせた原風景が、母におんぶされて見た石巻の風景だったのかもしれません。
苦しめば苦しむほど、己の原点を知る。
小説家のみならず、人間とは、いつも自分に還っていくものだと彼は語っています。
明治、大正、昭和と激動の時代を生き抜いた小説家・志賀直哉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/12/2022 • 14 minutes, 30 seconds 第三百四十話『決して諦めない』-【宮城篇】仙台藩士 支倉常長-
今から409年前、宮城県石巻市からサン・ファン・バウティスタ号でヨーロッパに船出した武将がいます。
支倉常長(はせくら・つねなが)。
仙台藩藩主・伊達政宗公の命を受けた常長は、大使として、エスパーニャ、現在のスペインとの貿易を独自に開くため、海を渡りました。
いわゆる「伊達の黒船」、慶長遣欧使節団です。
当時は、満足な地図もなく、海流に乗るだけの船旅は危険極まりないものでした。
それでも伊達政宗公は、どうしてもヨーロッパとの交易を望み、常長はその願いを実現させるべく、およそ7年にも及ぶ航海を果たしたのです。
なぜ、仙台藩にとって、海外との貿易が必要だったか。
徳川家康を滅ぼす討幕のための戦略、という説もありますが、数々の文書や手紙から、これが真実ではないかと継承されている説が存在します。
1611年、慶長16年、12月2日、大きな地震が東北地方を襲いました。
その地震によって、大津波が発生。
「慶長の大津波」は、沿岸部の村々をのみこみ、5000人ともいわれる犠牲者を出しました。
壊滅的となった、仙台藩。
そのとき、伊達政宗公は、海外との貿易で我が藩に富をもたらすことを考えたのです。
「徳川も頼れない、自力で復興するには時間がかかりすぎる。エスパーニャとの貿易は、きっと多大な富を約束してくれるに違いない」
政宗公は、自分の城に天守閣を築くことをやめ、全てのお金を船づくりに注いだといわれています。
では、その大事な使命を誰に託すか…。
支倉常長の実の父は、罪を犯し、死罪になりました。
フツウであれば、常長を登用することはないのかもしれません。
でも、政宗公は、常長の「諦めない心」に賭けてみようと思ったのです。
慶長遣欧使節団を率いた伝説の男・支倉常長が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/5/2022 • 13 minutes, 25 seconds 第三百三十九話『権力を笑い、我が道を行く』-【京都篇】僧侶 一休宗純-
京都で生まれ、京都でその生涯を閉じた、とんちで名高い僧侶がいます。
一休宗純(いっきゅう・そうじゅん)。
彼の名を全国的に広めたのは、1975年から1982年まで放送されたテレビアニメ『一休さん』かもしれません。
お寺で修行する幼い一休さんが、さまざまな危機やトラブルを得意のとんちやユーモアで解決するという物語。
最高視聴率は、27.2%、関西地区では、40%を超える回もありました。
「この橋、わたるべからず」や「屏風の中の虎を退治する話」など、多くの逸話が語り継がれ、特に江戸時代には、『一休噺(いっきゅうばなし)』として、庶民に笑いと勇気を与えたのです。
彼の逸話は、さらなる逸話を呼び、出典も定かでない、もはや都市伝説とでも言えるようなものも多く存在しますが、それらは全て、一休の規格外な言動が源になっています。
たとえば、こんなエピソード。
一休は、亡くなる前、弟子たちにある箱を渡します。
「いいか、もし、そなたたちが苦難に直面し、どうしようもない壁にぶつかり、まったく解決の糸口が見えぬとき、この箱をお開けなさい。そこに解決策をしたためておいた」
あるとき、弟子たちが苦境にたたされ、すがるように箱を開けると、中にはたった一枚、白い紙があり、こう書かれていました。
『だいじょうぶ、なんとかなる』。
さまざまな逸話に彩られた一休の人生。
でも、彼にはたったひとつ、生涯貫いた信念がありました。
それは、権威を否定すること。
当時、僧侶たちが、喉から手が出るほど欲しがったものがあります。
「印可証」です。
印可証がないと自分で寺を開くことができず、また、この証書こそ出世の代名詞でした。
悟りを開き、この証書をもらった一休は、すぐさま火にくべてしまいます。
まわりのひとたちが「もったいない!」というと、「悟りに証明書などいりません」と言い放ったのです。
常に貧しいもの弱きものに寄り添い、権威を振りかざす支配者に立ち向かった賢人・一休宗純が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/26/2022 • 13 minutes, 4 seconds 第三百三十八話『おだやかに戦う』-【京都篇】物理学者 朝永振一郎-
京都で幼少期を過ごし、京都大学に学んだ、物理学者のレジェンドがいます。
朝永振一郎(ともなが・しんいちろう)。
1965年、くりこみ理論による「量子電磁力学の発展への寄与」により、ノーベル賞を受賞。
湯川秀樹に次いで、日本で2人目のノーベル物理学賞受賞者になりました。
それまで7回も候補になった末の栄誉がよほど嬉しかったのか、受賞の知らせを受けて、叔父と朝から祝い酒。
酔って風呂場で転倒、肋骨を折って、授賞式を欠席しました。
朝永は、こうつぶやいたといいます。
「ノーベル賞をもらうのは、骨が折れる」
あまり式には出たくなかったので、「これが本当の怪我の功名だ」とうそぶいたそうです。
朝永の運命を変えた出来事のひとつに、中学生のときのアインシュタインの来日があります。
日本人のあまりの熱狂ぶりに驚きました。
「アインシュタインって、そんなにすごいひとなんだ…。よっぽど、世の中のためになる発見をしたんだな。物理学って、とんでもない学問なのかもしれない」
もともと自然科学に関心を寄せていた少年の背中を押したのです。
朝永は、生まれながらに病弱。
多くの持病に悩まされ、それは成人してからも続きました。
おそらく、自分はフツウの仕事にはつけないだろう…。
そんな思いから、ひとりで、そして自分のペースでできる研究者を、職業の選択肢のひとつに加えたのです。
朝永の印象を尋ねると、多くのひとがこう語りました。
「おだやかで、静かなひとです。怒ったところを見たことがありません」
子どもたちにも、科学の素晴らしさについて優しく話しました。
「ふしぎだと思うこと、これが科学の芽です。よく観察してたしかめ、そして考えること、これが科学の茎です。そうして最後に、なぞがとける、これが科学の花です」
物理の世界に大輪の花を咲かせたレジェンド・朝永振一郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/19/2022 • 12 minutes, 29 seconds 第三百三十七話『決して後ろを振り返らない』-【京都篇】作曲家 加藤和彦-
京都に生まれ、日本の音楽史に多大な影響を与えた、伝説のヒットメーカーがいます。
加藤和彦(かとう・かずひこ)。
始まりは、1960年代後半に加藤が結成したフォークグループ、ザ・フォーク・クルセダーズ。
京都の龍谷大学在学中、雑誌『MEN'S CLUB』に、加藤がこんな投稿をしてメンバーが集まりました。
「フォーク・コーラスを作ろう。当方、バンジョーと12弦ギター有。フォークの好きな方連絡待つ。」
真っ先に自転車で駆け付けたのが、当時、京都府立医科大学の学生だった北山修(きたやま・おさむ)でした。
ザ・フォーク・クルセダーズは、解散記念に北山が親から借金をしてアルバムをつくりました。
その中の一曲が、まさかの大ヒット。
それが、世間をあっと驚かせた『帰って来たヨッパライ』です。
この曲ですでに加藤和彦は、今まで聴いたことのない音楽への挑戦を試みるのです。
自分の声をテープに吹き込んで早回し、北山の語りも取り入れ、斬新なアレンジをほどこす。
ザ・フォーク・クルセダーズ解散後も、加藤は、常に新しい音楽を追い続けます。
『あの素晴しい愛をもう一度』という、音楽の教科書に載る名曲をつくったかと思うと、サディスティック・ミカ・バンドを結成し、『タイムマシンにおねがい』をヒットさせ、ロンドンポップ、グラム・ロック、レゲエなど、あらゆるジャンルを導入したサウンドを構築。
作曲家としてヒット曲を連発し、その活動は世界にもとどろき、映画音楽、スーパー歌舞伎など、多岐にわたっていったのです。
加藤が亡くなる前の貴重なインタビューをもとに編集された、松木直也(まつき・なおや)著『加藤和彦 ラスト・メッセージ』という評伝は、彼の人生が世の中の流行と共にあり、あるときは、彼自ら流行を牽引したことが、精緻な文体で語られています。
加藤の流儀は、ただひとつ。
「後ろは振り返らない」
同じことを繰り返すのを、極端に嫌いました。
新しい、まだ歩いたことのない豊潤な大地に出会うために、前へ前へと進んでいったのです。
唯一無二のアーティスト・加藤和彦が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/12/2022 • 12 minutes, 48 seconds 第三百三十六話『相反する自分を共存させる』-【京都篇】作家 川端康成-
京都を舞台にした小説『古都』で、日本人初のノーベル文学賞を受賞した作家がいます。
川端康成(かわばた・やすなり)。
今年、没後50年を迎える文豪の作品は、人間の隠れた欲望やフェティシズムを妖艶に描く一方で、詩的な情景描写を駆使して四季折々の華やかさを紡ぎ、美しい日本を世界中に知らしめました。
特に『古都』という作品は、亡くなるおよそ10年前に執筆した、新聞の連載小説で、京都の名所旧跡や、年中行事を物語に織り込み、京都を知る指南書として、いまなお読み継がれています。
文庫本化されたときの表紙の絵は、東山魁夷の『冬の花』。
川端康成と東山魁夷は、17年以上にわたる親交があったのです。
『冬の花』は、川端が文化勲章を受賞した翌年にお祝いとして魁夷が贈ったもので、このとき川端は、睡眠薬の禁断症状の治療のために入院していました。
病室でこの絵を眺めながら、再起を誓った川端は、魁夷にこんなお願いをしました。
「京都を、いま、画いておいてください。いま、画いておかないと、京都はなくなります」
山が見えない、山が見えないと川端は憂えていたのです。
願い通り、東山魁夷は、『京洛四季』という作品で京都の四季の移ろいを描いてくれました。
美しいものをとどめたいと誰よりも強く願う心の内には、幼い頃、相次いで肉親を亡くした体験や、己の容姿に対するコンプレックスがあったのかもしれません。
美しいものへの憧憬と、そうではない自分への落胆。
彼の心に巣食っていった、相反する二人の自分は、小説を書くごとに姿を現していきます。
川端評伝の決定版ともいえる、小谷野敦(こやの・あつし)著『川端康成伝』のサブタイトルは、二つの顔の意味を持つ、「双面の人」です。
孤独な芸術家という顔と、旅や人に会うのが大好きな社交家としての顔、その二つから川端文学が見えてくるのです。
相反する二つの顔を共存させることで、唯一無二の作品を残した天才作家・川端康成が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/5/2022 • 12 minutes, 6 seconds 第三百三十五話『楽しみを見つける』-【神奈川篇】二宮金次郎-
神奈川県小田原市出身の、農業に生涯を捧げた偉人がいます。
二宮金次郎(にのみや・きんじろう)。
かつて全国の多くの小学校に、薪を背負い、本を読む金次郎の銅像がありました。
明治を代表する思想家・内村鑑三(うちむら・かんぞう)が英文で書いた外国人向けの人物伝『代表的日本人』で、日本を代表する五人のうちの一人として二宮金次郎を選び、明治の文豪・幸田露伴(こうだ・ろはん)が、少年少女のための文学として金次郎の生涯を執筆。
この本の挿絵に「薪を背負って読書をしながら歩く金次郎少年」が用いられたことによって、イメージが定着したと考えられています。
昭和初期、このイメージをもとに銅像が作られ、全国の小学生の模範となるよう、設置されたと言われています。
勤勉、勤労の象徴としての金次郎の銅像は、時代にそぐわないと撤去が相次いでいますが、彼自身の功績は、時を経ても色あせることはありません。
それどころか、農業の発展のために考え抜いた経営哲学や、ひとはいかにして生きるべきかという人生思想には、現代の我々へのメッセージが込められています。
金次郎は、貧しさの中、幼くして両親を失い、一家の働き手として農業に勤しみますが、度重なる苦難が待っていました。
そんな中、培った哲学。
それは、自らで「楽地」を見つけるということ。
楽地とは、楽しい場所。
どんなに苦境に立たされても、自分で楽しさを見出さないかぎり、人生の達人にはなれないと説いたのです。
ここに、厳しい峠を越えようとしている二人の商人がいます。
ひとりの商人は嘆きます。
「こんな重い荷物を背負って、峠道を歩くなんて辛くてかなわない。ああ、峠なんかなければいいのに…」
でも、もうひとりの商人はこう言いました。
「いや、私はそうは思わない。むしろ、もっともっと険しい峠が続けばいいと思う。そうすれば、商人が来なくなる。頑張って登りきれば、私ひとりが商いをすることができる」
こんな説法で若者を鼓舞した賢人・二宮金次郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/29/2022 • 15 minutes, 19 seconds 第三百三十四話『情けを極める』-【神奈川篇】作家 長谷川伸-
横浜市日ノ出町に生まれた、股旅物の大家がいます。
長谷川伸(はせがわ・しん)。
代表作『瞼の母』は、浪曲、講談、歌舞伎など、数多く上演され、町から町へと渡り歩く渡世人の義理と人情、母への情愛は、観客の涙を誘いました。
日ノ出町、大岡川のたもとには、彼の石碑があります。
歌謡浪曲にもなった戯曲『一本刀土俵入り』のこんな一節がしるされています。
「ご恩になった姉さんにせめて見てもらう駒形のしがねえ姿の土俵入りでござんす」
長谷川自身、幼い頃に母が家を出てしまい、貧しい中、孤児のように暮らします。
頼りになったのは、他人の情け。
職を転々としながら、出会うひとたちの助けを借り、必死で覚えた文章を武器に作家として独り立ちしていくのです。
彼が描く主人公は、決まってアウトローな流れ者。
定職、定住を常とせず、家族を持たない世捨て人。
でも、その主人公には誰よりも深い情があり、その情けがひとを動かし、日常を生きるひとびとに優しさの種を植えていくのです。
戦後、西欧化が進むと、股旅物は、いわゆる「浪花節」と隅に追いやられてしまいますが、その情けを重んじる精神が、日本人の心に脈々と生き続けていることは疑いようもありません。
さらに長谷川の戯曲や小説は、わかりやすい勧善懲悪だけではなく、主人公の逡巡や冷静な観察眼は、純文学にも負けず劣らぬ深さに達しています。
肉親の愛を知らずに育った彼は、誰よりも、助け合う心、ひととひとが触れ合う大切さを痛感していました。
彼は人知れず、後輩を援助し、励まし、世に送り出したのです。
そのひとり、作家の池波正太郎は、こんな言葉をもらいました。
「運、不運は、そのときだけのもの。運がのちに不運ともなり、不運がのちに運のもとになることがある。今のおまえが『自分は不運だ』とがっかりしたら、一生の負けで終わりになる」
日本人の生きる道を説いた作家・長谷川伸が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/22/2022 • 13 minutes, 39 seconds 第三百三十三話『全身全霊で生きる』-【神奈川篇】画家 中川一政-
神奈川県の真鶴町を愛し、真鶴で97年の生涯を終えた、日本画壇の巨匠がいます。
中川一政(なかがわ・かずまさ)。
「真鶴町立中川一政美術館」は、現在休館中ですが、2月3日再開予定。
中川が亡くなる2年前につくられました。
豊かな森に抱かれた美術館の立地や設計も彼自身が選び、晩年、好んで画いた薔薇や駒ヶ岳の絵が数多く展示されています。
エネルギーがほとばしり、躍動感あふれるタッチは、多くのひとを魅了し、今もなお、観るひとの心を激しく揺さぶります。
俳優の緒形拳は、中川の絵画だけではなく、書や陶芸にも感動を覚え、「真鶴の巨人」と呼びました。
脚本家の向田邦子も中川の作品を愛し、代表作『あ・うん』の単行本の装丁には、彼の書いた字が印象的に躍っています。
おのれの人生を全てぶつけられるものを探していた中川は、10代の後半に、ゴッホの絵を見て衝撃を受けます。
「いつか、こんな絵を画いてみたい…。一生をかけて画いていけば、いつか画けるようになるかもしれない…」
21歳のとき、独学で描いた『酒倉』という作品が、岸田劉生(きしだ・りゅうせい)の目にとまり、画壇デビューのきっかけになったのです。
彼の創作スタイルは、極めてシンプル。
画材を持って外に出かけ、ひたすら同じモチーフを画き続けるのです。
真鶴の福浦港を、何枚も、何年も描き、晩年気に入った駒ヶ岳は、実に20年以上に渡り、ほぼ毎日描き続けました。
彼が大切にしたのは、「まずくてもいい、生きているか、それが大事だ」ということ。
テクニックに走り、うまく画こうとすると、対象は逃げていく。
キャンバスに命を吹き込むのは、うまさではない。
中川は、こんな言葉を残しています。
「我はでくなり つかはれて踊るなり」
自分はたいした人間ではないと常に謙虚な心でいると、何か大きな力に動かされる自分を感じる。
そのときこそ、命が宿るのだと。
「魂の画家」中川一政が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/15/2022 • 14 minutes, 6 seconds 第三百三十二話『想像力で生き抜く』-【神奈川篇】小説家 吉川英治-
今年、没後60年を迎える、戦前・戦後と多くの人々に支持されたベストセラー作家がいます。
吉川英治(よしかわ・えいじ)。
代表作は、『宮本武蔵』や『三国志』、そして『新・平家物語』など、歴史をテーマにした大衆小説。
わかりやすい文章で描く魅力的なキャラクターたちと、読者を飽きさせないストーリー展開は、絶大な人気を呼び、連載された新聞が待ちきれず、新聞販売店に押し掛ける人が多くいたほどでした。
1949年、吉川57歳のときには、作家の長者番付で、最高額の1位になるほどの人気ぶりでしたが、そこに至るまでの道のりは、苦難の連続でした。
父の没落により、学業半ばの11歳で奉公に出され、職を転々としながら家族を支えた少年時代。
関東大震災や戦争に翻弄されながら、食べるために必死だった青年時代。
やがて人気作家になっても、家庭をうまく保てず、孤独な日々をおくります。
そして、最も吉川を苦しめたのは、第二次大戦直後の絶望感でした。
戦地に向かう若者たち、特に、特攻隊の兵士たちが、自分が書いた『宮本武蔵』を大切に持参していた事実に、深く胸を痛めました。
剣禅一如という教えに感化された特攻兵。
「私はただ、勇気をもって生きてほしい、どんな困難にも負けない強い心を持ってほしい、そう願って小説を書いてきたのに、結局、戦地に散る若き命を救うことができなかった…。いや、それどころか、彼等の気持ちを高めるようなことになってしまった」
終戦からおよそ5年あまり、彼は一行も小説を書くことができなくなります。
親友の菊池寛(きくち・かん)は、吉川に言いました。
「いま、みんなが辛いんだ。こんなときこそ、キミの小説が必要なんだよ! 吉川君!」
そうして書いた『新・平家物語』は、争うことの無常を説き、多くの国民を癒し、勇気づけたのです。
大衆小説で一世を風靡したレジェンド・吉川英治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/8/2022 • 14 minutes, 22 seconds 第三百三十一話『自分で決めた姿勢を貫く』-【神奈川篇】女優 原節子-
昨年、生誕100年を迎えた、横浜市保土ヶ谷区出身の大女優がいます。
原節子(はら・せつこ)。
戦前から戦後にかけて、黒澤明や小津安二郎などの名監督と組み、日本映画を代表する女優として銀幕を彩ったレジェンド。
彼女がそのカリスマ性をより強くした理由、それは42歳という早すぎる引退、若すぎる隠遁生活にあります。
95歳で亡くなるまでの53年間、原節子は、鎌倉の自宅にひっそりと暮らしたのです。
ごくまれに外出するときは、マスクをつけ、人目をはばかり…まるで世捨て人のように。
なぜ、絶頂期に原節子は引退したのか?
さまざまな憶測が流れました。
最愛のひと、小津安二郎が亡くなったことによる喪失感、老いていく姿をみられたくないという女優としての矜持、さらには病気説など、謎は謎を呼び、いまだ藪の中です。
そんな中、優れた文章力と綿密な取材で定評のあるノンフィクション作家・石井妙子(いしい・たえこ)が書いた評伝『原節子の真実』は、本名・会田昌江(あいだ・まさえ)と、芸名・原節子の間で揺れる自己矛盾を見事に解き明かし、引退への心の流れを丁寧にひもといています。
原は、もともと学校の先生を志望していました。
女優になる気などさらさらなかったのですが、貧しい家計を助けるために、若干14歳で仕方なく足を踏み入れたのです。
美しい顔立ちが先行。
演技は「大根」と揶揄され、28年の女優人生の間、心から映画界になじむことはできませんでした。
現場で笑顔を見せた、そのすぐ後、気がつくとロケバスやデッキチェアで独り本を読んでいる原節子の横顔は、どこか崇高で孤高。
うかつに声をかけられない雰囲気を醸し出していました。
彼女には、ひとつだけ守り続けたものがあります。
それは、「自分で決めた姿勢を貫く」ということ。
集うことより、群れることより、凛とひとりで立つことを選ぶ。
波乱に満ちた人生を駆け抜けた、伝説の映画女優・原節子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/1/2022 • 12 minutes, 56 seconds 第三百三十話『反発する心を忘れない』-【東京篇】作曲家 小林亜星-
今年5月に亡くなった、東京生まれの偉大な作曲家がいます。
小林亜星(こばやし・あせい)。
生涯に作った曲は、8000曲を越えると言われています。
『ワンサカ娘』や『この木なんの木』などのCM曲、都はるみの大ヒット曲『北の宿から』などの歌謡曲、『科学忍者隊ガッチャマン』『ひみつのアッコちゃん』などのアニメソング。
さらにはレコード売り上げが200万枚を超す大ヒットとなった『ピンポンパン体操』など、その作品のジャンルは多岐にわたり、枚挙にいとまがありません。
作曲家・作詞家以外にも、『寺内貫太郎一家』で俳優デビュー。
マルチタレントとして、多くのひとに愛されました。
亜星は、父の希望を受け、慶応大学医学部に入りますが、そもそも医者になる気はなく、大好きな音楽を続けるため、親に内緒で経済学部に転部。
以来、自身が「あまのじゃく」だと認めるように、反発、反骨精神のもと、自分がほんとうに「溺れられる」世界で生きようとしました。
作曲の師である服部正(はっとり・ただし)から、「芸術家なんて、誰かに言われるもので、ゆめゆめ自分から名乗ってはいけない。まずは最高の職人になれ!」と教えられ、身なりもキチンとして、時間に遅れたり、破天荒な態度をとることはありませんでした。
誰に対しても公平に接し、ひととのつながりを大切にしました。
ただ、好きな音楽には、とことんのめりこむ。
常に海外の音楽を聴き込み、映画をたくさん見て、さまざまな分野のひとに積極的に会う労力を惜しみませんでした。
作曲では、自分なりの方程式を構築。
「せ~の、ハイ!」で始まる曲は、ヒットしない。
息継ぎ直前の音程に、「ド」「レ」「ソ」は使わない。
いちばん高い音程を出すのは、1か所だけ。
そんな方程式の根底にあるのは、彼が目指した、誰もが口ずさめるシンプルで優しいメロディでした。
水中で必死に足を動かし、水上では優雅に泳ぐ白鳥のように、88年の人生を生き抜いたレジェンド・小林亜星が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/25/2021 • 12 minutes, 50 seconds 第三百二十九話『愚痴を言うなら発想を変える』-【東京篇】作家 向田邦子-
今年没後40年を迎えた今も多くのファンに愛される作家がいます。
向田邦子(むこうだ・くにこ)。
脚本家として『寺内貫太郎一家』『あ・うん』『阿修羅のごとく』など、数多くの名作テレビドラマを世に残し、飛行機事故で亡くなる1年前には直木賞を受賞。
小説家、エッセイストとして、今もなお、その名をとどめています。
全国各地で没後40年のイベントが企画され、東京新聞でも特集が組まれました。
『向田邦子を読む』と題して、彼女の生涯をひもとくと共に、『あの人に迫る』では、向田邦子の妹、和子のロングインタビューを掲載。
その記事の中で、和子は、弱音を吐かなかった姉の、こんな言葉を引用しています。
「愚痴を言うなら、発想を変えなさい」。
言葉どおり、向田邦子は、自分が置かれた環境を全て受け入れ、それを楽しむ天才でした。
彼女が35歳で、初めて独り暮らしを始めたのは、昭和39年10月10日。東京オリンピックの開会式の日でした。
住んだアパートは、東京都港区西麻布。
昔の地名で言えば、霞町。
向田は、つっかけ履きで近所を散策し、あっという間に「自分の街」にしてしまいます。
6年あまり霞町に暮らし、青山のマンションに引っ越して、そこが終の棲み処になりましたが、青山も同様に、彼女の完全なるテリトリーになりました。
46歳のとき、乳がんを患い、余命半年を告げられ、右手が動かなくなったとき、医者に仕事はやめるように言われると、毅然としてこう言い放ったそうです。
「書くことをやめるというのは、私に死ねということです」
右手がダメなら、左手がある。
文字数が少ないエッセイを左手で書くうちに、エッセイの依頼が多く舞い込むようになるのです。
常に「今、自分がいる場所」を愛し、楽しむ。
脚本家で作家の向田邦子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/18/2021 • 12 minutes, 42 seconds 第三百二十八話『逆転を諦めない』-【東京篇】ボクサー 大場政夫-
東京の下町に生まれ、極貧から這い上がり、世界チャンピオンになったボクサーがいます。
大場政夫(おおば・まさお)。
大場は、WBA世界フライ級チャンピオンとして5度の防衛に成功したおよそ3週間後の1973年1月25日午前11時22分、首都高速でカーブを曲がり切れず、反対車線のトラックに突っ込み、この世を去りました。
享年23歳。
現役世界王者のままの死去、ということから「永遠のチャンプ」と呼ばれています。
大場のボクシングスタイルは、とにかくアグレッシブ。
先にダウンを許した試合でも、決して前に出ることを恐れず、攻めて攻めて攻め続ける。
「奇跡の逆転」は彼の代名詞になり、日本中が大場の戦う姿に勇気をもらったと言います。
その代表的な試合が、最後の防衛戦。
日本ボクシング史上の名勝負と謳われる、タイのチャチャイ・チオノイとの激闘です。
第1ラウンド、大場はいきなり右フックをまともに受け、ダウン。
その際、右足首をねんざしてしまいます。
足を引きずりながら彼は一歩も引きません。
フツウであれば、立って歩くことさえままならないほどの激痛。
でも、大場は、強気に前へ前へ進みます。
相手から目を離さず、ロープに追い詰める。
攻めの姿勢を崩さなかったことで、中盤、形勢は逆転します。
そうして迎えた第12ラウンド。
大場はチャチャイから3度、ダウンを奪い、ノックアウト勝ちをおさめるのです。
途中から、彼は足を引きずるのをやめました。
むしろ軽快なフットワークを見せるのです。
いちばん苦しいときに、後ろに引かない。
最も大変なときこそ、一歩前に出る。
彼の原点は、貧しい少年時代にありました。
スポーツライター石塚紀久雄(いしづか・きくお)著『大場政夫の生涯』には、少年時代のエピソードが鮮やかな筆致で描かれています。
なぜ、彼は、奇跡を起こすことができたのでしょうか。
短い人生を駆け抜けたファイター・大場政夫が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/11/2021 • 14 minutes, 11 seconds 第三百二十七話『後ろを振り返らない』-【東京篇】女性解放運動家 平塚らいてう-
東京市麹町区、現在の千代田区五番町に生まれた女性解放運動家がいます。
平塚らいてう(ひらつか・らいちょう)。
今年、没後50年を迎える彼女は、今から100年以上も前に「家制度」に反対し、事実婚を選びました。
夫婦別姓の先駆者とも言われています。
おととし、公開された『らいてう戦後日記』の中の一節。
1950年4月13日の記述には、
「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思い悩む。」
と書かれています。
明治時代末期、良妻賢母こそが女性に求められ、家庭を守ることが主たる仕事であり、女性に参政権は認められていませんでした。
裕福な家庭に生まれ、恵まれた環境に育ったらいてうでしたが、早くからそんな風潮に激しく疑問を抱き、古今東西の本をひもとき見識を拡げ、女性が生きる道を模索したのです。
今から110年前に彼女が中心になって創刊した、女性による女性のための文芸誌『青鞜』の序文に、らいてうは、こう書きしるしました。
「元始、女性は実に太陽であった。真正の人であった。今、女性は月である。他によって生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である」。
この『青鞜』という雑誌では、イプセンの戯曲『人形の家』の大特集を組んだり、「現代家庭婦人の悩み」という企画で、「家庭婦人にも労働の対価が支払われてもよいのではないか、その権利は十分あるはずだ」という文章を発表しました。
真っすぐな性格ゆえ、心中事件を起こしたり、父から勘当されてしまうなど、その人生は騒動と共にありますが、彼女は、一度もブレることなく、女性のために闘い続けたのです。
大正時代から昭和にかけ、女性の権利獲得に奔走した活動家・平塚らいてうが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/4/2021 • 14 minutes, 8 seconds 第三百二十六話『自分で得たものしか使えない』-【三重篇】映画監督 衣笠貞之助-
1954年に開催された第7回カンヌ国際映画祭で、日本人として初めて、見事グランプリを獲得した映画監督がいます。
衣笠貞之助(きぬがさ・ていのすけ)。
作品のタイトルは『地獄門』。
主演・長谷川一夫。
審査委員長のフランスの詩人・ジャン・コクトーは、衣笠の、平安時代の色彩美を再現した才能に、最大の賛辞をおくったと言われています。
カンヌ国際映画祭のグランプリは、のちにパルム・ドールと名を変えますが、次に選ばれた日本人は、1980年の黒澤明『影武者』まで待たねばなりませんでした。
もともと、新派の女形。
役者だった衣笠は、映画監督としても頭角を現し、長谷川一夫とは、およそ50本あまりの映画をつくり、日本中の映画ファンを魅了しました。
群を抜いた素晴らしい功績があるにも関わらず、ほぼ同時代の映画監督、小津安二郎や溝口健二と比べると、現代にその名が受け継がれているとはいいがたい現実があります。
小説家の川端康成や横光利一、岸田國士らと、新しい映画芸術を創造しようと、新感覚派映画聯盟を設立。
その中心メンバーとして実験的な映画『狂った一頁』を発表。
日本映画初のアヴァンギャルド映画を監督しましたが、ふたをあけてみれば、大赤字。
結局、売れる映画を創り続けました。
ただ、衣笠は、いつも新しいもの、これまでにないものに興味を持ち、さまざまな手法を試すことには終生、貪欲でした。
生涯、活動写真が大好きな映画青年。
ピュアな心の原点には、ただひとつ、観客を驚かせて楽しませたいという思いがありました。
黎明期から、映画という文化の屋台骨を支え続けたレジェンド・衣笠貞之助が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/27/2021 • 13 minutes, 39 seconds 第三百二十五話『不屈の精神を持つ』-【三重篇】大黒屋光太夫-
江戸時代に、ロシアに漂流し、初めてロシアを経験して帰国した日本人がいます。
大黒屋光太夫(だいこくや・こうだゆう)。
彼は、自分が見てきたことを政治家や学者に話すことで、蘭学の発展に貢献しました。
光太夫の生まれ故郷、三重県鈴鹿市には記念館があり、彼がサンクトペテルブルクで書いた漂流記や、ロシアから持ち帰った物などが展示されています。
光太夫の冒険談は、井上靖が小説『おろしや国酔夢譚(おろしやこく・すいむたん)』に描いたり、漫画やオペラ、浪曲の題材にもなりました。
彼の人生がなぜ、これほどまでに人々の心をうつのでしょうか。
それはおそらく、どんなに過酷な運命に翻弄されても常に希望を捨てなかった生き様に、「逆境を生き抜くためのヒント」が隠されているからに違いありません。
光太夫は、冒険家でも野心に満ちた学者でもなく、伊勢国に生まれた、ごく普通の船頭でした。
彼の廻船が江戸に向かう途中、嵐に巻き込まれ、アリューシャン列島に漂着したのです。
乗組員たちを待っていたのは、極寒のシベリアでした。
日本に戻りたいと願いながら、命を落としていく仲間たち。
鎖国下の当時、同じように漂流しても、帰国を許された例は一件もありませんでした。
船員の中には、帰国を諦め宗教に生きるもの、ロシア人の女性と結婚するものなどがいましたが、光太夫は、ひとりでも帰りたい者があるうちは諦めません。
つてをたどり、最終的には、女帝エカチェリーナ2世に謁見したのです。
光太夫が日本に帰国したのは、1792年10月2日。
三重の白子港を出てから、実に10年近くの年月が経っていました。
なぜ、彼は無事帰国することができたのでしょうか?
日露交渉に多大な影響を与えた伝説の船乗り、大黒屋光太夫が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/20/2021 • 14 minutes, 14 seconds 第三百二十四話『自分から目を離さない』-【三重篇】画家 フランシスコ・デ・ゴヤ-
三重県のJR津駅から歩いて10分ほどのところにある三重県立美術館は、三重県とスペイン・バレンシア州との友好提携が結ばれたことを契機に、1992年からスペイン美術がコレクションに加えられました。
中でも、ある画家の『闘牛』を描いた銅版画の連作は、全国でも類を見ない貴重な展示になっています。
その画家とは、ディエゴ・ベラスケスと並び、スペイン最大の画家と言われる、フランシスコ・デ・ゴヤ。
ラ・タウロマキア、闘牛を、ゴヤは生涯、愛しました。
彼は、闘牛の歴史を辿りつつ、過去の名場面を思い出し、膨大な素描にしたためました。
目の前の決定的なシーンを、さっと描く素描。
もともと宮廷画家としてエリート街道を歩いていたゴヤにとって、素描は無縁のものでした。
しかし、飛ぶ鳥を落とす勢いだった46歳のとき、彼は、重病に倒れ、ベートーヴェンのように聴覚を失ってしまうのです。
コミュニケーションをうまくとれない歯がゆさや苛立ちを、彼は素描することで解消していきました。
素描は、彼に自由な発想をもたらし、さらに時代や風俗を写し取る魔法を授けました。
代表作『裸のマハ』『着衣のマハ』や、数多くの肖像画、時代の目撃者として戦争を描く冷静な視線が有名ですが、一貫して彼が心を砕いたのは、美しいものだけではなく、悪や人間の醜さ、黒い部分から目をそむけない、ということでした。
その真骨頂が、晩年の『黒い絵』シリーズ。
『我が子を喰らうサトゥルヌス』という絵の凄みは、発表当時からセンセーショナルを巻き起こし、今もなお、私たちの心に、人間の業について、生きるということについて問いかけてきます。
もし彼が聴覚を失うことがなかったら、これほどまでに自由で奥深い領域に辿り着けなかったのではないか、そう考える見識者もいます。
ゴヤは、じっと見つめました。
時代を、人間を、そして、自分を。
革命と動乱のスペインを生きた伝説の画家、フランシスコ・デ・ゴヤが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/13/2021 • 14 minutes, 2 seconds 第三百二十三話『変化の中に変わらないものを見る』-【三重篇】俳諧師 松尾芭蕉-
三重県伊賀市出身の、俳句の神様がいます。
松尾芭蕉(まつお・ばしょう)。
『おくのほそ道』で知られる流浪の俳聖は、西行、宗祇と並んで、3大放浪詩人と呼ばれています。
三重県伊賀市には、芭蕉ゆかりの場所が点在し、国内はもとより、海外からも多くのひとが、類まれな芸術家の聖地を訪れています。
伊賀上野城の城内にある、「芭蕉翁記念館」。
芭蕉直筆の巻物や掛け軸、特に遺言状は必見です。
また、芭蕉五庵のひとつ、「蓑虫庵」や、旅する芭蕉の姿をモチーフにした「俳聖殿」は、趣のある木造建築で、当時の暮らしや在りし日の姿を想像することができます。
幼くして父を亡くした芭蕉は、伊賀上野の侍大将に仕えることになりました。
貧しく、みじめな生活。
でも、そこで彼は多くの蔵書に囲まれ、芸術の世界に触れたのです。
伊賀の郷には、句を詠む、京の文化が浸透していました。
和歌や俳句をたしなむことを覚えた彼は、あっという間に頭角を現します。
30歳を過ぎて、江戸に下った彼は、いかにして自分らしい俳句を作り上げるかに心を砕きます。
当時の俳句は、短歌に比べ、文学というより、どこか笑いと享楽の空気をまとっていました。
俳句で、世界のしくみを解き明かしたい。
俳句で、自然を写し出し、生きるとは何かという問いに答えを出したい。
そう願った彼が、選んだ修行の形。
それが、旅だったのです。
旅立ったのは、46歳。
およそ150日間かけた放浪の日々でした。
歌枕の聖地を辿り、日本中をめぐる旅の道中で、句を詠み、自然と対話しました。
そうして出来上がった『おくのほそ道』。
この不朽の名作誕生に至るまでには、あるいは、この日本文学史上、最も有名な旅に出るためには、いくつかの扉を開ける必要がありました。
その扉を開けることで、彼は「不易流行」という思想に到達できたのです。
現代にも通じるこの思想を、芭蕉は、いかにして獲得できたのでしょうか。
江戸時代の俳諧師・松尾芭蕉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/6/2021 • 12 minutes, 36 seconds 第三百二十二話『勇気と謙虚さを同時に持つ』-【宇宙篇】ユーリー・ガガーリン-
今からちょうど60年前の、1961年4月12日。
人類で初めて、108分間の宇宙飛行を成し遂げた人物がいます。
ユーリー・ガガーリン。
旧ソビエト連邦の軍人パイロットである彼は、大気圏を越え、宇宙を舞い、地球を一周しました。
有名な言葉「地球は青かった」。
原文は、「空は、非常に暗く、でも、地球はひたすら青く見えた」。
人類史上初の快挙から60周年を記念して、日本でも、いくつかの催しが開催されています。
岐阜県、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館では、今年3月、「ユーリ・ガガーリン物語」特別展を開き、ガガーリンが乗ったボストーク・ロケットの模型や、ガガーリンの写真ギャラリー、彼が宇宙ではめていた時計、シュトゥルマンスキーが展示されました。
また、新潟県立自然科学館では、11月1日から14日まで「ユーリイ・ガガーリン特別展」を開催予定。
彼の功績を辿る写真パネルが展示されます。
集団農場で働く労働者階級出身の若者の偉業に、ソ連は沸き立ち、ガガーリンは一躍、時の人になりました。
たちまち祖国の広告塔として、世界中を歴訪。
1962年5月には、日本にも来日しました。
しかし、時の政権・フルシチョフが失脚すると一転、立場は危ういものに変わりました。
彼の存在感の大きさに、国の中枢が脅威を感じるようになったのです。
訓練中の不慮の事故で、34歳で亡くなり、その死に関しては、さまざまな憶測が飛び交いますが、真相は闇に包まれています。
ただ、ガガーリンの人柄について、悪く言うひとはいません。
2000人の候補の中から、なぜ、彼一人が選ばれたのか。
同じ宇宙飛行士候補生が、無記名で「誰が宇宙に飛びたつ人物としてふさわしいか」という投票を行ったとき、彼は、圧倒的に1位を獲得したのです。
みんなが一様に、言いました。
「彼ほど、勇気があり、でも、謙虚なひとはいない」
ユーリー・ガガーリンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/30/2021 • 13 minutes, 24 seconds 第三百二十一話『自分を信じ続ける』-【宇宙篇】ロバート・A・ハインライン-
アイザック・アシモフ、アーサー・C・クラークと並び、世界SF界のビッグ・スリーに名を連ねる小説家がいます。
ロバート・A・ハインライン。
代表作、『夏への扉』は、今も世界中のひとに読み継がれています。
山下達郎は、この小説にインスパイアを受けて曲を書きました。
今年6月には、山﨑賢人主演で初の実写化。
映画『夏への扉 ―キミのいる未来へ―』として、公開されました。
65年前に発表されたSF小説『夏への扉』。
舞台は、小説発表当時には近未来だった、1970年のロサンゼルスです。
人工冷凍睡眠が実用化され、未来への片道旅行が流行っていた世界。
主人公ダンが飼っている猫のピートは、冬になると家中の扉を開けてくれとせがみます。
ピートは、扉のどれかが必ず、明るく楽しい夏へ通じていると信じて疑わないからです。
「夏への扉」を探しつづけ、決して諦めない猫と、友人に裏切られ、全てを失ったダンの物語…。
「未来からのタイムトラベルによる過去の変更」というSF小説の重要な命題に、一石を投じた作品でもあります。
リッキーという名の少女に、ダンは言います。
「リッキー・ティッキー・テイビー、キミがもし僕やピートにまた会いたいと思ったら、21歳にコールドスリープで眠りについて。目覚めたら、必ず、僕とピートがそこにいるから」。
閉塞した世の中に、希望を謳ったエンターテインメントは、多くの読者に感動を与え続けました。
ハインラインが、小説の中で創造したものの中に、後に実用化された製品が数多くあります。
『夏への扉』では、自動掃除ロボットや製図ソフトウェア、さらに、携帯電話や動く歩道、オンライン新聞、ウォーターベッド。
彼の想像力は、常に、現実を冷静に見つめる視点と共にあったのです。
ハインラインの人生は、順風満帆とは程遠く、軍隊生活や病気、度重なる転職、貧困など、幾多の試練の中にありました。
まさしく彼自身が「夏への扉」を探し続ける若き日々をおくったのです。
ただ彼には、誰にも負けない才覚がありました。
それは、自分を信じ続けるチカラ。
それが「扉」にたどり着く唯一の方法だったのです。
SF小説のレジェンド、ロバート・A・ハインラインが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/23/2021 • 13 minutes, 26 seconds 第三百二十話『動じない心を持つ』-【宇宙篇】ニール・アームストロング-
1969年、人類で初めて月に降り立ったアメリカ人の宇宙飛行士がいます。
ニール・アームストロング。
アポロ11号の船長だった彼は、月面に立ち、こんな名言を残しました。
「これは、ひとりの人間にとっては小さな一歩にすぎないが、人類にとっては偉大な一歩である」。
偉業は、世界およそ40か国に同時中継され、5億人以上のひとがリアルタイムで見守ったと言われています。
「いま、月に立ちました。砂のようです。炭を細かくしたような砂を、私はブーツで踏みしめています」。
生々しい実況の声が、来るべき宇宙時代への扉を開いたのです。
2年前には、ニール・アームストロング船長を、名優、ライアン・ゴズリングが演じた映画『ファースト・マン』も公開され、あらためて、52年前の歴史的瞬間がクローズアップされています。
映画『ファースト・マン』は、『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督とゴズリングのコンビが再びタッグを組んだ作品。
最愛の幼い娘を脳腫瘍で亡くす父としてのニールや、妻との見えない壁に悩む夫としてのニールが、少ないセリフで丹精に描かれました。
映画でも、いくつかのシーンで語られているとおり、月への道は、決して容易いものではありませんでした。
貧困や飢餓を訴えるひとたちからは、「いま、なぜ宇宙なのか、地球上でこんなにも困っているひとがいるのに、その予算を、目の前の私たちに使ってほしい」という抗議デモがあり、ベトナム戦争の兵士たちからは、「オレたちが日々、ジャングルで苦しんでいるのに、月に旅行とはおめでたい」と揶揄され、また、度重なるテスト飛行での事故やトラブルで、決して少なくない命が犠牲になりました。
そんな中、アポロ11号は飛び立ち、その船長に選ばれたのが、どんなときも冷静に対応する鉄の心を持つ男、ニールだったのです。
彼は、いかにして何物にも動じない心を獲得できたのか。
あるいは、動じないふりができたのか。
誰も踏み入れたことがない世界に一歩、靴跡を残したファースト・マン。
ニール・アームストロングが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/16/2021 • 13 minutes, 1 second 第三百十九話『失敗という言葉を使わない』-【宇宙篇】糸川英夫-
来年、生誕110年を迎える、「日本の宇宙開発の父」と言われる科学者がいます。
糸川英夫(いとかわ・ひでお)。
糸川の挑戦は、わずか長さ23cm、直径1.8cmのペンシルロケットの打ち上げから始まりました。
何度うまくいかなくても、彼はどこ吹く風。
集まった記者に「糸川さん、今回の失敗の原因は、どこにあると思われますか?」と訊かれると、こう答えた。
「あの、すみませんが、僕は、失敗という言葉を使いません。一生、使わないつもりです。全てが学び。明日への糧です。この世に、失敗はありません」
教え子たちには、消しゴムを使うことを禁じました。
「間違ったところを消しゴムで消すなんて、もったいない! 間違ったところにこそ、成長のヒントがあるんだよ」。
1955年に東京、国分寺で行われたペンシルロケットの打ち上げ。
当時、レーダーが完備されておらず、ロケットを打ち上げても、その行方を追うことは困難でした。
誰もが、ロケットの実験は無理だと諦めたとき、糸川は、こう言ったのです。
「天に向かって打つのがダメなら、どうかな、水平に飛ばしてみれば。そうすれば、どんなふうに飛んだか追えるんじゃないか?」
確かに、空気の抵抗や加速についての検証は、水平に飛ばしても可能です。
その発想に周りのスタッフは驚きました。
みんなが考え付くようで決して考え付かない。
そんな発想力こそ、日々の失敗が生み出した成功の賜物だったのです。
さらに糸川のイメージの源は、音楽にもたずねることができます。
60歳の時、バレエ団に入団。
チェロやヴァイオリンもたしなみ、自身の84歳の誕生日には、ついの棲み処と決めた長野県丸子町の信州国際音楽村でコンサートを企画。
亡くなる直前まで、新しいものへの挑戦をやめませんでした。
「失敗」という言葉を封印した、宇宙工学のレジェンド・糸川英夫が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/9/2021 • 12 minutes, 39 seconds 第三百十八話『自分を哀れむことをやめる』-【宇宙篇】コンスタンチン・ツィオルコフスキー-
「地球は、人類のゆりかごである。
しかし、人類はいつまでもそのゆりかごに留まってはいないだろう」
こんな名言を残した、「宇宙旅行の父」と謳われるロシアの偉人がいます。
コンスタンチン・ツィオルコフスキー。
彼は、今から130年あまり前、『反作用利用装置による宇宙探検』という論文を発表。
空気中の揚力を利用する飛行機と違い、真空を飛ぶロケットは、爆発による反動、反作用こそが動力になりうるという理論は、独創的で画期的なものでした。
その理論は継承され、のちにソ連が打ち上げた人工衛星スプートニクや、ロケットによる宇宙飛行、宇宙エレベーターやスペース・コロニーなど、現代の宇宙工学の礎になりました。
ツィオルコフスキーは、幼い頃、猩紅熱(しょうこうねつ)によりほとんど耳が聴こえなくなり、小学校も卒業できず、独学で高等数学や自然科学を学びました。
さらに母親を早くに亡くし、孤独と貧困の中、自らの好奇心だけを頼りに、前に進み続けたのです。
モスクワの図書館に、たったひとつの黒パンを片手に通う日々。
勉強に疲れると、草原の高台に座り、夜空を見上げました。
キラキラと瞬く星たちを眺めながら、思いは果てしなく拡がっていきます。
「いつか人類が宇宙に飛び立つ日が、きっと来る」。
わずかな仕送りのお金は、黒パン、実験材料や書籍代に消えました。
ボロボロの服、伸び放題の髭。
子どもたちからバカにされ、周りの人たちに奇人と思われても、彼は幸せでした。
「生きていくのに、夢があれば十分だ」。
彼はひとつだけ、前に進むための長所を持っていました。
それは、「自分を必要以上に哀れまないこと」「意味もなく、自らを卑下しないこと」。
耳が聴こえない、孤独、貧乏。
それらを当たり前のように受け入れ、今、自分にできることを真摯に全うしたのです。
宇宙時代の先駆者、ロシアの賢人・ツィオルコフスキーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/2/2021 • 13 minutes, 46 seconds 第三百十七話『人生の目的を見失わない』-【大阪篇】五代友厚-
大阪商工会議所や大阪証券取引所など、大阪に5つもの銅像がある、偉人がいます。
五代友厚(ごだい・ともあつ)。
NHK朝の連続テレビ小説では、ディーン・フジオカが演じて話題になり、昨年は、五代を主人公にした映画『天外者(てんがらもん)』が公開され、再び、脚光を浴びています。
「てんがらもん」とは鹿児島の方言で、ずば抜けて素晴らしい才能の持ち主、という意味。
言葉どおり、薩摩藩出身の彼は、幕末から明治初期を駆け抜け、日本の近代化のために命を捧げました。
五代は、特に大阪の経済界の発展に尽くし、東の渋沢栄一と並び称され、「大阪の恩人」と言われています。
武士から役人、そして実業界と、我が身を置く場所は変わりましたが、彼の指針は生涯、ブレることがありませんでした。
彼はいつも、こんな言葉を胸に抱いていたのです。
「地位か名誉か金か。いや、大切なのは目的だ」。
何のために、これをするのか?
何のために、今、苦しむのか?
目的を失ったとき、ひとは他人を怨み、世の中に不満を抱き、ついには自分を壊してしまいます。
「日本を、欧米諸国に負けない国にしたい」、五代の目的は、常に、そこにありました。
討幕のために、莫大な費用を投じた新政府の経済の逼迫(ひっぱく)は深刻でした。
泣きついた大隈重信に、五代は言います。
「大阪に新しくできる造幣寮で、今までの紙幣を新しい紙幣と取り換え、現在の貨幣価値の挽回をはかりましょう!」
欧米との貿易を最優先とし、大阪の港を再開発。
世界に向けた大阪港を造り上げました。
大阪を元気にすることで、日本を元気にしたい。
大阪をこよなく愛した幕末の賢人・五代友厚が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/25/2021 • 12 minutes, 33 seconds 第三百十六話『ほがらかに生きる』-【大阪篇】物理学者 南部陽一郎-
今年1月、大阪市立科学館で、ある物理学者の生誕100年を記念する企画展示が開催されました。
その物理学者とは、2008年にノーベル賞を受賞した、南部陽一郎(なんぶ・よういちろう)。
企画展のタイトルは、「ほがらかに」でした。
2015年に94歳で亡くなった南部は、生前、この「ほがらか」という言葉を大切にしていました。
「ほがらか」…心に曇りや濁りがなく晴れ晴れした様子、おだやかで明るい様。
南部は、未来を担う子どもたちのために色紙を頼まれると、「大きな夢を抱いて ほがらかに生きよう」と書きました。
彼はインタビューで答えています。
「今の子どもたち、若者は、大変だと思います。とにかく情報が多く、時間の流れが速い。何でも手に入る時代であるからこそ、手の届かないところにある、大きな夢を描いて、それを抱き続けてほしい。目先のことばかり考えていると、世界は痩せ細ります。遠い将来と、遠い過去を大切にしてください」。
南部の幼少期は、戦争による空襲、大震災に大洪水など、過酷な環境下にあり、ほがらかに生きることとは、むしろ対極にありました。
だからこそ、彼には、ほがらかであることこそ、夢を抱き続けるための条件に思えたのです。
若き日に大阪市立大学で教授を務め、晩年も大阪・豊中で過ごし、大阪と縁が深かった南部は、常ににこやかに若者に接し、励ましました。
「失敗は大歓迎。むしろ、科学者なんてものは、失敗や挫折なくして結論にはたどり着けない。試行錯誤というのは簡単だが、一回の失敗で、3年、5年を棒に振ることだってある。でもね、人間は、失敗の中からしか学べないことがあるんですよ」。
先駆者的な研究から「預言者」と言われた、物理学の巨匠・南部陽一郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/18/2021 • 12 minutes, 24 seconds 第三百十五話『逃げない、はればれと立ち向かう』-【大阪篇】芸術家 岡本太郎-
1970年の大阪万博で、べらぼうな建造物を造り、世の中を驚かせた芸術家がいます。
岡本太郎(おかもと・たろう)。
万博から51年が経った今、オブジェを押し込めようとした屋根は取り除かれ、多くのバッシングを受けた『太陽の塔』だけが、千里の丘にそびえています。
今年、生誕110年を迎えた岡本太郎。
再び、ブームが来ています。
特に、このコロナ禍、新しい生活様式にいまだ慣れず戸惑う若者たちが、彼の本を読み、彼の画集を買い求め、勇気やエネルギーをもらっているのです。
岡本のエッセイ集『自分の中に毒を持て』に、こんな一節があります。
「今、この瞬間。まったく無目的で、無償で、生命力と情熱のありったけ、全存在で爆発する。それがすべてだ。そうふっきれたとき、ぼくは意外にも自由になり、自分自身に手ごたえを覚えた」。
大阪万博で、彼は揶揄(やゆ)の集中砲火を浴びました。
「前衛芸術家が国のいいなりになって尻尾を振っていいのか?」
岡本は、そんな非難にはいっさい耳をかさず、己の全存在を賭けて、唯一無二のアートをこの世に送り出したのです。
そのスケールは、破格。
屋根の下におさまるどころか、突き破る。
しかも、最先端のテクノロジー、日本の技術の粋を結集させる博覧会に、縄文時代を想起させるようなオブジェ。
『太陽の塔』の「胎内」には、まさしく、日本古来の祝祭や伝統の痕跡が息づいています。
新しいものと古き良きもの。
社会と個人。
文明と祭り。
相反するもの、とうてい共存などできないと思える二つのものを融合などさせないで、そのまま、同時にとどめるということ。
彼は、若者に言い続けました。
「孤独から逃げるな。誰かに好かれようなんて思うな。自分が自分であるためには、ひとに嫌われることを嫌がってはいけない」
生涯、挑戦を続けた稀代のアーティスト・岡本太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/11/2021 • 11 minutes, 19 seconds 第三百十四話『敗北は成就なり』-【大阪篇】浄瑠璃作家 近松門左衛門-
大阪でその才能を開花させた、江戸時代を代表する浄瑠璃作家がいます。
近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)。
書いた人形浄瑠璃は100本、歌舞伎は50本。
特に50歳を過ぎてから、大阪を舞台に描いた『曾根崎心中』、『心中天網島』、そして『冥途の飛脚』は、時の流れに風化されることなく、後の世に継承され、今も上演され続けています。
浄瑠璃は、歴史を描く「時代物」と、町人の暮らしや情愛を描く「世話物」に分かれますが、近松は「世話物」を得意とし、この3つの大阪心中物は、先の見えない不安や鬱屈した生活を余儀なくされた庶民から絶大な支持を得ました。
あまりの影響力で、作品を真似て心中するひとが現れたため、上演を中止するほどの人気ぶり。
武士や貴族だけのものだった浄瑠璃を、近松は一般庶民に開放したのです。
彼のお墓は日本各地に点在していますが、大阪では中央区谷町にあります。
寺が移転し、墓だけが都会の中にぽつんと残ったさまが、どこか近松の風情と重なります。
彼は、自分の作品が後に残ることなど考えてもいませんでした。
「残れとは、思うも愚か。埋め火の消えぬ間、あだなる朽木書きして」という辞世の句があります。
「埋め火が消えるか消えないか、そのわずかな時間に、残った炭でいたずら書きをしたまでのことです。
たわいなき作品が、後世に残るのを願うのは、まことに愚かなことです」。
今、目の前のひとを楽しませ、感動してもらえるにはどうしたらいいか、それだけを真摯に考え続けた作家の矜持(きょうじ)にも思えます。
坪内逍遥が「東洋のシェイクスピア」と名付けた江戸時代の天才作家・近松門左衛門が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/4/2021 • 13 minutes, 33 seconds 第三百十三話『優しさを育む』-【北海道篇】漫画家 モンキー・パンチ-
北海道の東、釧路と根室の中間に位置する、霧多布湿原。
この日本で五番目に大きな湿原を擁する浜中町は、ある有名な漫画の聖地として知られています。
その漫画とは、『ルパン三世』。
画いたのは、稀代の漫画家、モンキー・パンチ。
本名は、加藤一彦(かとう・かずひこ)。
ペンネームのとおり、日本人離れした絵のタッチや斬新なキャラクター設定で瞬く間に人気を博し、今もなお、多くのファンを魅了し続けています。
彼をデビューから見守った双葉社が出版した、『追悼、モンキー・パンチ。ある漫画家の、60年間の軌跡』では、多くの漫画家が、唯一無二の偉大な先達に惜しみない賛辞を寄せています。
モンキー・パンチは、生まれ故郷の浜中町を生涯、愛し続けました。
町おこしのポスターに、二つ返事で絵を提供。
忙しいさなかにも、足しげく、ふるさとに通い、トークショーや子どもたちの漫画教室など、地域復興のために尽力したのです。
ある日、地域復興プロジェクトの会長がモンキー・パンチに尋ねました。
「昔の霧多布は、砂ぼこりが舞い、家はほとんど木造で、絵に画くと、色は、黒や茶色ばかりになる。なのに先生は、どうして色鮮やかな漫画を画くことができたんですか?」
モンキー・パンチはこう、答えました。
「初めて上京して、上野駅に降り立ったときにね、さまざまな色が一気に目に飛び込んできたんですよ。あふれるくらいに。それはね、もうすごかった。もしボクが都会に生まれていたら、気づかなかっただろうなあ」
大人気作家になっても、モンキー・パンチはいつも謙虚。
腰が低く、誰にでも公平に接する姿勢が人々の記憶に残っています。
幼い頃、北の大地で育まれた優しさは、描くキャラクターたちに投影され、世界中のひとたちに愛される所以になっているのです。
北海道が生んだ、レジェンド。
漫画家、モンキー・パンチが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/28/2021 • 12 minutes, 46 seconds 第三百十二話『人のやりたがらぬことをなせ。人の嫌がる所へゆけ』-【北海道篇】医師 中村哲-
昨年8月29日、30日、北海道札幌駅の地下歩行空間で、高校生による、ある医師の写真展が開催されました。
その医師とは、2019年、アフガニスタンで凶弾に倒れた、人道支援NGO「ペシャワール会」現地代表、中村哲(なかむら・てつ)。
写真展のポスターには、こんな言葉が添えられています。
「平和とは観念ではなく、実態である」。
その言葉どおり、常に行動のひとでした。
日本から、西におよそ6000km、中近東のアフガニスタンは、ヒマラヤ山脈の西の果てに位置する乾燥地帯です。
40年前は、国民の8割が自給自足の農民としてつつがなく暮らしていましたが、気候変動の影響とも言われている日照り、干ばつで、多くのひとびとが飢餓に苦しみながら命を落としました。
医療活動支援を行う医師として現地に入った中村が直面したのは、汚い水を飲まざるを得ず、病気になり、命を落とす子どもたちの多さです。
中村は、患者が増え続ける根源打破に、水源確保という鉱脈を見つけました。
彼は、アフガニスタンに1600本あまりの井戸を堀り、25kmに及ぶ用水路と、9つの堰(せき)をつくり、65万人もの人命を救ったのです。
自然を無視して、経済力や軍事力だけで世の中が変わると錯覚しているのではないかと、全世界に向けて警鐘も鳴らしました。
中村哲は、アフガニスタンのひとたちが、自分たちで補修、再生できる灌漑(かんがい)対策を伝授していきました。
自らの名前が残ることなど、露とも思わずに。
それでも、いまだに現地のひとたちは、緑の大地を指さし、大声でこう叫びます。
「ナカムラのおかげで、砂漠に草木が生えた、ナカムラのおかげで、いま、オレたちは生きている。ナカムラのおかげで…」
彼の棺は、アフガニスタンの国旗に包まれ、搭乗する飛行機まで、ガニ大統領が自ら担ぎました。
一国の長が、血縁でもない他国の人間の棺を肩に置く。
彼がいかにアフガニスタンのひとびとにとって英雄であったかがしのばれます。
常に「あなたが生きる意味とはなんですか?」と問い続けた医師・中村哲が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/21/2021 • 14 minutes, 8 seconds 第三百十一話『枠にとらわれない』-【北海道篇】文化人類学者 山口昌男-
北海道網走郡美幌町出身の、稀代の文化人類学者がいます。
山口昌男(やまぐち・まさお)。
1970年代から、学問や文化の在り方を根底から変える思想論を展開。
浅田彰(あさだ・あきら)や中沢新一(なかざわ・しんいち)と共に、1980年代のニューアカデミズムを牽引しました。
山口の真骨頂は、ジャンルの垣根を越えたこと。
文化人類学、文学、演劇、哲学、美術など、あらゆる境界線を突破したのです。
その思想のフィールドは、地域、国にもおよび、あらゆる民族の多様性に、いち早く注目しました。
「学者っていうのは、そりゃあ、面白い学者のほうがいいに決まっている。いかがわしく世間をすねて、世間を恥じてこその学者。私たちが住んでいる世界は、目に映るものだけではなく、心に映る世界も大切なんですね。明るい部分だけではなく、心の底に沈殿している、もやもやしたものも含めての文化なんだと思います」
と、NHKのインタビューに答えています。
山口は、その言葉のとおり、世の中で光があたる人物や出来事よりも、負けていったもの、虐げられて消えていった文化に脚光をあてました。
特に、生涯のテーマにしたのが、道化。
文学や祭りに登場する道化、トリックスターの意味、意義についての考察は、今も全世界に影響を与えています。
カーニバルにおける道化は、この世とあの世の垣根を、唯一飛び越える存在。
世界に緊張が高まると登場する道化の姿に、ひとびとは、そのバカバカしさに笑い、心に余白が生まれます。
学者は、ある意味、道化として垣根を越える存在であるべきだ、そう唱えた山口は、漫画を描き、フルートを演奏し、さまざまな対談を受け、若者とも積極的に語りました。
今、我々に必要な道化とは何でしょうか?
文化人類学の父、山口昌男が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/14/2021 • 12 minutes, 12 seconds 第三百十話『冷静に今を見る』-【北海道篇】作家 安部公房-
第二次戦後派の旗手として前衛的な手法を開拓し、ノーベル文学賞に最も近い作家と言われた小説家がいます。
安部公房(あべ・こうぼう)。
川端康成の絶大なる評価を受け、1951年、『壁―S・カルマ氏の犯罪』で芥川賞を受賞。
映画化もされた名作『砂の女』や、ダンボール箱を頭からすっぽりかぶった男を主人公にした『箱男』など、都市に生きる人間の閉塞感や現実の不条理を、ち密に積み上げられた文章で描きました。
東京で生まれ、満州で育った安部の本籍地は、開拓民だった両親ゆかりの地、北海道。
作家としての立脚点を自ら、「故郷喪失者」と位置付けていましたが、小学2年生から3年生まで、およそ1年半過ごした、北海道旭川市、当時の東鷹栖町での日々は、くっきりと彼の心に息づいていました。
彼が通ったのは、近文第一小学校。
今年開校125周年を迎えるこの学校に通う通学路が、彼の原風景のひとつかもしれません。
冬、一面の雪景色。
道路も畑も何もかもが雪におおわれて、区別がつかなくなる。
道も、溝も、消える…。
不思議なことに、地面が見えているときよりも、学校までの距離が近く感じたと、安部は語っています。
区別なき世界。
安部少年が満州で受けた教育は、「五族協和」。
複数の民族が共存する理想国家を目指すものでしたが、現実とのギャップに戸惑います。
横行する、差別。
民族多様性に逆行する出来事が、あらゆるところで起きていました。
やがて終戦を迎え、安部は、満州と日本という二つの祖国を同時に失ってしまうのです。
常に根無し草。
常に現実と理想のギャップに悩む。
そんな寄る辺ない人生で、彼が自らに課したのは、「今を冷静に見つめる」ということでした。
慌てず、騒がず、すぐに結論を出さなくていい。
でも、今を凝視する。
そこから生まれてくる矛盾や哀しさを、小説にしたのです。
20世紀文学を牽引した文豪、安部公房が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/7/2021 • 12 minutes, 48 seconds 第三百九話『隠れた現実を知る』-【東京篇】民俗学者 柳田國男-
今から146年前の7月31日に生まれた、日本近代民俗学の父がいます。
柳田國男(やなぎた・くにお)。
彼が民俗学を体系化するまで、日本における「歴史の研究」は、主に、名をなした偉人の政治的な大事件を扱っていました。
しかし、柳田が目を向けたのは、名もなき市井の人々。
度重なる自然災害や歴史的な出来事に翻弄され、それでも力強く生きてきた庶民の生活や風習に光を当てたのです。
民間伝承や土地に伝わる昔話にも耳を傾け、常に「日本人とは何か?」という問いを追及しました。
彼が民俗学を「農民の暮らしを少しでも向上するための学問」と位置付けたのは、幼い頃の経験と関係があります。
のちに柳田は自らの生家を「日本一小さな家」と称しましたが、貧しい一家は、7人で狭い家に暮らしていました。
毎日、喧嘩が絶えない。
子ども心に「家が狭いせいだ」と思ったと言います。
やがて兄嫁は耐えきれず、家を出て行ってしまいました。
さらに何年にも及ぶ、飢饉を体験。
貧しさや家の狭さはひとの心まで変えてしまう。
そもそも、どうして貧しさが生まれてしまうのか…。
柳田少年の心に芽生えた疑問が、民俗学の扉を開いたのです。
「歴史が教える最も実際的な知恵は、民族が進展の可能性を持っていることである」
そう彼は、唱えました。
民は、常に向上する可能性を秘めている。
それを阻むものとは何か、逆にその背中を押すものとは何か、ヒントは歴史にある。
土地にある。
見過ごされてきた現実にある。
柳田は、それらを繙くため、日本中を訪ね歩き、民俗学を開拓したのです。
東京都世田谷区成城で87年の生涯を終えた偉人・柳田國男が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/31/2021 • 14 minutes, 27 seconds 第三百八話『歩みを止めない』-【東京篇】アートディレクター 石岡瑛子-
日本のみならず、世界にその名を轟かせ、今もなお、多くのクリエイターに影響を与え続けているアートディレクターがいます。
石岡瑛子(いしおか・えいこ)。
フランシス・フォード・コッポラから絶大なる信頼を得て、映画『ドラキュラ』でアカデミー賞衣装デザイン賞を受賞。
マイルス・デイヴィスのアルバムジャケットのデザインで、日本人として初めてのグラミー賞を受賞するなど、彼女の目覚ましい活躍・功績は、枚挙にいとまがありません。
昨年11月から今年2月まで東京都現代美術館で開催されていた彼女の大回顧展『血が、汗が、涙がデザインできるか』は、連日、多くのひとで賑わいました。
その今も衰えることのない人気ぶりは、1960年代にあって、早くも、ジェンダーや民族多様性を世に訴えていた作品からうかがい知ることができます。
女性の時代の狼煙をあげたとされる化粧品会社の広告や、映画、オペラ、演劇、サーカス、ミュージックビデオ、そして、オリンピックのプロジェクトに参画。
その唯一無比のセンスと個性は、世界を圧倒しました。
彼女の評伝『TIMELESS 石岡瑛子とその時代』を書いた編集者・河尻亨一(かわじり・こういち)は、ニューヨークでの単独インタビューを許され、石岡の肉声を次の世代に残すことに成功しました。
彼は、石岡の激しすぎるほどの情熱を知り、「すべてが試みの途中」という言葉を心に刻みました。
2012年1月21日に、73歳で亡くなる直前まで参画していた映画は『白雪姫と鏡の女王』。
彼女が亡くなったあと公開され、第85回アカデミー賞の衣装デザイン賞にノミネートされました。
最後まで歩みを止めなかったクリエイターのレジェンド、石岡瑛子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
第三百七話『謙虚であること』-【東京篇】科学者 猿橋勝子-
昨年、生誕100年を迎えた日本の女性科学者の草分け、猿橋勝子(さるはし・かつこ)。
彼女の名が世界的に知られるようになった研究は、海における放射能汚染です。
ビキニ環礁の水爆実験で降った「死の灰」を分析し、核兵器による放射能汚染に警鐘を鳴らしました。
その成果は、1963年に成立した「部分的核実験禁止条約」につながったのです。
「科学技術は、人類の幸せのために役立てなければならない」。
その確固とした信念は生涯変わることなく、女性科学者を顕彰する「猿橋賞」の創設で、女性に活躍の場が拡がるよう、心を砕きました。
その背景には、彼女自身が体験した、女性科学者として歩みを続けることの難しさがあります。
当時、女性は大学に入ることを許されず、高等女学校のあとの専門学校が、女性の最高学府でした。
芝・白金に生まれ、電気技師の父を持ち、満ち足りた環境で育った猿橋。
両親は、女性の教育に熱心だったのですが、それでも「女の子は二十歳になったらお嫁にいくもの」という世間の常識に従おうとしました。
「雨はどうして降るのだろう」と考えた少女は、幾多の苦労を乗り越え、中央気象台研究室に入ります。
戦中戦後という激動の中にあっても、たゆまぬ研究を続け、高度経済成長を遂げる世の中の大気汚染に目を向けます。
それも、雨がきっかけでした。
乱立する工場。そこから吐き出される煙。
彼女は、雨や海の成分を調べ、科学が果たして本当に人間を幸せに導いているかを検証したのです。
彼女は、知識や技術だけでなく、「人間的な内容」が大事だと説きました。
人間性が豊かでないと、科学を使いこなせない。
科学は、人間の幸せのためにあるべきだと言い続けたのです。
SDGsが叫ばれる今だからこそ、再び学びたい賢人、猿橋勝子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
7/17/2021 • 13 minutes, 12 seconds 第三百六話『現実を笑う』-【東京篇】戯作者 山東京伝-
江戸時代後期に活躍した、名前に「東京」という字を持つ戯作者がいます。
山東京伝(さんとう・きょうでん)。
本名は、伝蔵。京橋に住んでいる伝蔵だから、京伝。
あるいは、屋号である京屋の伝蔵だから、京伝と呼ばれた、など諸説あります。
戯作者の戯作とは、もともと位の高い知識人、たとえば武士が名前を隠し、戯れに書いた作品を意味します。
江戸時代初期に木版印刷が普及し、それまで貴族や武家のものだった書物が庶民の手にも渡るようになりました。
黄色い表紙が目印の黄表紙という洒落と風刺を効かせた大人向けの読み物が大流行します。
絵と文章でつづる物語。今の世でいう漫画に近いものです。
葛飾北斎や喜多川歌麿も挿絵を担当しました。
この黄表紙で大ベストセラー作家だったのが、山東京伝です。
京伝は、浮世絵師としても名をなした才人。
彼が書く痛快でウイットに満ちたお話や挿絵は、江戸中のひとびとの心をつかみました。
たとえば、大ヒット作『江戸生艶気樺焼』は、こんな話です。
資産家の息子・艶二郎は、とにかく女にモテたい。
しかし、残念なことに大きな団子鼻で、二枚目とは程遠い。
彼は女にモテるために、大金を投じ、ありとあらゆる手段を試みるのです。
架空の女の名前を刺青で彫って、やきもちをやかせる作戦、町芸者をお金で雇い、自分のファンになってキャーキャー言ってもらう作戦、挙句の果てには、心中未遂を行い、世間の話題をさらうという作戦など…。
どれも失敗に終わりますが、やがて、心中未遂のために雇った芸者と夫婦になって、ハッピーエンド。
艶二郎は、庶民の間で大ブレークし、京伝がデザインした艶二郎の手ぬぐいは飛ぶように売れました。
富める者は富み、貧しきものは貧しいままの格差社会、さらに度々の飢饉であえいでいた庶民たちは、京伝の描くフィクションに酔い、生きる活力をもらっていたのです。
町人でありながら、戯作者として一世を風靡した京伝は、現実を違う角度から見せる天才でした。
洒落ていて、粋。
そんな生き方を彼はどうやって手に入れたのでしょうか?
山東京伝が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/10/2021 • 12 minutes, 43 seconds 第三百五話『ひとりを楽しむ』-【東京篇】小説家 永井荷風-
日和下駄とこうもり傘で東京の下町をくまなく歩き、街のうつろいを40年に渡り、日記にしたためた文豪がいます。
永井荷風(ながい・かふう)。
荷風は、その日記『断腸亭日乗』を亡くなる前日まで書き続けました。
激動の世相をとらえ、戦時中は、防空壕の中でも筆を走らせたと言われています。
独特のユーモアとペーソス。
何より自由な荷風のものの見方、文体は、今も多くの読者を魅了しています。
文京区春日に生まれた彼の筆塚が、荒川区南千住の寺にあります。
通称、三ノ輪の投げ込み寺「浄閑寺」。
吉原の遊女が眠るこの寺に、荷風の詩碑があるのは、彼が花柳界を愛したことに起因しています。
『断腸亭日乗』を書き始めた37歳のときから、彼は、独身を謳歌し、自由であることを最大のテーマに掲げました。
「この世で最も強い人間とは、孤独であるところのひとである」
というイプセンの言葉を実践するように、荷風は、弟子に「ひとりぼっちで寂しくないですか?」と問われると、こんなふうに答えました。
「あなたは、老人のひとりぐらしを見て気の毒がるかも知れないが、ぼくはひとりで暮らしていても、自由という無二の親友と一緒にいるということを見抜いてくれなきゃ困りますぜ」
広津柳浪や森鴎外に師事し、文学を学び、アメリカやフランスで遊学。
慶應義塾大学文学部の主任教授になり、『三田文学』を創刊。
谷崎潤一郎や泉鏡花のデビューの後押しをした稀代の知識人は、世間に軽蔑されることを厭わず、とにかく自由であることを守り続けたのです。
「ひとの顔色ばかりうかがって、大切なものを見失うなよ」
荷風は、ひとりを楽しむことを、己の生涯を賭けて推奨したのかもしれません。
作家・永井荷風が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/3/2021 • 12 minutes, 9 seconds 第三百四話『己を生かす場所を探す』-【長野篇】女優 松井須磨子-
日本初の近代演劇女優のひとりに名を連ねる、長野県出身の舞台俳優がいます。
松井須磨子(まつい・すまこ)。
最近、NHK朝の連続テレビ小説の、登場人物のモデルとして取り上げられ、話題になりました。
ドラマの中で演じていたのが、イプセンの『人形の家』。
松井須磨子は、近代女性の自立をテーマにしたこの作品で、新劇女優の地位を不動のものにしたのです。
『人形の家』を演出したのは、彼女が尊敬し、愛した演劇人、島村抱月(しまむら・ほうげつ)でした。
抱月が流行していたスペイン風邪に倒れ、命を落とすと、須磨子はあとを追い、32歳の若さでこの世を去ります。
鼻の整形手術や、二度の離婚。
妻子ある男性との恋愛や歯に衣着せぬ物言い。
スキャンダルに事欠かない波乱の人生でしたが、須磨子自身は、ただ、己が信じた芸術に真摯に向き合いたいという一心だったと語っています。
「私は女優としての誇りよりも屈辱の方をより多く感じて居ます。迫害せられて居ます。全体『女』というものは何の場合にも人に媚を呈さなければならないものでしょうか?」
ごくごくフツウに生きたいと望む自分と、舞台女優として芸術に身を捧げたい自分。
常に、その葛藤に悩み続けた生涯でした。
彼女が生まれた長野県松代町には、生家と彼女が眠る墓があります。
松代町は、江戸時代、松代藩の城下町として栄え、須磨子も士族の家系でした。
長野に戻ると、実家の目印は、二つ窓の蔵。
白壁の土蔵が見えると、「ああ、ふるさとに帰ってきた」と、体中の緊張が解けたと言います。
女性として世間と闘い、自らの心に嘘がつけず、傷つくことが多かった彼女にとって、ふるさとの景色、風や匂いは、唯一、ホッとできる拠り所でした。
女優として走り続け、散った、32年間。
松井須磨子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/26/2021 • 13 minutes, 11 seconds 第三百三話『悔しさを忘れない』-【長野篇】葛飾北斎-
世界的に有名な江戸時代の浮世絵師が、再び脚光を浴びています。葛飾北斎(かつしか・ほくさい)。
先月末に公開された映画『HOKUSAI』は、青年期の北斎を柳楽優弥、晩年を田中泯が、それぞれ熱演。
謎に包まれた孤高の絵師の生涯を、スクリーンに焼き付けました。
宮本亞門演出の舞台『画狂人 北斎』も今年再演され、どんなことがあっても、くじけず、筆を置くことのない北斎の姿は、私たちの心に大切な何かを投げかけているようです。
葛飾北斎が、初めて長野県の小布施という町に足を踏み入れたのは、83歳だったと言われています。
当時はもちろん電車もクルマもなく、老体に鞭打って、命からがら遥か彼方を目指した理由。
そこには、彼の絵に対する、決して消えない情熱の証がありました。
その頃、江戸は、天保の大飢饉で混乱を極め、ひとびとは不安にさいなまれていました。
そんなときこそ、娯楽、歌舞伎や音楽が必要であるはずなのに、幕府は、天保の改革と称し、綱紀粛正の名のもとに、文化芸術を贅沢だと弾圧。
浮世絵を描くこともままならない世の中になっていました。
「画きたいものを、自由に画けない」。
それは、北斎にとって「死」を意味していたのです。
小布施で父のあとを継いでいた豪農、高井鴻山(たかい・こうざん)は、まだ三十半ばすぎでしたが、そんな北斎に、自由に絵を画く場を与えました。
「北斎先生、どうか、好きな絵を好きなように描いてください。こんな世の中だからこそ、どんなものにも囚われていない、先生の常識を突き破る絵が必要なんです。」
鴻山の言葉に、北斎は泣きました。
そうして、ふところから筆を取り出し、一心不乱に、砕け散る浪、怒涛図を画いたのです。
おぼろげな視力、ふるえる右手で。
時代が悪いと、ひとは言います。
ですが、それに抗って闘った先人も、確かにいました。
葛飾北斎が今の私たちに教えてくれる、明日へのyes!とは?
6/19/2021 • 12 minutes, 10 seconds 第三百二話『天国に座席はいらない』-【長野篇】小説家 平林たい子-
波乱万丈な人生をたくましく生き抜いた、長野県出身のプロレタリア作家がいます。
平林たい子(ひらばやし・たいこ)。
女流文学会会長だった彼女は、姐御的な存在として後進の女性作家を育てる一方で、女傑と呼ばれ、男の論理が幅をきかす文壇に一石を投じました。
歯に衣着せぬ発言。エネルギッシュな創作欲。
さぞかし怖いイメージかと思いきや、会ったひとの脳裏に残っている彼女の印象は、皆一様に、美しい笑顔でした。
貧しい少女時代、アナーキストととの同棲、検挙。
朝鮮や満州への逃避行や病。
人生を翻弄するさまざまな出来事を、彼女は、小説にすることで前へ前へと進み続けました。
思うがままにならない人生や社会の理不尽から、目をそらさずに。
彼女の出身地、長野県諏訪市にある「平林たい子記念館」。
「郷里のために役に立つことをしたい」という遺志を継いで建てられました。
「地元の特徴のある建材を使った、出来るだけ質素なものを」という平林の願いどおり、屋根には諏訪特産の鉄平石を張りました。
展示室には使っていた居間の建具を利用し、遺品を展示しています。
開館は、基本日曜日だけ。
ただし予約をすれば、管理人さんが鍵を開けてくれて、中に入ることができます。
そんなどこか素朴なスタイルが、彼女の人格に重なるように思えます。
「記念館を建てるのなら、とにかく質素なものを」と願い、自らの私財を文学賞創設に捧げ、「文学に身を染めながら、なかなか日の目をみることがなかったひと」を、賞で讃えました。
記念館の前の石碑に刻まれた文字は、彼女の口癖だった言葉です。
「私は生きる」。
生前、彼女は言っていました。
「私は生きた、そしてなしとげた。だから、神様の右でも左でも、天国に座席はいらない」
来年没後50年を迎える小説家・平林たい子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/12/2021 • 13 minutes, 8 seconds 第三百一話『自分にyes!と言い続ける』-【長野篇】ジョン・レノン-
軽井沢をこよなく愛したアーティスト、ジョン・レノン。
昨年、生誕80年、没後40年を迎え、展覧会やイベントが数多く企画されました。
その流れは今年も続き、彼のファースト・ソロ・アルバム『ジョンの魂』が発売から50周年になることを記念して、初のマルチ・フォーマットでリリースされるなど、今もなお、ジョン・レノンは私たちの傍らにいます。
昨年出版された、藤本国彦 著『ジョン・レノン伝』は、日本人による初めての本格評伝として話題になりました。
その本の帯には、こう記されています。
―「ジョン・レノン現象」は続いている―
マスコミの至る所で叫ばれる「SDGs」のほとんども、いち早くジョンが唱えていました。
ジョンが、日本の軽井沢で過ごした時間こそ、「おうちじかん」の先駆けだったのかもしれません。
そして何より、今こそ注目すべきが、yes!のひとこと。
まわりのひとやモノ、社会や他人の言動に、「NO」と声高に言う声ばかりが目立つ昨今。
自分にyes!と言い、他人にyes!と言わなくては、先に進めない世の中になってきたような気がします。
ジョン・レノンが、後に伴侶となるオノ・ヨーコの個展を初めて訪れたとき、彼の精神状態は決してよくありませんでした。
世界的な名声を手に入れたビートルズ。
誰もがうらやむ富を得ても、ツアーに次ぐツアーで、彼の心は疲弊していたのです。
まるで富むことだけを目標に置いた資本主義の権化のように。
ニューヨークの個展会場。
黒髪の日本人の女性は、まず、ジョンにあるカードを渡します。
そこには「呼吸しなさい」と書かれていました。
会場を進むと、大きな脚立が置かれ、天井に絵があったのです。
虫眼鏡でのぞいたその額の中には、たったひとつの単語がありました。
小さく、小文字で、「yes」。
ジョン・レノンはオノ・ヨーコに、yesをもらったのです。
おそらく、生まれて初めて。
6/5/2021 • 11 minutes, 58 seconds 第三百話『出会いを大切にする』-【栃木篇】詩人 野口雨情-
童謡『シャボン玉』や『十五夜お月さん』で知られる、詩人・野口雨情(のぐち・うじょう)。
彼は、最晩年の一年あまりを、栃木県宇都宮市鶴田町で過ごしました。
61歳のときに発症した脳出血の療養と、いよいよ激化する戦争から逃れる疎開のため、妻のふるさとに移り住んだのです。
栃木百名山のひとつ、羽黒山を望む山麓で、雨情は、今までの人生では考えられないほど、穏やかで優しい時間に包まれました。
父の事業の失敗、そして死。
我が子を失い、酒におぼれた日々。
18歳で詩を書き始めますが、世の中に認められるまで、およそ20年かかっています。
全国を放浪し、仕事をしても続かず、安住の地を見つけることができませんでした。
それでも、創作には真摯に向き合い、子どもたちの心に少しでも灯りをともしたいと、童謡を書き続けたのです。
栃木で暮らした彼の住まいは「野口雨情旧居」として有形文化財に登録され、今も、彼の過ごした日々を偲ぶことができます。
ここで遺した最後の原稿。
「空の真上の お天道さまよ
宿世来世を 教えておくれ
今日は現世で 昨日は宿世
明日は来世か お天道さまよ
遠い未来は 語るな言うな
明日という日を わしゃ知らぬ
昨日暮らして 今日あるからにゃ
明日という日が ないじゃない」
雨情はあらためて、今日を生きることの素晴らしさに気づき、その今日を支えてくれる昨日を、愛おしく思い出したのでしょう。
これまで会ったひとたちの顔をひとりひとり思い出しながら、彼は、62年の生涯を閉じたのです。
ひととの出会いこそ、自分の財産だったと感じながら。
北原白秋、西條八十とともに、童謡界の三大詩人と謳われた流浪の作家・野口雨情が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
第二百九十九話『信念を貫く』-【栃木篇】政治家 田中正造-
環境を守るために命がけで戦った、栃木県出身の偉人がいます。
田中正造(たなか・しょうぞう)。
日本初の公害事件と言われる、足尾鉱毒問題。
明治時代、栃木県の足尾銅山では、たくさんの銅が採掘されていましたが、銅を掘った時に出る鉱毒をそのまま渡良瀬川に流していたのです。
毒はたまり、田畑を枯らし、魚や家畜が死に、ついには下流に暮らす人々にまで影響が出ました。
政治家だった田中正造は、この問題に真摯に取り組み、国会でも発言。
即刻、銅山は採掘を停止するよう、訴えました。
彼の発言で社会問題になりましたが、騒ぎが大きくなることを恐れた政府は、話し合いで収束をはかろうとします。
そんなとき、洪水が起き、川が氾濫。
鉱毒の被害は、栃木県のみならず、群馬、埼玉、東京、千葉へと拡がってしまいました。
今から120年前の、1901年12月10日。
田中正造は、当時としては考えられない行動に出ます。
明治天皇に、直接訴える。
直訴状をたずさえ、議院開院式の帰途につく天皇のもとへ歩み寄ったのです。
取り押さえられ、直訴状を渡すことはできませんでしたが、どんなに捕えられ、何度拷問を受けても、自分の主張を曲げませんでした。
弱いもののために、困っているひとのために、自分にできることを精一杯やる、それは、幼い日に母が教えてくれた流儀でした。
彼が遺した、こんな言葉が、今の私たちの心に刺さります。
「真の文明は、山を荒らさず、川を荒らさず、村を破らず、人を殺さざるべし」
今年、生誕180年を迎える栃木の偉人・田中正造が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/22/2021 • 13 minutes, 40 seconds 第二百九十八話『コンプレックスと共に生きる』-【栃木篇】作曲家 船村徹-
『王将』『矢切の渡し』など、数々のヒット曲を生んだ、栃木県出身の偉大な作曲家がいます。
船村徹(ふなむら・とおる)。
美空ひばりや北島三郎など名立たる歌手に楽曲を提供。
手がけた曲は、5500を越え、今も歌番組で特集が組まれ、多くのひとに歌い継がれています。
日光街道ニコニコ本陣に併設された「日本のこころのうたミュージアム・船村徹記念館」を訪ねれば、彼の足跡や作曲した音楽の素晴らしさに触れることができます。
彼が紡ぎだした、深い情愛を感じる旋律は「船村メロディー」と呼ばれていますが、そのバックボーンには、ふるさと・栃木が関係している、と言ってもいいかもしれません。
18歳で東京の音楽学校に入学した船村は、自らの栃木弁に激しいコンプレックスを持っていました。
見渡せば、同級生は都会の裕福な家の子弟ばかり。
訛りを笑われて以来、口をきけなくなってしまったのです。
そんな彼の前に現れたのが、2歳上の、声学科に籍を置く、高野公男(たかの・きみお)でした。
高野は茨城県出身。
「おれは茨城だっぺょー。栃木のどこなんだっぺゃー」
そう話しかけられて、すぐに仲良くなりました。
やがて、二人で曲をつくります。
栃木弁が悩みだった船村に、高野は、こう言いました。
「俺は茨城弁で歌詞を書くから、お前は栃木弁で作曲しろ」
春日八郎が歌った『別れの一本杉』は、こうして誕生したのです。
栃木弁のような独特の抑揚。
船村の真骨頂は、親友の潔い助言から産み出されたものでした。
もし、船村が高野に出会わなければ、コンプレックスの渦中に沈み、作曲家になっていなかったかもしれません。
自分の持っているものを大切にする。
そんな思いが、船村の背中を押し続けたのです。
日本演歌界のレジェンド、大作曲家・船村徹が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/15/2021 • 12 minutes, 45 seconds 第二百九十七話『たったひとりしかいない自分を大切にする』-【栃木篇】作家 山本有三-
今も読み継がれる小説『路傍の石』を書いた、栃木県出身の作家がいます。
山本有三(やまもと・ゆうぞう)。
栃木市の文学碑には、『路傍の石』のこんな一節が自然石に刻まれています。
「たったひとりしかない自分を、たった一度しかない一生を、ほんとうに生かさなかったら、人間、生まれてきたかいがないじゃないか」
この平井町の山本有三文学碑は、有三が昭和35年、栃木市名誉市民に推挙されたことを記念して建てられました。
昭和38年3月9日の除幕式には、当時78歳だった有三本人が出席しています。
現在、「こどもの読書週間」の最中ですが、学級文庫に必ずと言っていいほど置いてある『路傍の石』は、ドイツ文学の影響を受けた有三が書いた、ビルドゥングス・ロマン、教養小説です。
主人公・吾一は、貧しい家庭に生まれたがゆえに苦労をしますが、さまざまなひとや出来事に会いながら成長していきます。
奉公先から逃げて来たり、大学進学を目指すところなど、主人公・吾一と有三の人生は一部重なりますが、彼は自分の生き方と主人公の人生を同一視されることを嫌いました。
山本有三は劇作家としてデビューし、のちに小説を書きますが、後半生は子どもたちの国語教育に心を砕きました。
児童書『日本少国民文庫』の刊行、本の入手が困難な戦時中は自宅を開放して、子どもたちが本を読める場所を提供したのです。
さらに政治の世界に足を踏み入れ、新仮名遣いの制定や、当用漢字の整理などに尽力しました。
彼は、生まれつき体が弱く、わずか生後20日あまりで、医者から死の宣告を受けました。
日々の癒しは、本を読むこと。
本を読んでいるときだけ、自分が生きている手応えを感じました。
誰よりも死がそばにあったので、彼には「たった一度の人生」という意識が強かったのかもしれません。
読みやすい文体で子どもから大人まで多くの読者を魅了する作家・山本有三が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
第二百九十六話『悔いのない人生を選ぶ』-【栃木篇】画家 田中一村-
「日本のゴーギャン」と言われる、栃木県出身の孤高の画家がいます。
田中一村(たなか・いっそん)。
亜熱帯の植物や鳥、ナイーフ派の作風は、アンリ・ルソーにも似て、独自の世界を構築しています。
一村の人気は留まることがなく、今年、京都の美術館「えき」KYOTOにて、「田中一村展 奄美へとつづく道」という展覧会も開催される予定です。
その展覧会で謳われたとおり、彼は失意の中、単身50歳になってから奄美大島に渡りました。
そこで出会う、南国の景色や風、果物や野菜、植物・動物に心惹かれ、絵のモチーフにしたことで、「日本のゴーギャン」と言われるようになりました。
一村は、幼い頃に神童と言われ、絵の才能もずば抜けていましたが、なぜか絵画展には、ことごとく落選しました。
めげずに何度応募しても、また落選。
結局、中央画壇に入ることはできませんでした。
絵も売れず、家を追われ、貧困のどん底に突き落とされても、絵を画くことを続けました。
彼は晩年、かつて居候させてもらった医師に、奄美からこんなハガキを書きました。
「三か年もの間オカネの心配もなく何にも掣肘(せいちゅう)されず、絵の研究ができるなんて、私の生涯に未だ嘗つて(いまだかつて)無かったことです。運命の神のこの大きな恵に感謝して居ます。
これが私の絵の最終かと思われますが、悔いはありません。
旅行して視察写生して画室に帰って描くのに比すれば、材題の中で生活して居ることは実に幸福です」
一村が、奄美で画いた最高傑作のひとつ『不喰芋と蘇鐵』。
世間一般に認められない自分を、クワズイモになぞらえたのでしょうか。
この絵は決して売りたくないと、周囲に話したと言います。
どんな境遇にあっても、悔いのない人生を送りたい。
そう願った伝説の画家・田中一村が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/1/2021 • 12 minutes, 47 seconds 第二百九十五話『自分にしかできないことを極める』-【高知篇】植物学者 牧野富太郎-
百花繚乱の春、4月24日は、ある偉人の誕生日です。
その偉人は、高知が生んだ「日本の植物分類学の父」、牧野富太郎(まきの・とみたろう)。
彼が残したおよそ40万点とも言われる標本や観察記録は、野に咲く草花から野菜まで幅広く、世界中の植物学者から驚きと賞賛を得ました。
命名した植物も1500種類以上を数え、一生を植物学に捧げたのです。
牧野が94歳の生涯を閉じた翌年、1958年、彼のふるさとに高知県立牧野植物園ができました。
五台山の起伏を生かした、およそ8ヘクタールの園内には、3000種類以上の、牧野博士ゆかりの野生植物たちが四季を彩っています。
また牧野富太郎記念館も併設されており、遺族から寄贈された蔵書およそ4万5000冊や、直筆の原稿やスケッチなどがおさめられ、博士の功績を辿ることができます。
牧野は、小学校を中退でありながら、理学博士という学位を得ました。
その道のりは、決してたやすいものではありませんでした。
権威による研究妨害や、貧しさ。
どんな困難に直面しても、彼は、常に植物と向き合い、誰よりも植物を愛し、常に原点に戻ることで前に進みました。
彼は、こんな言葉を残しています。
「草木に愛を持つことによって人間愛を養うことができる。思いやりの心、私はわが愛する草木でこれを培い、その栄枯盛衰を観て人生なるものをも解し得た」。
牧野は、この世に雑草などという名の植物はないという思いにあふれたひとでした。
全ての植物の命に意味があるように、人間も誰一人、無駄な命などない。
慈しみの精神も、野に咲く草木が教えてくれました。
植物学の神様・牧野富太郎が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/24/2021 • 13 minutes, 31 seconds 第二百九十四話『ないものを探し続ける』-【高知篇】小説家 倉橋由美子-
今も、多くの作家に多大な影響を与え続ける、高知県出身の小説家がいます。
倉橋由美子(くらはし・ゆみこ)。
小説『パルタイ』で鮮烈なデビューを飾り、いきなり芥川賞候補になったのが、24歳の時。
以来45年間に及ぶ作家生活で、『暗い旅』『聖少女』というフランス文学に影響を受けた小説や、シェル・シルヴァスタインの『ぼくを探しに』、サン=テグジュペリ『星の王子さま』の翻訳など、多くの作品を残しました。
『ぼくを探しに』の訳者あとがきに、彼女はこんな文章を書いています。
「いつまでも自分のmissing pieceを追いつづける、というよりその何かが『ない』という観念をもちつづけることが生きることのすべてであるような人間は芸術家であったり駄目な人間であったりして、とにかく特殊な人間に限られる」
何かがない。
通常、人間はその感覚をどこか別の場所に置き去り、日常生活の中に入り込まないようにしています。
でも、倉橋はその感覚を見つめることで、創作に向き合ったと言えるかもしれません。
彼女は、高校時代まで高知県で暮らしましたが、土佐人の気質をこう評しています。
「全体主義的な気分で組織とか統制とか固い結束とかを保持していくことがどちらかと言えば不得意」。
さらに、「個人主義的傾向が強い」。
倉橋自身、学生運動に身を置くこともありましたが、群れることが苦手で、作家になってからも文壇になじめませんでした。
男女についても、土佐人の特質をこんなふうに述べています。
土佐の男は「いごっそう」。
「いごっそう」の美点は、独善的であり、その善を他人に施す押しつけがましさをもっていない点にあるとし、土佐の女を表す「はちきん」を、男を男というだけで尊敬する気持ちは薄く、男のために耐え忍ぶ気などさらさらないと説明しています。
従来の純文学の中に描かれる女性像の偏りに注目し、男性の主人公の前に都合よく現れる女性を指摘しました。
いまあるものを疑い、ここにないものを探す旅。
それは茨の道だったに違いありません。
でも、困難な道を歩いたからこそ、多くの作家が彼女の足跡をたどり、励まされているのです。
唯一無二の小説家・倉橋由美子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/17/2021 • 12 minutes, 51 seconds 第二百九十三話『遊び心を持ち続ける』-【高知篇】漫画家 横山隆一-
戦前戦後の激動期、国民に寄り添い、国民に笑顔を届け続けた、高知県出身の偉大な漫画家がいます。
横山隆一(よこやま・りゅういち)。
日本の漫画史に名を刻む代表作『フクちゃん』は、『東京朝日新聞』東京版に連載された『江戸っ子健ちゃん』の脇役からスタートしました。
その腕白ぶりは多くのひとに愛され、主役となり、さまざまな活躍を経て、1956年、ついに全国紙『毎日新聞』で連載がスタートします。
以来、連載は15年間、5,534回にも及び、終了にあたっては、日本中に惜しむ声があふれました。
高知市にある「横山隆一記念まんが館」は、来年開館20周年を迎えます。
常設の「フクちゃん通り」では、ノスタルジックな昭和の世界にタイムスリップすることができます。
また、漫画を中心におよそ10,000冊以上が無料で閲覧できる「まんがライブラリー」も人気を博しています。
この記念館は、ただ単に漫画家・横山隆一の多岐にわたる活動の足跡を紹介するだけにとどまらず、漫画王国・高知の中心的な存在として、全国、そして世界に漫画文化を発信しているのです。
「横山隆一記念まんが館」の“まんが”という言葉が、ひらがなで表記されているのが象徴的に思えます。
横山が描く漫画は、素朴でシンプル。
戦争や災害など、有事にあっても、庶民の生活に根差した、あたたかいユーモアに包まれていました。
一方で人間が持つ哀しさや弱さを鋭く見つめ、シニカルな中にも「それでいいんだよ、そのままでいいんだよ」という視点を忘れなかったのです。
彼は自叙伝に『わが遊戯的人生』というタイトルをつけました。
遊ぶこと。
それこそが彼の人生の最大のテーマでした。
少年の心を持っていたから、遊び続けられたのか。
遊び続けたから、少年の心を持ち続けられたのか。
彼は晩年も、笑顔で語っています。
「忙しいときこそ、遊ぶ。それが最高に楽しいね」
漫画家として初の文化功労者に選ばれた、日本漫画界のレジェンド・横山隆一が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/10/2021 • 13 minutes, 49 seconds 第二百九十二話『自然とつながる』-【高知篇】物理学者・随筆家 寺田寅彦-
戦前の高名な物理学者でありながら、夏目漱石 門下生として文学にも造詣が深かった、いわば二刀流の賢人がいます。
寺田寅彦(てらだ・とらひこ)。
高知県高知市にある寺田寅彦記念館の建物は、寅彦が4歳から19歳まで過ごした旧宅を復元したものです。
この記念館は、昭和42年に高知市史跡に指定され、当時のたたずまいを残しています。
最近再び、彼の随筆が脚光を浴びているのをご存知でしょうか。
テーマは、災害。
今からおよそ90年前、寅彦は、こんな文章を書いています。
『津浪と人間』より
・・・「非常時」が到来するはずである。
それは何時だかは分からないが、来ることは来るというだけは確かである。
今からその時に備えるのが、何よりも肝要である。・・・
寺田寅彦のこの一節は、昭和8年、「昭和三陸地震」が東北地方を襲った2か月後に発表されました。
彼はたびたび、災害について、自然とのつき合い方について言及し、近年、『天災と日本人』という随筆集が刊行されました。
彼は、こう主張しています。
「文明が進めば進むほど、天然の暴威による災害がその激烈の度を増す」。
寅彦は、自然と「向き合う」という考え方に疑問を抱いていました。
むしろ自然とどう「つながる」か、そして、我々人間同士の「つながり」にも注目していたのです。
物理学者ゆえの冷静な英知と、名随筆家、俳人としての細やかな機微で、世界のしくみを読み説こうと試みた彼だからこそ、今、再評価されているのでしょう。
寅彦の人生を決定づけたのは、熊本の高校時代に出会った二人の教師でした。
ひとりは、物理学の田丸卓郎(たまる・たくろう)、もうひとりが英語教師だった夏目漱石です。
まさしく、ひととのつながりが、稀代の賢人を産んだのです。
今もファンを魅了する文章の達人・寺田寅彦が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/3/2021 • 12 minutes, 12 seconds 第二百九十一話『全ては自分の中にある』-【岩手篇】映画監督 相米慎二-
今もなお、国内外のアーティストに影響を与え続ける映画監督がいます。
相米慎二(そうまい・しんじ)。
岩手県盛岡市で生まれた彼は、1980年、薬師丸ひろ子出演の『翔んだカップル』で監督デビュー。
翌年の『セーラー服と機関銃』で興行的に大成功をおさめ、1985年の『台風クラブ』は、第一回東京国際映画祭でグランプリを受賞し、名実ともに名監督の座にのぼりました。
その徹底した演技指導は、俳優を追い詰め、時に涙を流しても、相米は容赦しませんでした。
演技経験のあまりない少年少女にも、何回も何回も繰り返し演じさせました。
彼は俳優に、自分で考えることを強いたのです。
「おまえの役なんだから、もっと他にあるだろう! もっと面白いものがあるだろう! 役っていうのはな、役者がゼロからつくるんだ!」
撮影中、何度も精神的に奈落の底に落とされても、出来上がった映画を観ると、また相米慎二と組みたくなる。
多くの俳優がそう願い、「相米組」は伝説になりました。
没後20年の今年、再び相米監督の評価が世界的に高まっています。
2005年の韓国の映画祭での上映をきっかけに、2012年のフランス、イギリス、2015年のドイツなど、彼のフィルムは海を渡り、多くの若者の心を揺り動かし続けているのです。
53歳の若さで急逝。
監督した13作品には、相米の魂が焼き付いています。
彼は生前、学生たちに話していました。
キネマ旬報社のシネアストに、講演の様子が掲載されています。
「フィルムっていうのは、歌や呪いと同じように動物的感覚を持っているものです。私は映画は映し出されているそのものには別に価値はないと思っているんです。そこに映っていないもの、映し出されているものが内に秘めているものに、映画というものの本当の価値があると思っているのです」
鬼才・相米慎二が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
3/27/2021 • 12 minutes, 20 seconds 第二百九十話『やりすぎていい』-【岩手篇】アーティスト 大瀧詠一-
日本のポップミュージック界を牽引し、今なお多くの人々に影響を与え続けている、岩手県出身のアーティストがいます。
大瀧詠一(おおたき・えいいち)。
明日3月21日には、伝説のアルバム『A LONG VACATION』の発売40周年を記念して『A LONG VACATION 40th Anniversary Edition』がリリースされます。
このアルバムにも収められている代表曲『君は天然色』は、昨年公開され、第33回東京国際映画祭で「観客賞」を受賞した映画『私をくいとめて』の挿入歌としても話題になりました。
この『君は天然色』は、彼のふるさと岩手県のJR水沢江刺駅の発車メロディにも採用されています。
40年経った今も色あせず、さまざまな世代に支持され続ける大瀧の楽曲や歌声の魅力は、才能という言葉だけでは語りつくせない、圧倒的な知識や独自の音楽理論に裏打ちされています。
さらに、ラジオのDJ、レコーディングやマスタリングのエンジニア、レコードレーベルのオーナー、音楽プロデューサーなど、まさに八面六臂(はちめんろっぴ)の活躍で、65年の生涯を駆け抜けました。
2014年に発売された雑誌『ケトル』2月号の大瀧詠一特集「大瀧詠一が大好き!」に、彼のこんな言葉が掲載されています。
「10知るには、12まで行く、と。推測だと思うんだよ、8とか9でっていうのは。12までいかないと10分かんない」
彼の真骨頂は、やり過ぎること、行き過ぎることかもしれません。
気になるアーティストのレコードを集める、知りたい楽曲があればなんとかテープを取り寄せる。
日本映画の研究も徹底していて、特に成瀬巳喜男(なるせ・みきお)や小津安二郎に関しては、映画評論家に勝るとも劣らない領域に足を踏み入れました。
とにかく数多く、聴く、見る、触れる。
そこから掬いあげられた上質な言葉やメロディは、今も私たちを魅了してやみません。
岩手が生んだ日本のミュージックシーンのレジェンド・大瀧詠一が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
3/20/2021 • 12 minutes, 34 seconds 第二百八十九話『己の世界を拡げる』-【岩手篇】政治家 原敬-
日本初の本格的政党政治を行った、岩手県出身の偉人がいます。
原敬(はら・たかし)。
第19代内閣総理大臣として大正デモクラシーを牽引、生涯、爵位を拒み続けたことから、平民宰相と呼ばれました。
明治維新の荒波にのまれ、裕福な上級武士の家系だった原家は、一気に衰退。
父も早くに亡くした原は、経済的な逼迫の中、苦学で志を遂げます。
岩手県盛岡市にある「原敬記念館(はらけいきねんかん)」は、原の生家に隣接して建てられた記念館です。
民主政治に、文字通り命をかけた偉人の業績をたたえ、政界の貴重な資料や、日々の想いを詳しく書き綴った「原敬日記(はらけいにっき)」などが展示されています。
敷地内の12本の桜。
そのうちの1本、生家の池のほとりにある桜の木は、原の父が南部の殿様からいただいた「戴き桜」です。
65歳のとき、東京駅で暗殺された、原敬。
今年、没後100年を迎えますが、生家の桜の木は時代を超え、春風に揺れながら花びらを散らしています。
今の日本を見て、原敬は何を思うのでしょうか?
記念館に収められている彼の書には、二文字の漢字が書かれています。
無い、私と書いて、「無私」。
私利私欲を捨て去るということです。
原は、総理大臣になっても質素な住居に暮らし、徹頭徹尾、平民として生きました。
お墓に刻まれた文字にも、勲位の明記はなく、彼の一貫した主義主張をのぞかせます。
「余は、殖利の考えなしたる事なし、故に多分の財産なし。去りとて、利益さえ考えなければ、損失する愚もなく」
日本を変えようと藩閥政治に挑んだ賢人、原敬が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
3/13/2021 • 14 minutes, 4 seconds 第二百八十八話『ひとに優しく』-【岩手篇】小説家 野村胡堂-
『銭形平次捕物控』で流行作家になり、さらに「あらえびす」というペンネームで音楽評論家としても名を成した、小説家がいます。
野村胡堂(のむら・こどう)。
彼の生まれ故郷、岩手県紫波町にある「野村胡堂・あらえびす記念館」には、彼の著作や原稿、蒐集したレコードが数多く展示されています。
記念館の屋根は、岩手県の代表的な建築様式「南部曲がり家」。
丘の上に立つ壮麗な建物の北には、岩手山が悠然とそびえています。
彼の名を一躍有名にした『銭形平次捕物控』は、27年にもわたり書き続けられ、383編もの物語が産み出されました。
なぜ、それほどまでに銭形平次が愛されたのか。
そこには、作者・胡堂の心を投影した平次の優しさがあったのです。
「罪を憎んで、ひとを憎まず」
「行為を罰しても、動機は罰しない」。
平次はわけありの罪びとの多くを、許してしまいます。
反対に、罪を犯していなくても、偽善者や、義に反するものには厳しい。
それがたとえ体制側の役人であっても容赦ありません。
常に庶民の味方でした。
吉田茂や司馬遼太郎など、多くの著名人が、愛読書に『銭形平次捕物控』をあげました。
胡堂が平次を書き始めたのは、49歳のとき。
新聞社に勤めながら、二足の草鞋を履いていました。
この作品でようやく作家だけで食べていけるようになっても、会社を辞めず、結局、退社したのは60歳になってからでした。
生活は質素を貫き、ひとに借金を頼まれれば、決して断らない。
学費が払えず、東京帝国大学を中退せざるをえなかった経験ゆえ、亡くなる直前、一億円を基金に財団を設立、学資援助の奨学金を交付することを目的に掲げました。
「ひとに優しく」。
口に出すのは容易いが、行動に移すのは容易ではないその精神を、生涯守り抜いたのです。
岩手が生んだ稀代の偉人、野村胡堂が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
3/6/2021 • 14 minutes, 24 seconds 第二百八十七話『言葉を大切にする』-【福井篇】俳優 宇野重吉-
福井県を愛し、「福井はなんでも日本一だ!」と生涯言い続けた、昭和の名優がいます。
宇野重吉(うの・じゅうきち)。
彼は、生まれ育ったふるさとのことがとにかく自慢で、「ふくいでは、雪と佛(ほとけ)とおらがそば」と書にしたためました。
「越前おろし蕎麦」。
大根おろしが入ったつけ汁で、薬味をかけた蕎麦をすするひとときを至福のときと、豪語してはばかりませんでした。
そんな宇野には、幼心に鮮明に刻まれた記憶があります。
旅役者の芝居小屋。
風にはためく色とりどりの無数ののぼりは、少年の心をとらえて離しませんでした。
舞台を真剣に見ている村人たち。
役者がひとこと言うたびに、笑ったり泣いたりしている、まるで魔法にでもかかったように。
異世界への入り口はいつも、言葉でした。
晩年、宇野は、肺ガンに侵されましたが、満身創痍の中、亡くなる数か月前まで舞台に立ち続けました。
舞台袖で酸素吸入を受けても、セリフをしっかりと、言葉をちゃんと届ける演技は、健在でした。
俳優座や文学座と並ぶ、劇団民藝を立ち上げ、俳優が演劇だけで生活ができるようにという経営者の側面を持ち、一方で、演出家としては、全く妥協を許さない鬼になりました。
ただ、ふだんは気さくなひと。
宇野の優しさを物語る、こんなエピソードがあります。
民藝の劇団員だった吉行和子が、民藝を辞め、他の舞台で芝居をやりたいと申し出たときのこと。
総会が開かれ、皆、吉行を怒り、反対したのですが、宇野は、「役者が本当にやりたいことを見つけることは、とても大切なことだから、みんなで送りだしてあげようじゃないか」と、幹部を説得したと言います。
人間味あふれる芝居の神様、宇野重吉が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/27/2021 • 14 minutes, 8 seconds 第二百八十六話『未来を担う子どもたちのために』-【福井篇】絵本画家 いわさきちひろ-
福井県武生、現在の越前市に生まれた、日本を代表する絵本画家がいます。
いわさきちひろ。
その優しく淡い水彩画が織り成す子どもの絵は、誰の心にも、すっと溶け込み、我が子のように愛おしく、日本のみならず、世界中のひとに愛され続けています。
武生は、かつて北陸の玄関口として古来より栄え、政治経済、そして文化の中心地でした。
「ちひろの生まれた家」記念館は、彼女の生家を復元。
大正期のたたずまいを、そのまま残しています。
高等女学校の教師だった母の部屋や、東京にあったちひろのアトリエも再現され、当時の様子がしのばれます。
記念館を一歩出れば、職人町の路地裏の風情が感じられ、タイムスリップしたような感覚を覚えます。
作品の淡いタッチとは対照的に、ちひろの人生は平坦なものではありませんでした。
望まぬ結婚、最初の夫の死、そして戦争。
幾多の試練を越え、彼女がデビューしたのは、27歳のときです。
55歳で亡くなるまで、彼女の生涯のテーマは「子どもの幸せと平和」でした。
ちひろの息子、松本猛(まつもと・たけし)が書いた評伝『いわさきちひろ 子どもへの愛に生きて』は、繊細で映像的な記憶力と豊かな筆致で、ちひろの人生を描いています。
ちひろの表現は、我が息子を画くことで開花していきました。
かつて、猛と離れて暮らし、一か月に一度しか会えない日々を送ったとき、彼女は息子の絵を画くことで淋しさをしのぎ、愛情を伝えたのです。
最後に仕上げた絵本になったのは、『戦火のなかの子どもたち』。
ベトナムの戦地の子どもたちを描きました。
心を閉ざした子どもたちの表情から戦争の悲惨さが伝わってきます。
子どもたちが幸せではない世の中に、未来はない。
病魔と闘いながら、最後まで絵に向き合い続けた絵本画家・いわさきちひろが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/20/2021 • 14 minutes, 8 seconds 第二百八十五話『外れることを厭わない』-【福井篇】近松門左衛門-
越前国、現在の福井県に生まれたとされる、江戸時代の脚本家、戯曲家がいます。
近松門左衛門(ちかまつ・もんざえもん)。
書いた人形浄瑠璃は、およそ100篇。
彼の代表作『曾根崎心中』は、それまでの歴史ものではなく、町人の日常に根差した世話物。
武士や貴族などの特権階級のためだけの娯楽だった人形浄瑠璃で、町人社会で実際に起こった心中事件を描いたのです。
心中物は、大ヒット。
歌舞伎の人気演目として、今も上演され続けています。
井原西鶴、松尾芭蕉と並んで、元禄の三大作家として成功を手にした近松でしたが、その人生は決して最初から約束されたものではありませんでした。
福井藩に仕えていた父が越前を離れなくてはならなくなり、京都に流れての浪人暮らし。
貧しさと屈辱を味わい、近松は幼くして、公家に奉公に出ます。
彼自身も武士となりますが、その地位をあるとき、あっさり捨て、町人になるのです。
「物語を書くことに、一生を賭けてみたい」
今の時代で言えば、生活の安定が約束された公務員を辞めて、何の後ろ盾も保障もない、フリーの脚本家になるようなものです。
なぜ彼がそんな人生を選択したのか。
それを知る手掛かりは、彼の辞世の句にあります。
「代々甲冑の家に生まれながら、武林を離れ、三槐九卿に仕え、市井に漂いて、商買知らず、陰に似て陰にあらず、ものしりに似て何も知らず、世のまがいもの」
近松は、自らを「世のまがいもの」と思っていたのです。
だからといって、彼は腐らず、騒がず、ただ自分を生かす道を選びました。
庶民に文化をもたらした偉人・近松門左衛門が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/13/2021 • 11 minutes, 40 seconds 第二百八十四話『不完全を愛する』-【福井篇】思想家 岡倉天心-
福井県にゆかりがある、近代日本美術の発展に大きく貢献した思想家がいます。
岡倉天心(おかくら・てんしん)。
2006年には、天心が心のよりどころにした福井県の永平寺で「茶の本」出版100周年記念座談会が行われ、2013年には、福井県立美術館で「空前絶後の岡倉天心展」が開催されました。
天心は、東京美術学校、現在の東京藝術大学の創立に尽力。
横山大観を筆頭に、世界に名立たる日本画家を輩出し、さらに、日本美術院を設立。
晩年はアメリカ・ボストン美術館の中国・日本美術部長として、東洋美術を欧米に広めました。
明治維新以後、日本は西洋化が進み、特に芸術の分野は、欧米への傾倒に拍車がかかっていました。
幼い頃から英語を習い、西洋の文化に触れていた天心は、誰よりも時代の先端にいましたが、決して和の心を忘れませんでした。
文明開化の勢いにのまれ、ともすれば卑屈に気後れする芸術家たちに、伝統 日本美術の奥深さを説いて回ったのです。
こんな逸話が残っています。
ボストン美術館の招聘(しょうへい)を受け、アメリカを訪れた天心と横山大観ら弟子たち。
羽織袴で道を歩いていると、ある若いアメリカ人が英語でからかいました。
「おまえたちは、何ニーズだ? チャイニーズ? ジャパニーズ? それとも、ジャワニーズか? はははは」
弟子たちは、ただヘラヘラと愛想笑いをするばかり。
でも、天心は眉ひとつ動かさず、流暢な英語でこう返したと言います。
「私たちは、ニッポンの紳士です。失礼ですがあなたこそ、何キーですか? ヤンキー? ドンキー? それとも、モンキーですか?」
若いアメリカ人は早々に立ち去ったと言います。
西洋と東洋の架け橋として日本美術界の発展に貢献した岡倉天心が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/6/2021 • 12 minutes, 8 seconds 第二百八十三話『憧れの気持ちを大切にする』-【徳島篇】作曲家 三木稔-
日本の伝統的な楽器と西洋音楽の融合に心血を注いだ、徳島出身の偉大な作曲家がいます。
三木稔(みき・みのる)。
昨年生誕90年、今年没後10年を迎える三木の真骨頂は、日本文学や日本史をモチーフにしたオペラの数々です。
45歳にして初めて作曲した『オペラ春琴抄』は、ジロー・オペラ賞を受賞、国際的にも高い評価を得ました。
その後、『あだ』『じょうるり』『ワカヒメ』など連作に挑み、『源氏物語』は、さらに三木の名を世界に轟かせました。
1976年の大島渚監督作品『愛のコリーダ』では映画音楽を作曲。哀しさとせつなさに彩られた楽曲は世界中のファンを魅了しました。
『オペラ「源氏物語」ができるまで』という三木のエッセイ集は、1996年から2000年にわたって、徳島新聞に連載された随筆をまとめたものですが、彼の心の軌跡がわかる貴重な一冊です。
その本の最後には、こんな記述があります。
―― 音楽を志して以来「憧れ」は私の創作の基本であり続けて来た。
美や真理への憧れなくして創造のエネルギーは得られるはずがない ――
三木は、若いひとに、「憧れ」を持つことの大切さを説きました。
三木自身、はじめからオペラが好きだったわけではありません。
自分で作曲するまで、見たオペラは、5つほど。
正直、どれも退屈なものという認識しか持てませんでした。
日本独自の歌、日本古来の楽器で、もしオペラが創れたなら…そんな「憧れ」が彼を引っ張り、世界的に有名な作曲家に押し上げたのです。
経済が不況になると、真っ先に切られてしまうのが、芸術。
彼は、そんな日本の実情を憂い、そんな風潮が若者の芸術への「憧れ」をつぶしてしまうのではないかと危惧しました。
ふるさと徳島を愛し、日本の文化を世界に知らしめた芸術家・三木稔が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/30/2021 • 13 minutes, 5 seconds 第二百八十二話『自分が動き、ひとを動かす』-【徳島篇】社会運動家 賀川豊彦-
日本以上に海外で知名度が高く、戦前、ガンジー、シュヴァイツァーと並んで、三大聖人と称された社会運動家がいます。
賀川豊彦(かがわ・とよひこ)。
徳島県で幼少期を過ごした彼は、ノーベル平和賞の候補者に名を連ねたこともある平和活動の旗手。
キリスト教の博愛主義を実践し、労働者の生活改善のため、労働組合や生活協同組合の設立に奔走しました。
徳島県にある鳴門市賀川豊彦記念館には、そんな彼の足跡や、ノーベル文学賞の候補にもなった著書が展示されています。
4歳で両親を亡くした賀川は、鳴門市の父の本家に引き取られ、そこで孤独な日々を過ごしました。
父の正妻の子どもではなかった彼は、ことあるごとに、忌み嫌われ、学校でも仲間外れにされたのです。
大病も患い、病の床で彼は思いました。
「自分は、何のために生まれてきたんだろう」
しかし、幼少期のこの体験こそが、のちの人生で、彼がどんな誹謗中傷にも耐え抜くことができる鋼の心を培ったのです。
あまりにも多岐にわたる活動が、彼の功績を見えづらくさせ、体制にいっさいおもねることのない態度や発言が誤解や齟齬を生み、自伝的小説『死線を越えて』という大ベストセラーまで揶揄の対象になってしまいました。
それでも、彼は己の信念を曲げず、行動し続けたのです。
関東大震災のときには、いち早く義援金を集め、救援本部を設置。
託児所や食事の配布など、庶民に寄り添った活動を実践。
これが日本におけるボランティアの始まりと言われています。
戦後は、マッカーサー元帥に直接、会見を申し入れ、日本国民への食糧支援を訴えました。
マッカーサーは彼の申し出を受け入れ、すぐに米や薬を手配することを約束。
会見後、賀川をビルの出口まで見送った、という逸話が残っています。
とにかく自分が動くことで世界を変えた、スラム街の聖者、賀川豊彦が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/23/2021 • 13 minutes, 57 seconds 第二百八十一話『他人を敬う』-【徳島篇】プロ野球監督 上田利治-
野球殿堂入りを果たした、徳島県出身の名将がいます。
上田利治(うえだ・としはる)。
広島カープでの選手時代は2年あまりと短く、しかも、ほとんど目立つことのない地味な存在でした。
その後、25歳で広島の二軍コーチに就任。
当時の日本プロ野球史上、最年少での大抜擢に野球ファンは驚いたと言います。
打撃コーチとして、山本浩二や衣笠祥雄を育て、阪急ブレーブスのヘッドコーチで手腕を発揮。
37歳の若さで、阪急ブレーブスの監督になります。
選手として無名だったひとが監督になるのは珍しい時代。
さまざまな逆風を跳ね返し、阪急、オリックス、日本ハムと監督を歴任し、5度のリーグ優勝と3度の日本一を果たし、名将の代名詞になりました。
選手時代もベンチに六法全書を持ち込み、ナポレオン・ボナパルトの著作を全て熟読するほどの読書家。
分析力、判断力に長け、戦術を駆使するクレバーな理論派の一方、選手たちを守るためには顔を真っ赤にして怒る熱血漢でした。
それを象徴するゲームが、昭和53年の日本シリーズ第7戦。
阪急3勝、ヤクルト3勝で迎えた最終決戦で、ヤクルトの大杉が放った打球は、レフトのポール際を通過。
判定はホームランでしたが、阪急の監督・上田はベンチを飛び出し、レフトの審判に駆け寄って猛抗議をしました。
「どこに目をつけとるんじゃ! スタンドのひとたちも、ファウルって言ってるじゃないか!!」
当時はもちろんビデオ判定などなく、一度下したジャッジがくつがえることは、皆無でした。
それでも、上田は引き下がりません。
選手たちをベンチに引き上げさせ、中断した時間は、前代未聞の1時間19分。
それは全て、選手たちのためでした。
「オレは、おまえたちを全身全霊で守る。だから安心して戦って来い!」
そんなメッセージだったのです。
なぜ無名だった選手が、伝説になったのか。
そこには他人にはうかがい知れない、たゆまぬ努力があったのです。
プロ野球の歴史に名を刻んだ徳島の英雄・上田利治が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/16/2021 • 12 minutes, 13 seconds 第二百八十話『座った場所を王座にする』-【徳島篇】薬学者 長井長義-
私たちが今も服用する、風邪薬。
そのせき止めの有効成分、エフェドリンを発見した「日本薬学の父」と呼ばれる偉大な薬学者がいます。
長井長義(ながい・ながよし)。
徳島藩の医者の家系に生まれ、1871年、第一回国費留学生としてドイツで学んだ長井は、諸外国に遅れをとっていた化学、薬学の発展に尽力しました。
徳島に生まれ、徳島を生涯愛した彼は、徳島大学薬学部への支援やユニークな教育施設など、後進の育成にも貢献し、ドイツ人の妻・テレーゼと共に、女子教育にも力を注ぎました。
設立した日本女子大学の「香雪化学館」からは、日本初の女性薬学博士・鈴木ひでるを輩出しています。
妻・テレーゼは、物理学者・アインシュタインが来日した際、通訳をつとめました。
40歳のとき、すでに薬学者としての地位と権威を確立していた長井は、東京薬学会の例会でこのように述べています。
「昔、ギリシアの王が演劇を見に行ったところ、既に観客が一杯で、王座とすべきところがなかった。座主が恐縮していたところ、王は、『席の違いによって王であるかどうかが決まるわけではない。自分の座る席がすなわち王座なのだ』と言って、庶民の席についたという。私は諸君とともに薬学という椅子に座り、身を粉にして働き、たとえ東洋の片隅に在るとも、日本の薬学会を燦然と輝かせることを希望する」。
長井には、長崎に行っても、ベルリンで学んでも、いつも自分の座った場所を王座にする強さがありました。
自分の居る場所を愛し、自分の座る席を王座に変える。
そんな生き方があったからこそ、彼は後世に受け継がれる偉大な功績を残すことができたのではないでしょうか。
幕末から明治、大正と駆け抜けた薬学者・長井長義が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/9/2021 • 12 minutes, 8 seconds 第二百七十九話『天は心なり』-【徳島篇】陽明学者 大塩平八郎-
うだつの町並みで知られるかつての城下町、徳島県美馬市。
その美馬市にある、吉野川流域の脇町にゆかりをもつ、江戸時代の陽明学者がいます。
大塩平八郎(おおしお・へいはちろう)。
彼は、大坂町奉行の与力や吟味役を歴任したエリートでした。
与力とは、警察の中堅どころ。吟味役とは、裁判官。
犯罪をあばき、刑を執行する立場だった彼は、奉行所内部の腐敗や一部の豪商たちの悪事が許せませんでした。
江戸末期、天保4年、1833年4月に始まった天保の大飢饉は、あっという間に全国に拡がりました。
亡くなったひとは、20万とも30万人とも言われています。
この一大事にも、奉行所は利権を行使。
豪商は米を買い占め、いちばん守るべき、庶民、特に農民をないがしろにしました。
平八郎は、自分の蔵書、およそ6万冊を全て売り払い、救済活動をはかりますが、焼け石に水。
ついには、最後の手段、幕府に対して武装蜂起を決行したのです。
いわゆる、大塩平八郎の乱。
結果、44歳で自らの命を絶つことになりますが、彼が起こした一揆は全国に拡がり、その流れは明治維新や、のちの自由民権運動へと受け継がれていきます。
彼の流儀はこうでした。
「良いと知りながら行動しないのは、知らないことと同じです。知識は、行動のためにある」
そして、もうひとつ。
飢饉にあえぐ農民たちに、こう語ったと言います。
「冷害に洪水、天災はどうすることもできない。でも、できることはあるはずです。どんな天変地異も、心まで奪うことはできない。天は唯一、心で変えることができるのです」
ただの謀反だ、売名だと揶揄されても、一歩も引かなかった男、大塩平八郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/2/2021 • 12 minutes, 5 seconds 第二百七十八話『誰にもできないことをやる』-【伝記映画篇】画家 ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナー-
イギリスを代表するロマン派の画家、ジョゼフ・マロード・ウィリアム・ターナーを主人公にした伝記映画『ターナー、光に愛を求めて』は、2014年に製作されました。
巨匠マイク・リー監督のこの映画は、世界的に評価が高く、アカデミー賞で4部門にノミネート。
ターナーを演じた名優ティモシー・スポールは、カンヌ国際映画祭で最優秀男優賞を受賞しました。
風景画の歴史を大きく変え、のちのモネやセザンヌという印象派の画家にも多大な影響を与えたターナーに、ティモシー・スポールの風貌はあまりにも似ていると評判になりました。
ずんぐりむっくりな体型。
身なりにかまわず、言葉は、明瞭に話さない。
いつもひとを疑うようにギロッと相手を見る。
生涯、家庭を持つことをせず、私生活は孤独で静か。
多くの謎に包まれていました。
その一方で、絵を画くことへの執念は、すさまじいものがありました。
もはや伝説と化している、逸話があります。
嵐の海に翻弄される船を描くために、実際に嵐の中、乗組員に頼み、4時間もの間、自分の体をマストに縛り付けてもらったと言われています。
また、『雨、蒸気、速度―グレート・ウェスタン鉄道』は絵画史上、初めて、速度を描いたものとして名高い作品ですが、機関車の動きを体感するために、雨の中、彼はずぶ濡れになって、一日中、機関車が行き過ぎるのを見ていました。
「どうしてキミはそこまでするんだい?」と画商が尋ねると、彼はシニカルに笑ってこう答えたと言います。
「他のひとが画くものと一緒じゃ、つまらないからだよ」
ターナーのパレットは、ほとんど黄色であふれていたと言います。
夕陽、朝陽、あらゆる景色を、さまざまな黄色のバリエーションで表現したのは、風景にいつも光を見ていたからでしょうか。
反対に、緑色を嫌い、ほとんど使いませんでした。
やることが極端で、独特。
そこにこそ、彼の独自性が育まれ、後世に受け継がれる作品を残せたヒントがあるのではないでしょうか。
ひとがやらないことをやるのは、エネルギーがいる。
でも冒険こそ進歩をうながす、唯一の方法なのです。
風景画家の巨匠、ターナーが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/26/2020 • 12 minutes, 27 seconds 第二百七十七話『絶えず、変わり続ける』-【伝記映画篇】ボブ・ディラン-
今年1月、世界が注目している若手俳優のひとり、ティモシー・シャラメが、ある有名ミュージシャンの伝記映画に主演するかもしれないというニュースが全米を駆け抜けました。
そのミュージシャンとは、2016年にノーベル文学賞を受賞したアメリカのシンガーソングライター、ボブ・ディラン。
映画の仮のタイトルは、『Going Electric』。
フォークシンガーの旗手として全米にその名をとどろかせた若きディランが、アコースティックギターからエレキギターに持ち替えるところにフォーカスしたストーリー。
ロックシンガーに転向したことで周囲からの揶揄やバッシングを受けるが、それをはねのけ、ロックとは何かを確立していく姿が描かれる予定でした。
しかし、全世界を襲った新型ウィルスの影響で、撮影は無期延期になってしまいました。
これまでボブ・ディランは、存命にも関わらず、ドキュメンタリーを含め、いくつかの伝記映画が作られてきました。
最も有名な作品は、ディランが初めて公認し、2007年に公開された『アイム・ノット・ゼア』。
この映画の脚本は、破格でした。
6人の俳優がそれぞれ、ボブ・ディランを演じたのです。
6人の中には、ケイト・ブランシェットや、リチャード・ギアもいました。
さまざまな時代のディランの苦悩や成功や恋愛が描かれます。
そこから見えてくるのは、世間の風潮や流行に惑わされない、唯一無二のアーティストの姿です。
『アイム・ノット・ゼア』。
私は、そこにいない。
アルチュール・ランボーの「私はひとりの他者である」という一節を想起させるタイトルが、全てを物語っています。
絶えず変わり続けることによって、成長する。
昨日の自分を壊すことでしか、前に進めないときがあることを、彼は教えてくれます。
来年80歳を迎える音楽界のレジェンド、ボブ・ディランが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/19/2020 • 12 minutes, 25 seconds 第二百七十六話『自分の心を裏切らない』-【伝記映画篇】外交官 杉原千畝-
2015年に公開された映画『杉原千畝 スギハラチウネ』は、第二次世界大戦中、ナチスから逃れたユダヤ難民、およそ6000人の命を救った日本人外交官・杉原千畝の半生を描いた作品です。
杉原は、卓抜した語学力と豊富な外国の知識を持ち、諜報外交官として世界各国で諜報活動に携わっていました。
1939年、リトアニアの日本領事館に赴任。
ここで彼は、ナチスに迫害されたユダヤ人に日本通過のビザを発給したのです。
救われた命は、次の命を育み、現在につながっています。
今年は、杉原の生誕120年。
そして、「命のビザ」発給から80年の節目にあたります。
2月には、リトアニアの首都・ビリニュスの国会で、功績を讃える特別展が開催されました。
当時の写真50点あまりが展示され、およそ15か国の大使が集まりました。
偉業を成し遂げた彼は、こう語っています。
「大したことをしたわけではない。当然のことをしただけです」
また、どうしてビザを出したのかと尋ねられると、「彼らはどこにも逃げ場がなかったんだよ。目の前に困ったひとがいたら、なんとかしたいと思うのは、ふつうのことだろう」と話したと言います。
杉原には、世界を少しでもよくしたい、変えたい、という思いがありました。
「そんな大それたことは簡単にできるものではない」と、したり顔で言う大人たちを尻目に、彼は思ったのです。
「何もしないで、できなかったというのは、卑怯だ」。
岐阜県加茂郡八百津町にある杉原千畝記念館には、彼の足跡を知る資料が多く展示されています。
彼が教えてくれるのは、世の中が厳しくなればなるほど、目の前の困っているひとに手を差し伸べる勇気と優しさ。
「日本のシンドラー」杉原千畝が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/12/2020 • 11 minutes, 13 seconds 第二百七十五話『自分の人生を支配する』-【伝記映画篇】レイ・チャールズ-
『愛と青春の旅だち』を撮った映画監督、テイラー・ハックフォードは、どうしても、あるミュージシャンの伝記映画を撮りたくて、15年間、粘り続けました。
そのあるミュージシャンとは、レイ・チャールズ。
日本では、1989年にサザンオールスターズの『いとしのエリー』をカバーしたことで話題になりました。
盲目の黒人。
サングラスでピアノを弾き、歌う、ソウル・ミュージックのレジェンド。
映画化にあたり、レイは、ハックフォード監督にひとつだけ、条件を提示しました。
それは、自分の影の部分も、ちゃんと描いてほしいということでした。
「君は、どんなふうにボクの物語を描いてもいい。でもね、いいかい、真実を語らないことだけは許さない」。
監督が主役候補のジェイミー・フォックスをレイの自宅に連れていくと、いきなりピアノに座らせ、一緒に弾き始めました。
3歳からピアノをやっていたジェイミーは、なんとかついていきますが、「もっともっと、さあ、もっと! 音はね、君の指の下にちゃんとあるんだ!」とレイに叱責されてしまいます。
なんとかくらいつくジェイミーに、最後は「君はできるじゃないか、主役は君しかいないよ」と、OKを出しました。
そうして、2004年に完成した映画『Ray』。
この映画で、ジェイミー・フォックスは、アカデミー賞主演男優賞を得るのです。
しかし、映画の完成直前の2004年6月10日、レイは、73歳でこの世を去ります。
極度の貧困に失明、人種差別に薬物中毒。
自分の闇の部分もさらけだしながら、彼が生涯大切にしたのは、「自分の人生を、自分で支配する」ということでした。
彼は若者に、いつも言いました。
「何度ノックダウンされても、立ち上がるんだ。自分の人生を、簡単にひとの手に渡すな」
ソウルの神様・レイ・チャールズが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/5/2020 • 12 minutes, 30 seconds 第二百七十四話『古いものは全て捨て去る』-【鳥取篇】女優 乙羽信子-
鳥取県米子市に生まれた、昭和を代表する名女優がいます。
乙羽信子(おとわ・のぶこ)。
テレビドラマでは『おしん』で晩年の主人公を演じ切り、映画では『愛妻物語』『裸の島』など、世界的にも評価の高い名画に主演。
映画監督、新藤兼人(しんどう・かねと)との二人三脚で、彼女は本格的な女優への道を突き進みました。
遺作となった作品は『午後の遺言状』。
乙羽は、末期の肝臓がんで、余命1年と宣告されていました。
それでも、映画に出たい。
夫でもある新藤監督は、乙羽に言いました。
「たとえ映画に出ることで寿命が1か月縮まっても、やりたいことをやったほうがいいよ。同志として、最後の作品を誠心誠意つくるから」
彼女がこの世を去ったのは、撮影を終えて3か月後のことでした。
乙羽は、この映画で、日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞します。
そんな彼女の人生は、決して平たんではありませんでした。
私生児として生まれ、養父母に育てられた幼少期。
暗い影を引きずりながら、無口でひ弱な女の子でしたが、負けん気、根性だけは人一倍だったと言います。
宝塚に入団すると、ついたあだ名が「日陰の花」。
同時期には、そこにいるだけでひとを笑顔にできる天才、越路吹雪や淡島千景がいました。
「私は、彼女たちのようにはなれない…」
容姿や才能への激しいコンプレックス。
でも、乙羽はあるとき、思うのです。
平凡な自分に残された道は、ただひとつ。
ひとの何十倍も努力すること。
いつも、闘い。
そして…自分の古いものを捨て、いかに新しいものを出すか。
彼女の出演作品は、戦の幟(のぼり)のように、血と汗で染まっています。
最期まで女優を貫いた昭和のレジェンド、乙羽信子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/28/2020 • 13 minutes, 26 seconds 第二百七十三話『日常に喜劇を探す』-【鳥取篇】映画監督 岡本喜八-
鳥取県米子市出身の映画監督に、今も多くの映画人に影響を与え続ける鬼才がいます。
岡本喜八(おかもと・きはち)。
『新世紀エヴァンゲリオン』で知られる庵野秀明(あんの・ひであき)は、映画『シン・ゴジラ』で岡本喜八へのオマージュを捧げ、今年4月に亡くなった大林宣彦は、亡くなる直前まで、戦争映画を撮り続けた岡本への思いを語っていました。
大林が初めて東宝でメガフォンをとったとき、撮影所の製作現場では反対の声が多かったと言います。
「あいつに撮れるのか?」「大丈夫なのか?」「助監督の経験もないのに…」
そんなとき、岡本は、ひとりひとりのもとに赴き、「新しい風を迎えようじゃありませんか。彼ならきっと大丈夫」と説得してまわったと言われています。
大林はこのエピソードを後年知って、胸を熱くしました。
恩送りをするように、大林もまた、新人監督を励まし、彼等が世に出るために密かに尽力したのです。
『日本のいちばん長い日』、『肉弾』、『大誘拐』。
岡本喜八の真骨頂は、破天荒、躍動感、そして、喜劇性。
表の黒澤明、裏の岡本喜八と言われたように、芸術作品とは一線を画し、岡本は、大衆娯楽作品にこだわりました。
「映画は、面白くなくちゃ意味がない」
特に、喜劇には強い思い入れがありました。
著書『マジメとフマジメの間』にこんな一節があります。
「刻々と近づく死への恐怖をマジメに考えると、日一日と、やりきれなくなって行く。そんなある日、はたと思いついたのが、自分を取りまくあらゆる状況をコトゴトく喜劇的に見るクセをつけちまおう、ということであった」。
戦争を体験し、たくさんの命が奪われる現場に遭遇した、映画界のレジェンド・岡本喜八が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/21/2020 • 12 minutes, 17 seconds 第二百七十二話『自由を手放さない』-【鳥取篇】写真家 植田正治-
今年没後20年を迎える、世界的に有名な写真家がいます。
ふるさと鳥取県を活動の拠点とした、写真界のレジェンド、植田正治(うえだ・しょうじ)。
福山雅治のシングル『HELLO』のジャケット写真を撮影。
以来、植田の写真に感動した福山は、カメラの師匠として植田を慕い続けました。
鳥取県西伯郡伯耆町にある植田正治写真美術館を訪れると、彼の足跡がわかります。
コンクリート打ちっぱなしの美術館は、自然豊かな大山山麓にあり、建築家・高松伸の設計による館内からは、水面に映る“逆さ大山”が楽しめます。
植田の独特な写真は「植田調」と言われ、今でもフランスでは、アルファベットでUEDA-CHOとして写真家の間でリスペクトされています。
植田は、砂丘を愛しました。
「砂丘は、巨大なホリゾントである」という言葉どおり、海のそばの砂丘にさまざまなひとを配し、写真におさめたのです。
彼にとって、鳥取県の境港で生まれたことは、重要でした。
日本海側で最大の水産都市。
江戸時代は、千石船が行き来して、日本中の物資や文化が集まった場所。
写真がまだ日本で珍しかった頃に、港には、真新しいカメラが陳列されていました。
植田は19歳の若さで、この街に写真館を開くのです。
以来、70年間近く、彼は世界的に名を馳せても鳥取に残り、「写真屋のおじちゃん」として街の人々に愛され続けたのです。
えらそうにせず、撮りかたを聞かれれば、子どもだろうが老人だろうが懇切丁寧に教え、いつもカメラが大好きだった少年の心を忘れませんでした。
彼が最も大切にしたのは、プロ、アマチュアなど関係なく、自由に写真を撮る、ということだったのです。
鳥取が生んだ伝説の写真家・植田正治が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/14/2020 • 11 minutes, 48 seconds 第二百七十一話『孤独から逃げない』-【鳥取篇】俳人 尾崎放哉-
「咳をしても一人」 「一人の道が暮れてきた」
自由律俳句という新しい世界を切り開いた、漂泊の俳人・尾崎放哉(おざき・ほうさい)。
彼は、鳥取市に生まれました。
鳥取市の生誕の地、住んだ場所や尾崎家の墓に、句碑が建立されています。
没後94年経った今も若いミュージシャンに影響を与え、多くのひとに語り継がれる放哉の俳句の魅力は、いったいどこにあるのでしょうか?
彼は、東京帝国大学法学部を卒業した、エリート中のエリート。
就職した生命保険会社でも、順調に出世街道にのりはじめ、誰もがうらやむ人生を歩くはずでした。
しかし、詩作とアルコールにひたる日々。
会社も辞めてしまいます。
結婚して生活を安定させようと努力しますが、結局、会社勤めができず、妻も彼のもとを去っていきました。
放哉は、無一文であることを自らの立脚点と決め、放浪の旅に出るのです。
酒を飲んで暴れる。すぐにお金を無心する。高学歴を鼻にかける。
決してひとに好かれる性格ではなかったと言います。
でも、放哉は、たったひとつのことを守り続けました。
それは、孤独から逃げない、ということ。
今日も一日、自分は独りであることから逃げなかった、まるでその証のように、彼は俳句を詠み続けました。
降りしきる雨の中、しんしんと降る雪の夜、海辺の流木に座り、広大な野原の真ん中で。
極貧生活をおくりつつ、肺病を抱えながらやせ衰えていっても、彼の心は自由でした。
「こんなよい月を一人で見て寝る」
季語を捨て季節に生きた伝説の俳人・尾崎放哉が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/7/2020 • 12 minutes, 7 seconds 第二百七十話『自分のオリジナリティを知る』-【佐賀篇】洋画家 岡田三郎助-
佐賀県出身の洋画家に、世の女性のライフスタイルまでも変えた女性画の大家がいます。
岡田三郎助(おかだ・さぶろうすけ)。
昨年、生誕150年、没後80年を迎えた彼は、劇作家・小山内薫の妹を妻にしたことでも知られています。
着物の片肌を脱ぎ、後ろ向きに佇む女性を描いた作品『あやめの衣』は、近代日本絵画の代表作と言われています。
洋画のようでいて、日本画の伝統も感じる作風。
このオリジナリティを手に入れるまで、岡田は、試行錯誤を繰り返しました。
その一端を垣間見ることができる場所は、佐賀市の城下にある佐賀県立美術館です。
ここには、東京、渋谷区恵比寿に現存していた彼のアトリエと、女子洋画研究所が移設されていて、作家が制作に向き合った当時を体感することができます。
岡田は、女性の洋画教育にも力を入れました。
明治30年から4年間、フランス留学をしたとき、師であるラファエル・コランのもとに通う女性の画学生の姿を見て、驚きました。
その頃、日本では画家の道を女性が目指すことが少なく、また、女性に絵を教えるという場所が、ほとんどなかったからです。
岡田は、大正5年から女子美術学校で教鞭をとり、さらに自ら、女性専門の洋画学校をつくり、後進の教育に励みました。
この研究所から、多くの作家が世に出たのです。
岩手出身の童話の挿絵画家・深沢紅子、女流画家協会の創立発起人になった三岸節子、帝展で女性画家として初めて特選をとった有馬三斗枝など、枚挙にいとまがありません。
岡田は、彼女たちに言い続けました。
「自分を探しなさい。自分だけにしか描けない絵を画きなさい」
近代日本の画壇において唯一無二の作品を生み出した作家・岡田三郎助が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
10/31/2020 • 12 minutes, 31 seconds 第二百六十九話『持っているものを、ひとのために使う』-【佐賀篇】医師 伊東玄朴-
幕末から明治時代にかけて、ウイルスと戦い、近代医学の礎を築いた、佐賀出身の医師がいます。
伊東玄朴(いとう・げんぼく)。
彼が生まれた、現在の佐賀県神埼市には、漢方医だった20歳の時に建てた旧宅が保存され、その家は、昭和48年、1973年に佐賀県の文化史跡に指定されました。
旧宅内には、玄朴自身が翻訳したオランダの書物「医療正始」や江戸時代末期の医学書、師を務めた蘭学塾「象先堂」のパネル写真などを展示しています。
薬箱や、薬の壺、ワクチンの注入セットなど、彼が使った医療道具は、当時の治療の生々しさを伝えてくれます。
伊東玄朴が生涯をかけて戦った病は、天然痘(てんねんとう)です。
現在は根絶していますが、古くは紀元前から、世界を恐怖に陥れた、致死率の高いウイルス性感染症でした。
日本では、渡来人の行き来が増えた6世紀、このウイルスの侵入が記録されています。
現在も使われているワクチンという言葉は、この天然痘の撲滅と無縁ではありません。
イギリスの医学者、エドワード・ジェンナーは、あるとき、乳しぼりをするするひとがほとんど天然痘にかかっていないことを知ります。
牛の病気『牛痘(ぎゅうとう)』の飛沫が彼等に付着し、抗原になったのではないかと推測しました。
こうして、牛痘に罹った雌牛から抗体を取り出し、それを人間に注入することで免疫をつくることを発見したのです。
ワクチンの語源は、ラテン語の雌牛。
このジェンナーの提唱を日本に広め、実践したひとりが、玄朴だったのです。
彼は貧しいながらも、苦学を重ね、病に向き合いました。
彼は生涯、国を豊かにするのは庶民であるという信念を胸に、感染症に対抗するワクチンの普及に努めたのです。
我が国の西洋近代医学の道を切り開いた賢人、伊東玄朴が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
10/24/2020 • 12 minutes, 46 seconds 第二百六十八話『怒りをコントロールする』-【佐賀篇】政治家 大隈重信-
佐賀の七賢人のひとりに、明治維新後の外交で手腕をふるい、内閣総理大臣に二度、就任した偉人がいます。
早稲田大学の創設者としても知られる、大隈重信(おおくま・しげのぶ)。
生誕の地、佐賀市水ヶ江にある大隈重信記念館には、彼の功績を知ることができる多くの収蔵物の他に、彼の人柄に触れられる二つの展示があります。
ひとつが、大隈の演説を吹き込んだレコード。
その一説を聴くことができます。
饒舌で演説の名手と言われた大隈の特徴は、語尾につける、「であるんである」、もしくは「あるんであるんである」。
演説の際、ほとんど原稿などなく、よどみなく話したと言われています。
圧倒的な記憶力は伝説となっていて、大蔵省時代は、予算案を全て暗記していたとまで伝えられています。
もうひとつの貴重な展示は、右足の義足です。
大隈は、外務大臣だった51歳のとき、爆弾による襲撃を受け、右足を失いました。
しかし彼は、そのテロリストに怒りをぶつけるどころか、「いやしくも外務大臣である我が輩に爆裂弾を食わせて世論を覆そうとした勇気は、蛮勇であろうと何であろうと感心する」と、語りました。
後にテロリストが亡くなったあとは、毎年命日に墓参りをして、花を手向けたと言われています。
近しいひとがみな一様に言うのは、「怒った顔を見たことがない」。
そこには、幼い頃の母の教えがありました。
「怒りは、何も生まない。怒りは、結局、自分を損なうだけだ」。
日本の近代化を推進した賢人・大隈重信が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/17/2020 • 12 minutes, 27 seconds 第二百六十七話『歩みをとめない』-【佐賀篇】報道写真家 一ノ瀬泰造-
「地雷を踏んだらサヨウナラ」という言葉を残し、26歳で解放戦線下のアンコールワットに消えた、報道写真家がいます。
一ノ瀬泰造(いちのせ・たいぞう)。
その最後の言葉をタイトルにした本が出版され、映画にもなりました。
時は、1972年から73年。
カンボジアは内戦と、北ベトナムからの攻撃で、大混乱の最中にありました。
その戦地に潜入したのが、一ノ瀬泰造です。
始めは、UPIに高く写真を買ってもらうためにスクープを狙っていた一ノ瀬でしたが、戦地を巡り、悲惨さを目の当たりにするうちに、撮る対象が変わっていきます。
「いつだって、最も被害をこうむるのは、ごくごくフツウに生きている家族、子どもたちなんだ…」
休暇で故郷に帰った兵士を迎える、家族の笑顔。
戦地の息子からだろうか、一通の手紙を熱心に読む夫婦。
残虐で凄惨な写真も撮りましたが、気がつけば、彼の周りにはベトナムやカンボジアの子どもたちが集まってきました。
「タイゾー! ねえ、タイゾー! 遊ぼうよ!」
誰に対しても分け隔てしない彼の人柄は、言語や人種を越えて愛されたのです。
一ノ瀬は、最も危険な聖地、クメールルージュ支配下のアンコールワットを目指しました。
日本人として最初に潜入し、写真におさめたい、有名になりたい。
そんな野心はいつしか、ただ単に、アンコールワットの写真が撮りたい!に変わっていきます。
誰が止めても、歩みをやめない。
地雷を越えて、突き進む。
ただ一枚の写真を撮りたいがために。
人生の最期に、彼はジャングルの中の遺跡を見ることができたのでしょうか?
戦場カメラマン・一ノ瀬泰造が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/10/2020 • 12 minutes, 7 seconds 第二百六十六話『受けた恩を忘れない』-【佐賀篇】電気工学者 志田林三郎-
今から130年近く前に、現代の高度情報化社会を予見した「電気の父」がいます。
志田林三郎(しだ・りんざぶろう)。
佐賀県多久市出身の彼は、まだ「電波」という言葉もない時代に、長距離無線電話、高速多重通信、海外放送受信、すなわち、スマートフォンやラジオ・テレビ放送を予見、録音や録画の技術も科学的に実証していました。
32歳で電気学会を創設し、その設立総会での講演は、今も歴史に残る名演説と言われています。
「電線を用いることなく、数里離れた海外とも、自在に通信、通話できる時代が必ず来る!」
当時は大胆な予測、果てしない夢の世界と思われていましたが、志田は確信していました。
日本は必ず、エレクトロニクス大国になれる、と。
ひとが歩んだことのない道を切り開くのは、並大抵の努力では足りません。
神童、天才ともてはやされた幼少期を経て、異例の抜擢を受け、電気工学の大家になったあとも、いばらの道は続きます。
権力闘争に巻き込まれ、思うように研究ができない。
ひとを説得し、調整するためには、理論を推し進めるだけではなく、柔軟でバランスのとれた人間力が求められました。
志田の心労がピークに達したのは、1891年1月に発生した国会議事堂の火災。
「電気のせいだ!」と矢面に立たされてしまったのです。
それでも、志田は逃げませんでした。
誤解を解くために奔走。
技術革新の芽を摘むような言動を、ひとつひとつ消して歩いたのです。
彼は36歳で亡くなりますが、結核のためと言われる一方で、過労死だったのではないかという説もあります。
何があっても、歩みを止めなかった賢人が夢みた未来とは、豊かなひとびとの暮らしでした。
電気工学の巨人・志田林三郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
10/3/2020 • 11 minutes, 43 seconds 第二百六十五話『10年先を考える』-【岡山篇】実業家 大原孫三郎-
岡山県倉敷市を愛し、世界に発信できる街づくりを実践した実業家がいます。
大原孫三郎(おおはら・まごさぶろう)。
もともと父が倉敷の大地主だったこともあり、その財力をもとに教育、医療、福祉など、さまざまな分野で次世代につなぐ功績を残した孫三郎ですが、彼が今わの際で最も気に病んだのは、大原美術館のことでした。
1940年代、時代は軍国化を極め、西洋の絵画を観にくるひとなど、ほとんどいなかったのです。
それでも彼は、倉敷の地に、世界に負けない美術館を作り、守り続けることをやめませんでした。
「わしの眼は、10年先が見える」
というのが口癖だった孫三郎。
「おそらく10年後も、この美術館には、ひとがそれほど来ないだろう。だがなあ、ここを閉じてはいけない。文化の窓を閉じたら、心が死ぬ」。
戦後を待たずして、彼は62年の生涯を閉じますが、言葉通り、大原美術館の客足はいっこうに増えませんでした。
しかし、奇跡は起こるのです。
昭和7年、満州事変のために来日したリットン調査団の団員たちは、大原美術館を訪れ、そこに展示してあった名画に驚愕します。
「エル・グレコが、まさか、ここにあるとは…」
自国に戻った調査団は、すぐに報告書をまとめました。
「ニッポンの地方都市、クラシキに爆撃してはいけない。あそこには、世界的な美術品がある」
おかげで、倉敷の街は爆撃目標からはずされたと言われています。
また、孫三郎は、倉敷の地に軍隊の師団設営を拒否。
当時としては命を落としかねない一大決心でした。
「わしの眼が黒いうちは、倉敷に軍隊を置かない!」
連帯配置を免れたことも、倉敷の戦火が最小限で済んだ理由のひとつにあげられています。
常に先を見て、目の前のひとの幸せを守る。
明治・大正・昭和を駆け抜けた風雲児、大原孫三郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/26/2020 • 12 minutes, 39 seconds 第二百六十四話『心のこもった仕事をする』-【岡山篇】作家 内田百閒-
昨年、岡山にある吉備路文学館で、ある作家の生誕130年特別展が開催されました。
その作家とは、岡山市に生まれ、岡山を愛した、内田百閒(うちだ・ひゃっけん)です。
百閒は『古里を思う 後楽園』という随筆の中で、こんなふうに書いています。
「私は古京町の生れであって、古京町には後楽園がある。子供の時から朝は丹頂の鶴のけれい、けれいと鳴きわたる声で目をさました」。
彼にとって日本三名園のひとつ、岡山の後楽園は、「一生忘れる事の出来ない夢の園」でした。
大好物だった岡山銘菓、大手饅頭は、夢に何度も出てくるほど。
あまりに岡山が好きすぎて、後年、変貌するふるさとの姿を見るのが辛くなり、かえって故郷に足を踏み入れなくなったと言われています。
夏目漱石の門下生の中でも異彩を放ち、独特のユーモアと価値観で周囲を驚かす天才。
文章のうまさは誰もが認め、小説や随筆は、多くの作家に影響を与えました。
芥川龍之介も、彼の作品を認めたひとりです。
1993年に公開した黒澤明の監督生活50周年の記念映画『まあだだよ』は、百閒とその教え子たちの心温まる交流を描いた作品です。
黒澤は、百閒の生き方、そしてひととの接し方の中に、「今、忘れている大切なもの」を見つけ、それを留めたいと願ったのです。
百閒は、教え子や孫たちに、こう語りました。
「みんな、自分の本当に好きなものを見つけてください。見つかったら、その大切なもののために、努力しなさい。きっとそれは、君たちの心のこもった立派な仕事となるでしょう」
戦前戦後を駆け抜けた名文家・内田百閒が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/19/2020 • 12 minutes, 5 seconds 第二百六十三話『守りを大切にする』-【岡山篇】棋士 大山康晴-
藤井聡太棋聖が牽引する将棋ブームは、とどまるところを知りません。
その勢いは、アスリートを取り上げるスポーツ雑誌の老舗『Number』が、創刊40年で初めて将棋特集を組んだことでも明らかです。
藤井聡太が棋聖戦に「短めの袖」の着物でのぞんだのは、あるレジェンドの哲学を継承したからだと、話題になりました。
そのレジェンドこそ、岡山県倉敷市出身の昭和の大名人、大山康晴(おおやま・やすはる)です。
公式タイトル、なんと80期。
一般棋戦優勝回数、44回。
通算1433勝。
昨年、羽生善治が、この最多勝記録を27年ぶりに更新しました。
彼は語っています。
「私がこれまで対戦した棋士で最も印象に残っているのは、やはり大山康晴十五世名人だ」。
羽生が初めて大山と対局したのは、羽生17歳、大山64歳のときでした。
その威圧感、鬼気迫る迫力に、驚いたと言います。
「大山将棋のすごさの一つは、指し手そのものの良しあしではなく、相手を見て手を選んでいる点だ。悪手もためらわず指している。相手を惑わすためだろうが、洞察力や観察眼が優れていないとできない芸当だ」。
後に、大山将棋をそんなふうに評しています。
大山の凄さについて誰もが口にするのは、69歳で亡くなるまで、順位戦最上位のA級の座を守り続けたことです。
生涯現役。
晩年は癌と戦いながら、どんな相手にも全身全霊で挑みました。
彼は幼い頃から天才だったのでしょうか?
華々しく妙技で攻めるタイプではありませんでした。
むしろ、地味な「受け」の将棋。
彼はこんなふうに後輩たちに言いました。
「守りの駒は、美しい」
将棋界の至宝・大山康晴が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/12/2020 • 13 minutes, 1 second 第二百六十二話『不器用さを大切にする』-【岡山篇】水墨画家 雪舟-
岡山県総社市で生まれたとされる、室町時代に活躍した水墨画の巨匠がいます。
雪舟(せっしゅう)。
個人の作家として、最も多く国宝に指定されていることから、絵の神様、画聖という名で呼ばれています。
総社市赤浜には、雪舟誕生の碑があり、そのほど近くには、彼が幼少期、修業した宝福寺があります。
宝福寺でのある逸話が、作品だけではなく、雪舟の名を現生にとどめました。
修行をちっともせずに、絵ばかり画いている、幼い雪舟。
和尚は怒って、彼をお堂の柱にしばりつけてしまいます。
もうそろそろ反省している頃かと様子を見に行くと、雪舟の足元にネズミがいます。
「こりゃ大変だ!」と和尚がネズミをつかまえようして、はたと気づきます。
ネズミは、雪舟が画いた絵だったのです。
哀しくてポタポタと床に落ちた涙。
それを墨代わりにして、足の指でネズミを画いた…。
これには和尚も感動し、以後、雪舟に絵を画くことを許した、というエピソードは、ひところ、学校の教科書にのっていました。
幼い頃から才能を発揮した彼は、順風満帆な芸術家人生を歩んだのでしょうか?
当時、水墨画の聖地だった京都を追われるように去り、自らの画風に悩んだ彼は、失意の日々を過ごします。
雪舟がようやく自分の作品に自信を持ち、画風を確立したのは、48歳のときだと言われています。
中国の繊細な模倣が主流だった時代に、大胆な構図や荒々しい筆づかいで立ち向かった背景には、おのれの不器用さがありました。
他のひとと同じようにできない。
その一見、マイナスとも思えるコンプレックスを、見事にプラスに転じさせたのです。
水墨画を確立させたレジェンド、国宝の代名詞、雪舟が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/5/2020 • 12 minutes, 1 second 第二百六十一話『幸せは、好きなことの中にある』-【秋田篇】パイロット 及位ヤヱ-
秋田県北西部、じゅんさいの生産地として知られる山本郡三種町に、女性パイロットの先駆者がいます。
及位ヤヱ(のぞき・やえ)。
単発小型機で日本一周を成功させたり、アメリカ横断レースに出たりと、その飛行記録は、彼女の冒険心を裏打ちしています。
戦後は運輸省航空局に入局。
日本婦人航空協会を設立するなど、空に一生を捧げました。
1976年のNHK朝の連続テレビ小説『雲のじゅうたん』のモデルのひとりでもあります。
浅茅陽子 扮する主人公は、「おら、空飛びてえ」という夢を抱き、どんな苦難にも耐え、プロのパイロットへと成長していきます。
大正5年生まれのヤヱにとって「飛行機乗りになりたい」というのは、簡単に叶えられる夢ではありませんでした。
多くの情報が集まる東京ですら、女性パイロットの前例がない時代、秋田にいながら、夢を目標に変え、そのために猪突猛進できる力は、並大抵ではなかったことがわかります。
ヤヱは、幼い頃見た、秋田の空を忘れませんでした。
どこまでも青く、どこまでも果てしない空。
あの空の向こうには、どんな風景があるのだろう…。
そう考えるだけで、彼女は胸、躍らせたのです。
いつしか、夢は、パイロットになるという目標になっていきました。
もし、彼女の原風景が、日本海に面した秋田県山本郡の空でなかったら、そんな夢を見ることはなかったのかもしれません。
ヤヱは、知ってしまったのです。
空の美しさ、分け隔てない、平等と平和と自由。
彼女の人生は、絶えず、「好きであること」のそばにありました。
「好き」だけで生きていけない。
「夢」だけでは食べていけない。
果たして、そうでしょうか?
空の開拓者・及位ヤヱが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/29/2020 • 11 minutes, 30 seconds 第二百六十話『自分の原点を知る』-【秋田篇】舞踏家 土方巽-
秋田県南部、県内屈指の豪雪地帯、雄勝郡羽後町田代に、鎌鼬(かまいたち)美術館という一風変わった建物があります。
かやぶき屋根の古民家を改造したこの美術館は、秋田出身のある芸術家の功績をたたえて造られました。
その芸術家とは、暗黒舞踏の創始者、土方巽(ひじかた・たつみ)。
1950年代後半に土方が提唱した暗黒舞踏とは、日本古来の風土や伝統と前衛的なパフォーマンスを融合させたもの。
舞踏の踏の字は、踊るではなく、踏む。
バレエなどとは一線を画したこのダンスは、白塗りに、剃髪、裸体。アングラ芸術の代名詞にもなりましたが、世界的に、アルファベットでButoh、ブトーと賞賛され、日本では、三島由紀夫や澁澤龍彦、埴谷雄高など多くの作家たちを魅了しました。
1965年、まるでカマイタチのように田代地区にやってきた土方は、住民らを驚かし、触れ合い、攪乱し、村を舞台に駆け抜けます。
子どもたちの前で飛んでみせ、田んぼを疾走する。
その様子を写真家がフィルムにおさめたのです。
写真集『鎌鼬(かまいたち)』は、日本のみならず世界に衝撃を与えました。
土着と芸術。
その融合がこれほど見事になされた写真がなかったからです。
田代地区は、土方の父の実家があった場所。
彼にとっての原風景が、画面からあふれています。
同じ東北出身の寺山修司と同時代を生きた土方もまた、自分の出自を見つめ続けたのです。
日本人が日本人である証は、いったい何処にあるのか?
誰かから与えられ押し付けられた美しさだけを、求めていないか?
土方の問いかけは、今の私たちに響いてきます。
戦後を代表する舞踏家・土方巽が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/22/2020 • 12 minutes, 2 seconds 第二百五十九話『思いを伝え続ける』-【秋田篇】小説家 小林多喜二-
秋田県の北部に位置する大館市に、戦前のプロレタリア文学を代表する作家の石碑があります。
小林多喜二(こばやし・たきじ)。
特別高等警察、いわゆる特高の厳しい監視化の中、世界的な名作『蟹工船』を世に出した小説家です。
「おい地獄さ行ぐんだで!」
という衝撃的な一文で始まるこの小説は、戦前、オホーツク海の北洋漁業で使用された古びた船が舞台。
たらば蟹をとり、船の上で缶詰に加工する。
そこで働くひとのほとんどは東北の貧しい農家出身者。
劣悪で過酷な労働環境や、資本家に搾取される労働者の悲哀をリアルに描いた作品は、世界各国で翻訳され、日本でも映画や舞台になりました。
小林多喜二の名を世に広めた最初の作品は『一九二八年三月十五日』。
そのタイトル通り、1928年3月15日に、軍国化をすすめる政府が反戦主義者を弾圧し逮捕した事件を小説にしました。
「雪に埋もれた、人口15万に満たない北の国から、500人以上も引っこ抜かれていった。これはただ事ではない」
彼はそう、日記に書いています。
保釈された友人から話を聴き、特高の過酷な拷問の実態をリアルに小説化したのです。
ただ、権力と戦う人物を決して英雄然とは描きませんでした。
弱さや迷いもあるひとりの人間として見せる。
そこに彼の文章力と鋭い観察眼、作家としての矜持があったのです。
「僕は、主義主張や思想を伝えたいわけじゃない。なぜ、わざわざ小説にするのか? それは、こんな時代にも、己の心に嘘をつかず、ちゃんと闘った人物を描くことで、誰かの心に種を植えたいと思ったからです」。
壮絶な拷問の末、29歳でこの世を去った反骨の作家、小林多喜二が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/15/2020 • 11 minutes, 58 seconds 第二百五十八話『誰のためでもなく信念のために』-【秋田篇】教育学者 井口阿くり-
秋田市出身の女性に「日本女子体育の母」と呼ばれる賢人がいます。
井口阿くり(いのくち・あくり)。
明治3年生まれの彼女は、アメリカに留学し、当時 世界的に流行っていた「スウェーデン体操」を習得。
帰国後、日本の女子教育に生かしました。
当時の日本では、女性たるもの、貞節を守り、従順であれ、が常識でした。
でも井口は、「女性もスポーツをしていいんじゃないでしょうか」という信念のもと、バスケットボール、ダンスなどを女子教育に積極的に取り入れ、ブルマーという体操着も考案、さらに動きやすいように、通常の制服としてセーラー服の原型を創案したのです。
NHKの大河ドラマ『いだてん』でも少し触れられていましたが、スウェーデン体操は、論争や軋轢の渦の中にありました。
井口がボストンで学んだ体操を日本に広めている頃、本場スウェーデンから、永井道明という教育学者が帰国。
「我こそが、スウェーデン体操の正当な指導者である」と、井口を退けようとしたのです。
「アメリカで学んだスウェーデン体操? おかしいじゃないか!」
どんなに揶揄されても、世間から誹謗中傷を浴びても、井口は、一歩もひきませんでした。
彼女の信念は、スウェーデン体操にこだわることではなく、若き女子たちにもっと快活さや俊敏な決断力を手に入れてもらいたいという一心だったのです。
昨年 春から今年の1月にかけて、あきた芸術村のわらび劇場では、井口の人生を描いたミュージカルが上演されました。
今も市民に愛され続けている教育学者・井口阿くりが、人生でつか んだ明日へのyes!とは?
8/8/2020 • 11 minutes, 44 seconds 第二百五十七話『夢を諦めない』-【秋田篇】歌手 東海林太郎-
秋田市出身の、昭和の国民的歌手がいます。
東海林太郎(しょうじ・たろう)。
丸いロイド眼鏡に、燕尾服。
最大の特徴は、直立不動で歌う姿。
彼の雄姿を後世に残そうと、秋田市は今年、「東海林太郎直立不動像」の建立を計画しています。
もともと県民会館に胸像はありましたが、今度は旧県立美術館前、千秋公園に向かう通り沿いに建てる予定です。
現在放送しているNHKの朝の連続テレビ小説は、名作曲家・古関裕而がモデルですが、東海林太郎も同じ時期を生きた同志。古関作曲の歌を歌っています。
紫綬褒章を受け、紅白歌合戦には4度出場、『赤城の子守唄』や『国境の町』などのヒット曲にも恵まれた東海林太郎ですが、実は、デビューしたのが35歳。
それまで南満州鉄道のサラリーマンをやったり、中華料理店を営んだ経験を持つ、遅咲きのひとです。
どうしても歌手になる夢を諦めきれなかった苦労人。
それだけに、歌に対する情熱は、すさまじいものがありました。
レコードに吹き込む録音の前には、何度も何度も歌詞を毛筆で書いたそうです。
「私は、歌の意味が知りたいのです。歌詞の後ろに鎮座している魂を理解したいのです。歌は、言葉が届かないと意味がありません。最高の形で言葉を届けるには、それなりの覚悟がいるのです」
歌の背景を体感するために、歌詞の舞台になっている場所に足を運び、文献を読み説き、納得ができるまで声を発することはなかったと言われています。
常に東京 神田 神保町の古本街に通い、歌詞のたったひとつの言葉も逃さない努力をしたのです。
当時、作詞家先生に意見できる歌手は、東海林の他、いませんでした。
彼はステージでファンから握手を求められても、断りました。
「ステージは命がけの真剣勝負の場所なんです。そこで握手なんて、考えられません」
愚直に、真摯に歌に向き合い続けた伝説の歌い手・東海林太郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/1/2020 • 12 minutes, 58 seconds 第二百五十六話『苦しみは試練』-【大分篇】戦国武将 大友宗麟-
大分のかつての名前“豊後”の名を世界に轟かせた、キリシタン大名がいます。
大友宗麟(おおとも・そうりん)。
今年、生誕490年を迎える彼は、粗野で無慈悲な暴君という悪評がある一方で、当時では珍しい国際感覚に優れたグローバリストという評価も高い、謎の多い戦国武将です。
彼の評価を一変させたきっかけは、彼が治めた街、大分市の大規模な発掘調査。
宗麟の屋敷跡などが、1998年からおよそ20年の歳月をかけて掘り起こされました。
出てきたのは、南蛮渡来の陶磁器の数々。
広い敷地には、大きな池や教会、劇場や病院などの痕跡が残り、ここが国際文化都市であったことを物語っています。
400年以上前の世界地図では、九州には大きく、アルファベットでBUNGOと記されていました。
西洋人にとって九州とは、豊後だった時代があったのです。
宗麟は、大分に多くの日本初をもたらしました。
初めての西洋式病院の建設、初めての西洋演劇の上演、1557年のクリスマスイブに、我が国で初めて、大分市の中心部、府内で西洋音楽が演奏されましたが、それを後押ししたのも宗麟でした。
大分市の遊歩公園には、西洋音楽発祥の地の記念碑も建てられています。
宣教師フランシスコ・ザビエルとの出会いから、当時ご法度だった布教を許し、自らも洗礼を受けるまで、西洋を知ろうと努力した賢人は、日本の未来を見据えていました。
彼の信条は、この言葉に集約されています。
「人生における敗北・苦しみは試練であり不幸ではない。灼熱の炎に磨かれる黄金のように試練によってこそ人は高められる」
どんな風評や試練にも耐え、九州 六か国を治めた偉人、大友宗麟が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
7/25/2020 • 12 minutes, 35 seconds 第二百五十五話『急がず、先をとる』-【大分篇】第35代横綱 双葉山定次-
大分県宇佐市出身の、伝説の力士がいます。
双葉山定次(ふたばやま・さだじ)。
今から、80年以上前の前人未到の大記録、69連勝は現在も破られていません。
しかも当時は、1年間に2場所。
あしかけ 3年以上かけた連勝は、大関でも関脇でもなく、前頭筆頭からのスタート。
そこから横綱になるまでの長い道のりの果てにありました。
双葉山は、現役当時、決して自ら語ることのなかった大きなハンデを二つ抱えていました。
ひとつは、幼い頃から右目がほとんど見えなかったこと。
もうひとつは、右手の小指の先を事故で失っていたこと。
双葉山は、そのハンデを憂い嘆くよりも、自分にしかできない相撲を模索し続けました。
そうして決めた流儀が、なるべく無駄な動きをやめようということでした。
無駄な動きは、相手に自分の思惑を知られるきっかけになる。
彼は決して、「待った」をかけませんでした。
さらに、彼が心がけた戦法は『後の先(ごのせん)』。
後の先と書くこの立ち合いは、まず、相手より一瞬、後に立つ。
でも、当たり合ったあとは、すばやく先をとっている、という戦い方です。
相手より後に立つことで、相手の動きが読めて、低く、いい角度でもぐりこめる。
ただ、そこからの素早さがないと、先がとれないリスクがあります。
右目が見えない分、少しでも長く相手の動きを察知したい。
そんな思いが生んだ、従来のセオリーを覆す立ち合い。
相撲ファンは驚嘆し、感動しました。
急がず騒がず、状況をじっくり見て、最短の道を進む。
そうして彼は、誰も成し遂げることができない偉業を達成したのです。
相撲界のレジェンド・双葉山定次が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/18/2020 • 12 minutes, 13 seconds 第二百五十四話『まず人として生きる』-【大分篇】小説家 野上弥生子-
大分県の東海岸に、今もなお城下町の佇まいを残す、歴史ある街があります。臼杵市。
この街に生まれ、99歳で亡くなるまで、生涯現役の作家として活躍した小説家がいます。
野上弥生子(のがみ・やえこ)。
実話をもとにした問題作『海神丸』や、戦争に傾いていく時代に抗う青年の苦悩を描いた『迷路』、女流文学賞を得た『秀吉と利休』など、重層で骨太な作品群は、のちの作家たちにも多くの影響を与えました。
彼女の流儀は、小説家である前に、まず、ひととしてどう生きるかでした。
いい作品を書くためであれば、なりふり構わず破天荒に生きるという無頼派とは、一線を画したのです。
ただひたすらに規則正しい生活をおくり、母として3人の息子を育て上げました。
晩年のインタビューでは、こんなふうに答えています。
「私を、小説家、作家と呼んでくださるのですが、私は今も、自分が作家だと名乗るのをおこがましいと思っているのです。
まだまだ、修業が足りません。まだまだ、作家と呼ばれるには足りません」
臼杵市にある野上弥生子文学記念館は、彼女が暮らした生家の一部を改装したもので、少女時代の勉強部屋が展示されているほか、多くの遺品に出会うことができます。
中でも、彼女の師匠、夏目漱石からの手紙は、貴重な資料です。
漱石は野上の作品に対する感想と共に、こんなアドバイスをしています。
「美文的なものを書き、漫然と生きず、文学者として年を取ることをおすすめします」
ひととしてまっとうでありながら、文学者を貫いた作家・野上弥生子が人生でつかんだ、明日 へのyes!とは?
7/11/2020 • 11 minutes, 35 seconds 第二百五十三話『おのれの価値を高める』-【大分篇】作曲家 瀧廉太郎-
大分県を走るJR九州の豊肥本線に、豊後竹田駅があります。
この駅のホームに電車が入ってくると、あるメロディが流れます。
それは、『荒城の月』。
作曲したのは、瀧廉太郎(たき・れんたろう)です。
瀧は幼い頃、父の仕事の都合で各地を転々としますが、竹田で過ごした時間は、彼にとって創作の礎をつくりました。
大分県竹田市の岡城が『荒城の月』作曲の着想につながったと言われ、城址には、瀧の銅像があります。
12歳から14歳まで過ごした屋敷は、瀧廉太郎記念館として残り、今も街の偉人として愛され続けています。
瀧は23歳の若さでこの世を去りますが、日本の音楽史において、日本独自の唱歌や童謡を最初に世に出した先駆者、革命児なのです。
彼は幼い頃から、どんなにいじめられ、世間から見放されても、ある信念を抱き、実践することで耐え抜くことができました。
それは、自分の価値を高めるということ。
そのための努力を惜しまないということ。
たったひとつでも一番になれるものを持っておけば、必ず一目置かれるようになる。
それは彼が転校するたびに感じたことでした。
音楽学校を首席で卒業しても、ピアニストで一番でなければ世の中に出ていけない。
作曲家になっても、ひとがやっていない奏法で一番になれなくては生きていけない。
いつしか、その思いは強迫観念のように彼を追いつめていったのかもしれません。
でも、そのおかげで彼の名は今も残り、私たちは彼の歌を口ずさんでいます。
亡くなる4ヶ月前に作曲したピアノ曲のタイトルは、りっしんべんに感じると書く、漢字一文字で『憾(うらみ)』。
まさにこれからというときに、結核でこの世を去るのは、どんな思いだったのでしょうか…。
終生、音楽に向き合い続けた作曲家・瀧廉太郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/4/2020 • 12 minutes, 29 seconds 第二百五十二話『心の炎を絶やさない』-【偉大な演劇人篇④】劇作家 三好十郎-
戦中戦後を旺盛な創作欲で駆け抜けた、無頼派の劇作家がいます。
三好十郎(みよし・じゅうろう)。
作家としての出発は、左翼芸術同盟を結成するなど、プロレタリアの旗手として小説や詩、戯曲を発表しましたが、政治主義や社会派という名のプロパガンダに不満を抱き、転向。
いわく、「演劇は、思想の宣伝に使われてはならない」。
その後はとことん、私というリアリズムにこだわることで、庶民の苦悩や貧困、人間が抱える根源的な生死に向き合いました。
自らの幼い頃の哀しい体験に根差した人間洞察に共感したのは、今月、この番組でご紹介した稀代の俳優、丸山定夫です。
「他の劇作家のセリフは、ひとつやふたつ、どこか心にしっくりこないものがあるが、三好の芝居は違う。すとんと、すべて腑に落ちる」と言わしめました。
同じく、今月ご紹介した劇作家、秋元松代は、三好が主宰した戯曲研究会で才能を羽ばたかせたひとり。
彼女は三好に言われた、こんなひとことを生涯、大切に心に留めていました。
「作家になろう、なろう、と思いつめないで、まともな人間になろうと努力して見給え。そういう人を僕は立派な人だと思う」。
名作『浮標(ぶい)』では、肺を病む妻を看病した彼自身の体験を、まるで自らの体を切り刻むように、セリフに昇華しました。
生死を前にして、芸術の必要性とは何か。
死ぬとは、どういうことなのか。
観客動員数が10万人を超えた『炎の人』は、フィンセント・ファン・ゴッホを描いた傑作ですが、たとえゴッホを題材にしても、三好は自らの「切実さ」から目を離さず、1950年代の日本の貧困にフォーカスしました。
「私」から逃げず、どんなときも心の炎を絶やさず歩き続けた演劇人・三好十郎が、私たちに伝える明日へのyes!とは?
6/27/2020 • 14 minutes, 41 seconds 第二百五十一話『異端を極める』-【偉大な演劇人篇③】劇作家 秋元松代-
来年、生誕110年、没後20年を迎える、戦後の演劇史に名を残す劇作家がいます。
秋元松代(あきもと・まつよ)。
秋元は、30歳を過ぎてから戯曲を書き始めた、いわば遅咲きとも言える作家でしたが、東北の民間信仰と戦中戦後の日本人の生き方を重ね合わせて描いた『常陸坊海尊』で芸術祭賞、田村俊子賞、和泉式部伝説と庶民の暮らしを哀しく綴った『かさぶた式部考』で毎日芸術賞、『七人みさき』では読売文学賞を、それぞれ受賞。
唯一無二の世界観と方言を駆使した香り高い芸術性で数々の賞を受けますが、彼女は、演劇界の王道には足を踏み入れませんでした。
あくまでも、異端。
「新劇の中にあって、非常に特殊な位置にいますか?」
という問いに、秋元はこう答えています。
「そうです。自分は落伍者みたいな者だと思っています。今は殆ど新劇の人たちから相手にされておりません」
彼女は、ときに「怨念の作家」だと評されます。
自身の日記に「転落の生活から燃えた怨念の詩、これが私の唄だ」と綴りました。
時代や環境に翻弄される人間の悲劇から目をそらさず、運命や業に真摯に向き合い続ける行程は、自らの心を切り刻む修羅場。
彼女は、そこから逃げるどころか、あえてそこへ飛び込んでいったのです。
誰にも似ていないやりかたで。
「書く」という、たったひとつの武器を持って。
商業演劇での執筆をあまりしていなかった彼女が、このひとならば書いてもいい、と心動いた演出家がいました。
その演出家の名前は、蜷川幸雄。
ある意味、彼もまた異端児。
秋元が書き、蜷川が演出した『近松心中物語』は、帝国劇場で上演され、大成功をおさめました。
彼女はその賞賛に浮き立つこともなく、人間をギリギリまで突き詰める作業を、生涯やめませんでした。
どんなに従来の枠組みから外れてしまっても自分の限界に挑む、孤高の完全主義者、秋元松代が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/20/2020 • 12 minutes, 57 seconds 第二百五十話『続けることの大切さ』-【偉大な演劇人篇②】俳優 丸山定夫-
日本に新劇を根付かせた立役者のひとり、「新劇の団十郎」と呼ばれた伝説の俳優がいます。
丸山定夫(まるやま・さだお)。
歌舞伎や能という日本古来の伝統を継承する古典芸能とは一線を画した、全く新しい演劇。
シェイクスピアを翻訳した坪内逍遥の戯曲や、ヨーロッパのリアリズム演劇を日本に持ち込んだ小山内薫の新しい波は、知識人にこそ受け入れられましたが、一般大衆に浸透するのに時間を要しました。
ともすれば高等遊民の道楽、セリフ回しの下手な三文芝居と揶揄されがちだった新劇にあって、丸山の存在は異彩を放っていました。
職を転々として、食べるものにも困っていた青年が、たった一枚のチラシを手に握りしめ、創立間もない築地小劇場の門を叩いたのです。
インテリ集団に、突如、薄汚れた学生服で現れた男。
丸山には、演劇しかありませんでした。
演劇こそ、唯一、自分を引き上げ、生かす、最後の砦だったのです。
彼は、戦争中、劇場が次々封鎖される中にあっても、仲間をこんなふうに鼓舞しました。
「演劇っていうのはね、絶やしちゃいけない、ささやかな灯りなんだ。その灯りはささやかだけど、それを暗闇で待っているひとが必ずいるんだ。続けなきゃいけない。演劇は、続けなきゃいけないよ。時代が過酷であればあるほど、必要な灯りがあるんだ」
戦争が激化して、東京で芝居ができない状況になると、丸山は、移動演劇さくら隊の結成に参加。
隊長として、全国を回ります。
1945年8月6日。
中国地方巡回公演のため広島に滞在していて、被爆。
それから10日後、44年の生涯を閉じますが、最後まで役者として舞台に立つことを夢みていました。
人生を演劇に捧げた偉人、丸山定夫が私たちに残した、明日へのyes!とは?
6/13/2020 • 12 minutes, 52 seconds 第二百四十九話『大切なものは手放さない』-【偉大な演劇人篇①】劇作家 森本薫-
戦争の最中にあっても、精力的に戯曲を書き続け、演劇史に残る名作をこの世に残した劇作家がいます。
森本薫(もりもと・かおる)。
彼の最大のヒット作は、文学座史上最多公演数を誇る、『女の一生』。
昭和の名女優・杉村春子のために書き下ろしたこの作品は、杉村主演で実に947回上演されました。
初演は、太平洋戦争が激化した、1945年4月。
場所は、渋谷の道玄坂にあった東横映画劇場。
娯楽は認められず、どの劇場も封鎖。
たった一軒、開館を許されたのが、この劇場でした。
男性の俳優はほとんどが徴兵で戦地に赴き、残った5人は台本をそれぞれがコピーして持ち、機銃掃射が鳴り響く中、稽古場に向かいました。
「こんな非常時に、果たしてお客さんは来るんだろうか」
誰かがつぶやいたのを聞いて、森本は毅然とした表情でこう返します。
「こんなときだから、演劇が必要なんだ!」
灯火管制で、東京は真っ暗。
B29の襲来で警報が鳴り響き、芝居中に防空壕に逃げ込むこともあったといいます。
それでも、場内は満席。
この芝居見たさに、地方への疎開を延期したひとも多くいました。
5日間の東京公演は、一度たりとも満足に通しで上演することはできませんでしたが、観客からの惜しみない拍手は鳴りやみませんでした。
拍手していた中には著名人も多くいました。
三島由紀夫も、そのひとりです。
初演の翌年、1946年10月6日に、34歳の若さで森本は亡くなりますが、死の床にあってもなお、『女の一生』の改定稿に着手していました。
戦火にあっても演劇の芽を守り続けた劇作家・森本薫が、私たちに残した明日へのyes!とは?
6/6/2020 • 12 minutes, 18 seconds 第二百四十八話『冒険をやめない』-【愛媛篇】冒険家 和田重次郎-
開拓時代のアラスカで大活躍した、愛媛県出身の冒険家がいます。
和田重次郎(わだ・じゅうじろう)。
『犬橇(いぬぞり)使いの神様』と謳われた男は、とにかく、やることなすことが規格外。
北極圏6千キロの探検を成し遂げ、未開の地の地図を作製、得意の犬橇で油田、金鉱、砂金を発見、さらには避難していた捕鯨船の救助にあたり、乗組員の命を救い、アラスカで行われる屋内のマラソン大会では3度の優勝を果たしました。
和田の銅像は、彼が育った松山市日の出町にあります。
松山城まで、およそ2キロ。
彼と同時代を生きた正岡子規の句碑も鎮座しています。
2016年にアラスカで、和田を主人公にしたミュージカルが上演され、それを伝える一文が彼の胸像の下に刻まれました。
松山市街から日の出町に行くには、石手川にかかる、新立橋を渡ります。
幼い日、母に手をひかれ、この橋を渡ったときのことを、和田は生涯忘れませんでした。
父を亡くし、母の実家に身を寄せるため、40キロの道のりを母に連れられて歩いた果てにたどり着いた場所。
「あの橋を渡ったら着くからねえ、重次郎、よく頑張ったねえ」
母が頭をなでてくれました。
ひとりアメリカに渡るときも、彼はこの橋から川面に反射する陽の光を眺め、思いを新たにしたのです。
和田は、どんなに遠く離れても、母に手紙とお金を送り続けました。
彼にとって母は、常に精神の真ん中であり、母と歩いた40キロの道のりは、和田にとっての最初にして最高の冒険だったに違いありません。
大きなことを成し遂げたひとこそ、その出発点はささやかで目立たないもの。
でも、栄光の萌芽は、すでに顔をのぞかせていたのです。
アラスカを駆け抜けたサムライ・和田重次郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/30/2020 • 12 minutes, 38 seconds 第二百四十七話『感謝の心で生きる』-【愛媛篇】俳人 種田山頭火-
愛媛県の松山を終の棲家に選んだ、自由律俳句の俳人がいます。
種田山頭火(たねだ・さんとうか)。
今年、没後80年。
放浪の果てに広島から船に乗った山頭火は、瀬戸内海の夕陽を浴び、四国の地、松山を目にしてこう思いました。
「僕の死に場所は、ここしかない」
『酒飲めば 涙ながるゝ おろかな秋ぞ』
そう詠んだ山頭火は、広島で医者にみてもらいます。
病状はかんばしくありません。
心臓の衰弱。
聴診器からは木枯らしのようにヒューヒューと弁膜の悲鳴が聞こえます。
「僕の病は、申し分ないのですね」
山頭火が言うと、医者はこう返しました。
「あんたは、これまで旅を続け、酒をあおり、句を詠み、好き勝手に生きてきたんだから、いつ死んでも後悔はなかろう」
「はい、後悔はありません。ただ、これ以上ひとさまに迷惑はかけたくないので、ころり往生を願うばかりです」
愛媛の松山では友人たちが、山頭火が棲む庵を探してくれました。
御幸寺山の麓、寺の山門の近くの一軒家。
山頭火はここを、ひとつの草の庵、「一草庵」と名付けました。
『おちついて 死ねさうな草枯るる』
『おもひでがそれからそれへ 酒のこぼれて』
彼は亡くなる前、心が澄んでいくのを感じました。
何も持たず生まれてきて、何も持たず死んでいく。
そして、日記にこう記しました。
「芸術は、誠であり、信である。誠であり、信であるものの最高峰である感謝の心から生れた芸術であり句でなければ本当に人を動かすことは出来ないであらう」
孤高の俳人、種田山頭火が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/23/2020 • 13 minutes, 20 seconds 第二百四十六話『他人と分かち合う』-【愛媛篇】脚本家 早坂暁-
愛媛県松山市出身の脚本家が、3年前、88歳でこの世を去りました。
早坂暁(はやさか・あきら)。
テレビや映画の脚本、舞台の戯曲、ドキュメンタリーに小説、書いた作品は1000本以上と言われています。
ライフスタイルは、極めてシンプル。
敬愛する俳人、種田山頭火のように、ものを持たないことを流儀としました。
劇作家の三谷幸喜は、早坂の『天下御免』という作品を見て、脚本家を目指したとコメントしています。
「笑いを表地にすれば、同じほどの悲しみの裏地を付けなければならない」
そんな思いが、早坂脚本全てに通底しています。
代表作のひとつに、1981年2月からNHKで放送されたテレビドラマ『夢千代日記』があります。
主人公の夢千代は、母親の胎内にいたときに広島で被爆した胎内被爆者。
主演の吉永小百合は、夢千代を演じたことがきっかけで、のちにライフワークとなる原爆の詩の朗読を始めました。
早坂にとって原爆は、人生を通して向き合ったテーマでした。
最愛の妹を被ばくで亡くし、終戦後、焼野原の広島を見たときの衝撃は、生涯、彼の創作の根幹に根差したのです。
もうひとつ、早坂作品をひもとく重要な因子に、お遍路があります。
彼の生家は遍路道に面していて、生まれて最初に聴いた音は、通り過ぎていくお遍路さんの鈴の音だったと言います。
その音は、傷ついた心の音。
その音は、弱きもの、儚きものの音。
終生、平和の大切さを謳い、温かい眼差しで人間を見つめた偉大な脚本家・早坂暁が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/16/2020 • 13 minutes, 15 seconds 第二百四十五話『大切なものを守り抜く』-【愛媛篇】漫画家 谷岡ヤスジ-
愛媛県出身の漫画家に、手塚治虫、赤塚不二夫と並び称され、天才と謳われた男がいます。
谷岡ヤスジ。
その画風は、大胆で自由。
極度にまで省略された線はまるで一筆書きのようですが、読者はそこに、人生の無常や哀しさ、生きるための哲学を読み取りました。
赤塚不二夫は、こんなコメントを残しています。
「谷岡マンガの出現は、強烈だった。従来の漫画のセオリーを無視していたが、インパクトがあった。なかでもセリフがうまかった。ボクが思うに、セリフづくりが一番うまかったんではないか。漫画というのはセリフは補助的な役目で、ある意味では無駄なスペースでもある。しかし彼の作品ではセリフに絵にもまさる面白さがあって、それがひとつの漫画でもあった。毎週、おなじみのキャラクターを登場させ、同じパターンを繰り返しながら、なぜか面白い。不思議だった。彼は天才だった」。
文筆家で『暮らしの手帖』の編集長だった松浦弥太郎は、谷岡が切り取るワンシーンを、20世紀を代表する写真家、アンリ・カルティエ=ブレッソンと同じ構図だと評しました。
コピーライター糸井重里は、谷岡が描くユートピア「村(ソン)」に触発され、1980年、矢野顕子に詞を書きました。
『SUPER FOLK SONG』。
時を経て、2017年、糸井は再び、谷岡の世界観を再現するかのように『SUPER FOLK SONG RETURNED』を書き、配信されたジャケット写真には、谷岡ヤスジ作品『アギャキャーマン』が使われたのです。
下ネタありのぶっとんだギャグマンガ。
そこには救いも癒しもない。
それでも読者からの人気は高く、芸術家たちは絶賛しました。
谷岡マンガには、どんな秘密があるのでしょうか?
彼が画くシンプルな水平線の向こうには、荒れ狂う海が隠れていたのです。
孤高の漫画家・谷岡ヤスジが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/9/2020 • 12 minutes, 54 seconds 第二百四十四話『絶望を笑う』-【愛媛篇】俳人 正岡子規-
愛媛県松山市が、俳句の都『俳都(はいと)』と呼ばれているのをご存知でしょうか?
市民や観光客に、少しでも俳句に親しんでもらおうと街中に設置された『俳句ポスト』。
毎年8月に開催される、高校生対象の『俳句甲子園』など、俳句にまつわるイベントも盛んです。
松山市が俳句の街であるわけ、それは、この地が偉大な俳人を生んだ場所だからです。
その俳人とは、「柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺」という句の作者、正岡子規(まさおか・しき)。
彼は明治時代に、「俳句は季題を持ち、五七五音より成る定型詩」という現代俳句の原型を確立しました。
その教えを日本中に広めたのが、同じ松山市出身の高浜虚子(たかはま・きょし)です。
道後にある「子規記念博物館」では、子規の人物像や作品の数々を資料展示や映像などで紹介。
また、親交の深かった夏目漱石にも触れ、子規を通して松山市の歴史や文学ついても学ぶことができます。
正岡子規はまた、大の野球好きでした。
「バッター」を打者、「ランナー」を走者、「フォアボール」を四球と訳し、一説には、ベースボールを雅号にするため、「野球」と表記した最初のひと、と言われています。
正岡子規のわずか34年の生涯は、ほとんど病との闘いでした。
晩年は、結核に脊椎カリエスを併発し、寝たきり。
それでも、亡くなる二日前まで、自身の病状や日常を、今でいうTwitterやブログのように、新聞に連載し続けました。
『病牀六尺(びょうしょう・ろくしゃく)』と題された随筆は、絶望の淵にあっても、決して暗くならず、時にはユーモアを交え、生きるとは何かを教えてくれます。
なぜ彼は、自分をそんなふうに客観視することができたのでしょうか?
俳句の神様・正岡子規が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/2/2020 • 12 minutes, 36 seconds 第二百四十三話『自分の中にyesを探す』-【海外レジェンド篇④】ザ・ビートルズ-
ザ・ビートルズ、最後のアルバム『レット・イット・ビー』は、イギリスで1970年5月8日、日本では6月5日に発売されました。
今年で50周年を迎えます。
ちなみに、4人が最後にレコーディングしたアルバムは、『アビイ・ロード』。
1962年、『ラヴ・ミー・ドゥ』でデビューして以来、わずか8年あまりの活動で瞬く間に世界を席巻し、解散後50年経った今も、彼等の音楽が流れない日はないほど愛され続けています。
昨年は、もしもこの世にビートルズの音楽がなかったら、というファンタジー映画『イエスタデイ』が大ヒット。
楽曲の素晴らしさがあらためて証明されました。
今年9月には、映画『ロード・オブ・ザ・リング』シリーズの監督で知られるピーター・ジャクソンが手掛けた、ザ・ビートルズのドキュメンタリー映画が、ディズニーより公開される予定です。
タイトルは、『ゲット・バック』。
自分がかつていた場所に戻れ!
『ゲット・バック』という曲は、もともと逆説的に外国人の移民排斥・反対を唱えるものとして誕生しました。
それがいつしか、解散の危機を憂えたポールがジョンに戻って来いと訴える歌になった、と言われています。
「自分が、かつていた場所に戻る」。
ビートルズ4人のメンバーそれぞれの軌跡は、自分のかつての居場所に戻る旅でもありました。
アイルランド系移民が多く暮らすリヴァプールという街の風景は、彼等の心にしっかりと刻まれていたのです。
それぞれが歩いた、心の中のyesを見つけるための長い長い曲がりくねった道。
ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター。
彼等が音楽の中にみつけた居場所、そして、明日へのyes!とは?
4/25/2020 • 13 minutes, 1 second 第二百四十二話『自分の足元を掘る』-【海外レジェンド篇③】画家 フィンセント・ファン・ゴッホ-
今年、没後130周年を迎えたポスト印象派の有名な画家がいます。
フィンセント・ファン・ゴッホ。
荒々しいタッチと、鮮烈な黄色。
名画『ひまわり』は、彼の代名詞と言っても過言ではありません。
昨年から開催されてきた、ゴッホ展。
特に今年は、世界初の「ロンドン・ナショナル・ギャラリー展」が期待を集めていますが、その中の最注目のひとつが、ゴッホが4番目に画いた、『ひまわり』です。
彼はその絵を、共同生活をしたゴーギャンの寝室に飾るために描きました。
ゴーギャンもその絵を気に入り、褒めたたえたと言います。
ひとと交わるのが不器用だったゴッホにとって、『ひまわり』は、彼自身の最高のおもてなしの象徴だったのかもしれません。
意外なことに、描いた花瓶のひまわりは、たったの7点。
それよりもっと多く画いたモチーフは、「土を掘るひと」です。
習作時代から、彼はひたすら、鍬(くわ)で土を掘るひとを描き続けました。
37歳で自ら命を絶つまで、ゴッホの創作年数は、わずか10年あまり。
その10年間で、彼は黙々と土を耕す農民や墓地を掘るひとから目をそらすことができませんでした。
彼は、こんな言葉を残しています。
「絵を描くのはね、この辛い人生に耐えるための手段なんだ。お願いだから、泣かないでくれ。僕たちにとってこれがいちばんいいことなんだ。どうしようもないんだ。僕はこの憂鬱から、逃げることはできない」
ゴッホがほんとうになりたかったのは、伝道師でした。
弱きもののために、牧師として道を照らす。
でもその願いは叶わず、画家として、ある思いを伝えようとしたのです。
「掘るひと」に全てを託して…。
彼が生涯を賭けて私たちに届けたかった、明日へのyes!とは?
4/18/2020 • 14 minutes, 34 seconds 第二百四十一話『諦めない』-【海外レジェンド篇②】作曲家 ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー-
今年、生誕180周年を迎える、ロシアの大作曲家がいます。
ピョートル・イリイチ・チャイコフスキー。
6つの交響曲やヴァイオリン協奏曲、ピアノ協奏曲など、数多くの名曲がありますが、特に彼の名声を確実なものにしたのがバレエ音楽です。
『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』。
この3曲は現代に至っても、全世界で大人気の演目になっています。
チャイコフスキーの経歴は、他の有名なクラシックの作曲家とは、大きく異なっています。
彼は10歳から法律学校で学び、19歳で法務省の役人になりました。
幼い頃から特別な音楽教育を受けずに役人になった彼は、どうしても作曲家への夢を諦めきれず、21歳で初めて音楽学校の門を叩いたのです。
英才教育を受けた、年下の同級生たち。
先生の話すことが、思うように理解できない焦りと苦しみに苛まれる日々が続きました。
さらに働きながらの二足のわらじ。
音楽だけに時間を使えたらと思いながら、眠気と闘ったのです。
作曲家としてデビューしても、正当な評価が得られず、苦悶の連続。
繊細で壊れやすい心を持つ彼は、手紙や日記を書くことで、なんとか自分を保ちました。
あまりにメランコリックだと、彼の作風を揶揄するひともいました。
どうにも曲調が暗いと、敬遠する風潮もありました。
それでも彼は、己の信じた音楽を追及し、決して挑戦の姿勢を変えませんでした。
チャイコフスキーは、知っていたのです。
音楽には、力がある。
ひとを癒し、ひとの苦しみを和らげる魔法がある。
だから一生を賭けるのにふさわしいものである、と。
53年の生涯を作曲に捧げたレジェンド、ピョートル・イリイチ・チャイコフスキーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/11/2020 • 14 minutes, 1 second 第二百四十話『コンプレックスと向き合う』-【海外レジェンド篇①】映画監督 アルフレッド・ヒッチコック-
今年4月に没後40年を迎える、映画界のレジェンドがいます。
アルフレッド・ヒッチコック。
『鳥』『サイコ』『レベッカ』『北北西に進路を取れ』など、ホラーやサスペンス映画の名作を次々と世に送り出した巨匠。
彼の作品は、全世界の映画人に影響を与えました。
若き日のスティーブン・スピルバーグは、ヒッチコックの撮影現場を見学、彼の映画哲学を目の当たりにして感動します。
フランス・ヌーベルバーグの奇才、フランソワ・トリュフォーは、当時、サスペンス映画がB級だと言われていた時代にあって、「ヒッチコックの映画は、まぎれもなく第一級の芸術だ」と賛辞を惜しみませんでした。
ヒッチコックは、自らが生涯大事にした3つの要素、「サスペンス」「スリル」「ショック」について、こんなふうに説明しています。
「汽車の時間に間に合うかどうかギリギリの所で駅に駆けつけるのが『サスペンス』。
発車間際にその列車のステップにしがみつくのが『スリル』。
ようやく座席に落ち着き、一息ついたところで、行先が違うことに気づく。これが『ショック』だ」。
サスペンスの神様は、実は極度の怖がり。
私生活では予期せぬ出来事を嫌い、生涯、妻、アルマを愛し続けました。
亡くなる前年、79歳のときに、AFIから生涯功労賞を授与されますが、そのスピーチでは妻への感謝を熱く語り、傍らのアルマは涙を流しました。
彼自身が映画にちょっと顔を出す、いわゆるカメオ出演が有名なヒッチコック。
でも、幼い時から容姿に対して、激しいコンプレックスをもっていました。
さらに、イギリスの片田舎出身。
訛りが気になり、友だちをつくることができませんでした。
孤独な少年は、いかにして世界に影響を与える巨匠になったのか。
自らのコンプレックスと向き合い、それを映画に昇華させた伝説の映画監督アルフレッド・ヒッチコックが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/4/2020 • 12 minutes, 38 seconds 第二百三十九話『幸せを与える生き方を選ぶ』-【山形篇】喜劇役者 伴淳三郎-
「アジャパー」という驚きと困惑を現した流行語の産みの親、バンジュンこと伴淳三郎は、山形県米沢市に生まれました。
「アジャパー」は、伴がたまたま発した山形弁に起因しています。
1951年、昭和26年に公開された松竹京都映画『吃七捕物帖 一番手柄』。
長い下積み生活を送っていた伴がようやくつかんだ役は、用心棒。
伴たち悪役が目明したちに取り囲まれ、一網打尽になるそのとき、彼はこんなアドリブを言ってしまいます。
「一瞬にして、パアでございます」
思わず吹き出すスタッフたち。
監督は、「もっと奇妙な感じでやってみて!」と声をかけます。
伴は、「アジャジャー」と叫びました。
これは、山形弁で老人が驚いたときに発する言葉です。
「もうひとこえ!」と監督に言われ、口をついて出たのが「アジャジャーにしてパアでございます」。
この言葉を短くした「アジャパー」は、あっという間に流行語になり、日本全国、子どもから大人まで口にするようになりました。
先生に叱られて「アジャパー」。会社でミスをして「アジャパー」。
喜劇映画で多くの観客を笑わせる一方、1964年、伴が56歳のときに出演した内田吐夢監督の『飢餓海峡』では、老刑事役をシリアスに熱演。
毎日映画コンクールで助演男優賞を受賞しました。
内田監督に徹底的にしごかれ、罵詈雑言を浴びせられ、憔悴しながらも、伴は山形警察署に足を運び、特別に刑事の取り調べを見学させてもらいました。
まさに、まもなく定年を迎える刑事が犯人に対峙しています。
伴は刑事の、犯人の人生に寄り添う姿に感動を覚え、自分の役柄の意味を知りました。
そして、母の言葉を思い出すのです。
「ひとさまに幸せを与える人間になっておくれ」。
昭和を代表する喜劇役者・伴淳三郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/28/2020 • 13 minutes, 17 seconds 第二百三十八話『全ての基準を善に置く』-【山形篇】写真家 土門拳-
山形県酒田市に生まれた、昭和を代表する写真家がいます。
土門拳。
酒田市飯森山公園にある土門拳記念館は、日本で最初の写真美術館。
白鳥が飛来する清廉な湖のほとりにあります。
1974年、酒田市名誉市民第一号になった土門は、自らの作品を全て故郷に贈りたいと願いました。
記念館の設立には、彼の友人たちがその才能を結集。
設計は、ニューヨーク近代美術館の改装を手掛けた谷口吉生。
中庭の彫刻は、イサム・ノグチ。
庭園は、草月流第三代家元・勅使河原 宏が手がけました。
さらに、入口近くに置かれた石に「拳湖」、こぶしに湖という文字を刻んだのは、詩人の草野心平です。
土門拳という圧倒的な求心力が、この記念館を造ったのです。
彼が主張したのは「絶対非演出の絶対スナップ」。
徹底的にリアリズムを追求し、『ヒロシマ』に代表される報道写真や、閉山した炭鉱に暮らす子どもたちを追ったスナップなど、市井のひとびとの暮らしに寄り添いました。
一方で、文豪や政治家など著名人のポートレートにもこだわり、川端康成や志賀直哉、棟方志功など、被写体の人格までもあぶりだす力強い写真は、今も、見るひとの心をわしづかみにします。
写真に命や思想、写す人間の魂までも焼き付ける作業は、ときに周りとの軋轢を生みました。
日本画の大家、梅原龍三郎を撮影したときは、あまりに土門が粘るので、梅原が激怒。
座っていた籐椅子を床に叩きつけましたが、土門は眉一つ動かさず、撮影に没頭。
結局、梅原は折れ、生涯で最高の一枚の写真が誕生したのです。
どこまでも自然光にこだわった土門は、東大寺、二月堂のお水取りの写真でも、真夜中にも関わらず、一切、人工照明を使いませんでした。
何度失敗を繰り返しても、信念を曲げない。
たいまつに照らされる表情は、まさしく「鬼」の形相だったと言います。
なぜ彼はそこまで強くなれたのでしょうか?
なぜ彼はそこまで揺るぎない自分を手に入れることができたのでしょうか?
リアリズム写真の巨匠・土門拳が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/21/2020 • 13 minutes, 10 seconds 第二百三十七話『ひとに辛い顔を見せない』-【山形篇】ケーシー高峰-
昨年4月8日、昭和・平成を代表するコメディアンがこの世を去りました。
ケーシー高峰。
彼が作り出したジャンルは、医学漫談。
白衣姿に、黒板やホワイトボードで解説しながら繰り出す話芸は、唯一無二のものでした。
彼の母方は、山形県新庄市で江戸時代から続く医者の家系。
ケーシー自身も一度は医学部に入りますが、親に黙って芸術学部に転部。
母親から勘当されてしまいます。
音信が途絶えた母親に、いつか認めてもらいたい、その強い思いの末に医学漫談があったのです。
本名は、門脇貞男(かどわき・さだお)。
芸名は、医者が主人公のアメリカのテレビドラマ『ベン・ケーシー』と、少年時代に憧れた女優、高峰秀子からとりました。
白衣に黒ぶちメガネ、首から聴診器を下げて舞台に現れると、何も言わずに1分間、会場の観客の顔を見るのが常でした。
今日はどんなお客さんが来ているのか、瞬時に見極め、ときにため息をつくだけで、笑いをとりました。
ビートたけしは、浅草の演芸場で常に観客を笑いの渦に巻き込むケーシーを見て、かなわないと思ったと言います。
立川談志もまた、ケーシーの話術の巧みさ、何より間の取り方のうまさに、賛辞を惜しみませんでした。
ケーシー高峰の凄さは、その才能を惜しげもなく、ふだんから披露していたところにあります。
家に遊びに来る客人はもとより、街で声をかけるファンにも、必ずひと笑いしてもらう。
舌に癌ができて大手術をしたすぐあと、マスクをしたまま、筆談だけでも笑わせる。
彼は、偉そうにすることを嫌いました。
彼は、辛い顔を見せるのを嫌がりました。
「みんな毎日辛いことがあるから、ボクに会いに来てくれるんだ。ボクが辛い顔したら、そりゃあダメでしょ」
生涯を笑いに捧げたコメディアンのレジェンド・ケーシー高峰が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/14/2020 • 13 minutes, 22 seconds 第二百三十六話『何気ない日常こそ尊い』-【山形篇】小説家 藤沢周平-
山形県出身の小説家に、今も多くのファンに愛される時代小説の名手がいます。
藤沢周平。
彼が生まれた鶴岡市にある「鶴岡市立藤沢周平記念館」は、庄内藩 酒井家の居城、鶴ヶ岡城址にあります。
敷地内には、東京で暮らしていた家の庭木や屋根瓦なども移築され、作家としての生涯を、作品世界と共に味わうことができます。
記念館の近くにある公園は、桜の名所。
そこはまるで、藤沢周平が書いた「海坂藩」の世界です。
江戸時代にタイムスリップしたような感覚が味わえるかもしれません。
下級武士や庶民を多く描いた藤沢は、ことあるごとに、家族に次の六か条を話しました。
1. 普通が一番。
2. 挨拶は基本。
3. いつも謙虚に、感謝の気持ちを忘れない。
4. 謝るときは、素直に非を認めて潔く謝る。
5. 派手なことは嫌い、目立つことはしない。
6. 自慢はしない。
この中で、いつも口にしていたのが「普通が一番」という言葉だったと言います。
彼は作品の中でも、登場人物の日常を丁寧に描き、普通を大切にしました。
ささやかな日々の暮らしにこそ幸せがある、そんなメッセージが聴こえてきます。
藤沢が「普通が一番」という境地に辿り着いたのは、彼の生涯と無縁ではありません。
度重なる苦難の末に手にした言葉だったのです。
名作『蝉しぐれ』で、父との今生の別れをする男は、たいした言葉も口にできません。
外で待っていた友人は、悔やむ彼に、こんな言葉を言いました。
「人間は後悔するようにできておる」
人間を愛し、日常を愛した、時代小説の旗手・藤沢周平が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/7/2020 • 13 minutes, 36 seconds 第二百三十五話『誰かを励ます生き方』-【山梨篇】翻訳家 村岡花子-
山梨県出身の文学者に『赤毛のアン』を日本に広めた翻訳家がいます。
村岡花子(むらおか・はなこ)。
2014年の3月から9月まで放送されたNHKの朝ドラ『花子とアン』は好評を博しました。
ドラマの原作になった村岡恵理(むらおか・えり)著の『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』は、彼女の人生をつぶさに描いています。
村岡にとって、山梨県甲府市に生まれたことは、運命を左右する重要な要素でした。
明治時代前半の、海外への輸出品目の筆頭は、お茶と生糸。
その生糸の生産で、甲府は、日本一の一角を担っていました。
甲府にはさまざまな外国人が出入りし、その中には、カナダのメソヂスト派教会の宣教師の姿がありました。
生糸商人たちの間に、信仰を持つものが増えていきます。
村岡の父もまた、カナダ人との精神的な結びつきを強くして、洗礼を受けました。
メソヂスト派教会は、日本人女性の教育レベルの低さに着目、社会進出や自我の形成をする暇もなく、家にしばられて一生を終える女性を憂いました。
東京、静岡、そして山梨に、英和女学校を創設。
女子教育の重要性を訴え続けたのです。
そんな機運の中、村岡は父に連れられて2歳で洗礼を受けます。
カナダとの深い関係は、ここから始まっていたのです。
のちに翻訳することになる『赤毛のアン』の作者、モンゴメリもカナダ出身。
その原書は、第二次世界大戦勃発を受け、本国に戻るカナダ人宣教師から手渡されました。
『赤毛のアン』の原書を、村岡は風呂敷に包み、大切にしました。
戦時下、火の海を逃げるときも、原書だけはしっかり胸に抱きかかえ、守り抜いたのです。
灯火管制の中、少しずつ翻訳をしました。
不安と絶望に押しつぶされそうになると、アンに出会い、アンに励まされ、彼女は自分を保ったのです。
「私が励まされたこの本で、日本中の女性を元気にしたい」
その思いはやがて、彼女のライフワークにつながりました。
『赤毛のアン』の翻訳者、村岡花子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/29/2020 • 13 minutes, 1 second 第二百三十四話『強い思いだけが、ひとを動かす』-【山梨篇】ピアニスト 中村紘子-
今年は、音楽史上最も有名な作曲家のひとり、ルードヴィッヒ・ヴァン・ベートーヴェンの生誕250周年にあたります。
故郷ドイツのボンだけではなく、世界中で記念コンサートが開催され、彼の作品を耳にする機会が増えることでしょう。
自身のデビュー55周年のリサイタルのひとつに、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を全曲演奏することを選んだピアニストがいます。
山梨県出身の、中村紘子(なかむら・ひろこ)。
2014年7月19日、横浜みなとみらいホールで彼女は、およそ5時間かけて1番から5番までのピアノ協奏曲を弾きました。
会場の拍手はいつまでも続いたと言います。
69歳という年齢もさることながら、このとき中村は病に侵されていました。大腸がん。
彼女は、このコンサートの2年後に永眠します。
抗がん剤の副作用に苦しみながら、彼女は最後までピアノに向き合いました。
「私は、ベートーヴェンのピアノ協奏曲の中で、特に、第4番の第2楽章が好きです。
この楽章のピアノの独奏は、とっても弱い音、ピアニッシモなんです。
オーケストラは、フォルテ。ピアノを威嚇するように迫ってきます。
でも、一見、頼りなげで哀しく、弱そうに見えるピアノが、結局、オーケストラを最後まで引っ張っていくんです。
この楽章を演奏すると、耳が全く聴こえなかったベートーヴェンの思いをすぐそこに感じるんです。
どんなに辛かっただろう、孤独だったろう、それでも彼は闘いを続けた。倒れる、その日まで…」
彼女は、まるで自分の魂を重ね合わせるように、ベートーヴェンの思いを鍵盤に刻みました。
中村は、練習の鬼でした。
ピアニストであり続けることを大切にしたからです。
がんが見つかったとき、医師にこう言いました。
「治っても、ピアノが弾けないのは困ります」
技巧だけではなく思いを伝えるピアノにこだわったピアニストのレジェンド、中村紘子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/22/2020 • 12 minutes, 19 seconds 第二百三十三話『自分だけの道を歩む』-【山梨篇】画家 藤田嗣治-
山梨県立美術館では、3月8日まで「藤田嗣治『黙示録』三連作の謎」と題した、コレクション展冬季特別企画が開催されています。
同美術館所蔵の藤田の『黙示録』は、彼がカトリックの洗礼を受ける前後に書かれた貴重な作品です。
特に、洗礼後に画かれた『天国と地獄』は圧巻。
仔細(しさい)に描かれる、救済と破壊、平和と殺戮は、見るものを釘づけにします。
『黙示録』は、間違いなく藤田嗣治という稀代の画家の宗教観をひもとく重要な作品群です。
ピカソ、モディリアニ、マチスらと、1920年代のパリに暮らした藤田は、エコール・ド・パリ、唯一の日本人。
独特な感性で賞賛を浴び、時代の寵児になりました。
彼が描く「乳白色の肌」と呼ばれた裸婦像は、西洋画壇にその名をとどめる強烈なインパクトを持っていたのです。
しかし、日本では、異端児。
特に戦争の渦が彼を巻き込み、翻弄します。
第二次世界大戦がはじまると、日本に帰国を余儀なくされましたが、戦後は「戦争協力者」のレッテルを貼られ、日本から逃げるように再びパリに戻り、フランスに帰化。
名前も、レオナール・フジタとします。
しかし今度はフランスからも「亡霊」と呼ばれ、自らのアイデンティティを喪失してしまうのです。
彼は日本を去るとき、「私が日本を捨てるのではない。日本が私を棄てたのである」という言葉を残しています。
それでも藤田は亡くなるまで、日本を愛し、日本人としての誇りを胸に生きていました。
日本から疎まれ、フランスからはじかれても、彼は愚痴や言い訳を口にしませんでした。
それはまるで彼の画法のように、訂正や書き直しをしない、直感を信じた揺るぎない一本の線のようです。
おかっぱ頭に丸メガネ、口ひげの画家、藤田嗣治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/15/2020 • 13 minutes, 44 seconds 第二百三十二話『積み重ね、また積み重ね』-【山梨篇】建築家 内藤多仲-
山梨県出身の建築家に、東京タワーを設計した、「塔博士」「耐震構造の父」と呼ばれる人物がいます。
内藤多仲(ないとう・たちゅう)。
1925年に、東京、愛宕山の鉄塔を設計して以来、彼は、全国におよそ60基のラジオ塔を手掛けました。
1954年には、我が国最初のテレビ塔、名古屋テレビ塔を設計。
180メートルは、当時としては破格の高さでした。
1957年春。
早稲田大学の教授を70歳で定年退職した内藤に、あらたな仕事が舞い込みました。
エッフェル塔の324メートルを越える、世界一高い電波塔を設計してほしい、そんな発注。
内藤は、すぐに首を縦に振りません。
それもそのはず、日本には、うかつに高い塔を建てることができない、地震と台風という深刻な天災があります。
フツウであれば断るそのときに、彼はこう答えました。
「日本は、世界のどの国よりも鉄塔建築の条件が悪い。それだけに、独創的な構造を思いつかなければなりません。この大工事は、困難なものになるでしょう。でも、不可能ではありません。やってみましょう」
当時はまだ、パソコンも電子計算機もない時代。
内藤は、計算尺だけを頼りにして、構造計算だけに数か月を費やしました。
作成した設計図の数は、一万枚にも及んだと言われています。
全ての工事が終わったときの気持ちを、彼はこんな言葉で残しました。
「今まで肩にのしかかっていた重荷がほぐれたような安らぎの気持ちで、しばし瞑目して、感激にひたった」
内藤多仲は、特別な人間だったのでしょうか?
おそらく彼は、ただただ自分の仕事にひたむきだったのです。
あなたは、全てが終わったあと、感激にひたれる仕事をしていますか?
あえて困難な仕事を引き受け、常に自らを律した建築家のレジェンド、内藤多仲が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/8/2020 • 12 minutes, 17 seconds 第二百三十一話『自分で自分を評価する』-【山梨篇】小説家 山本周五郎-
山梨県に、今も文豪の名前を留めるワインがあります。
「周五郎のヴァン」という名の、デザートやブルーチーズによく合う、甘口の甲州ワイン。
このワインをこよなく愛したのが、山梨県大月市出身の作家、山本周五郎です。
武田家の流れをくむ家に生まれた山本でしたが、終生「庶民の作家」と呼ばれました。
『樅ノ木は残った』、『赤ひげ診療譚』、『さぶ』、『青べか物語』など、大衆に愛された多くの作品が、映画化、テレビドラマ化されています。
山本は、歴史小説、時代小説の大家として名を馳せますが、扱う主人公は、信長でも秀吉でも家康でもなく、市井のひと。
それも、弱く、傷ついた流れ者を描き続けました。
口癖は、「どんなひとも、生と死のあいだのぎりぎりのところで生きているんだ」。
小説には「よい小説」と「よくない小説」の2種類しかないと言い放ち、小説の価値は文壇や編集者や評論家が決めるものではなく、読者が決めるものだという信念のもと、あらゆる文学賞を断りました。
1943年、40歳のとき、『日本婦道記』で第17回直木賞に選ばれても、これを辞退。
ただひたすら、読者の心をつかんで離さない、自分の中の「よい小説」を追求したのです。
自伝も書かず、過去を語らず、マスコミも大嫌い。
産み出す作品だけが彼の全てでした。
彼は、なかなか世に出られず焦る若い作家たちに、こう諭しました。
「一足飛びにあがるより一歩ずつ登るほうが、途中の草木や泉やいろいろな風物を見ることができるし、それよりも、一歩一歩をたしかめてきた、という自信をつかむことのほうが、強い力になるものだ」。
どん底の貧乏暮らしに耐えながら、一文字一文字原稿用紙を埋めていった孤高の作家、山本周五郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/1/2020 • 13 minutes, 4 seconds 第二百三十話『自らの歩みを止めない』-【和歌山篇】看護師 國部ヤスヱ-
看護師の代名詞ともいわれる、フローレンス・ナイチンゲール。
今年は、彼女の生誕200年、没後110年にあたります。
ナイチンゲールは、「物事を始めるチャンスを、私は逃さない。たとえマスタードの種のように小さな始まりでも、芽を出し、根を張ることがいくらでもある」と言いました。
その言葉どおりに、看護師になるチャンスを逃さず、のちに『日本のナイチンゲール』と呼ばれた、和歌山県出身の女性がいます。
國部ヤスヱ(くにべ・やすえ)。
彼女の功績をたたえるとき、決してはずすことのできない出来事があります。
1945年7月9日深夜から7月10日未明にかけて決行された、和歌山大空襲。
B29による和歌山市中心部への爆撃で、市内のおよそ7割が焦土と化し、1000人以上の尊い命が失われました。
22時25分、空襲警報発令。
ラジオが「敵爆撃機、およそ250機が紀伊水道を北上!」と報じます。
この空襲で和歌山赤十字病院も焼失しましたが、1200人近い患者や看護師、同病院付属の看護学校で学んでいた学生は、全員、避難して無事でした。
その避難の指揮をとり、多くのひとの命を救ったのが、國部ヤスヱだったのです。
國部は、当時55歳。看護婦監督を務めていました。
「あきらめないで! 真っすぐ、前を向いて歩いてください! 大丈夫、ぜったい大丈夫。助かります、必ず助かります。だから、歩みをとめないで!」
彼女は叫び続けました。
その声に背中を押され、奇跡の避難が実現したのです。
揺るがない信念を得て、看護師としての人生を全うした國部ヤスヱが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/25/2020 • 11 minutes, 56 seconds 第二百二十九話『リハビリの方法を見つける』-【和歌山篇】南方熊楠-
和歌山県が生んだ唯一無二の偉人、南方熊楠(みなかた・くまぐす)の偉業や肩書をひとことで語るのは非常に難しいことです。
イギリスの大英博物館の東洋調査部に入り、科学雑誌『ネイチャー』で世界にその名を轟かせた博物学者。
キノコ、コケ、シダ、藻など菌類の研究で知られる生物学者。
昆虫、小動物の採取標本で名高い生態学者。
英語、フランス語、イタリア語など、10か国以上の言葉を操るグローバリスト。
そのほか、植物学者、民俗学者など枚挙にいとまがありません。
民俗学の大家、柳田國男(やなぎた・くにお)は、最大の賛辞を込めて、彼をこう評しました。
「南方熊楠は、日本人の可能性の極限である」。
一方で、南方はこんな言葉を残しています。
「肩書がなくては己れが何なのかもわからんような阿呆どもの仲間になることはない」。
彼は、生まれながらにして、天才だったのでしょうか?
体の弱かった南方は、幼い頃から癇癪(かんしゃく)持ち。
てんかんの発作と闘う運命と共に生きました。
突然やってくる怒りを抑えられず、周りとトラブルを起こす。
自身はフツウと思うことが、周囲からは奇行に見える。
彼は孤独でした。
周りに合わそうとすればするほど、ひとはみな去っていく。
そんな彼にとって、植物や昆虫、菌類は、身近で優しい大切な友人でした。
彼等を見つめ、語らい、採取し、標本にする作業は、ある意味、南方にとって人生を通じてのリハビリだったのかもしれません。
ひとには、人生で何かひとつ、心の屈折やゆがみを整えるリハビリの道具が必要です、自分にyes!を言うために。
日本に「ミナカタあり」と世界中の学者を振り向かせた巨人、南方熊楠が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/18/2020 • 12 minutes, 56 seconds 第二百二十八話『生きる意味を見出す』-【和歌山篇】医師 華岡青洲-
和歌山県出身の偉人に、麻酔薬「通仙散(つうせんさん)」を発明し、世界で初めて全身麻酔による乳がん摘出手術を成功させた外科医がいます。
華岡青洲(はなおか・せいしゅう)。
ときは、江戸時代。
鎖国政策の中、オランダからの洋書だけを頼りに、医学者たちが西洋医学を学びつつあった過渡期。
山脇東洋が日本人初の人体解剖を行い、杉田玄白が『解体新書』を刊行して、近代日本医学の夜明けを告げた頃、青洲はひとびとの痛みに向き合いました。
彼の名前を広めたのは、同じく和歌山県出身の作家、有吉佐和子の『華岡青洲の妻』という小説でした。
1966年に出版されたこの作品は、青洲の麻酔薬の実験台に自ら志願した嫁と母の壮絶な愛の物語。
大ベストセラーになり、映画やテレビドラマ、さらには舞台化もされ、今も上演され続けています。
青洲のふるさと、和歌山県紀の川市には「青洲の里」という記念施設があります。
彼はこの地に診療所と医学校、そして自らの住居を兼ねた「春林軒」をつくり、多くの患者を救い、たくさんの門下生を育てました。
その腕を見込まれ、紀州藩主から公の医師、侍医としての待遇を告げられますが、それを断ります。
「公職についてしまうと、一般の患者さんの診療ができなくなります。私は、ただひたすら、地元のみなさんのお役に立ちたいのです」
再度要請を受けても、なかなか首を縦に振りませんでした。
彼にとって大切なのは、大いなる出世ではなく、自らの本懐に気づき、自分が一生を賭けてやるべきことは何かを見つめ続けることだったのです。
富や名声より生きる意味に一生を賭けた近代医学の父、華岡青洲が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/11/2020 • 13 minutes, 19 seconds 第二百二十七話『最後までやりぬく』-【和歌山篇】水泳選手 前畑秀子-
2020年、オリンピックイヤーの幕あけです。
7月の開催を前に、東京の街はさらに加速して変貌を遂げています。
56年ぶりの東京でのオリンピック。
どんなドラマが起こるのか、今から期待が膨らみます。
日本初の女性の金メダリスト、前畑秀子(まえはた・ひでこ)は、和歌山県に生まれました。
1936年8月11日、ナチス政権下で開催されたベルリンオリンピックの平泳ぎ200メートルで、ドイツ代表のゲネンゲルを僅差で破り、見事金メダル。
ラジオの生中継に日本中が熱狂しました。
「前畑、がんばれ!」「前畑、がんばれ!」。
アナウンサーは20回以上繰り返し、伝説の放送として今も語り継がれています。
前回大会のロサンゼルスオリンピックで銀メダルだった前畑は、この大会でどうしても金メダルを獲らなくてはなりませんでした。
「もし金メダルを獲れなかったら、私は帰りの船で海に飛び込み、日本には帰らない、帰れない」
そう、周囲のひとに話していたといいます。
なぜ、そこまでして金メダルにこだわったのか。
そこには、彼女の悔しさがありました。
そこには、母の教えがありました。
平泳ぎで200メートルを泳いでいる間、彼女はいっさいまわりが見えなかったと言います。
今、自分が何位で、ライバルはどのあたりにいるのか、全てが消え、ただひたすら前へ前へと泳いだのです。
16歳のとき、相次いで両親を脳溢血で亡くし、自らも後年、脳溢血で倒れましたが、リハビリを重ね、指導者としてプールに戻ってきました。
逆境に負けない不屈の精神は、最期まで彼女を支えたのです。
戦禍の中、失意を抱えていた日本人に勇気を与えた金メダリスト、前畑秀子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/4/2020 • 12 minutes, 46 seconds 第二百二十六話『自分は、2番』-【特別篇】ひらまつ創業者 平松博利-
日本のフランス料理文化の礎を築いた先駆者がいます。
平松博利(ひらまつ・ひろとし)。
今から37年前の1982年、パリから帰国した彼は、東京・西麻布に小さなレストランを開業します。
「ひらまつ亭」。
席数は、わずか24席。でも、平松の圧倒的なフランス料理の腕と妻の温かいホスピタリティに、噂が噂を呼び、行列が絶えない伝説の店になりました。
以来、彼の躍進は続き、国内外にレストランを展開。
2002年には、パリに出店した店が日本人オーナーシェフとして初めて「ミシュラン」一つ星を獲得したのです。
フランスに基盤を持つことで得た人脈。
持ち前の人間力で出会いは拡がり、多くのフランス人シェフとの交流が始まります。
ポール・ボキューズ、マーク・エーベルラン、ジャックとローラン・プルセルとの業務提携が実現。
特に、昨年亡くなったフランス料理の巨匠、ポール・ボキューズは平松を「息子」のように可愛がり、パーティに列席すれば、必ず彼を隣に座らせました。
ボキューズは、自分の師匠であるフランス料理の神様、フェルナン・ポワンのこんな言葉を平松に話しました。
「若者よ、故郷へ帰れ! その街の市場に行き、その街のひとに料理を作れ」
そしてもうひとつ、こんな教えも平松は継承します。
「腕の良い料理人というものは自分が学び取ったもの、すなわち自分の個人的な経験で得たあらゆるものを、自分のあとに続く世代に伝える義務がある」
後進に伝える、後進を育てる、後進の夢を実現する。
そのために彼は、シェフ・平松であり、経営者・平松にもなり、大切なひとを守るという正義を貫く覚悟を持ったのです。
フランス料理のみならず、フランス文化を日本に根付かせた賢人・平松博利が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/28/2019 • 13 minutes, 41 seconds 第二百二十五話『動くことを怖れない』-【先駆者篇③】美容家 メイ牛山-
戦前の日本に、アメリカ・ハリウッドのメイク術や美容法を持ち込み、日本人女性の美を生涯にわたって追及した美容家がいます。
メイ牛山。
脚本家の小川智子(おがわ・ともこ)が記したメイ牛山のノンフィクションのタイトルは、こうです。
『女が美しい国は戦争をしない』。
小川はその著書の中で、メイ牛山のこんな言葉を紹介しています。
「ちゃんと、鏡、見ている? 朝、出がけにちらっと見るくらいじゃだめよ。全身が映る姿見で、一度じっくり自分を観察してごらんなさいな。客観的になることが、おしゃれの、つまり礼儀の第一歩。自分の美点を発見して、磨きをかけるのよ」
トレードマークは、お団子ヘア。
愛くるしい笑顔と、ひとを包み込む優しさ。
96歳で亡くなるまで、現役の美容家として活躍しました。
物心ついたときにまず彼女が感じたのが、周りとの違和感でした。自分は他のひとと違う。
外国人のように濃い顔立ち。
友だちの心の声が全て聴こえてしまうほどの圧倒的な感性。
母の着物の帯をバッグにしてしまうアグレッシブな美的感覚。
でも、そんな孤独を彼女はバイタリティで押し流したのです。
晩年、彼女は言いました。
「若いうちは、体が働くんです。汗をかいて苦労してもいいんです。思いっきり働いたら身になるんです、将来。そして、ある程度成人して中年になったら、精神が働くんです。経験からくるもので、頭を使う年齢でしょうね。そして、私のような年寄は長年の経験から、霊がはたらくんです。霊感とか勘とかいうやつね。いいか悪いか考えるまえに、見えてくるんです、不思議とね。それぞれのポジションで、それぞれの年齢や責任にあわせてがんばってほしいですね」
前だけを見据え、絶えず走り続けた美容界のパイオニア、メイ牛山が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/21/2019 • 12 minutes, 3 seconds 第二百二十四話『信念は曲げない』-【先駆者篇②】田畑政治-
2020年、東京オリンピック・パラリンピックのメインスタジアムになる新国立競技場が先日完成しました。
緑豊かな明治神宮外苑の景観に配慮して、高さをおよそ47メートルに抑え、「杜のスタジアム」を具現化。
ドーナツ形の屋根には国産の木材を使用し、コンコースや競技場周辺にも、およそ4万7000本の木々が植えられています。
壮麗な建物を見ていると、東京でのオリンピック開催がいよいよ現実的なものに思えてきます。
初めての日本でのオリンピック開催となった1964年の東京オリンピック招致に生涯を捧げたひとがいます。
大河ドラマの主人公にもなっている、田畑政治(たばた・まさじ)。
その猪突猛進、直情径行な行動は、ときに周囲との軋轢を生みましたが、彼は自らの歩みをやめることはありませんでした。
第二次世界大戦後初めてのロンドンオリンピック。
敗戦国日本は、オリンピックへの参加を拒否されます。
「政治とスポーツは、別じゃないのか!?」
日本水泳連盟の重鎮だった田畑は怒りをあらわにしました。
「だったら、ロンドンと同じ日程で全日本選手権をやって、日本の水泳の凄さを見せてやる!」
当時、GHQに摂取されていた神宮外苑プールを借り受け、まるで喧嘩を売るように開催してしまうのです。
結果は、自由形で古橋廣之進(ふるはし・ひろのしん)が、ロンドンでの金メダルのタイムを大幅に上回り、世界新記録で優勝。
このニュースはすぐに世界に知れ渡りましたが、イギリスの反応は冷たいものでした。
「日本のプールは狭かったんじゃないか?」
「ストップウォッチが壊れていたんだよ、きっと」
田畑は、ここでも一歩も引きません。
「だったら、ここ東京でオリンピックを開催して、日本の水泳が本物だってことを証明してみせる!」
激動の時代を生き抜き、見事東京にオリンピックを持ってきた風雲児、田畑政治が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/14/2019 • 12 minutes, 18 seconds 第二百二十三話『好きなものには食らいつく!』-【先駆者篇①】字幕翻訳者 戸田奈津子-
映画の字幕翻訳という仕事を世に知らしめた第一人者がいます。
戸田奈津子(とだ・なつこ)。
彼女は、学生時代に字幕翻訳者という、当時まだそれほど知られていない仕事につきたいと思いました。
一度は別の仕事につきますが、もう一度夢を叶えたいと一念発起。字幕翻訳の巨匠、清水俊二(しみず・しゅんじ)に手紙を書きます。
その日から戸田が夢を叶えるまで、およそ20年かかりました。
「狭き門ってよくいうでしょう。あのね、開けてくださいって叩く門がそもそもないの。壁なのよ、一面、壁。そんなとき、夢だ、目標だって気持ちだけでは、中に入れっこない。食らいつく強い意志がないとね。私はこれでやっていくんだって信じる思いがないとね」
映画の字幕というのは、翻訳ではないと戸田は言います。
『字幕の中に人生』というエッセイの中でこんなふうに語っています。
「かたや練りに練ったシナリオのせりふがあり、かたや観客の映画鑑賞の邪魔にならない限度の字数がある。その中間には必ずどこかに、限りなく原文に近く、しかも字幕として成り立つ日本語があるはずである。細い細い線のうえに、その線を綱渡りのようにたどってゆく努力が、字幕づくりの基本である」。
一秒四文字、十字×二行以内のせりふ作りにすべてを賭ける映画字幕の第一人者には、ひとには理解できない苦労がありました。
洋画で朝、父親が出ていくシーン。
「Good bye」と家族に言う。
これを「さよなら」と訳してしまえば、まるで父親が家出してしまうように見えます。
戸田は「行ってきます」と訳すのです。
原文とは違う。では誤訳か?
批判を怖れて原文通りに訳しても、映画として成り立たないものは字幕ではないのです。
戸田は言います。
「映画は、字幕を読みにいくものではありません」
独自の矜持を大切にして、40年以上にわたり第一線で闘い続ける字幕の女王・戸田奈津子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/7/2019 • 11 minutes, 31 seconds 第二百二十二話『見上げればそこに星はある』-【茨城篇】坂本九-
茨城県笠間市を愛し続けた国民的スターがいました。坂本九。
九ちゃんの愛称で親しまれた唯一無二の天才歌手は、『見上げてごらん夜の星を』『明日があるさ』など、数々のヒット曲を世に送り出しました。
特に『上を向いて歩こう』は、『SUKIYAKI』という英語タイトルで、1963年6月13日、全米チャートで1位を獲得。
その後、3週間首位を守り続けたのです。
海を渡ってもなお、愛され続けた彼の歌声は、独特の歌い方でさらに哀愁と郷愁の一石を、心の湖に投じました。
43歳で亡くなった彼にとって、笠間市は忘れられない思い出の地でした。
結婚式も笠間稲荷神社であげました。
2歳半からのおよそ4年間。母の実家があった笠間に疎開。
その木々に囲まれた赤い屋根の家は、今も笠間市のひとたちが大切に守り続けています。
幼い坂本は、母の膝の上で、夜空を見上げます。
あたりは、真っ暗。
ふと、坂本が言いました。
「かあちゃん、お星さまってきれいだね」
坂本九にとって、星は、母のぬくもりとともに記憶に刻みこまれたのです。
母の言葉は、いつも彼に生きる目標を与え、彼の人生の指針を示してくれました。
坂本は、特に母の最期の言葉を忘れませんでした。
母は言いました。
「いいかい、寂しいときは、自分よりもっと寂しいひとのために働きなさい」
その言葉を胸に、彼はひととのつきあいを見直していきます。
忙しい合間を縫って、福祉にも奔走。
小児麻痺の子どもたちのためにチャリティーショーを企画。
さらに耳の不自由な子どもたちに笑顔を取り戻してほしいと、手話の普及にも努めました。
彼は知ってほしかったのです。
どんなときも、上を見上げさえすれば、そこにちゃんと星が輝いていることを。
昭和の大スター、坂本九が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/30/2019 • 11 minutes, 52 seconds 第二百二十一話『苦しい時こそ自分を保つ』-【茨城篇】日本画家 横山大観-
ゴツゴツとした岩に砕ける、波。
果てしなく拡がる大海原。
風に揺れる松の樹々たち。
ここ、茨城県の五浦海岸で最も苦しい12年間を過ごした、日本画の大家がいます。
横山大観(よこやま・たいかん)。
大観は、師匠・岡倉天心を追って、この地に来ました。
明治31年3月、岡倉天心を誹謗中傷する怪文書が出回り、結果、岡倉は東京美術学校の校長職を追われてしまいます。
岡倉に心酔していた大観も、学校を辞め、新しく日本美術院を創設します。
日本美術院、第一回目の展覧会に大観が出品したのが、有名な『屈原』という日本画です。
画面左側に立ち尽くす屈原は、古代中国の詩人。
彼はあらぬ疑いをかけられ、やがて自ら命を絶ってしまう不運の賢人です。
岡倉と屈原を重ね合わせ、悔しさを絵に込めました。
大観が描いた屈原の目は、苦難にもめげず、真っすぐ前を見据え、鋭さを失っていません。
しかし、この絵の評価も惨憺(さんたん)たるものでした。
何をしても、うまくいかない。誰にも認められず、落ち込む。
親しいひとは自分から去っていき、孤独の淵に立たされる。
大観にとって33歳から45歳までの12年間は、悲嘆にくれ、苦しみから逃れられない、まさに厳しい冬の時代。
彼自身、悲しく愁うと書いて「悲愁12年」と後に振り返りました。
なぜ大観は、苦しみを乗り越えることができたのか?
苦しい時にこそ、己の生き方を曲げず、自分を保ち続けることができたのか?
絵にひたむきに向き合う、その後ろ姿は、私たちに勇気を与えてくれます。
近代日本画壇の巨匠・横山大観が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/23/2019 • 12 minutes, 8 seconds 第二百二十話『仕事に熱を込める』-【茨城篇】映画監督 深作欣二-
『仁義なき戦い』『バトル・ロワイアル』などのバイオレンス映画で知られる、茨城県出身の映画監督がいます。
深作欣二(ふかさく・きんじ)。
そのアクションシーンは破天荒で痛快。
クエンティン・タランティーノやジョン・ウーなど世界に名立たるアクション映画の巨匠にリスペクトされています。
深作は、バイオレンスばかりではありません。
女優の奥に秘めた才能を開花させる天才でした。
『蒲田行進曲』や『火宅の人』でも手腕を発揮して、日本アカデミー賞の最優秀監督賞を受賞しています。
とにかく映画が大好き。
映画に関わるひとには、自分と同じような熱を求めました。
あっという間に主役に切られ、出番がなくなってしまう大部屋の俳優たちにも愛情を注ぎました。
通常、「おい!」「そこのおまえ!」などとしか呼ばれないエキストラの役者たち。
深作はひとりひとり、ちゃんと名前で声をかけました。
さらに彼らにも、熱心に演技をつけたのです。
「映画ってさ、ああいう、シナリオのセリフをしゃべらないひとが大事なんだよ。スターさんがいくらアップでいい表情しててもさ、スクリーンの片隅にいるやつが遊んでたら、映画は途端に死んじゃうんだよ」
あまりに熱心なため、撮影はいつも深夜にまで及び、深作組は苗字の漢字をもじって、深夜作業組と呼ばれました。
彼の熱意の底辺には、戦争の体験がありました。
目の前で友人たちが一瞬で亡くなる。
そのときの恐怖、喪失感、不条理は、生涯、彼の心に残り続けたのです。
そして、「暴力を描くことで、暴力を否定したい」という思いが強くなりました。
どんなに批判を受けても作風を変えなかった原点には、彼の深い哀しみがあったのです。
今も若き映画人から尊敬を集める誇り高き巨匠、深作欣二が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/16/2019 • 11 minutes, 39 seconds 第二百十九話『子どもの心を忘れない』-【茨城篇】詩人 野口雨情-
「シャボン玉」「赤い靴」「七つの子」など今も歌い継がれる童謡を生み出した詩人、野口雨情(のぐち・うじょう)は、北茨城市磯原町に生まれました。
風光明媚な五浦海岸のほど近く。
強い風をものともせず、優雅に舞い飛ぶカモメたち。
波しぶきが砕け散る海辺に、雨情の歌碑が立っています。
彼は、磯の香りをかぐと、ふるさとに帰ってきたという心持ちになったと言いました。
「野口雨情生家・資料館」は、東日本大震災で一階が水没しましたが、その後、再建。
海を臨む味わい深い家屋に、多くのひとが訪れています。
北原白秋、西條八十(さいじょう・やそ)とともに、童謡界の三大詩人と言われる雨情の作品群の中に、学校の校歌があります。
日本各地のみならず、台湾や中国の学校にも校歌の歌詞を書きました。
小さなバッグひとつを持って全国を放浪し、ひとに会い、風景を眺める。
その場所の匂いをかぎ、その場所の食べ物を食べ、土地によりそう。
そうしてできた彼の詞には、若者を励ます温かいまなざしと、ふるさとを愛する心を持ってくださいという願いが込められています。
常に子どもの心を失わないように、何を見ても純粋な目を大切にした雨情ですが、その人生は、決して順風満帆ではありませんでした。
父の事業の失敗、死。
我が子を失い、酒におぼれる日々。
18歳で詩を書き始めましたが、世の中に認められたのは、38歳のときに記した『十五夜お月さん』でした。
およそ20年間。
陽の目をみることなく書き溜めた作品は、やがて花開き、多くのひとに感動を届けます。
現実の荒波に翻弄されながらも、彼は書くことをやめませんでした。
それは書くことが、彼にとって唯一の生きる意味だったからかもしれません。
童謡界の偉人、野口雨情が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/9/2019 • 11 minutes, 49 seconds 第二百十八話『ひとつの笑いに命を賭ける』-【茨城篇】いかりや長介-
今年、没後15年の偉大なコメディアンがいます。
いかりや長介。
ザ・ドリフターズのリーダーとして、生涯、コメディアンにはこだわりぬきましたが、彼には他にも二つの顔がありました。
ひとつは、ミュージシャンとしての顔。
もともとはハワイアンバンドのベーシスト。
ビートルズが来日したとき、ザ・ドリフターズとして前座をつとめ、『Long Tall Sally』を演奏しました。
そしてもうひとつが、織田裕二との名コンビが話題になった『踊る大捜査線』をはじめとする、俳優としての顔。
黒澤明監督の映画『夢』にも出演。
『踊る大捜査線 THE MOVIE』では、日本アカデミー賞 最優秀助演男優賞を受賞して、名わき役の座を不動のものにしました。
彼を最も有名にしたのが、伝説のバラエティ番組『8時だョ!全員集合』です。
16年間、ほぼ休むことなく続けられた毎週の公開生放送。
最高視聴率は、50%を越えました。
いつも真剣勝負。
作家やディレクターが考えるネタにダメ出しをしました。
「ウケるかどうかわからないけど、やってみようではダメなんだよ!」
時には、声を荒げることもあったと言います。
そんないかりやのルーツには、二人の人物がいます。
ひとりは、茨城県出身の祖母。
幼くして母親を亡くした彼は祖母に育てられました。
祖母は歌舞伎が好きで、ラジオの講談や浪曲、朗読ドラマをいつも聴いていました。
気がつけば、ラジオから流れてくる物語をそらんじられるほど、いかりや少年も影響を受けました。
そしてもうひとりが、彼の父親です。
築地の魚河岸で働いていた父親は、寄席や映画が大好き。
口も悪く、喧嘩っぱやいが、人情に厚い、憎めないキャラクター。
いかりやは、終生、我が父を誇りに思っていました。
父親は、いつも言っていました。
「笑いをなめちゃいけねえ。お客さんあっての笑いなんだ」
コメディアンのレジェンド・いかりや長介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/2/2019 • 10 minutes, 50 seconds 第二百十七話『弱さを愛し、優しさを愛する』-【香川篇】映画監督 木下惠介-
瀬戸内海の12の島と2つの港を舞台に、3年に一度開催されるアートの祭典「瀬戸内国際芸術祭」。
国内外からの多くの来訪者で賑わった2019年秋の会期が、11月4日で終わろうとしています。
瀬戸内海はかつて、近畿中央文化の源であり、豊かな資源に守られ、北前船の母港として日本列島全体を活性化しました。
そんな海の復権をも担う、芸術祭。
その中心にある島のひとつ、香川県の小豆島で欠かせない観光名所が「二十四の瞳 映画村」です。
壷井栄の不朽の名作が映画化されたのは、1954年、昭和29年でした。
昭和3年から終戦の翌年までの激動の時代を描き、大石先生と教え子たちの師弟愛、美しい小豆島の自然と、貧しさや古い家族制度と戦争によってもたらされる悲劇を、対照的に映し出した心温まる感動作です。
主演は、高峰秀子。
そして、この映画を監督したのが、木下惠介(きのした・けいすけ)。
監督デビューは黒澤明と同じ年ですが、世間的な認知度や評価は対照的です。
叙情的で女性的な語り口。
人間の強さより弱さに焦点をあてた作風は、ともすれば地味で派手さがなく、ひとびとの関心を集めるのに不向きでした。
のちにテレビに転身し、山田太一など、優れたドラマ作家を輩出する礎を作りました。
穏やかな作風とは違い、人物はいたって頑固。
好きと嫌いの中間がありませんでした。
スタッフに「先生」と呼ぶことを禁じ、それを守らず「木下先生」と呼んだが最後、烈火のごとく怒ったと言います。
彼が大切にしたのは、人間の弱さでした。
「強いから優しくなれるというけどねえ、それは違うよ。弱いから、自分の弱さを知っているから、優しくなれるんだよ」
松竹にヒューマニズムを根付かせた天才映画監督、木下惠介が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/26/2019 • 11 minutes, 55 seconds 第二百十六話『自分の力をひとのために使う』-【香川篇】発明家 平賀源内-
先ごろ、ノーベル賞の発表がありましたが、もし江戸時代にノーベル賞があったら、おそらく受賞したのではないかと思われる発明家がいます。
平賀源内(ひらが・げんない)。
高松藩士の家に生まれた彼は、発想の奇抜さ、行動力の迅速さ、好奇心の豊かさ、どれをとっても規格外。
「人生は発明・発見の連続である!」を生涯の信条としました。
彼が発明したとされる最も有名なものが、エレキテル。
摩擦静電気装置の完成を実現させたことです。
そのほかにも、発明品は100を下りません。
夏の売り上げ不振を嘆くうなぎ屋から相談を受けると、彼はこう助言しました。
「店の入り口に、今日は土用の丑の日って書けばいい。暑いときにうなぎを食べれば元気になること間違いなしって付け加えておけばきっと大丈夫」
また、初詣のとき、神社で見かける「破魔矢」を考案したのも、源内だと言われています。
彼の生まれ故郷、香川県さぬき市にある「平賀源内記念館」には、そんな稀代の発明家の足跡が展示されています。
エンジニアとしての才能だけではなく、薬に精通した薬草学者、医者であり、建築家、俳句や詩をたしなむ芸術家としても知られている彼は、生まれながらの天才だったのでしょうか?
決して器用には生きられない彼を唯一無二にしたのは、自分の好奇心に忠実であったことです。
源内は、こんな言葉を残しています。
「良薬は口に苦く、出る杭は打たれる習ひ」。
ひとを間違って殺め、獄中で非業の死を遂げた日本のエジソン、平賀源内が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
10/19/2019 • 11 minutes, 54 seconds 第二百十五話『自分に飽きてはいけない』-【香川篇】俳優・歌手 萩原健一-
香川県高松市にあるレクザムホールでは、優れた邦画のリバイバル上映を定期的に続けています。
「映画の楽校」と題されたそのプログラム、10月22日に行われる演目のひとつが『恋文』です。
直木賞作家、連城三紀彦が、萩原健一をモデルに書いたという小説が原作です。
連城は「萩原さんが出てくれるなら、原作料などいりません」と言ったそうです。
ショーケンこと萩原健一は、今年3月、68歳で激動の生涯を閉じました。
17歳でグループサウンズ「ザ・テンプターズ」のヴォーカリストとしてデビュー。
その後、唯一無二の存在感を醸し出す俳優として、映画、テレビドラマに偉大な足跡を残しました。
今年5月には、講談社が『ショーケン 最終章』というインタビュー集を出版。
9月には、河出書房新社から『萩原健一 傷だらけの天才』というムックが刊行され、追悼のツイッターは絶えず、いまなお、ショーケンがひとびとの心に生きていることを証明しています。
彼ほど愛され、彼ほど誤解され、彼ほど壮絶な人生を送り、彼ほど穏やかな死を迎えられたひとは、いないのではないでしょうか…。
彼は常に正直で、純粋でした。
40代前半で、右耳の聴力を失うことになっても、周囲に黙っていました。
おかげで、声が大きい、威圧感がある。
それが誤解の原因になっても、彼は耳のことを誰にも言いませんでした。
2011年、GIST(ジスト)という難病指定の癌に犯されても、家族以外には隠し通しました。
『不惑のスクラム』というドラマのオファーがあったとき、医者は「タックルなんかされたら、腫瘍が破裂しますよ! とんでもない!」と反対しました。
末期の胃癌を患っている元ラガーマンの役でした。
この役に運命を感じた萩原は、役を引き受けます。
そこまでして彼が演じることにこだわったわけに、彼の存在証明があったのです。
今も愛され続ける孤高の天才、萩原健一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/12/2019 • 10 minutes, 44 seconds 第二百十四話『6割現実を楽しみ、4割理想のために闘う』-【香川篇】作家・実業家 菊池寛-
芥川賞と直木賞をつくった男。菊池寛(きくち・かん)。
彼の故郷は、現在、瀬戸内国際芸術祭2019で沸く香川県高松市です。
高松市にある菊池寛記念館では、『父帰る』や『恩讐の彼方に』、ベストセラーになった『真珠夫人』を書いた、作家としての彼の足跡を追うことができます。
また文藝春秋社設立や、映画会社「大映」の初代社長といった、菊池の実業家としての一面も紹介されています。
さらに圧巻は、歴代の芥川賞、直木賞受賞者のコーナー。
後進を育てようとした菊池の願いが、その展示に現れています。
高松市の中心部に位置する天神前は、菊池寛の生家があった場所で、ここに面する道は“菊池寛通り”と呼ばれています。
通りを隔てた向かい側にある高松市立中央公園内には「菊池寛 生家の跡」と記された顕彰碑があり、そこには、彼が座右の銘としていた言葉が刻まれています。
「実心ならざれば事成さず 虚心ならざれば事知らず」。
まことの心がなければ、何かを成し遂げることはできない。
現実に惑わされない、わだかまりのない心がなければ、真実に近づくことはできない。
この言葉こそ、菊池の生き方を象徴しています。
現実と理想。
エンターテインメントと純文学。
社会的な成功と、世に媚びない芸術活動。
ともすれば相反する二つの世界を軽々と行き来する菊池の姿は、今も私たちに人生の生き方を教えてくれます。
彼はこんな言葉を残しました。
「人間は生きている間に、充分仕事もし、充分生活もたのしんで置けば、安心して死なれるのではないかと思う」。
作家にして実業家、菊池寛が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/5/2019 • 12 minutes, 6 seconds 第二百十三話『ひとと違うことを怖れない』-【新潟篇】作家 坂口安吾-
新潟市に生まれた、『堕落論』で有名な文豪がいます。
坂口安吾。
彼の石碑は、新潟市中央区西船見町の、海を見下ろす砂丘に建っています。
石碑に書かれた言葉は、「ふるさとは、語ることなし」。
安吾らしい、自虐にも似た、およそ石碑にふさわしくない言葉です。
彼は、生まれたこの場所についての思い出をこんなふうに語っています。
「中学校をどうしても休んで 海の松林でひっくりかえって 空を眺めて暮さねばならなくなってから、私のふるさとの家は空と、海と、砂と、松林であった。そして吹く風であり、風の音であった。……学校を休み、松の下の茱萸(ぐみ)の藪陰にねて 空を見ている私は、虚しく、いつも切なかった」。
彼の人生は、いわば、偉大なる落伍者のそれでした。
学校も落第、同人誌に加わっても、自分だけ日の目を見ない。
酒や薬に頼り、なんとか踏みとどまりつつ、彼が目指したのは、ひとと違う人生でした。
睡眠時間をいきなり4時間に限定したり、仏教書を読みあさり、ひたすら勉学にいそしんだり、思いつくと、実行。
周囲の反対や困惑もお構いなしでした。
そんな傍若無人なふるまいで有名になる一方で、友達と認めた相手には、とことん寄り添いました。
新潟の『安吾 風の館』では、現在、檀一雄展が開催されていますが、檀一雄との交友が安吾の情の深さを物語っています。
安吾は、檀を人一倍可愛がり、彼の才能を絶賛し、文筆活動を励まし続けました。
檀は終生、「安吾さん」と慕い、砂丘に建つ石碑の発起人にもなったのです。
安吾は、日常を笑い飛ばします。
「何を恐れているんだよ! 結局、人間は死んじまうんだから、それ以上、怖いことはないんだよ!」
48年の人生を駆け抜けた作家・坂口安吾が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/28/2019 • 11 minutes, 29 seconds 第二百十二話『笑顔を絶やさない』-【新潟篇】歌手 三波春夫-
新潟県長岡市出身の、昭和を代表する大歌手がいます。
三波春夫。
彼は、1964年の東京オリンピックのテーマソング『東京五輪音頭』を生涯、歌い続けました。
この歌に込める思いを、こんなふうに語っています。
「戦後初の日本の大イベントである、この東京オリンピックは、世界に向かって日本が『日本は、日本人は、こんなに頑張って復興しましたよ』と示す、晴れ舞台なんです」
戦争で戦い、シベリアで俘虜(ふりょ)になって、言葉では言い表せない体験をした三波には、特別な思いがあったのです。
さらに1970年に開催された大阪万博のテーマ曲も、彼が歌うことになります。
『世界の国からこんにちは』。
この歌でも、彼がいちばん言いたかったことは、日本ってすごいんだ、日本人はほんとうに頑張って生きているんだ、という強い思いでした。
内面に激しい葛藤を抱えながら、三波春夫は笑顔でした。常に、満面の笑顔でした。
「男の顔には、二種類あると思っています。苦労を刻んだ顔、もうひとつは、苦労を乗り越えた顔。私は、できれば後者を目指したい。顔に苦労を貼り付けて生きるのは、恰好悪いんです。平常心さえ保てていれば、自然と笑顔になる。私は、笑顔でいたい」
シベリアで囚われの身になっているときも、仲間を元気づけるために、喉から血が出るまで浪曲を歌い続けました。
笑顔になってくれさえすれば、それでいい、そう願いながら。
新潟が生んだ希代の演歌歌手、三波春夫が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/21/2019 • 11 minutes, 8 seconds 第二百十一話『強さに裏打ちされた優しさを持つ』-【新潟篇】作家 アーネスト・ヘミングウェイ-
今年、生誕120周年を迎えたノーベル賞作家、アーネスト・ヘミングウェイ。
彼と新潟を結ぶ、ひとつのお菓子があります。
新潟県新潟市中央区古町にある、丸屋本店の焼菓子『日はまた昇る』。
ヘミングウェイの小説になぞらえたものです。
ヘミングウェイが愛したラム酒、セント・ジェームスのほのかな香りと、砂糖漬けしたオレンジピールがアクセントをつけ、サクサクした食感と優しい甘みが口の中に拡がります。
新潟の街に太陽が昇るようにという願いが込められた逸品です。
新潟は水の都と言われますが、ヘミングウェイの人生に、水辺はなくてはならないものでした。
幼少期、夏のほとんどを過ごした別荘地は、ワルーン湖という清廉な湖のそばにありました。
ノーベル文学賞を決めた『老人と海』は、最後まで大物のカジキをしとめることを願い続け、海に出る老人の話です。
マラリア、肺炎、皮膚がん、肝炎、といういくつもの病。
飛行機事故、戦争での被弾、交通事故という災難。
常に病気や怪我にさいなまれ続けた彼には、ある流儀がありました。
「ほんとうに強いものしか、優しくなれない」。
まるで弱い自分を痛めつけるように、過酷な環境を求め、旅を続け、それでも自分の優しさに疑問を持ちました。
なぜ、彼が強さと優しさを求めたのか。
そこには、特異な幼年期がありました。
男性的なものを嫌う母と、男性的なものを好む父。
両親のはざまで、彼は迷い、困惑し、やがて創作という逃げ場所を見つけます。
「結局のところ、作家はね、自分が経験したことからしか書けないんだ。作品を高めたければ、自分が成長するしかないんだよ」
強くありたいと願い、優しくありたいと願った孤高の作家、文豪・アーネスト・ヘミングウェイが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/14/2019 • 12 minutes, 40 seconds 第二百十話『劣等感は最大の武器』-【新潟篇】プロレスラー ジャイアント馬場-
今、アメリカのスポーツ界で「ショーヘイ」という名の有名な日本人は、メジャーリーガーの大谷翔平ですが、かつて1960年代前半にアメリカを席巻した「ショーヘイ」がいました。
リングネーム「ショーヘイ・ビッグ・ババ」。
新潟県出身の伝説のプロレスラー、ジャイアント馬場です。
今年、没後20年になります。
60年代、アメリカンプロレスは全盛期。
そんな中、ニューヨーク、シカゴ、セントルイスなどのメインスタジアムで、「野生児」バディ・ロジャースや「黒い魔神」ボボ・ブラジル、「人間発電所」ブルーノ・サンマルチノらと、毎晩熱戦を繰り広げていたのが、ジャイアント馬場でした。
馬場は、1963年12月15日、力道山が39歳の若さでこの世を去ったとき、日本プロレス界を支えられるのはキミしかいないと、日本に戻ることを懇願されたといいます。
身長2メートル9センチ。
空手チョップに、十六文キック。
日本プロレス史上最大の巨体の持ち主は、その風貌とは違い、繊細で誰にも優しい心を持っていました。
「プロレスから離れるのは、オレが死ぬときだろうな」という言葉通り、還暦を過ぎてもリングに立つことにこだわりました。
「ファンがさあ、ファンがいちばん大切なんだよ。だからね、オレは試合に出続けるよ」
晩年も年間130試合の巡業に歩きました。
しかも、彼は自ら前座を買って出たのです。
試合が終わると、繁華街に繰り出すレスラーが多い中、ひとり部屋に引きこもり、読書したり絵を画いたりしていました。
「なんだかねえ、目立つんだろうね。酔っぱらいにからまれたりしたら、あまりよろしくないからねえ、いいんだよ、オレはひとりきりが好きなんだ」
目立つことが、コンプレックスでした。
大きいことで嫌な思いをたくさんしてきました。
そんな劣等感を抱え続けた、不世出のプロレスラー・ジャイアント馬場が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/7/2019 • 12 minutes, 40 seconds 第二百九話『自分を極める』-【兵庫篇】マイケル・ジャクソン-
今年、没後10年になる、「キングオブポップ」と称された伝説のアーティストがいます。
マイケル・ジャクソン。
彼は、1987年9月、兵庫県西宮市にやってきました。
バッド・ワールド・ツアーの、日本での公演のひとつ。
西宮球場には5万人を越えるファンが集まり、マイケルはダンスや歌で観客を魅了します。
ムーンウォークを披露したとき、会場の歓声はうねりのように大地を震わせたと言います。
西宮でのコンサートの直前、群馬で痛ましい事件がありました。
5歳の男の子が誘拐され、亡くなったのです。
マイケルは、この事件についてお悔やみを述べ、『I Just Can't Stop Loving You』を捧げました。
マイケルにとって、子どもは特別な存在でした。
無垢で傷つきやすく、誰かが守ってあげないと後の人生に多大な影響を及ぼしてしまう、ナイーブな時期。
その背景には、自身の幼少期の思いがあります。
大好きだった父は、ときに厳しくマイケルを叩き、罵倒しました。
「おまえなんかクズだ! 生きている価値なんてない、どうしようもない存在だ!」
その経験から、彼は自己肯定感の希薄な子どもになりました。
「ボクは、ダメな人間、醜い人間、生きている価値がない人間なんだ。だから、パパはボクを殴るんだ」
父が唯一、ほめてくれたこと。
それが、歌でした。ダンスでした。
彼は、プライベートとパフォーマンスをするときと、人格を分けていました。
シャイで恥ずかしがりやの自分、ひとたび懐に入れば、誰にも平等、公平に接する、気さくな人柄。
一方で、ステージに関しては完璧主義を貫き、いっさいの妥協を排除した機械人間でした。
何度も繰り返すリハーサル。
「どうしてみんな、自分の最高を出さないの? ボクが欲しいのは、みんなの最高なんだよ」
まるで自分を痛めつけるように50歳で散った孤高の天才、マイケル・ジャクソンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/31/2019 • 11 minutes, 41 seconds 第二百八話『寄り添う心を持つ』−【兵庫篇】心理学者 河合隼雄−
ノーベル文学賞に最も近い作家、村上春樹が唯一、先生と呼んだひとがいます。
彼と同じ兵庫県出身の心理学者、河合隼雄(かわい・はやお)です。
日本にいち早くユング心理学を紹介した臨床心理学の権威。
京都大学名誉教授で元文化庁長官、数々のエッセイや学術書でひとびとの心の悩みに寄り添い、晩年には、自伝的小説『泣き虫ハァちゃん』を書きました。
河合はその小説の中で、自ら生まれ育った兵庫県丹波篠山への郷愁を描きました。
丹波篠山、かつての丹波国は、京都への交通の要として栄え、街並みや祭りにその名残をとどめています。
千年以上の歴史を持つ「丹波黒大豆」は有名で、朝廷にも献上し、年貢を黒大豆で納めたという記録も残っています。
河合は、この地で生まれたことを生涯誇りに思い、懐かしみました。
小学校は篠山城の城内にあり、お堀も残っていました。
不思議な洞窟を秘密基地にして遊んだり、竹藪に忍び込み、虫に刺されて泣いたり、赤い鳥居で日が暮れるまで鬼ごっこをしたり…。
そこで目にしたこと、経験した出会いと別れ、それらは幼い河合に人生についてのさまざまなことを教えてくれました。
人一倍、感受性が鋭かった河合は、泣き虫でした。
幼稚園の先生が辞めると聞いては泣き、童謡に出てくる「どんぐり」の未来を案じては泣き、捨てられた子犬の背中を見ては泣くような子どもだったと言います。
彼は幼い頃から、哀しみに寄り添うことを知っていました。
寄り添うことで、ほっとできるひとがいることを知ったとき、それを仕事にしようと思いました。
彼は、こう語っています。
「今のひとはみんな、何かしなければ、と思いすぎています。人生の主人公は、自分です。人間はひとりひとり違うのですから、それぞれが自由に物語をつくっていいんですよ」
心理学者・河合隼雄が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/24/2019 • 11 minutes, 49 seconds 第二百七話『心の痛みを大切にする』−【兵庫篇】映画監督 浦山桐郎−
兵庫県相生市。
三方を山に囲まれ、南に瀬戸内の穏やかな海を抱いたこの街を終生愛した映画監督がいます。
浦山桐郎(うらやま・きりお)。
吉永小百合を育て、大竹しのぶを見出した、女優育ての名手。
生前、まわりのひとに、「オレは生きている間に、一ダースの映画を撮るのが目標なんだ」と語っていましたが、54年の生涯で撮った映画は、9本でした。
でも、その9作品全てに、文字通り心血を注ぎ、魂を込め、完全主義を貫きました。
デビュー作『キューポラのある街』は、新人監督が撮ったにも関わらず、キネマ旬報社の年間ベストテンの第二位にランクイン。
主演の吉永小百合はブルーリボン主演女優賞を受賞し、カンヌ映画祭ではフランソワ・トリュフォーが大絶賛しました。
撮影に入る前、浦山は主演の吉永小百合にこう尋ねたと言います。
「キミ、貧乏ってどういうことか、わかるかい?」
吉永は入院開けで貧血状態でしたが、荒川の土手を走らされました。
何度も、何度も。しかも、全力疾走で。
その激しすぎる演技指導は、女優を追い詰めます。
『私が棄てた女』という映画の主演を務めた小林トシ江には、自分の家の近くに住まわせ、女中をさせました。
ぶざまでプライドのない女を演じさせるために、彼女の自尊心をとことん傷つけたのです。
執拗な演技指導に、小林は女優としての自信を無くし、現場を逃げ出して自殺未遂をはかろうとしました。
それでも映画を撮り切り、『私が棄てた女』は、浦山の最高傑作と言われる作品になりました。
彼は、弟子にこんな言葉を言ったといいます。
「いいか。哀切であることは、誰でも撮れるんだ。問題は、それが痛切であるかどうかなんだよ。痛みだ、痛みをどれだけわかるか、痛みを撮れる監督になれ!」
映画監督・浦山桐郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/17/2019 • 12 minutes, 9 seconds 第二百六話『命がけでやる』−【兵庫篇】作詞家・訳詞家 岩谷時子−
人間にとって、どの土地に暮らすかということが、人生を大きく左右する要素になることがあります。
作詞家、訳詞家として一世を風靡した岩谷時子にとって、兵庫県西宮市で幼少期を過ごしたことは、彼女の人生に多大な影響を与えました。
彼女自身、こんなふうに語っています。
「今までの私の人生の中で、一番思い出の多い幼少期と少女期を西宮で過ごした私は、西宮という字を見るだけで、砲台のあった夏の海や十日戎のお祭りや近所に住んでいた誰彼の顔が、蛍火のように瞼(まぶた)に浮かんでくる。まだ、夙川を蛍が飛び交い、川の流れにめだかが泳いでいた、美しい叙情的な西宮の風物が、幼かった私のこころに根をおろし、後年、作詞家となる運命にみちびいたのではなかろうかと今でも思うことがある」
岩谷時子にとって、もうひとつ、西宮で過ごした大切な意味があります。
それは、宝塚が近かったことです。
岩谷時子には、大きく二つの顔があります。
ザ・ピーナッツの『恋のバカンス』や、加山雄三の『君といつまでも』、ピンキーとキラーズ『恋の季節』、郷ひろみ『男の子女の子』などの流行歌の作詞家、そしてミュージカル『レ・ミゼラブル』『ミス・サイゴン』などの訳詞家という顔。
そしてもうひとつの顔が、およそ30年の長きにわたり、越路吹雪のマネージャーだったということです。
越路が歌う『愛の讃歌』や『ろくでなし』、『サン・トワ・マミー』などのシャンソンは全て岩谷が翻訳しました。
もし、岩谷が宝塚の近くに住み、宝塚歌劇団に通わなければ、越路との出会いはなかったかもしれません。
岩谷を知る人はみな、その品性と物腰の柔らかさに感動します。
その一方で、彼女の強い言葉にはっとさせられたといいます。
「仕事は、命がけでやるものです」
作詞家・訳詞家、岩谷時子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/10/2019 • 11 minutes, 33 seconds 第二百五話『想像力という名の勇気を手放さない』−【兵庫篇】小説家 小松左京−
SF界の巨匠、『日本沈没』の作者、小松左京にとって、兵庫県西宮市は生涯の故郷でした。
北に緑豊かな山脈をいだき、南には陽光がキラキラと輝く、おだやかな内海がありました。
春にはレンゲの花が咲きほこり、秋には田んぼの稲穂が黄金色に揺れる、素朴でのどかな風景は、彼の心にしっかりと根付いたのです。
特に、幼い頃住んだ夙川は、たびたび自身の小説で描写するほど懐かしい場所でした。
一歩そこに足を運べば、一気に、幸せだった少年時代に出会える。
そんな場所を持てた幸福を、小松は大切にしました。
小松左京。
その活動は、多岐にわたりました。
本業は、SF作家。星新一、筒井康隆と並ぶ、SF御三家のひとりです。
17歳で漫画家としてデビュー。
学生時代も、京大生の漫画家として新聞に紹介されました。
ラジオ番組の構成作家として、夢路いとし・喜味こいしの漫才台本を書いたり、大阪万博の成功の一翼を担うブレーンとして貢献したり、ルポライターとしてイースター島や黄河を旅したり、その活躍はまさに八面六臂(はちめんろっぴ)。
しかも彼の真骨頂は、全て自分で調べ、自分の目で見て確かめるバイタリティーでした。
そんな中、最も大切にしたのが、想像力でした。
「我々は、技術革新、機械文明について、イマジネーションが足りなさ過ぎたのかもしれないねえ。小説っていうのは、ある種のシミュレーションなんです。頭の中のシミュレーション。真のイマジネーションだけが、真のシミュレーションになるんです。これはねえ、勇気がいることです。怖いからねえ、想像するってことは。でも、私は思いますよ。人間が想像力を失ったら、もう終わりだって」
人類の未来を常に見つめたSF界のレジェンド、小松左京が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/3/2019 • 12 minutes, 21 seconds 第二百四話『優しさと哀しさで人生を生きる』−【千葉篇】画家 竹久夢二−
『まてど 暮らせど 来ぬ人を
宵待草の やるせなさ
今宵は月も でぬさうな』
この有名な詩『宵待草』を書いたのは、明治末期から大正時代にかけて、独特の女性画で異彩を放った叙情画家、竹久夢二です。
千葉県の銚子にある海鹿島海岸には、この詩の一節と夢二の文学碑がひっそりと建っています。
夢二は、この海岸で恋に落ちました。
彼女との悲恋を、夕方になって可憐に咲く宵待草に重ね合わせたのです。
夏の海岸も、陽が落ちるとぱったり人影がなくなります。
そんな夕闇の中、黄色い小さな花をけなげに開く、宵待草。
夢二の心は、彼女を想う気持ちであふれます。
彼の詩に曲がつき、大正時代の流行歌として多くのひとに歌い継がれました。
たったひと夏の恋が、永遠という時間を手に入れたのです。
竹久夢二は、恋多き男、というイメージがありますが、実は一途で傷つきやすく、恋で感じた優しさと哀しさを創作の礎にしました。
「僕は、あのねえ、くれぐれも勘違いしてほしくないんだが、自分が優しいから優しい絵を画くんじゃないんです。
ひとに、優しくされたいんです。ただ、それだけなんです。
でも、自分が思うほど、ひとはそうはしてくれない。
だから、哀しい。すごく、哀しい。その哀しさを絵に込めるんです。
そうすると、絵は、途端に生き生きとしていきます。
そうです、僕は、優しさと哀しさで絵を画いているんです」
美人画を画き続け、大正の浮世絵師ともよばれた竹久夢二が、49年の人生でつかんだ明日へのyes!とは?
7/27/2019 • 11 minutes, 22 seconds 第二百三話『挫折を乗り越える』−【千葉篇】作家 伊藤左千夫−
2020年3月にスタートする、東京オリンピックの聖火リレー。来年7月には、千葉県を走ります。
県内で通過する地点の中に、九十九里浜を有する山武市があります。
千葉県北東部に位置する、いちごの名産地。
この山武市出身の作家がいます。
何度も映画化された『野菊の墓』が有名な、伊藤左千夫(いとう・さちお)。
山武市には、生家も残っています。
築、およそ200年以上前の、かやぶき屋根の平屋。
敷地内には、伊藤が生前建てた茶室も移築されています。
歌人であり、小説家、そして茶の道にも精通していた文化人、伊藤左千夫のもともとの夢は政治家でした。
正義感が強く、議論好き。
富国強兵策を自ら論文にまとめ、時の元老院に送ったりしました。
明治法律専門学校、現在の明治大学に入学。
意気揚々と上京しますが、目の病を患ってしまいます。
学校に通えなくなるほどの重病。
結局、就学は断念して、実家に帰らざるを得なくなります。
そのときの挫折は、どれほどだったでしょう。
星雲の志があっけなく壊れてしまったとき、彼は何を頼りに立ち上がったのでしょうか。
『野菊の墓』は、彼が初めて書いた小説です。
「僕の家というのは、松戸から二里許り下って、矢切の渡を東へ渡り、小高い岡の上でやはり矢切村と云ってる所」という描写があるとおり、舞台は江戸川の矢切の渡しあたり。
静かな田園風景の中、十五の政夫と、十七の民子の純愛を描いた名作は、今も多くのひとに読み継がれています。
政治家志望の青年が、リリカルなロマンティシズムにあふれた小説を書くまでに至った経緯にこそ、彼が挫折を乗り越えた心の軌跡がうかがえるのです。
明治から大正時代に活躍した作家・伊藤左千夫が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/20/2019 • 12 minutes, 57 seconds 第二百二話『見たままをうつす力』−【千葉篇】画家 山下清−
千葉県、我孫子駅にある立ち食い蕎麦の人気店、『弥生軒』。
この店で働いたとされる、放浪の画家がいます。
山下清(やました・きよし)。
弥生軒は、昭和3年に創業。当初は、我孫子駅構内で弁当を販売していました。
山下清は、昭和17年からおよそ5年間、住み込みで働いていたと言われています。
弥生軒の初代社長は、戦中、戦後の食べ物がない時代を経験。
来るものは拒まずの精神で、ただお腹いっぱい食べられそうだ という目的だけでやってきた山下を、こころよく受け入れました。
山下は、3歳のとき、病で生死の境をさまよい、その後遺症で軽い言語障害、知的障害を患います。
弥生軒でまかされたのは、弁当を売ることでもお金を勘定することでもなく、たとえば、大根切り。
店のひとにお願いされると、包丁を華麗に操り、最後の芯のところギリギリまで切ったそうです。
繊細でひとなつっこく、いつも笑顔で、周囲を和ませました。
突然、ふらりといなくなったかと思うと、必ず半年後に戻ってくる。それを5年間、繰り返したといいます。
その間に、山下は、画家として脚光を浴び、画伯になっていました。
弥生軒のみんなが「すごいねえ、立派になったねえ」と言っても、どこ吹く風。
「ボクは何も変わらないんだけどなあ」と、必死に大根を切ります。
弁当に掛ける掛け紙に絵を画くことになり、春夏秋冬、我孫子の自然を描きました。
手賀沼公園の秋を画いたあと、病に倒れ、49歳で他界。
冬の掛け紙は、永遠に描かれることはありませんでした。
放浪に出かける前の晩は、決まってこう言ったそうです。
「今夜は、月がきれいですね。星もきれいですね」
半ズボンに坊主頭、リュックを背負っておにぎりを食べる、放浪の画家・山下清が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/13/2019 • 12 minutes, 57 seconds 第二百一話『55歳から新しい人生を始める』−【千葉篇】伊能忠敬−
55歳から、全く違う人生を歩み、偉業を成し遂げた先人がいます。
伊能忠敬(いのう・ただたか)。
昨年、没後200年を迎えた伊能は、現在の千葉県香取市佐原で酒造業を中心とした商いで身を立て、地域の発展に大きく貢献しました。
50歳で家督をゆずり、江戸に発ちます。
そこで、天文学、暦学、測量学を学び、55歳のとき、東北に向かい、日本地図の作成を始めるのです。
最初の測量の旅から、実に17年あまりをかけて、史上初めての実測による日本地図を完成させました。
歩いた距離は、およそ地球を一周半。
一回目の測量は、自分の歩幅を40センチに定め、愚直なまでにただ歩いて測るというものでした。
体はボロボロ、精神的にも、いますぐやめてしまいたいという自分の心との闘いの連続でした。
それでも彼は前へ前へ、一歩一歩進んでいったのです。
千葉県香取市には、伊能の足跡を知る「伊能忠敬記念館」や、住んでいた旧宅、銅像などが点在しています。
なぜ、そこまでして、測量に命をかけたのか…。
どうして、55歳になって、もう一度人生を生き直そうと試みたのか。
そこには彼が過ごした、厳しい少年時代の記憶が関係しているのかもしれません。
傾きかけた、伊能家を見事に復活させた商人としての手腕には、彼の人生に対する思いがありました。
「この世に役立つことをしたい。自分が生まれてきた意味を残してから死にたい。」
のちに、彼が偉業をたたえられ、どうして成し遂げられたと思いますか?と尋ねられたとき、こう答えたといいます。
「私は、私がほんとうにやりたかったことをやっただけです」
日本地図を作った男、伊能忠敬が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/6/2019 • 11 minutes, 42 seconds 第二百話『ひとと違うことをする』-【岐阜篇】茶人 古田織部-
岐阜県出身と言われている戦国武将に、一世を風靡した茶人がいます。
古田織部(ふるた・おりべ)。
織田信長、豊臣秀吉、徳川家康に仕え、千利休の愛弟子として茶の湯を学んだ才人。
最近では、漫画『へうげもの』が話題になり、にわかに脚光を浴びています。
へうげもの、とは、「ひょうきんなひと」「わくにとらわれない、変り者」「ひしゃげたもの」という意味。
その言葉どおり、織部は独特の感性で、庭園や焼き物、建築に新しい息吹を与えました。
深い緑色が特徴の織部焼。
その形はいびつで、大胆。
ときに、一度焼きあがったものを割ってしまい、それをつなぎ合わせることで、わびさびを表現しました。
縄文時代の土器を思わせるフォルムと模様。
当時のひとたちに与えた衝撃は、はかりしれません。
岐阜県本巣市の道の駅「織部の里もとす」は、文字通り、古田織部ゆかりの場所です。
施設の向かいにあった山口城で生まれたとされる織部。
この道の駅の織部展示室では、彼の人となりをさまざまな角度から紹介し、織部焼や、織部風の茶室や茶道を知ることができます。
彼が破天荒な道に進むきっかけは、師匠である千利休のこんな言葉でした。
「ひとと違うことをしなさい」
整然として、静かで落ちついている。
そんな茶の湯を説いた、千利休。
それを継承しながらも、織部が向かった道は、誰も歩いたことのない、いばらの道でした。
大坂夏の陣で、豊臣側への内通を疑われ、徳川幕府に切腹を命じられた男、古田織部。
彼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/29/2019 • 11 minutes, 16 seconds 第百九十九話『誰ともつるまない』-【岐阜篇】フォークシンガー 高田渡-
岐阜県の南西部、広大な濃尾平野に位置する、北方町。
岐阜県の中で最も小さなこの町に生まれた、伝説のフォークシンガーがいます。
高田渡(たかだ・わたる)。
反戦歌『自衛隊に入ろう』、沖縄出身の詩人、山之口貘(やまのくち・ばく)の詩に曲をつけた『生活の柄』など、数々の名曲は、今も若者たちの心をつかんで離しません。
北方町では、月に1回「WATARU CAFE」が開かれ、高田渡の歌や生き方を継承しています。
群れるのを嫌がるひとでした。
口先だけで行動しないひとを、静かに軽蔑するひとでした。
嘘や欺瞞、権力にへつらうひとには、容赦ありませんでした。
ただ、大声をはりあげたり、声高に生き方を説くような歌い方はしませんでした。
あくまで淡々と、日常に向き合い、己を見つめる。
そんなストイックな語り口は、彼の心のさみしさとせつなさを具現化していたのです。
とにかく、お酒が好きでした。
56歳でこの世を去る、その少し前も、ステージで歌い続けました。
ヘロヘロでリハーサルを終えても、本番には考えられないような歌声を披露する。
「ボクの肝臓の値はね、寺山修司を越えたんだよ」
周囲をなごませるユーモアをいつも忘れませんでした。
ひとなつっこく、誰にでも優しい。
特に、うまく生きることができないひとへのまなざしは格別でした。
「いいんだよ、人生なんてもんは、うまく生きられないやつが上等なんだ。生き方が上手なんて、なんの誉め言葉でもないんだよ。ただね、ひとりを怖がっちゃいけない。ひととつるんでばかりだと、人生は逃げていくよ」
多くのミュージシャンに影響を与えた反骨のフォークシンガー・高田渡が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/22/2019 • 11 minutes, 9 seconds 第百九十八話『自分の人生にけじめをつける』−【岐阜篇】明智光秀−
来年の大河ドラマの主人公は「本能寺の変」で有名な、明智光秀です。
大河ドラマ59作目にして、初めての主役。
光秀は、天下の謀反人と言われながら、実はその多くが謎に包まれています。
今回再び、脚光を浴び、新しい史実や研究の成果が次々と発表されました。
その多くが、謀反を起こした理由についてです。
最近発見された『石谷家文書(いしがいけ・もんじょ)』によって、織田信長は四国攻めを計画しており、それを阻止するために、明智光秀が変を起こしたのではないかという説も浮上しました。
謀反を起こした悪人としてのみ印象づけられた光秀ですが、たとえば、京都の福知山市では、御霊神社に光秀が祀られています。
由良川の堤防をつくり、ひとびとを水害から救い、町を守ったことを、地元のひとは忘れなかったのです。
岐阜県可児市は、光秀が生まれ、およそ30年過ごしたとされる、彼の故郷です。
北を流れる木曽川。中央には可児川。
豊かな自然と、名古屋エリアのベッドタウンとしての利便性を併せ持つ、可児市。
いまも戦国時代の名残をとどめるように、リクリエーションとしてのチャンバラ合戦が多く開催され、大人から子どもまで笑顔で参加しています。
その平和な景色を眺めたら、光秀はどう思うでしょうか?
もしかしたら、彼ほど戦を嫌い、平和を望んだひとはいないかもしれません。
幼い頃から古今東西の書物に触れ、また、自らの足で諸国を巡り歩き見識を広めた才人としての一面は、あまり知られていません。
城を築く才覚は、並外れたものがあったといわれています。
「天王山」で秀吉に負け、「三日天下」と揶揄(やゆ)された謀反人、光秀は、何を思い、何を考え、50年あまりの生涯を終えたのでしょうか。
彼が私たちに問いかけるものとは…。
そして、明智光秀が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/15/2019 • 11 minutes, 37 seconds 第百九十七話『自分だけの眼を持つ』−【岐阜篇】画家 オディロン・ルドン−
今年の秋、大規模な改修工事を終え、リニューアルオープンする岐阜県美術館は、ある画家の有数なコレクションで知られています。
その画家の名前は、オディロン・ルドン。
ルドンの代表的な作品は、幻想的で奇妙。
黒を基調としたキャンバスには、大きな眼が描かれています。
水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』で有名な「目玉おやじ」は、ルドンから着想を得たとされていたり、人気漫画『寄生獣』を描いた岩明均にも、多大な影響を与えたと言われています。
ルドンは、1840年生まれ。
印象派の巨匠、クロード・モネと同じ年に生まれました。
モネが、見たままをいかに表現するかに命を削った一方で、ルドンは、いかに目に見えないものを創造するかに心を砕いたのです。
モネは光を求め、ルドンは暗闇を描きました。
岐阜県美術館のコレクションには、見るひとを異次元にいざなうような、いくつかの石版画があります。
『おそらく花の中に最初の視覚が試みられた』という作品では、植物の花にあたる部分に大きな目玉が描かれています。
上目づかいの瞳は、いったい何を見つめているのか…。
幼くして里子に出されたルドンのやすらぎは、暗闇の中にありました。
闇に身をあずけ、膝をかかえ、いつも上目づかいに世界を眺める。
そんな時間を持つことで彼が手に入れたのは、「見えない世界にこそ、真実がある」という世界のしくみへの入り口でした。
彼の絵は、見るものに問いかけます。
「あなたは、ちゃんと世界を、人間を、見ていますか? まさしく今、隣にいるひとの心が、見えていますか? ほんとうの眼を持っていない人間は、しょせん何も見えてはいないんですよ」。
ひとと同じに生きることを拒み続けた孤高の画家、オディロン・ルドンが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/8/2019 • 11 minutes, 22 seconds 第百九十六話『自分の弱さから逃げない』-【岐阜篇】作家 島崎藤村-
「木曽路はすべて山の中である。あるところは、岨(そば)づたいに行く崖の道であり、あるところは数十間(すうじゅっけん)の深さに臨む木曽川の岸であり、あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。一筋の街道はこの深い森林地帯を貫いていた」。
有名な書きだしで始まる、小説『夜明け前』。
作者は、現在の岐阜県中津川市馬籠出身の島崎藤村です。
彼は生まれ故郷の様子を、まるで鳥が谷間を飛びながら眺めるように描写しました。
馬籠は、木曽路の宿場町。
かつてはにぎわいを見せていた街道も、島崎の幼年時代には、鉄道や国道の新設にともない、さびれつつありました。
彼がこの地に暮らしたのは、幼少期の数年でしたが、木曽山中の景色や匂い、伝統や人々の暮らしは、人格形成に多大な影響を与えたと言われています。
北アルプスの一角。
山脈に挟まれた谷での生活は、厳しい寒さとの闘いが常でした。
山肌を縫うように道がうねっている。
屋根には風雪に耐えるように、重い石がのっている。
ひとびとは、自然と向き合い、自然と喧嘩せぬよう、置かれた環境の中で必死に生きていく。
彼は、こんな言葉を残しています。
「弱いのは決して恥ではない。その弱さに徹しえないのが恥だ」。
生まれると、兄弟それぞれに乳母がつくような名家の出身でしたが、気が弱く、人の目が気になり、まわりの人の言葉を信じることができない、繊細な子ども。
いつも、他人と自分の違いばかりを数えあげ、疎外感に打ちのめされていました。
そんな島崎が、明治、大正、昭和を生き抜き、しかも、浪漫主義の詩人、自然主義文学の大家、偉大な歴史小説家と、絶えず自分の変革を遂行したのです。
彼が大切にしたのは、自分の弱さでした。
弱さから逃げないことで彼は自分を律し、成長のための努力を惜しまなかったのです。
文豪・島崎藤村が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/1/2019 • 12 minutes, 56 seconds 第百九十五話『悔しさを信念に変える』-【福島篇】第九代若松市長 松江豊寿-
松江豊寿(まつえ・とよひさ)。
彼は、福島県若松市、現在の会津若松市の第九代市長として、上水道の敷設に尽力し、白虎隊の墓がある飯盛山の整備にも力を注ぎました。
いわば、会津若松市の土台を築いた偉人です。
しかし、彼を崇めてやまない、もうひとつの場所があります。松江が陸軍の軍人だった頃、俘虜収容所の所長を勤めた赴任先。徳島県鳴門市です。
鳴門市の坂東俘虜収容所には、千人にも及ぶドイツ人が収容されていました。
松江は、当時ではおよそ考えられないことをやり遂げました。
彼等ドイツ人に人道的な対応をしたのです。
彼はある収容所を見学した際、ひもでつながれ、同じ粗末な服を着せられた俘虜たちを見て、心を痛めました。
「いまは、ただ、このような立場であるが、いつなんどき、その立場が入れ替わるやもしれん。そのとき、どう思うか。常に相手の立場になって考え、己の義に背くようなことはしないこと。それこそ、会津藩の魂である」
彼が俘虜たちに自由を与えた結果、ベートーヴェンの交響曲第九番合唱付き、いわゆる『第九(だいく)』が、日本で初めてフル演奏されるという歴史をつくったのです。
昨年、その演奏会から、ちょうど100年でした。
その記念コンサート。『よみがえる「第九」演奏会』では、ドイツ人と日本人が一緒に『歓喜の歌』を歌いました。
その中には、当時俘虜だったドイツ人のお孫さんもいたのです。
俘虜たちは、松江のことを忘れませんでした。
100年の間、交流は途絶えることなく、続いたのです。
今、もし松江がその演奏会を見たら…。
涙を流し、『歓喜の歌』を歌うひとたちを見たら、どう思うでしょうか。
数々の悔しさを信念に変えた会津の偉人、松江豊寿が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/25/2019 • 11 minutes, 33 seconds 第百九十四話『逆境をバネに生きる』-【福島篇】特撮の神様 円谷英二-
ハリウッド版『ゴジラ』の新作『ゴジラ キング・オブ・モンスターズ』が、5月31日、日本をはじめ、世界で同時公開されます。
世界中のファンを魅了し続ける、ゴジラ。
1954年、日本初の本格的特撮怪獣映画として公開された『ゴジラ』は、空前の大ヒットを記録しました。
映画館がある日劇の周りには、幾重にも観客の列が渦を巻き、邦画として初めての全米公開作品になったのです。
その産みの親こそ、福島県出身の特撮の神様・円谷英二(つぶらや・えいじ)です。
今年1月、彼の故郷、福島県須賀川市に『円谷英二ミュージアム』が開館しました。
展示の目玉は、高さおよそ2メートルの初代ゴジラを模したスーツです。
市民センター内にあり、入場は無料。
円谷の生涯を7つのブロックに分けた展示や特撮スタジオの再現など、見どころは満載です。
円谷は、幼い頃から何処にも出かけず、ひとりで遊ぶことが多く、ひととの関わりが苦手でした。
本心を明かすことはめったになく、いつもテヘラテヘラと笑ってごまかすことから、先輩の映画監督には「おまえは、テヘラ亭だ!」と揶揄されました。
上京したのちも、訛りがとれず、言葉じりを笑われたことで、さらに会話にコンプレックスを持つことになったと言われています。
映画製作チーム全体をまとめる監督、というタイプではなく、あくまでも職人気質。
撮影の細部へのこだわりは、まわりを震え上がらせるほどでした。
言葉が少なく、映画会社から誤解され、劣悪な撮影環境に置かれても、その逆境をバネにあらゆる撮影技法を生み出していきました。
セットにお金がかけられないなら、カメラの前にガラス版を置き、そこに絵を画くという「グラスワーク」でしのぐ。
予算が少なく奥行きが出ないのであれば、ミニチュアで遠景をつくってしまう。
まさに、このミニチュアづくりこそが、後の特撮の原点になったのです。
どんな状況にあっても、自分のやるべき信念を追い求める、特撮の神様・円谷英二が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/18/2019 • 12 minutes, 30 seconds 第百九十三話『自分をふるい立たせる言葉を持つ』-【福島篇】野口英世-
新しい年号にともない、紙幣の肖像も変わります。
千円札は、北里柴三郎になりますが、現行の千円札の肖像として親しまれているのが、野口英世です。
北里と野口は、長きにわたり、師弟関係にありました。
野口は、1898年4月、北里が所長を務める伝染病研究所に入職し、研究に従事しました。
野口が1900年に渡米留学するときも、便宜をはかり、彼の研究を支えたのです。
野口英世は、福島県三ツ和村、現在の猪苗代町に生まれました。
猪苗代湖の湖畔には、彼の記念館が建てられています。
ノーベル賞の候補にもなった、世界的な医学者の足跡を知ることができる展示も人気ですが、何より目をひくのは、生家の床柱。
そこに、19歳の野口が上京する際に刻んだ文字が、当時のまま保存されているのです。
曰く、「志を得ざれば、再び此地を踏まず」。
自分は、医者になれなければ二度とふるさとには帰ってこない、強い決意を心にしっかりとどめるように、弱い自分に鞭うつように、ナイフで文字を書きました。
大きな火傷を負い、左手をほとんど使えなかった幼年時代。
多くのひとの力を借りて医学者になってからも、苦難の連続でした。
それでも彼は志を全うすべく、努力に努力を重ね、黄熱病と梅毒の研究に邁進したのです。
特に黄熱病との格闘はすさまじく、結局、自身も黄熱病に倒れ、51歳の若さでこの世を去ります。
彼は、こんな言葉を残しています。
「家が貧しくても体が不自由でも、決して失望してはいけない。人の一生の幸いも災いも、自分から作るもの。周りの人間も周りの状況も、自分から作りだした影と知るべきである」
医学に命を捧げた偉人・野口英世が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/11/2019 • 11 minutes, 48 seconds 第百九十二話『生まれてきた役割を知る』-【福島篇】大山捨松-
新しい年号、『令和』がスタートしました。
5年後に発行される予定の新五千円札の肖像は、津田梅子。
その津田とともに、初めての海外留学を果たした女性がいます。
大山捨松。
捨松という名から想像できませんが、「鹿鳴館の華」と賞賛を浴びた、見目麗しい才女です。
大河ドラマ『八重の桜』では、モデルの水原希子が演じ、話題になりました。
福島県の会津若松出身の彼女の父は、会津藩の国家老。
国家老とは、主君が参勤交代で江戸にいっている間、留守をあずかる要職です。
何不自由なく育った捨松は、8歳で会津戦争に遭遇。
家族とともに籠城し、負傷兵の手当をしたり、食事の世話を手伝ったりしました。
そんな彼女は、わずか11歳で岩倉具視使節団の留学生募集を受け、女性として初めてのアメリカ留学に参加します。
当時、アメリカは、鬼が棲んでいると噂が飛び交うほど、未知の世界。
年端も行かぬ娘を留学させるのは、本人もさることながら、家族も、並大抵の覚悟では見送ることができない時代でした。
捨松のもともとの名前は、咲子。
母親は、娘をアメリカに送り出すときにこう言いました。
「もうあなたのことは、一度は捨てたと思います。ただ、あとは、必ず帰ってきてくれると心の底から待つだけです」。
捨てて、待つ。そこから、捨松という名前に改名したのです。
なぜ、11歳で留学という道を選んだのか、そして、捨松がアメリカで得たものとはいったい何だったのか?
そこに、新時代を生き抜くヒントが隠されているかもしれません。
会津藩でありながら、西郷隆盛の従兄弟、薩摩藩の大山巌と結婚したことでも物議をかもした時代の寵児、大山捨松が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/4/2019 • 12 minutes, 3 seconds 第百九十一話『信念を曲げない』-【宮崎篇】医師 高木兼寛-
宮崎県宮崎市高岡町の道の駅は、「ビタミン館」と呼ばれています。
この町出身の偉人、「ビタミンの父」と言われる、高木兼寛を記念して名付けられたのです。
高木の銅像は、宮崎県総合文化公園の中にもあります。
日本から、脚気という病を消し去った男は、「ビタミンの父」と呼ばれました。
脚気とは、末梢神経に障害を与え、足にしびれや麻痺を引き起こし、悪化すれば命まで落としてしまう病気。
明治時代初期から後期まで、毎年1万人の命を奪った、原因のわからない不治の病でした。
当時の医学の主流は、ドイツ医学。
陸軍はこれを採用し、脚気は伝染病だという説を信じて疑いませんでした。
その医師の中には、かの森鴎外もいたのです。
高木はドイツではなく、イギリスで医学を学び、海軍の軍医に任命されます。
彼は、脚気は伝染病ではなく、栄養不足からくるものだという説を論じました。
論争は、陸軍対海軍の争いと重なり、両者一歩も譲らぬまま、日清戦争を迎えてしまいます。
結果、日清・日露戦争での陸軍の脚気患者数は、およそ24万5千人、亡くなった兵士は3万人を超えました。
一方、海軍は、患者数がおよそ40人で、死に至った兵士はひとりでした。
高木が、軍艦での食事をパンから麦飯に変え、野菜を積極的にとるように進言した結果です。
そして彼の栄養説のおかげでビタミンが発見され、脚気がビタミンBの欠乏で発生することが証明されたのです。
彼は後輩や部下たちに、いつもこう言っていました。
「病気を診ずして、病人を診よ!」
大切なのは、自分の立場がどうなるかではない。
ひとの役に立てるかどうかだ。
そのためには、いっさい自説を曲げなかった反骨精神が、ときに彼を窮地に追い込みます。
それでも、前に進む。
それでも、信念を曲げない。
日本の医療界に多大なる功績を残した賢人・高木兼寛が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/27/2019 • 12 minutes, 21 seconds 第百九十話『目に見える全てのものから学ぶ』-【宮崎篇】作曲家 フレデリック・ショパン-
宮崎市で、1996年から毎年開催されている音楽祭があります。『宮崎国際音楽祭』。
この春で第24回、4月28日から5月19日まで行われます。
名立たる演奏家が出演する中、ピアニスト・辻井伸行が奏でるのは、フレデリック・ショパン。
同時期に東京では、彼の師匠・横山幸雄が、ショパンの全240曲を3日間に渡って演奏する特別公演を開催します。
この春は、没後170年のショパンのムーブメントが、日本中を駆け抜けることでしょう。
わずか39年の生涯をピアノ曲の作曲に捧げた、ショパン。
彼の作曲には、彼自身の人生が色濃く映し出されています。
その一生のほとんどが、病との闘いと言っても過言ではありません。
晩年、痩せ細り、外出もままならない状態でも、曲を作ろうという情熱だけは失いませんでした。
友人の画家、ドラクロワの前での即興演奏。
先が続かず、途中でやめてしまったときのこと。
「どうした、フレデリック、続けてくれよ」
そうドラクロワが言うと、
「ダメだ、この世はこんなに色であふれているのに、僕には、光と影が同時に見えるだけなんだ。音で色を表現したいのに…」
と返します。
ドラクロワは、ショパンに言いました。
「光と影は、常に同時にあるものなんだ。それでいいんだ。その両方をいつも見つめていれば、必ず色彩はやってくる。そういうもんだ」
この言葉に励まされたショパンは、曲の続きを演奏しました。
見つめること。
この世のあらゆる出来事を、あるいは自分に起こった全てのことを、見つめて、見つめて、その中に色彩を探すこと。
それこそが、ショパンの音楽を裏打ちしているのです。
ピアノの詩人、フレデリック・ショパンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/20/2019 • 12 minutes, 18 seconds 第百八十九話『生きがいを求め続ける』-【宮崎篇】パイロット 後藤勇吉-
宮崎県出身の、伝説のパイロットをご存知でしょうか?
後藤勇吉。
1896年、明治29年に生まれた彼は、さまざまな日本初の記録を打ち立てました。
日本初の一等飛行機操縦士。
日本初の飛行機による国内一周旅行。
日本初の生鮮農産物の空輸、旅客輸送。
昨年、没後90年を迎えた彼は、わずか31年間の生涯を飛行機に捧げました。
夢は、太平洋横断無着陸飛行。
無念にも、訓練中に墜落死してしまいます。
生前、彼は同僚のパイロットに、こう語っていました。
「人間の一生というのを考えてみると、五十年も一生。三十年も一生だ。要は生きがいがあったかどうかが、点のつけどころだと、僕は思う。五十年生きて点が少ないより、三十年で死んでも十点のほうが、よかろう。そうは思わないか?」
後藤は、郷土愛が強く、大切な故郷のために何かできないかと、常に考えていました。
宮崎県の特産物を扱った料理の大試食大会が大阪であると聞けば、喜んで輸送を引き受けました。
彼が運んだ「日向かぼちゃ」は、新鮮なまま大阪に到着。
空輸というパフォーマンスも相まって、PRは大成功でした。
宮崎県延岡市にある後藤勇吉の銅像は、果たすことのできなかった思いをまだ諦めていないかのように、太平洋を向いています。
銅像の傍らには、詩人・野口雨情の歌碑。
そこには、こんな言葉が刻まれています。
「雄々しき名を 空に残しぬ 如月の寒き空に とこしえに名こそ残せる 果てしなき空こそ かなし」
日本最初の民間パイロット、後藤勇吉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/13/2019 • 11 minutes, 47 seconds 第百八十八話『旅することをやめない』-【宮崎篇】歌人 若山牧水-
宮崎県北東部、太平洋に面した日向市。
古くから廻船問屋として栄え、海上交通の要としてにぎわったこの街に、ある有名な歌人が生を受けました。
若山牧水。
彼の生家の近くにある「牧水公園」では、ちょうどツツジが見ごろを迎えようとしています。
色鮮やかな、およそ3万本の圧倒的なツツジが、訪れるひとの目を楽しませてくれます。
その光景を見て「牧水ならどんな歌を詠んだだろう」と想像するのも、旅の楽しみのひとつです。
『幾山河 越えさりゆかば 寂しさの はてなむ国ぞ けふも旅ゆく』
牧水ほど、旅を好んだ歌人はいませんでした。
全国に作られた彼の歌碑は、およそ300と言われていて、その数は松尾芭蕉をも越えています。
旅は、人生。人生は、旅。
何か心に問題を抱えるたびに、あるいは詩作のヒントを得るために、彼は旅を続けました。
『けふもまた こころの鉦を うち鳴らし うち鳴らしつつ あくがれて行く』
「あくがれて行く」の「あくがれ」とは、「あこがれ」の古い言い回しで、居所を離れてさまよう、あるいは、何かに引きつけられて心を奪われるさまを表現した言葉です。
彼は26歳のとき、こう語っています。
「私は常に思って居る。人生は旅である。我らは忽然として無窮(むきゅう)より生まれ、忽然として無窮のおくに往ってしまう。その間の一歩一歩の歩みは、実にその時のみの一歩一歩で、一度往いては再びかえらない」
わずか43年の生涯で9000首あまりの歌を残した歌人、若山牧水が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/6/2019 • 12 minutes, 31 seconds 第百八十七話『異端であることを怖れない』-【埼玉篇】小説家 澁澤龍彦-
昨年、生誕90周年を迎え、人気アニメ『文豪ストレイドッグス』の劇場版『DEAD APPLE(デッドアップル)』に新しいキャラクターとして登場し、話題を呼んだ作家がいます。
澁澤龍彦。
フランス文学者としても知られ、マルキ・ド・サドの翻訳では、わいせつ文書か否かの裁判になり、世間を騒がせました。
親友だった三島由紀夫は、このとき、澁澤にこんな葉書を送りました。
「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」
澁澤は、特に晩年、エロスや倒錯の世界、教科書には載っていない歴史の隠れた影の部分を描きました。
さらに彼は、もっと生産せよ!と背中を押され続ける昭和の激動期にあって、著書『快楽主義の哲学』の中で、曖昧な幸福を求めるより、快楽こそを求めるべきだと語り、物議をかもしたのです。
「人生に目的があると思うから、しんどくなるんだ。人生に目的なんかない、みんなそこから始めればいい。曖昧な幸福に期待をつないで、本来の自分をごまかしてないか? 求めるべきは、一瞬の快楽。それでいいじゃないか。流行? そんなものを追ってどうする? 一匹狼、けっこうじゃないか。どんなに誤解されたっていい。精神の貴族たれ! 人並の凡庸ではなく、孤高の異端たれ!」
彼のそんな言葉に反論をしながらも、どこかホッとするひとが多かったのでしょう。
彼のまわりには、いつも友人知人が集い、彼との時間を楽しみました。
そのひとりに、三島由紀夫もいたのです。
澁澤は、自分の「好き」を大切にしました。
ホラー、人形、鉱物採集に、旅。
さまざまなコレクターとして、信者を集めました。
生涯、常識を笑い飛ばし、異端を貫き通した作家、澁澤龍彦が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/30/2019 • 12 minutes, 59 seconds 第百八十六話『自分を見つめることをやめない』-【埼玉篇】小説家 中島敦-
今年、生誕110年を迎える、埼玉県にゆかりのある作家がいます。
中島敦。
彼の代表作のひとつは、国語の教科書にも採用された『山月記』。
中国の古典を題材にしたこの小説は、ある男が山奥で虎に変わってしまった友人に出会う変身譚です。
日々、心を虎に侵食されつつある友人が、最後に残った人間の心で語った自らの心情はこうです。
「己(おれ)は、詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて誌友と交わって切磋琢磨に努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間に伍することも潔しとしなかった。共に、我が臆病な自尊心と、尊大な羞恥心との所為(せい)である」
臆病な自尊心と、尊大な羞恥心。
それこそ、33歳の若さで亡くなった小説家、中島敦を常に苦しめた、内なる悪魔でした。
幼くして神童の名をほしいままにした天才は、いくら名声をつかんでも足りない渇きを抱えていました。
産みの母を知らず、二人の継母に育てられた幼少期。埼玉県久喜市で過ごした2歳から6歳までが、彼の人生を決定づけたと言っても過言ではないかもしれません。
大人を軽蔑しながらも、絶対的な愛に飢える少年。
もっと自分を大切にしてくれ!という叫びと、自分なんかどうなってもいい、ほっといてくれ!という投げやりな気持ちが混在して、彼を追い立てます。
「おまえがここにいてもいいかどうか、おまえが証明しろ!」
そうして中島が出した答えは、小説を書くことでした。
自分と向き合い、書いて書いて書きまくる。
それは、心の血を流す荒行です。
でも、彼は逃げませんでした。
孤高の小説家・中島敦が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/23/2019 • 11 minutes, 55 seconds 第百八十五話『ひとの歩かない道を行く』-【埼玉篇】医師 荻野吟子-
埼玉県が生んだ、三大偉人。
「日本資本主義の父」渋沢栄一、「全盲の国学者」塙 保己一、そしてもうひとりが、熊谷市出身で、日本で初めて女性医師になった荻野吟子です。
彼女の生涯が、今年、映画になります。
メガホンをとるのは、86歳の山田火砂子監督。
女性を正当に評価しない医学部入試のあり方などを受けて、今こそ、荻野吟子が何と闘い、何を後進に伝えたかったかを問いたいと、映画化を切望したのです。
女性に学問は必要ないとされた明治初期。
荻野はある屈辱を受けて一念発起、まだ女性で誰もとったことのない、医師の国家試験に挑戦します。
そこにはさまざまな軋轢や障壁がありました。
しかし、彼女は一歩も引きませんでした。
荻野は、壮絶な人生を振り返り、こんな言葉を残しています。
「人と同じような生活や心を求めて、人々と違うことを成し遂げられるわけはない。これでいいのだ」
作家・渡辺淳一が荻野吟子の生涯を描いた小説『花埋み』。小説の中に吟子の心情をうかがう一節があります。
「正直なところ、彼等の学才が吟子より優れていたとは思えない。成績だけならむしろ吟子の方が上であった。それが男というだけで堂々と開業を許されている。学識の差による結果なら諦めもつくが、男と女という性の違いだけの差別だけに、吟子は口惜しく耐えられそうにもなかった。いつになったら女も男と同じに扱われる時代が来るのであろうか」
苦難にもめげず、己の道を切り開いた、日本で最初の女医・荻野吟子が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/16/2019 • 12 minutes, 48 seconds 第百八十四話『運は気持ちで直せ!』-【埼玉篇】林学博士 本多静六-
本多静六というひとをご存知ですか?
日本で最初の洋風庭園、日比谷公園や明治神宮の森をつくった、林学博士。
ついた異名が「日本の公園の父」。
さらに、東大教授にして大富豪。
多くの著作を残した哲学者としても知られています。
彼は、武蔵国埼玉郡河原井町、現在の埼玉県久喜市菖蒲町に生まれました。
菖蒲町にある記念館には、彼の残した言葉が記されています。
本多は、「努力」という言葉が好きでした。
家は貧しく、苦学生。
努力に努力を重ね、ドイツへの留学を果たし、指導教授の教えを受け、彼は悟ります。
「経済的な自立なくして、精神の自立はありえない」
彼は貯蓄と投資を繰り返し、やがて巨万の富を手に入れます。
そして、定年を迎えると、そのほとんどのお金を教育団体や公益事業に寄付したのです。
「家庭が円満であること、職業を道楽に変えること、この二つが人生最大の幸福だ」と豪語してはばからなかった男。
彼は、若いひとによくこう言っていたそうです。
「運は気持ちで直せ!」
本多いわく、不運は誰にでも起こりうる。
そんなとき、気持ちをどう立て直せるかが、のちの人生を決める。
もちろん、簡単に立て直せない思いもあるだろう…
でも、それでも、自分の気持ちで立て直すしかない。
彼は、常に若者を鼓舞し、励まし続けました。
ひとはいかに生き、いかに死ぬべきかを、己の人生で説いてみせた風雲児、本多静六が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/9/2019 • 11 minutes, 29 seconds 第百八十三話『ひとを幸せにする仕事をする』-【埼玉篇】「ムーミン」作者 トーベ・ヤンソン-
3月16日、埼玉県の飯能市に、ムーミンのテーマパークがグランドオープンします。
昨年できた、北欧のライフスタイルが体験できる「メッツァビレッジ」に加え、今回の「ムーミンバレーパーク」の誕生で、より深くムーミンの世界に入り込める場所ができました。
もともと飯能市には、ムーミンの作者の名前がついた「トーベ・ヤンソンあけぼの子どもの森公園」がありました。
森の中をさらさらと流れる小川、木々の香り、爽やかな風。
この地は、フィンランドに似ていると、トーベ・ヤンソンサイドに以前から認められていたのです。
日本で『ムーミン』のアニメ化が決まり、1971年、トーベ・ヤンソンは初めて来日しました。
海が見たいと伊勢志摩をめぐったり、京都、奈良を旅しました。
彼女の傍らには、生涯を共にしたパートナー、グラフィックデザイナーのトゥーリッキ・ピエティラの姿がありました。
ムーミンの原型は、北欧の妖精、トロールだと言われています。
主人公、ムーミントロールは、両親と暮らしていますが、その家にはさまざまなひとたちが出入りします。
どんなひとがやってきても、ムーミン一家は彼らを受け入れ、温かいスープとふわふわのベッドを用意します。
この世界に、同じ時代に一緒に生きている、ただそれだけで受け入れるのです。
トーベ・ヤンソンは、14歳にして雑誌に挿絵と文章が掲載された、早熟な天才でした。
幼い頃から、ひたすら絵を描き、ひたすら文章を書きました。
それはまるで、「かくこと」が自分の生きるための仕事であるかのようです。
「仕事」…それは彼女の生涯を通してのテーマでした。
彼女はいつも、忙しく「仕事」をしました。
彼女の言葉に、こんな一節があります。
「思うのも、確かにエネルギーだけれど、思いはどんどん薄まってしまうもの。だから、思い立ったら行動すべき。思ったときが動くとき。その一瞬を逃さないで」
世界的に有名な童話『ムーミンシリーズ』の作者、トーベ・ヤンソンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/2/2019 • 12 minutes, 24 seconds 第百八十二話『自分が自分であることを喜ぶ』−芸術家 サルバドール・ダリ−
グニャグニャに溶ける時計の絵を見たことがありますか?
重力に逆らうようにくるんと両端が上に曲がった、奇妙な口ひげの男を知っていますか?
日常を一瞬で非日常に変えてしまう、シュールレアリスムの巨匠、サルバドール・ダリ。
ダリが亡くなって、今年、30年になります。
ダリのコレクションで知られる、福島県の「諸橋近代美術館」では、4月20日から開館20周年の企画展としてダリの特別展を開催します。
常識をぶち壊す、彼の絵画の在りようがつぶさにわかる展示になると、今から注目が集まっています。
柔らかい時計は、時間に縛られている我々現代人への警鐘なのでしょうか。
いえ、もしかしたら、ダリはダリ自身のためだけに絵を画いたのかもしれません。
ダリの強い自己顕示欲は、彼のこんな言葉に現れています。
「私は、毎朝目を覚ますたびに、喜びで体がふるえる。どんな喜びなのかって? それは、私がサルバドール・ダリだという喜びだよ。このサルバドール・ダリという男が、今日一日いったい何をしでかすのか、心からワクワクするんだ」
彼は、天才を演じ切れば天才になれると信じていました。
「ボクなんかしょせん…」とか「どうせ頑張ったって…」とかいうひとを、心の底から軽蔑しました。
「自分のやることを愛せないやつが、他に何を愛せるっていうんだい? 教えてくれよ」
挑戦的なまなざしは、絵画にも投影されています。
彼は、ただの誇大妄想狂だったのでしょうか?
ただひとを挑発するだけの奇人だったのでしょうか?
ひとつだけ言えるとすれば、彼は彼自身を愛さなくてはならない事情があったのです。
唯一無二の芸術家、サルバドール・ダリが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/23/2019 • 11 minutes, 43 seconds 第百八十一話『何度でも絶望から這い上がる』-小説家 フランツ・カフカ-
今年、没後95年を迎える、20世紀を代表する作家がいます。
フランツ・カフカ。
「ある朝、嫌な夢から目覚めると、自分が一匹の虫に変身しているのを発見した」という有名な書き出しで始まる、『変身』という小説の作者です。
彼の40年あまりの人生は、苦悩の連続でした。
ユダヤ人という宿命、父との確執、サラリーマンと作家という二足のワラジ生活。
婚約者とは何度も破局を迎え、生涯独身。
晩年の数か月を除けば、ほとんどをプラハという街で過ごし、小説は売れず、生前は自分の作品が100年後も全世界のひとに読まれ続けているとは、夢にも思わなかったでしょう。
それでもカフカは、書くことをやめませんでした。
寝る間を惜しんで、会社勤めをしながら、ペンを握り続けました。
ここ数年、彼の生き方が話題になっています。
「絶望の名人」と称されるカフカ。
なぜ彼が、苦悩の果てに絶望しても再び這い上がることができたのかを繙(ひもと)けば、混迷する現代社会を生き抜くヒントになるのではないかと考えられたからです。
彼の名言は、一風変わっています。
「寝て、起きて、寝て、起きる。みじめな人生」
「君と世の中が戦うとしたら、迷わず、世の中に賭けたまえ」
「神はクルミを与えてくれる。でも、それを割ってはくれない」
ひとは言います。
ポジティブに生きろ! ポジティブこそ人生を幸せにする魔法だ。
でも、絶望の最中にあって、簡単にポジティブと言われても、動けないときがあります。
そんなとき、カフカのどこか飄々(ひょうひょう)としたペシミズムが心地良いのです。
不条理を愛した小説家 フランツ・カフカが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/16/2019 • 11 minutes, 27 seconds 第百八十話『偽らない思いが、ひとの心を動かす』-カレン・カーペンター-
今年、デビュー50周年を迎えた、カーペンターズ。
32歳の若さで亡くなったカレン・カーペンターの歌声は、今も色あせることはありません。
昨年12月には、17年ぶりの新作アルバムが完成。
カレンの兄、リチャード・カーペンターが、プロモーションのため、来日しました。
リチャードは、妹の歌声を今も愛し、二人で作った作品を大切にしています。
『イエスタデイ・ワンス・モア』『青春の輝き』『遙かなる影』『雨の日と月曜日は』…。
ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団とのコラボレーションにより、誰もが知る名曲たちが新たに生まれ変わりました。
カレンの歌はなぜ、半世紀の時を超え、私たちの心をつかんで離さないのでしょうか。
歌手のオリビア・ニュートン・ジョンは、カレンの葬儀のときのインタビューでこんなふうに答えています。
「彼女の声には、ある種の寂しさ…哀しさが感じられました。もちろん、温かさ、優しさはあるんですが、同時にその中に、それらがひそんでいるんです。それは…なんていうか、私にとっては憧れでした」
近くにいたひと誰もが、カレンのことを、いつも目をキラキラさせているちょっとおてんばで魅力的な女性、あるいは、優雅だけど飾らない素朴なひと、という印象を語ります。
最も近しい友人は、こう話しました。
「カレンが望んだものは、富でも名声でもなかったんです、きっと。彼女がいちばん、ほしかったもの。それは、心から愛されて、そのひとの子どもを持ち、家庭をつくること、だったと思います。クッキーを焼く彼女の笑顔が忘れられません」
自らの体型を気にすることから始まった神経性食欲不振症、いわゆる摂食障害。その果ての心不全で命を落としたカレン。
彼女の歌が人々の心に届くのは、おそらく、彼女が抱えていた心の闇と無縁ではありません。
最後まで歌をつくり、歌を歌い続けた彼女の生きざまは、想像以上に壮絶な自分との戦いでした。
伝説の歌姫 カレン・カーペンターが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/9/2019 • 15 minutes, 13 seconds 第百七十九話『現実を疑え! 自分を疑え!』-作家 フィリップ・K・ディック-
主演、ハリソン・フォード。監督、リドリー・スコット。
1982年に公開されたSF映画『ブレードランナー』は、多くのファンを魅了し、いまなお伝説の映画として愛されています。
その『ブレードランナー』が近未来として描いていたのが、今年。すなわち、2019年の世界でした。
20世紀初頭、遺伝子工学を突き進めた企業・タイレル社は、レプリカントと呼ばれる人造人間を開発。
彼らは宇宙開拓の過酷な労働を担っていました。
しかし、やがて高い知能を持つレプリカントは反乱を起こし、人間に反旗を翻します。
人間社会にまぎれこんだ、脱走したレプリカント。
彼らを始末する専任捜査官は、「ブレードランナー」と呼ばれました。
2019年11月のロサンゼルス。
地球に降り続ける酸性雨の中、レプリカントと人間の戦いが最終章を迎えます…。
『ブレードランナー』の原作は、「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」。
作者の名前は、フィリップ・K・ディック。
ディックは、映画化についてはずっと懐疑的でした。
最初に映画化権を得たマーティン・スコセッシは、断念。
そのあとも、映画の脚本にディックが異論を唱え、何度も改稿を重ねるうちに、撮影にはこぎ着けず、座礁。
そんな中、リドリー・スコットは、ディックと粘り強く話し合い、脚本家も変え、映画化を実現させたのです。
2019年のロサンゼルスのVFXシーンをラッシュプリントで観たディックは、こう言いました。
「ああ、素晴らしい! これこそ、まさに私が想像していた近未来だ!」
彼は、映画会社に賛辞の手紙を書きました。
「この映画は、SFの概念そのものを変える革命的な作品になるに違いない」
しかし、映画の完成を見届ける直前、53歳の若さで彼はこの世を去りました。
ディックの作品は、いつもアイデンティティを疑うことから始まります。
そして、現実をあざ笑うかのような描写の数々。
メッセージは、おそらくこうです。
君が見ている世界をただ受け入れていいのかい?
疑う心を持とう、現実を、そして自分を。
奇才フィリップ・K・ディックが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/2/2019 • 14 minutes, 59 seconds 第百七十八話『心に青春を持つ』-【東京篇】実業家・詩人 サムエル・ウルマン-
皇居のすぐ目の前、日比谷のお堀に面した建物、DNタワー21には、歴史的建造物だった「第一生命館」の一部が保存されています。
連合国軍総司令部、いわゆるGHQの統治下におかれた戦後、マッカーサー元帥の執務室があった場所こそ、その「第一生命館」でした。
マッカーサーは、日本という未知の国、混沌の世界に飛び込むとき、ある一篇の詩を自らの支えにしました。
今も執務室には、その詩がレリーフとして掲げられています。
詩のタイトルは、青春や若さという意味の言葉「Youth」。
作者は、サムエル・ウルマン。
ウルマンの詩は、当時アメリカでも、そしてもちろん日本でも、知る人はほとんどいなかったといいます。
マッカーサーは、雑誌『リーダーズ・ダイジェスト』にたまたま掲載されたこの詩を読んで深い感銘を得ます。
青春とは人生のある時期のことをいうのではなく、そのひとの心の持ち方をいう。
薔薇のたたずまい 赤い唇 しなやかな手足ではなく、強靭な意思、豊かな想像力、燃え盛る情熱をさす。
青春とは、人生の深い泉の清らかさをいうのだ。
この詩は、松下幸之助はじめ、実業家の心を動かし、あっという間に広まりました。
ある会社の社長は「戦後、意気消沈していたが、ここで終わりだと思えば、終わりだ。ウルマンの詩のように、心が青春であれば、まだまだ建て直せる、やり直せる。青春期は、心次第なんだ」と心機一転、自社をめざましい成長企業へと発展させました。
失意と混迷の中にあった日本の経営者を支え、いまなお多くのファンを持つ、サムエル・ウルマン。
彼もまた、ユダヤ人、移民という環境の中で、誰よりも傷つき、もがいた戦士でした。
壮絶な苦しみを経たからこそ、彼の魂の声は海を越えたのです。
実業家にして詩人、「青春」の作者、サムエル・ウルマンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/26/2019 • 15 minutes, 32 seconds 第百七十七話『進化することをやめない』-【東京篇】フレディ・マーキュリー-
昨年公開された大ヒット映画『ボヘミアン・ラプソディ』は、いまだに上映され続けています。
映画を観たひとの中には、5回、8回など、複数回鑑賞者が多く、年代もさまざま。
伝説のバンド「クイーン」を知らない世代にも支持されています。
通算レコードセールス3億枚。ベストアルバムが全英チャート、842週チャートイン。
ベスト盤『グレイテスト・ヒッツ』は、イギリス史上最も売れたアルバムという金字塔を打ち立てています。
クイーンは、イギリスやアメリカに先駆けて日本でブレイクしたこともあり、かなりの日本びいきでした。
初来日は、1975年4月。羽田空港には、およそ3000人のファンが殺到しました。
武道館でのライブでは着物を着て演奏するなど、日本文化にも関心を示し、メンバーと日本の硬い絆は今も続いています。
クイーンのボーカルは、フレディ・マーキュリー。
HIV感染合併症により、45歳でこの世を去った天才ミュージシャンは、奇抜なファッションに折れたスタンドマイクを振りかざし、奇跡のパフォーマンスで観客を魅了しました。
言うまでもなく、その歌唱力は唯一無二。
音域の豊かさと魂に響く声は、色あせることはありません。
そんなフレディは、ステージの華やかさとは裏腹に、シャイで人見知り。
生まれや自らの容姿など、さまざまなコンプレックスと格闘し、もがいてきました。
天才ゆえの絶望的な孤独感にさいなまれながらも、彼には生涯を通して守った流儀がありました。
それは、『進化をやめない』ということ。
あるインタビューで彼は答えています。
「ひとつのものに満足してしまうと、そこでもう発展はなくなるんだ。ジ・エンド。おしまいだよ」
まるで弱い自分を振り払い、過去の成功を捨て去るように、ステージで胸を張り、腕を突き立てる彼の姿が胸に迫ります。
孤高のボーカリスト、フレディ・マーキュリーが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/19/2019 • 13 minutes, 34 seconds 第百七十六話『理想と現実の両輪で動く』-【東京篇】実業家 渋沢栄一-
来年に迫った東京オリンピックに向けて、東京の街が変わりつつあります。
大正11年にできた、世界に誇る社交場『東京會舘』も、今年の1月、生まれ変わりました。
関東大震災や戦火をくぐりぬけ、東京の変貌を見守り続けた老舗のホテルには、数多くの著名人が集いました。
その中のひとり、「日本資本主義の父」と言われたのが、渋沢栄一です。
大手町にある銅像は、日本の未来を案じるかのように、遥か彼方を見据えています。
武士から官僚へ、そして実業家として500余りの会社を設立し、教育者としても名を馳せ、ノーベル平和賞に二度もノミネートされた賢人。
日本の初代銀行や東京証券取引所も、彼の力なくして、設立はかないませんでした。
彼の最大の流儀は、著書『論語と算盤』に集約されています。
かの二刀流大リーガーも熟読したと言われているこの本の趣旨は、道徳と経済の両立です。
すなわち、心の豊かさとお金の豊かさ。
渋沢栄一が最も嫌ったのは、自分の私利私欲だけのために、倫理を無視してお金もうけに走るひとでした。
反対に、道徳に厳しいがあまりに、お金もうけを忌み嫌うひとにも容赦ありません。
その二つは、両輪。
どちらが欠けても、日本という国は豊かにならない。
渋沢は本の中で言っています。
「どんな手段を使っても豊かになって地位を得られれば、それが成功だと信じている者すらいるが、わたしはこのような考え方を決して認めることができない。素晴らしい人格をもとに正義を行い、正しい人生の道を歩み、その結果手にした地位でなければ、完全な成功とは言えないのだ」
それはただの正論だと一蹴できない重みが、彼の言葉から立ち上ってきます。
いかにして彼はそんな境地にたどり着いたのか。
渋沢栄一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
1/12/2019 • 13 minutes, 20 seconds 第百七十五話『自分を見つめ続ける』-【東京篇】画家 エドバルド・ムンク-
1月20日まで東京・上野の東京都美術館で開催されている『ムンク展―共鳴する魂の叫び』には、多くのひとたちが足を運び、去年12月には来場者が30万人を越えました。
ノルウェー生まれの画家、エドバルド・ムンク。
彼の名を世界に知らしめたのは、『叫び』という作品でしょう。
『叫び』には、パステル画が2点、油彩画、リトグラフ、テンペラ画がそれぞれ1点ずつの、計5つのパターンがあります。
今回そのテンペラ画の『叫び』が、日本初上陸を果たしました。
ムンクは、自分の作品が人手にわたるのを好みませんでした。
彼が亡くなったあとは、所有作品全て、故郷ノルウェーのオスロ市に寄贈され、今回のムンク展もオスロ市ムンク美術館の全面協力がなければ実現しませんでした。
今回の展覧会でひときわ目を引くのが、自画像です。
ムンクは、若い頃から亡くなる寸前まで、自画像を描き続けました。
自画像を描くために、セルフタイマーで自分の写真を撮るのを日課にしていたと言われています。
コンパクトカメラを手に入れると、手を伸ばして自分を撮る、いわゆる“自撮り”を繰り返しました。
女性関係やアルコール依存で苦しんでいた頃に画いた『地獄の自画像』は、燃えたぎる赤い焔と黒い影の前に裸で立つムンクがいます。
赤裸々に自身を描くことで、彼は人間の内面を、そして社会や人生の理不尽を表現しました。
何よりテーマにしたのは、「死」です。
晩年の『皿にのった鱈(たら)の頭と自画像』には、恐ろしいどくろの顔をした鱈を、ナイフとフォークで食べようとするムンクが描かれています。
鱈は、「死」の象徴でしょうか。
それを食べつくす。
彼が到達した境地なのかもしれません。
どんなときも常に自分を見つめ続けることをやめなかった孤高の画家 エドバルド・ムンクが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/5/2019 • 13 minutes, 45 seconds 第百七十四話『結末を決めずに進む』-喜劇作家 ニール・サイモン-
20世紀を代表するアメリカ喜劇作家のひとり、ニール・サイモンが、今年の8月26日、亡くなりました。91歳でした。
『おかしな二人』『裸足で散歩』『サンシャイン・ボーイズ』など、数々のヒット作を生み、トニー賞、ゴールデングローブ賞、ピューリッツァー賞など、多くの賞にも輝きました。
彼の作品は日本でも人気を博し、今もなお、ファンを魅了してやみません。
自身の体験を織り交ぜた、独特のユーモアと自虐的なウィット。
そして何より人間に対する深い洞察と優しい視線。
彼は、芝居の台本を書くとき、構成を最後まで決めたことはなかったと言います。
「人生で1ヶ月後に何が起こるか、正確に予測できるひと、いるかい?いないだろ?芝居だって一緒なんだよ。芝居の結末も、人生の結末も、とにかく時がくれば全てが明らかになるんだ。書いていれば…つまりは生きていれば、だんだんわかってくるよ、結末のつけかたが。それまでは、ただひたすら前に進めばいい」。
彼はひとよりも、楽天的だったのでしょうか?
いや、むしろ、悲観的で内省的だったようです。
劇作家の批評に、つい一喜一憂してしまう自分。
友人や家族の何気ないふるまいに、傷ついてしまう自分。
そんな弱い一面を振り払うかのように、彼は書き続けました。
結末を決めずに。
『人生には計画が必要だ。人生設計をちゃんとしないとリスク回避できない』。
そんな風潮が強くなっていく昨今。
あらためて彼の言葉に耳を傾けてみると、人生の懐の深さが見えてきます。
「書いては書き直し。人生は原稿と一緒さ。いいんだ、間違えても、書き直せばいいんだ」
劇作家 ニール・サイモンが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/29/2018 • 11 minutes, 56 seconds 第百七十三話『運命を味方につける』-物理学者 スティーブン・ホーキング-
今年3月14日、車椅子の天才物理学者が亡くなりました。
スティーブン・ホーキング博士。
一般相対性理論をさらに推し進め、宇宙とブラックホールの関係について、あるいは宇宙論から哲学に至るまで、学者のみならず、多くのひとに影響を与え続けました。
21歳で筋萎縮性側索硬化症、いわゆるALSを発症し、医師に余命は2年と宣告を受けましたが、それからおよそ55年間、精力的に科学者としての本分を全うしました。
彼は、あるインタビューでこんなふうに答えています。
「何かあったら、次の3つのことを思い出してください。
何か辛いことがあったら、まず星を見上げて、自分の足もとを見ないようにすること。
そして2番目に、仕事をあきらめないこと。仕事は、大切です。仕事はあなたに意義と生きる目的を与えてくれます。それがないと、人生は空っぽになってしまうんです。
最後、3番目はこうです。運よく愛を見つけられたなら、簡単に投げ捨てたりしないこと」
まさしく彼の人生は、その3つのことで成り立っていました。
理不尽な病にも、遥かかなたの星を見るように、希望を失わず、宇宙という果てしない課題に、一生の仕事として真摯に取り組みました。
病を発症したときに、ジェーンという女性に巡り合い、結婚したことで、愛について学んだと言います。
2014年、二人の関係は『博士と彼女のセオリー』という映画になりました。
彼自身の生き方は、彼が考えた人生の流儀をそのまま体現しているかのようです。
ホーキング博士は親日家としても知られ、六度の来日を果たし、東大の安田講堂で講演を行いました。
彼は、学生たちに呼びかけました。
「宇宙は、謎があるから面白い。なかなか結論にたどり着かないことを、どうか、面白がってください」
天才科学者・スティーブン・ホーキングが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/22/2018 • 13 minutes, 21 seconds 第百七十二話『逆境と仲良くつきあう』-歌手 アレサ・フランクリン-
今年8月16日午前9時50分、ソウルの女王がこの世を去りました。
アレサ・フランクリン。
ミシガン州デトロイトの自宅で、静かに息をひきとりました。
1967年、オーティス・レディングのカバー曲『リスペクト』が全米チャートの1位を飾り、一躍、時の人になります。
ゴスペルのフィーリング、力強い歌声。
肌の色や性別で不当な差別を受けていたひとに、ひとすじの灯りを見せてくれました。
一度そのボーカルを聴いたら忘れられない、強烈な迫力。
1987年には、女性として初めて「ロックの殿堂」入りを果たし、1994年には、グラミー賞の「ライフタイム・アチーブメント・アワード(功労賞)」が贈られました。
ジミー・カーター、ビル・クリントン、バラク・オバマ、3人の大統領の就任式で歌を披露。
映画『ブルース・ブラザーズ』での演技や歌も忘れられません。
名実ともに、成功を手に入れたのです。
彼女の葬儀は、8月31日にデトロイトで行われ、弔辞は5時間におよびました。
そして、アメリカ中が1週間にわたり、彼女の人生と楽曲を称えました。
一方で、その生涯は波乱に満ちていました。
10代で、父親のちがう2人の子どもを産み、学校も中退。
結婚しても、夫の暴力で離婚。
歌手として成功しても、満たされない生活。
やがて、歌が売れない不遇の時代を迎え、最愛の父が銃弾に倒れ、亡くなります。
彼女の歌声は圧倒的で、その存在は、公民権運動やフェミニスト運動と相まって、社会的にも影響を及ぼすようになりました。
アレサ個人とアーティスト・アレサとの乖離(かいり)はますます溝を深め、彼女は心のバランスを崩すこともありました。
それでも彼女は歌い続けました。
どんな逆境にもめげず、ひとびとを励ます歌を大切にしたアレサ・フランクリンが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/15/2018 • 12 minutes, 30 seconds 第百七十一話『自分らしさに気づく』-元広島カープ選手・野球評論家 衣笠祥雄-
今年4月、71歳で亡くなった、野球評論家、衣笠祥雄。
彼は、広島カープの優勝に何度も貢献し、連続試合出場の日本記録を塗り替えた『鉄人』として、多くの野球ファンに愛されました。
今もなお、彼の雄姿を心に刻み、励まされているひとが数多くいます。
彼がなぜ、そこまでひとびとの心をつかんだのか…。
有名な逸話があります。
1979年8月1日。広島対巨人戦。
試合は7対1で巨人リードのまま、7回の広島の攻撃を迎えました。
打席には、連続試合出場記録を更新中の衣笠。
西本は内角に得意のシュートを投げますが、衣笠の左肩にあたってしまいます。デッドボール。
怒った広島の選手たちがベンチから飛び出します。
衣笠に謝ろうと西本が駆け寄るのを、激痛に顔をゆがめながら、衣笠がこう制します。
「危ないからこっちに来るな、ベンチに下がれ、早く!」
結果、乱闘騒ぎになり、試合は中断。
そのときのショックで西本は調子を崩し、結局、試合は8対8の引き分けになりました。
夜、西本が謝罪の電話をすると、衣笠は「大丈夫、心配するな。それより勝てる試合で勝てなくて、損したなあ」と気遣ったといいます。
衣笠は左肩甲骨を骨折していました。
翌日、試合には出ないだろうと誰もが思っていました。
衣笠の連続試合出場記録も途絶えたか…。
しかし、代打衣笠を告げるアナウンスが流れ、球場にどよめきが起こります。
衣笠は、江川の投げる速球に、三球三振。
全てフルスイングでした。
試合後、彼は言いました。
「1球目は、ファンのみなさんのため、2球目は、自分のため、そして3球目は、西本くんのために振りました」
どんなときもまわりに気遣いを忘れない、謙虚な姿勢。
しかし、最初から彼が聖人君子だったわけではありません。
鉄人衣笠は、偶然がつくったものではなく、文字通り血と汗の努力の結晶だったのです。
野球人・衣笠祥雄が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/8/2018 • 13 minutes, 2 seconds 第百七十話『それでも自分にyesを言い続ける』-絵本作家 かこさとし-
今年5月、92歳で亡くなった、かこさとし。
彼には絵本作家のほかに、児童文化研究者、化学技術士、工学博士、大学講師など、さまざまな肩書があります。
でも、おそらくかこは「そんな肩書なんかどうだっていいですよ」というに違いありません。
彼が生涯を通してしたことは、たったひとつでした。
未来ある子どもたちに、何かしたい、何か役に立ちたい。
『だるまちゃん』シリーズ、『からすのパンやさん』など、およそ700点あまりの作品を生み出し続けた彼には、科学をやさしく繙(ひもと)くというライフワークもありました。
亡くなる直前まで、ベッドに伏しながら筆を入れ続けたのが『みずとはなんじゃ?』という作品でした。
「水を総合的に捉えた集大成の作品をつくりたい」
そんな構想を2年あたため、かこは力をふり絞り、絵を画き、文章をつむいだのです。
体調が悪化して、どうしても絵を描き切ることができないと判断すると、彼は、鈴木まもるというひとに完成を託しました。
鈴木が、かこの意図をキチンと受け止めてくれる後継者であると信じていたからです。
「水は、循環するんです。海の水が蒸発し、雲になって雨を降らし、川に落ち、海に流れる。ぐるぐる、回るんです」
かこは、水の循環にこだわりました。
かこは、鈴木の手を握り、「頼みますよ」と三回言ったといいます。
『みずとはなんじゃ?』が、遺作になりました。
少年時代、戦争という荒波に翻弄され、自分の存在価値、存在理由を見失ったかこは、子どもの笑顔に救われます。
そして、こう思ったのです。
「未来ある子どもたちに、自分のような間違いを起こさせてはいけない。一度失った人生を、全て子どもに捧げよう」
それは優しくも激しい、自分にyesを言うための戦いでした。
かこの作品は、水のように、海になり雲になり雨になって、年代を越え、子どもたちに愛され続けています。
絵本作家・かこさとしが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/1/2018 • 14 minutes, 44 seconds 第百六十九話『魂を込める』-【滋賀篇】ピアニスト 久野久-
滋賀県大津市出身のピアニスト、久野久は、ときに「日本最初のピアニスト」と呼ばれます。
明治時代、まだ琴や三味線、長唄などの邦楽が盛んだったときに、さらに日本女性の世界進出が珍しい時勢の中、日本一のピアニストとして音楽の都・ウィーンでの演奏を果たしたからです。
しかし彼女は、異国の地で自らの命を絶ってしまいます。
世界で通用するかどうかの挑戦のさなかの哀しい出来事でした。
久野の演奏はすごかったといいます。
ある評論家は、言いました。
「彼女の弾くベートーベンは、歌うかわりに怒っていた。彼女の演奏を聴くと、泣きたくなった。それは演奏の中に、あまりに純真な彼女の魂が現れるからだ」
さらに彼女の友人は、こんなふうに語ったそうです。
「久野久ほど、芸術に対して純粋で熱烈なひとに会ったことがない。彼女には芸術が全てだった」
久野の演奏を聴いた作家の有島武郎の言葉は、「演者の熱情も技術も、原作者を大してはずかしめないものだったように、謹んで聴いた」というものでした。
彼女は、とにかく練習しました。
指先がぱっくり割れて、鍵盤が血に染まっても、練習をやめなかったという逸話が残っています。
髪を振り乱して、かんざしを飛ばし、着物は着崩れ、汗がほとばしる。
鬼気迫る彼女の演奏は、いったい何のため、誰のためだったのでしょうか。
ただ少しでもうまくなりたかった、自分に少しでもyesを言いたかった…それだけなのかもしれません。
でも、ほとんど日本人などいない音楽の聖地で、たったひとり、日本を背負って戦いを挑んだ女性がいたことは、まぎれもない事実です。
誰も歩いていない道を歩く。それは必ず、「いばらの道」。
日本人ピアニストの草分け、久野久が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/24/2018 • 13 minutes, 28 seconds 第百六十八話『ただ、遊べ!』-【滋賀篇】作家 団鬼六-
滋賀県彦根市に生まれたその小説家は、日本文学史に新しいジャンルを確立しました。
SM小説、官能小説。
作家の名前は、団鬼六。
代表作『花と蛇』シリーズは、何度も映画化され、彼の名を不動のものにしました。
スキャンダルな空気に包まれているのは、書いた作品だけではありません。
団鬼六の人生そのものが、まるで長編小説のように波乱万丈で天衣無縫。
自身が「私は快楽主義だ」と明言したことでもわかるとおり、好きなことにのめり込み、借金をつくり、馬車馬のように働き、また借金をつくりの繰り返しでした。
いま流行りのリスクマネージメントとは、無縁の世界。
職業も、中学の教師、バーの経営者、ピンク映画の脚本家など転々とし、将棋はアマ六段の腕前。
酒、たばこ、女性。好きなものは手放さない。とことん、のめりこむ。
のめりこんでいるから、人生の底が見えてくる。
団はこんなふうに言っています。
「人間は不本意に生き、不本意に死んでいくものだ。だからせめて快楽くらい求めてもいいと思っている」
晩年、食道がんを告知され、医者から手術をうながされたときも、あっさり断りました。
娘さんから「管だらけになっても、パパには生きてほしい」と訴えられても、こう言ったそうです。
「俺の生きたいように生きさせてくれ。ほんまにありがとう。えらい、すんません」
その潔さは、一生懸命生きた、精一杯遊んだ、証なのかもしれません。
「ただ遊べ 帰らぬ道は誰も同じ」
破天荒に生き抜いた稀代の作家・団鬼六が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/17/2018 • 13 minutes, 28 seconds 第百六十七話『自由を手放さない』-【滋賀篇】作曲家 クロード・ドビュッシー-
琵琶湖のほとりに建つ、美しいホールがあります。
滋賀県立芸術劇場びわ湖ホール。
そのロケーションの素晴らしさ、西日本初となる4面舞台を有する本格的な大ホールは、多くの演奏家、アーティストに愛されています。
イタリアのあるソプラノ歌手は、「このホールを、そのままイタリアに持って帰りたい!」と言ったそうです。
水辺の劇場は、ウィーンやベネチア、あるいはプラハを彷彿とさせるのかもしれません。
このホールで、今年没後100年を迎えた、ある作曲家のリサイタルが開催されました。
その作曲家の名前は、クロード・ドビュッシー。
19世紀後半から20世紀初頭にかけてクラシック界に君臨した、フランスの天才作曲家です。
交響詩『海』、『牧神の午後への前奏曲』など、絵画的、文学的な作品は、音楽のみならずあらゆる分野の芸術家に刺激を与えました。
その並外れた才能の一方で、生活は破天荒。
わがままで、頑固。女性に会うと、すぐに惚れてしまう。
相手が人妻だろうが恩師の娘だろうが少女でもかまわず口説く。
挙句の果て、二人の女性を自殺未遂に追いやってしまう始末です。
実生活では、ひとから嫌われ、ののしられ、憎まれることが多かったのですが、作る曲はまるで天使が奏でているような美しい旋律でした。
43歳のときに初めて子どもができてからは、ひとが変わったようになったと言われています。
溺愛する娘のために『子供の領分』という、ピアノのための組曲を作曲しました。
放蕩の果て、55年の生涯を終えたドビュッシーにとって、人生のすべての出来事が作曲につながっていたのです。
「音楽は、色彩とリズムを持つ時間で成り立っている」
そう名言したクロード・ドビュッシーが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/10/2018 • 12 minutes, 58 seconds 第百六十六話『今やれることは何かを考える』-【滋賀篇】井伊直弼-
今年は、明治維新から150年。
全国各地でさまざまな催しが企画され、日本が県ではなく藩として成り立っていた時代に思いをはせることができます。
滋賀県、すなわち近江の国は、京の都に近く、交通の要だったこともあり、戦国武将たちにとって天下をとるために大切な場所でした。
琵琶湖周辺には今も、戦乱の世をしのぶ観光地が数多く点在しています。
近江の国にあって、ひときわ大きな存在感を放っていた彦根藩。
その15代藩主が、日本の開国を断行した立役者、幕末の風雲児、井伊直弼です。
放映中の大河ドラマでも独特の雰囲気をもって登場する譜代大名は、安政の大獄に象徴されるように、独裁者のイメージがあります。
「井伊の赤鬼」と恐れられた彼は、実際、冷徹で非情な男だったのでしょうか。
彼は、こんな言葉を残しています。
『人は上なるも下なるも、楽しむ心がなくては、一日も世を渡ることは難しい』。
井伊直弼は、十四男として生まれ、母親は正妻ではなく側室でした。
そのため、幼い頃から良い扱いをされなかったのですが、彼は不遇を嘆くこともなく、国学や茶道を学び、教養と芸術で自らを高めていったのです。
特に茶道の分野では茶人として、大いに才能を発揮しました。
今置かれている立場で最良のことに尽力する。
彼の一生は、その思いで貫かれていました。
桜田門外の変で、志半ばで散った井伊直弼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/3/2018 • 12 minutes, 9 seconds 第百六十五話『少しだけ、無理をする』-【愛知篇】作家 城山三郎-
愛知県名古屋市に生まれた、経済小説の草分けともいえる作家がいます。
城山三郎。本名、杉浦英一。
ペンネームの城山という名は、彼が30歳のとき、引っ越した場所に由来しています。
住んだ場所、名古屋市千種区には、城山八幡宮があったのです。
城山八幡宮は、織田信長の父が築城した末森城の敷地です。
いっとき城はすたれましたが、明治になり、復活しました。
原型をとどめる城の敷地は、およそ一万坪。
名古屋の中心街にありながら、そこには静謐な空気が漂っています。
城山八幡宮の雰囲気をそのままに、城山三郎の小説は凛とした香りに包まれ、読むひとの心に明日への希望を授けるのです。
特に逆境にさからうように生きてきた人物を好んで描きました。
NHK大河ドラマの原作にもなった『黄金の日日』。
戦後、A級戦犯として裁かれた第32代総理大臣、広田弘毅の人生を追った『落日燃ゆ』。
東京駅で銃弾を受け、担架で運ばれるとき「男子の本懐である」という名言を残した宰相、濱口雄幸を描いた『男子の本懐』。
渋沢栄一の生涯を丁寧に書いた『雄気堂々』。
自分の利を追うことはなく、国のために義を貫いた先人にも愛を注ぎました。
城山三郎自身、いつも自分を追い詰め、困難な状況を厭いませんでした。
彼は、こんな言葉を残しています。
「人生は、挑まなければ応えてくれない。うつろに叩けば、うつろにしか応えない」。
彼のエッセイに、こんなタイトルのものがあります。
『少しだけ、無理をして生きる』
経済小説の可能性を開いた稀代の小説家・城山三郎が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/27/2018 • 13 minutes, 14 seconds 第百六十四話『どんな仕事にも手を抜かない』-【愛知篇】コメディアン 植木等-
1926年12月25日、クリスマス。
日本を代表するキングオブコメディアンが、愛知県名古屋市に生まれました。植木等。
生まれた日は、キリストの誕生日であり、その日、大正天皇が崩御されました。
まさに、伝説は始まっていたのです。
生まれた翌日が、昭和元年初日。
しかし、植木の叔父は、まかされた出生届を出すのを忘れ、結局、届が出されたのは年が明けた昭和2年の2月25日でした。
2ヶ月の遅れでしたが、特異な状況ゆえ、2年の差がついてしまったのです。
生まれながらに、波乱も規格外。
のちの運命を占うような出生でした。
「日本一の無責任男」を演じ続けた植木。
でも、彼自身は極めて実直で清廉。
酒も飲まず、地方巡業では安宿に泊まり、一膳飯屋を好みました。
22歳で植木の付き人兼運転手になった小松政夫が、彼と初めて会ったのは、病院の一室でした。
植木は働きすぎて、過労でダウンしていたのです。
この世界に入るのに抵抗はないのかと聞いたあと、こう言ったそうです。
「君はお父さんを早くに亡くしたようだね。私のことをこれから父親と思えばいいよ」
小松は、一生、植木を「親父」と呼びました。
貧しい小松が空腹だと見透かすと、自分はお腹が減っていないのに食堂に出かけ、天丼を注文。
「僕は、急にお腹の調子が悪くなったから、これ、全部食べてよ」と店を出たそうです。
彼の流儀は「ちっちゃな仕事でも、キチっとやる」。
情に厚く、仕事にもひとにも真摯に寄り添った喜劇役者・植木等が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/20/2018 • 14 minutes, 1 second 第百六十三話『楽しいことを手放さない』-【愛知篇】建築家 黒川紀章-
今年のスポーツ界で忘れられない出来事のひとつに、サッカー・ワールドカップ・ロシア大会があります。
準決勝の舞台にもなったサンクトペテルブルクの真新しいスタジアムを設計したひとを、ご存知ですか?
日本を代表する建築家、黒川紀章です。
この建築物は、彼の10年越しの遺作でした。
サンクトペテルブルクは、バルト海に面した古い都。
白く丸いドームの屋根からは、8本の柱が天空に突き出しています。
「世界で最もモダンなアリーナのひとつ」と評され、街のひとはもちろん、世界中のひとたちが見惚れる美しいスタジアムになりました。
2006年、スタジアム建設のコンペ参加への招待状が、黒川のもとに届きました。
サンクトペテルブルクは、黒川にとって思い出の場所。
学生時代に初めて参加した国際会議の開催地だったのです。
審査の結果、17社の中から、見事、黒川のデザインが選ばれました。
コンペを勝ち抜いた彼の喜びや興奮が、スタジアムに宿っているように感じます。
彼は大きな船をイメージしました。まるですぐに船出しそうな帆船。
8本の柱は、さながら風を受けるマストでしょうか。
空中に浮かび上がりそうな宇宙船にも見えます。
名古屋の名家に生まれ、1986年に建築界のノーベル賞と言われるフランス建築アカデミーのゴールドメダルを受賞。
常に日本建築界を牽引し続けた男。
さらに女優との結婚など、マスコミの寵児でもあった黒川は、心から建築を愛し、デザインや設計を楽しんでいました。
彼は『黒川紀章ノート』という書物に、こう書いています。
「私は、物心ついてからほぼ100%の時間を、建築からアーバンデザインにいたる創造することの感動、あるいは創造することの楽しさに心から没頭して生きてきた」。
仕事を楽しむことで、激動の高度経済成長時代を乗り越えてきた、黒川紀章。
彼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
第百六十二話『哀しみと向き合う強さ』-【愛知篇】童話作家 新美南吉-
愛知県半田市の矢勝川周辺には、9月下旬から10月上旬にかけて彼岸花が咲きほこります。
半田市で生まれ育った童話作家・新美南吉は、名作『ごんぎつね』の中でこう書いています。
「ひがん花が赤い布のように咲きつづいている」
今年、生誕105年、没後75年を迎える新美は、矢勝川沿いを散歩するのが大好きだったといいます。
わずか30年ほどの人生で、彼は数多くの童話、童謡、詩や短歌を残しました。
特に『ごんぎつね』『狐』『手袋を買いに』のキツネ三部作は、時代を越えて、ひとの心にしみわたり、たくさんのひとに読み継がれています。
彼の作品の何がそこまで、人々を惹きつけるのでしょうか。
新美南吉は、「かなしい」という二つの漢字を組み合わせた「悲哀」を大切にしました。
彼の15歳のときの日記には、すでにその決意が書かれています。
「やはり、ストーリィには、悲哀がなくてはならない。悲哀は、愛にかわる。けれどその愛は、芸術に関係あるかどうか。よし関係はなくてもよい。俺は、悲哀、即ち愛を含めるストーリィをかこう」
彼は幼少期に、親の愛を知らずに育ちました。
だからこそ、彼が書き続けたのは、母と子の絆、そして、愛するがゆえの哀しさでした。
哀しいというのが、人生の基本である。
だからこそ、ひとはお互いをいたわり合い、助け合い、つながって生きていく。
そんなメッセージは、今の時代こそ必要なのかもしれません。
夭折(ようせつ)の童話作家・新美南吉が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
10/6/2018 • 14 minutes, 39 seconds 第百六十一話『自分でつくった枠にとらわれない』-【北海道篇】作家 久生十蘭-
北海道・函館市文学館には、函館ゆかりの作家の直筆原稿や手紙、身の回りのものなどが展示されています。
石川啄木、亀井勝一郎、長谷川海太郎らに並んで、他に類をみない文体で文壇を驚かせた小説家がいます。
久生十蘭。
推理小説、時代小説、SFから冒険小説まで、幅広いジャンルの作品を残す一方、その読者を突き放すような無駄をはぶいた文体は、ある意味不親切で、「オレの文章がわからんやつは、ついてこなくていい!」と言っているかのようです。
芥川龍之介に傾倒したかと思うと、劇作家、岸田國士に師事、演劇の世界にも首を突っ込みました。
生きのいいウナギのように、とにかくつかみどころがありません。
彼に流儀があるとすれば、こうでしょう。
「オレは、嫌なことはしない。好きなことは、とことんやる。ただ、飽きたらまた次へいくまでのことだ」
直木賞を受賞し、さらには第二回国際短編コンクールで第一席に選ばれるなど、華々しい実績をあげながら、気まぐれで無欲。
どんなに「先生!」とまつりたてられても、自身の流儀を変えることはありませんでした。
「みんな、やるべきことにしばられすぎなんだ。人生は一回きり。やりたいことをやらないと、そのうち、何がやりたいかわからなくなるぜ」
彼の生き方そのものともいえる変幻自在の文体は、今も多くのファンを持ち、熱狂的なファンは「ジュウラニアン」と呼ばれています。
おのれの心情を吐露することを極端に嫌った彼の人生は謎に包まれ、そのことがファンの想像をあおっているのかもしれません。
孤高の作家・久生十蘭が55年の生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?
9/29/2018 • 12 minutes, 48 seconds 第百六十話『失敗から学ぶ』-【北海道篇】作家 三浦綾子-
北海道旭川市出身の作家、敬虔なクリスチャンだった三浦綾子の記念館は、今年開館20周年を迎えました。
小説『氷点』の舞台となった林、その木々に囲まれた文学館には、今も多くのひとが足を運んでいます。
アーティストの椎名林檎は、中学生のとき、国語のテストに引用された三浦の小説『塩狩峠』を読んで感銘を受け、さっそく自分で本を買って読んだそうです。
人間の弱さ、人間が抱えてしまう、罪。
そんな重厚なテーマを、わかりやすい、透明な文章で紡いだ作家、三浦綾子。
なぜ、時代を超えて、彼女の言葉はひとびとを魅了するのでしょうか?
最後のエッセイ集『一日の苦労は、その日だけで十分です』の中にこんな一説があります。
「人一倍優れた人間であっても、その自分の偉さをひけらかしたとしたら、何のおもしろいことがあろう。賢い人も失敗する。だからこそ人は安心して笑えるのだ」。
三浦綾子には、三つの大きな苦悩がありました。
戦時中、軍国主義の中、教育にたずさわったこと。
愛するひとを病気で亡くしたこと。
そして、肺結核にかかり、切実に死を感じたこと。
大きな挫折を経験した彼女の語り口は読むひとに寄り添い、まるで背中をなでられているような安心感があります。
彼女は人一倍、強いひとだったのでしょうか?
彼女自身、その問いには、首を振るかもしれません。
弱いから、迷い、傷つき、間違う。
でも、大切なのは、そこから立ち上がる勇気。
そんな思いを作品に刻むために、病魔に痛めつけられた体で、必死に机に向かったのです。
作家・三浦綾子が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/22/2018 • 12 minutes, 53 seconds 第百五十九話『自分の目で見たものしか信じない』-【北海道篇】探検家 松浦武四郎-
今年は、北海道と命名されて150年。
かつての「蝦夷地」ではなく、北海道と名付けたのは、今年生誕200年、没後130年を迎えた探検家・松浦武四郎(まつうら・たけしろう)です。
彼は幕末、6回にわたり蝦夷地を訪れ、10年の歳月をかけて、北海道全土の情報をまとめあげました。
その『蝦夷大概之図』は、わが国最初の北海道全図です。
彼の功績のひとつに、アイヌ民族との親交、交流、文化の継承があります。
北海道という名前にも、実は彼のアイヌへの愛情が隠されているのです。
明治新政府に新しい名前として提案した、北海道という名前。
その文字は、北に加えるに伊豆半島の伊、そして道と書きました。
カイという言葉は、アイヌのひとの言葉で「この地に生まれ、ここに暮らすもの」という意味があると、松浦は教えられました。
新しい名前に、アイヌの英知、アイヌの精神を入れたい、そう願った松浦は当て字にしてカイという言葉をどうしても入れたかったのです。
北海道の地名も、アイヌのひとたちが使っていた名前をそのまま使い、漢字をあてました。
アイヌのひとたちがつけた地名には、土地の特徴や危険を知らせる警告など、さまざまな情報が詰め込まれているからです。
水かさが増すと氾濫する川に「ベツ」とつけ、川岸の土壌が安定していて氾濫の危険性が少ない川を「ナイ」と呼びました。
女満別(めまんべつ)、稚内(わっかない)、北海道全土にはアイヌの英知が生きているのです。
松浦武四郎は、とにかく自分の足で大地を踏みしめ、現地のひとに会い、自分の目で見たものだけを信じ、記録し続けました。
他の冒険家と一線を画するのは、その著作物の多さ。
彼は後世に伝えるために、克明にノートに記しました。
だからこそ、150年経った今も彼の功績や思いは継承されていくのです。
稀代の探検家・松浦武四郎が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/15/2018 • 13 minutes, 22 seconds 第百五十八話『最後まで諦めない』-【北海道篇】音楽家 レナード・バーンスタイン-
今年生誕100年を迎えた20世紀最高の音楽家のひとり、レナード・バーンスタインは、北海道・札幌の地に、音楽祭という種を植えました。
パシフィック・ミュージック・フェスティバル、国際教育音楽祭。
1990年にロンドン交響楽団を率いて、バーンスタインが創設したこのイベントは、今も札幌の夏をクラシック音楽で彩っています。
29回目を数える今年は、バーンスタインの長女、ジェイミーが来日。
父との思い出を語りました。
1990年は、バーンスタインが亡くなった年。
親日家だった彼は、瀕死の状態で指揮棒を振りました。
夏の札幌芸術の森。
演奏したのは、シューマンの交響曲第二番。
リハーサルから彼の熱量はすごかったといいます。
「いいね!素晴らしい!」「美しい!」楽団員をほめ、鼓舞し、「ここはオペラのリゴレットのように」と自ら歌い、指揮台で飛び跳ね、踊る。
ただ、本番では、さすがに苦しそうだったと言います。
まさに瀕死の形相。
それでも彼は指揮棒を振り続けたのです。
オープニングセレモニーの挨拶で彼は日本の聴衆にこう話しました。
「自分に残された時間を、若者の教育に捧げる覚悟をしました」
バーンスタインは、自身の体に鞭うってその姿を見せることで、これからの音楽界を担う若者に訴えたのかもしれません。
「音楽は、すごいんだ。音楽は、素晴らしいんだ。だから、頑張れ!手を抜くな!最後まで諦めるな!」
札幌のあとの東京公演で、彼はプログラム3曲のうち、1曲を若い大植英次という指揮者にまかせました。
かつて小澤征爾をいち早く見出したように、彼はこう言いたかったのです。
「みなさんの国の素晴らしい才能を聴いてください!」
20世紀最高の音楽家のひとり、レナード・バーンスタインが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/8/2018 • 13 minutes, 11 seconds 第百五十七話『焦らず、ゆっくりと』-【北海道篇】森林学者 高橋延清-
北海道、富良野に、東京大学の演習林があります。
その林長を務め、世界的に有名になった森林学者がいます。
高橋延清(たかはし・のぶきよ)。通称、どろ亀さん。
いつも森の中を泥まみれになって歩くことから、その名がつけられたといいます。
彼が確立した、天然林の育成法「林分施業法」は、国内だけではなく世界の注目することとなり、富良野に研修・見学にくるひとは後を絶ちません。
森には、人間にとって、大きな二つの役割があります。
ひとつは、環境を維持するための公益的な機能。
もうひとつは、木材を生み出す、経済的な機能。
その二つをきっちり分け、人間の手で正しく管理すれば、必ず森林は応えてくれる、それが「林分施業法」です。
針葉樹と広葉樹。さまざまな木々を分類し、その生態を調査する。口でいうのは容易いですが、調べるだけでも至難の技です。
高橋は、森に暮らし、木に寄り添い、森林と対話し、どの木を伐採すればいいのか、一本一本丁寧に検証しました。
彼が残した言葉に、『歳月が流れて』という詩があります。
ここまで生きてきた
いつも要領が悪かった
時には、物笑いのタネとなった
でも、それでもいい、それでいいと
自分に言い聞かせて、やってきた
目標に向かってノロノロと
人の何倍もの汗と歳月をかけてやってきた
樹海の中で生きてきた
大森林に学び
その深きこと
悠久なること
残された命みじかし
生命みじかし…
愚直に森と向き合い、偉業を成し遂げた森林学者・高橋延清が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/1/2018 • 12 minutes, 11 seconds 第百五十六話『襷をつなぐ』−【長野篇】作詞家 山川啓介−
長野県南佐久郡小海町。
北八ヶ岳と奥秩父山塊の間に位置するこの町で幼少期を過ごした、作詞家がいます。
山川啓介。
青春ドラマの主題歌として大ヒットした、青い三角定規の『太陽がくれた季節』、火曜サスペンスのエンディング曲『聖母たちのララバイ』、ゴダイゴの『銀河鉄道999』や、矢沢永吉の『時間よ止まれ』など、名曲は枚挙にいとまがありません。
その歌詞のあたたかさ、やさしさ、会話調の言葉づかいは、多くのファンを魅了しました。
昨年7月、72歳でこの世を去った彼の原点は、幼少期を過ごした小海町の松原湖にあります。
澄んだ風に湖面を揺らす、この静謐な湖のほとりに、ある歌碑が建てられています。
『北風小僧の寒太郎』。
NHK「みんなのうた」で大人気だったこの歌を作詞したのも、山川啓介です。
彼は本名の井出隆夫の名前で子ども向けの童謡も、数多く作詞しました。
歌碑に近づくと、センサーが反応して、あの懐かしいフレーズが流れます。
「北風小僧の、寒太郎……寒太郎」
山川の心の中には、いつも、冬の松原湖があったのかもしれません。
寒い風が吹きつける。
一面、雪で真っ白。何もない。何も見えない。
ただ、風の音だけが聴こえる。ヒューン、ヒューン。
奇しくも、その歌碑の近くには、小学校の先生で歌人だった祖父、井出八井(いで・はっせい)の石碑もあります。
山川には、ひとつの流儀がありました。
新しい才能に襷(たすき)をつなぐ。
若いひとを鼓舞し、激励し、チャンスを与え、愛する音楽を守ろうとした男、作詞家・山川啓介が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/25/2018 • 13 minutes, 9 seconds 第百五十五話『絶望を優しさに変える』-【長野篇】俳諧師 小林一茶-
『やせ蛙 負けるな一茶 これにあり』
『雀の子 そこのけそこのけ お馬が通る』
『やれ打つな 蠅(はえ)が手をする 足をする』
日常生活で触れる小動物たちへの温かいまなざしを俳句にした、俳諧の聖人、小林一茶。
今年、没後190年の一茶は、長野県の北、北国街道の宿場町、柏原に生まれました。
遥か黒姫山や戸隠山をのぞむ、のどかな山村を一茶は愛していましたが、ある理由から、仕方なくひとり江戸に出ることになるのです。
無念な心情。帰るに帰れぬ事情。
彼にとってふるさと長野は、複雑な思いに塗り固められていったのです。
松尾芭蕉、与謝蕪村と並び、江戸時代を代表する俳諧師のひとりになった一茶ですが、その俳句はいつも賛否両論の嵐の中にありました。
「題材が身近で、庶民にもわかる!」
「いいや、俗っぽくて、うすっぺらい。哲学がない!」
「難しい言葉を使っていないから、すっと情景が浮かぶ」
「無駄に数だけ多い!あんな程度なら、誰にだって書けるよ!」
そんな外野の意見に左右されることなく、一茶は、彼の世界観を貫きました。
のちに、一茶調と呼ばれる独特のリズムと言葉選び。
それはまぎれもなく、彼が血を吐くほどの苦労をした先につかんだ、彼にしか書けない17文字でした。
15の歳に、たったひとり江戸に出てから、およそ10年あまり、音信はとだえ、故郷長野に一度も帰りませんでした。
そのときの孤独と絶望は、はかりしれないものだったに違いありません。
でも、彼の作風には、優しさがあふれています。
いかにして彼はその平易で平和な調べを手に入れたのでしょうか。
俳句の神様、小林一茶が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/18/2018 • 11 minutes, 37 seconds 第百五十四話『やりぬくことで、強くなる』−【長野篇】冒険家 植村直己−
今日8月11日は、山の日です。
長野県北西部に横たわる北アルプスの白馬岳(しろうまだけ)で、本格的な登山デビューを果たした冒険家がいます。
植村直己(うえむら・なおみ)。
彼は特別な登山経験のないまま、明治大学山岳部に入部しました。
4月下旬に行われた新人歓迎会。
中央線の車窓から眺める信濃の風景に心おどらせる植村青年の姿がありました。
遠く見えるアルプスの連山はまだ雪を残しています。
鋭くとがった峰々。ゴツゴツした岩肌。
「ああ、あそこに登るんだなあ」のんきにしていられたのも、山岳部の山小屋に入るまででした。
白馬を目指して歩き始めると、途端に後悔がやってきます。
新人は、40キロもあるザックを背負わされ、上級生の掛け声とともに登り、休めません。
吹き出す汗。遅れれば怒号が飛んできます。
入部するときは優しかった先輩たちが、鬼の形相。
雪道に足をとられ、ひっくりかえると、
「おい!ウエムラ!なにやってる!ばかやろー」
バカヤロウと言われても、転んでしまうのは仕方ない。
ブツブツ言って立ち上がるが、足はふらふら。
植村は、部員の中でいちばん小柄で最も弱かったので、いちばん最初にばててしまったのです。
それでも容赦はありません。
炊事、雑用、テントのすぐ入り口で寝かされ、先輩の靴の雪を落とします。
「ああ、もうやめたい…」
そう思いますが、彼にはひとつの信条がありました。
「一度始めたことは、最後までやりぬく」
新人歓迎会から戻った彼はさっそく自分なりのトレーニングを開始したのです。
国民栄誉賞をもらった世界に名立たる冒険家は、決して最初から強かったわけではありませんでした。
弱さを知っていたから、偉業を成し遂げたのです。
冒険家・植村直己が、43年の生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
8/11/2018 • 12 minutes, 45 seconds 第百五十三話『変化を恐れない』-【長野篇】葛飾北斎-
日本が誇る江戸時代の浮世絵師、葛飾北斎は、来年没後180年を迎えます。
いまだに日本人のみならず、世界中のひとを魅了するその作品たちは、斬新な構図や一瞬を切り取る精緻(せいち)な筆づかいに支えられています。
当時としては珍しく長生きをした北斎は、さまざまな画風、様式に挑戦し続け、ひとつの流派に留まることを嫌いました。
彼は、自分の雅号を30回も替えたと言われています。北斎という名前ですら、あっさり弟子に譲ってしまいました。
また、引っ越しの回数も尋常ではなく、その数、90回以上だったと文献に記されています。
彼が最晩年に選んだ場所。
それが、長野県小布施町でした。
長野県の北東部に位置する、栗で有名なこの町には、今も北斎の足跡をたどることができる重要な遺産が残っています。
岩松院の天井絵、八方睨みの鳳凰図。
北斎館や高井鴻山記念館にも、多くの作品が展示されています。
「私は6歳から絵を画いているが、70歳より前のものは、とるにたる作品はなかった。73歳でようやく、少しだけ、鳥や獣、虫や魚の骨格がわかり、草や木の生態を理解できるようになってきた。このまま精進すれば、80歳でますます成長し、90歳でいろんなことの本当の意味に気づき、100歳で技をつかみ、110歳では、一筆ごとが生きているようになるだろう」
北斎は、そう言い残しました。
73歳と、そこだけ刻んだのにはわけがあります。
彼の代表作『冨嶽三十六景』を発表した歳だったのです。
その年、他にも自信作と思われる作品を生み出しましたが、自分を戒めるように、こんな言葉を記したのです。
たとえひとつの仕事が成功に終わろうとも、慢心することなく、あっさりと過去を捨て去り、次のステージを目指した男、変化を恐れぬ葛飾北斎が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/4/2018 • 13 minutes, 23 seconds 第百五十二話『胸を張って生きる』-【鎌倉篇】女優 田中絹代-
来年生誕110年を迎える、鎌倉にゆかりのある映画女優がいます。田中絹代。
松竹撮影所が大船に移り、田中絹代は、由比ガ浜の背後にある鎌倉山に新居を構えました。
遥か向こうには、穏やかな相模湾。
涼しい風が吹き抜け、緑が目を休ませてくれます。
鎌倉山から大船までは、当時、自動車専用道路が通っていました。
東京の蒲田から鎌倉に移ったのは、昭和11年。
彼女が27歳になったばかりの12月のことです。
コバルトブルーの海の先には、富士山が見えました。
五百坪の敷地内には母屋と別棟があり、母親や兄弟と暮らしたのです。
戦後、さらに彼女はもう一軒鎌倉山に家を持ちます。
鎌倉をたいそう気に入ったのです。
なぜそんなにも、田中絹代は鎌倉を好んだのでしょうか?
もしかしたら、そこから見える海が故郷下関の風景に似ていたからかもしれません。
下関は絹代にとって、二度と足を踏み入れたくないほど、辛い思い出が残る場所でした。
にも関わらず、大好きだった兄の記憶が下関の海と結びついていたのです。
自分の前から忽然と姿を消した、兄・慶介。
その兄に最後に連れていってもらった海岸通り。
遠く輝く海を、絹代は生涯忘れることがなかったのではないでしょうか。
晩年、絹代はもうひとりの兄、祥平の介護に多くの時間を費やします。
女優の仕事も減らし、家を売って。
それでも映画女優としての誇りと気概は、亡くなるまで鬼気迫るものがありました。
彼女の名言に、こんな言葉があります。
「寝たきりでも、演じられる役があるだろうか」
生涯、女優として生きた田中絹代が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
7/28/2018 • 14 minutes, 32 seconds 第百五十一話『孤独から逃げない』-【鎌倉篇】俳優 鶴田浩二-
鎌倉のお墓に眠る、昭和を代表する俳優がいます。
鶴田浩二。
墓石には、本名の小野榮一という名前と同じくらいの大きさで、鶴田浩二と刻んであります。
初期こそ、その甘いマスクでアイドル的な位置づけでしたが、のちに出演した任侠映画のイメージが鮮烈です。
また、独特の歌い方、哀愁に満ちた声で、歌手としても人気を博しました。
大ヒット曲、『傷だらけの人生』。
加えて、戦争での特攻隊の翳り。
硬派で無骨。
若者を敵対視する印象派、亡くなる10年前に出演した、山田太一の『男たちの旅路』に集約されました。
「オレは、若いやつが嫌いだっ!」
特攻隊の生き残りで、たくさんの戦友を見送ってきた主人公は、自分が生きている意味について深く内省します。
鶴田浩二の顔の皺ひとつひとつが苦渋に満ち、セリフの重さに、観たひとは居住まいを正します。
観るひとをひきつける力。
その凄さに、もしかしたら、彼自身がいちばん驚いていたのかもしれません。
現場では不遜、傲慢と揶揄されることもあったと言いますが、その一方で情にあつく、後輩の面倒見がよかったという逸話も残されています。
なにより、さみしがり屋。
自分の誕生日には、多くのひとを招き、自ら歌を披露しました。
「何から何まで、真っ暗闇よ 筋の通らぬことばかり」
鶴田浩二の人生は、まさに「傷だらけの人生」だったのかもしれません。
でも、彼は聴こえない左耳に手をあてがいながら、歌い続けました。
マイクと一緒に持ったハンカチは、次の歌手への気遣い。
汗をつけぬ心配りでした。
常に強気でありながら、優しさを忘れなかったからこそ、彼は伝説になったのです。
俳優・鶴田浩二が、62年の生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
7/21/2018 • 13 minutes, 59 seconds 第百五十話『全ての基本は正しい姿勢』-【鎌倉篇】円覚寺住職 須原耕雲-
北鎌倉の人気観光スポットのひとつ、円覚寺。
鎌倉時代後半、寺を建てるために土を掘ったら、古びた石の箱が出てきました。
その箱の中に、中国・唐の時代のお経「円覚経」が入っていたところから、寺の名を円覚寺としたといわれています。
夏目漱石は、自身の悩みと向き合うため、何度もこの寺を訪れ、座禅の行に励みました。
その熱心さは、『門』という小説で円覚寺の山門を描くほどでした。
この円覚寺の住職であり、有名な弓道家として、亡くなった今も信者が絶えない僧侶がいます。
須原耕雲(すはら・こううん)。
彼は、50歳で弓道に出会い、弓を引く前から引いたあと、全ての所作に、座禅と同じ宇宙を見ました。
彼が説く、姿勢や呼吸の大切さは、私たちの日常生活にも生かされるべきものです。
耕雲は、一息座禅をすすめました。
「一息座禅というのは、日常の一息一息の間に、座禅の力を発揮していこうというものである。電車に乗ったら、立ってつり革につかまり、少し足を開き、目を薄く閉じて、一息分、反省をするんです。あのとき、ああ言ってしまったのは、自分が出来ていない証拠だな、というふうに。また、煙草をたしなむひとは、たった一本の煙草の間に、座禅と同じようにきゅっとお尻に力を入れて、息を大きく吐きながら我が身を振り返る。一日たった一息で、ずいぶん世界が変わります」
一息座禅こそ、ひと矢ひと矢に我が身をのせる、弓道から学んだことなのかもしれません。
住職にして弓道家、ローマ法王の前でも弓を引いた男、須原耕雲が人生でつかんだ明日へのyes! とは?
7/14/2018 • 14 minutes, 24 seconds 第百四十九話『人生を笑う』-【鎌倉篇】作家 直木三十五-
第159回 芥川賞と直木賞の選考会が、7月18日に行われる予定です。
芥川賞の名前の由来は、芥川龍之介。
そして直木賞は、直木三十五(なおき・さんじゅうご)という作家の名前によるものです。
直木の没後、昭和10年に、友人だった菊池寛が彼の名前を文学賞につけたのです。
直木は晩年、作家仲間でいち早く鎌倉に住んでいた里見弴(さとみ・とん)に誘われて、稲村ヶ崎に住みました。
映画製作にのめり込み、里見とともに大船の撮影所にも通っていましたが、やがてつくった映画が赤字に終わり、映画製作から手を引くことになります。
砂浜に腰を下ろし、水平線を眺めながら、大衆小説家として生きていく決心をしたのでしょうか。
彼は突然、旺盛な創作欲で小説を書き、たとえば『黄門廻国記(こうもんかいこくき)』は、映画『水戸黄門』の原作となり、大ヒットを飛ばすことになるのです。
直木三十五というのは、ペンネーム。
本名の植村の植えるという字を分解して、苗字を直木、として、文章の連載が始まったころ、31歳だったので、まずは、直木三十一。
そこからスタートして、歳をとるごとに、直木三十二、直木三十三と変えていきました。
次は三十四。でも三十四は、惨く死す、ザンシということで縁起が悪いと思い、しばらく直木三十三のまま、小説を書いていました。
しかし、一向に貧乏から抜け出すことができません。
姓名判断でも、最悪ですと言われる始末。
思い切って、四を抜いて、直木三十五でやっていこうと決めた、そんな名前なのです。
直木の43年間の人生は、失敗や挫折の連続でした。
早稲田に入るが、学費が払えず除籍。出版社を興せば、つぶれる。映画製作はうまくいかない。
いつも貧乏神が傍らにいるような人生でした。
おまけに稼げば使う浪費癖。
でも彼はいつも周囲を笑いで包み込んでいました。底抜けに明るい彼の心の秘密はどこにあったのでしょうか?
作家・直木三十五がその短い生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/7/2018 • 13 minutes, 12 seconds 第百四十八話『動くことで、己を知る』-【長崎篇】医師・博物学者 フィリップ・フランツ・フォン・シー ボルト-
江戸時代、末期。
鎖国時代の日本に、ひとりのドイツ人がやってきました。
フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト。
シーボルトは、長崎の出島にあったオランダ商館の医師として、西洋医学の実践や啓蒙を行い、日本の近代化のために貢献しました。
さらに彼は日本の植物学、民俗学、地理学にも興味を持ち、地道な研究を重ね、日本人が成しえなかった学術的資料の構築に尽力したのです。
彼はジャカルタで軍医として働いていたときに、オランダ領東インドの総督に、こう言われました。
「あらたに、日本に向けて出発する、オランダ使節団があるんだが、どうだろう、もしキミが望むのであれば、随行してみる気はないか?長崎の商館の医者として駐在し、さらにはキミがやりたいと言っていた自然科学の研究にも従事できると思うが」
シーボルトは、二つ返事で快諾しました。
「ぜひ、行かせてください!」
でも、船旅は過酷で、命を落とす危険性も決して低くはありません。
それでも、彼は異国に飛びだしたかったのです。
東シナ海で嵐に遭遇。
海に落ちないように、甲板に自分の体をしばりつけて風雨をしのいでいるときも、「大丈夫!大丈夫!オレには、オレを守ってくれる神様がいる」そう信じて乗り切りました。
荒海を経て見えてきた島国を、彼はこんなふうに日記に書いています。
『あざやかな緑色の丘。耕された山の尾根が前景を彩り、後方には青みがかった山の頂が、くっきりと輪郭を描いている。海岸にそそり立つ岩壁は朝陽を浴びて、時間とともに、その色を変えていく。実にうっとりとする眺めだ…』
命の危険もかえりみず、そこまでして異国を目指したのは、どうしてだったのでしょうか?
シーボルトが、波乱の生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?
6/30/2018 • 13 minutes, 37 seconds 第百四十七話『持ってるものを全て出せ!』−【長崎篇】ジャズ・ドラマー アート・ブレイキー−
今年の春、公開された映画『坂道のアポロン』の舞台は、長崎県佐世保市でした。
親戚に預けられた孤独な高校生が転校先で出会ったのが、ジャズドラムを演奏する不良少年。
映画では、ジャズの名曲が淡くもせつない青春映画を盛り上げます。
映画の中で何度も流れるのが、『モーニン』。
伝説のジャズ・ドラマー、アート・ブレイキーが発表したアルバムの中の一曲です。
お互い闇を抱えた高校生が初めてセッションする曲…。
アート・ブレイキーは、大の親日家としても知られていました。
2年前、長崎のある高校が、アート・ブレイキーが率いていたバンド『アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ』の元メンバーを、長崎で行われる「平和のためのコンサート」に呼ぶプロジェクトを立ち上げました。
もしこの事実をアート・ブレイキーが知ったら、どれほど喜んだことでしょうか。
彼が音楽を続けた意味。
それは、こんな言葉に凝縮されています。
「僕らアーティストがすべきことはね、たったひとつだけだよ。それはね、人々を幸せにするっていうこと。音楽はね、黒人のものでも、白人のものでもなく、みんなのものなんだ。僕はそれを、誇りに思っている」
長崎という街と、アート・ブレイキー。
そこには、ひとつの絆がありました。
平和。
人類は、いがみあい、争い、差別するために生まれてきたのではないということ。
来年生誕100年を迎える、伝説の黒人ジャズ・ドラマー、アート・ブレイキーが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/23/2018 • 12 minutes, 17 seconds 第百四十六話『野心に忠実であれ!』-【長崎篇】商人 トーマス・ブレイク・グラバー-
潜伏キリシタン関連での世界遺産登録で注目を集める、長崎。
世界遺産に含まれる大浦天主堂の隣に、長崎の観光スポットの定番のひとつ、「グラバー園」があります。
長崎港を見下ろす高台にある、優雅な庭園。その広さは、三万平方メートル。
あたりには季節の花々が咲き誇り、さっと吹き抜ける風が心地よく頬をなでていきます。
ここは、かつて長崎に暮らしたある外国人の敷地でした。
その外国人とは、日本の近代化の礎を築いた、トーマス・ブレイク・グラバー。
スコットランド出身の商人だったグラバーの身辺には、さまざまな風評が渦巻いています。
「金の亡者、冷酷無比の武器商人」「日本の夜明けのために尽力した文明開化の功労者」「秘密結社のスパイ」「坂本龍馬の後ろ盾になった人情派」
それらを全て差し引いても、グラバーの功績は歴史が証明しています。
日本で初めて蒸気機関車を走らせた男、長崎を造船の街として知らしめるために造った西洋式ドック。
炭鉱の経営に、お茶の貿易や国産ビールの開発。
150年前の日本になくてはならない「挑戦」という二文字を、計画、実践したのです。
彼は日本人の女性と結婚、外国人としては異例の勲章を受け取り、文字通り、日本に骨をうずめたのです。
弱冠21歳で日本にやってきた異国の若者が、なにゆえそこまで日本にのめり込んだのか…。
そこには、彼の野心がありました。
幼い頃、いつも眺めていた、海。
「あの海の向こうには、いったいどんな世界があるんだろう。たった一回の人生、ボクはここから飛びだして、全部知りたい」
野心を持ち続けることができた、幕末の偉人、グラバーが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/16/2018 • 13 minutes, 17 seconds 第百四十五話『自分を肯定できるのは自分しかいない』-【長崎篇】作家 佐多稲子-
長崎市出身の作家、佐多稲子(さた・いねこ)が亡くなって、今年で20年になります。
彼女は、貧しい生活のため、小学校を中退。
キャラメル工場で働き、家計を助けた経験をもとに、小説『キャラメル工場から』を書きました。
その作品が認められ、プロレタリア文学の女流作家としての位置づけを得ました。
彼女ほど、ぶつかっては倒れ、倒れてはぶつかるという人生をおくった作家がいたでしょうか。
佐多が生を受けたとき、父は18歳、母は15歳でした。
戸籍上は、親戚の奉公人の長女として届けられ、5歳のとき、ようやく両親の戸籍に養女として入ったのです。
幼い頃に芽生えた厭世観は、彼女の心の奥底に巣くいました。
「別に私は、望まれて生まれてきたわけじゃない」
「どうせ、世の中なんて、生きている価値なんかない」
でもその一方で、彼女は文学を通して、働くひと、懸命に家庭を守る女性を励まし続けました。
「嫌なことがあるのが人生だから。いいんですよ。すっかり忘れてしまっても。忘れることは救いです。逃げることは、人間に与えられた最後の抵抗なんです。」
ひとに、忘れること、逃げることを勧めながら、自身は、いつも困難に真向から対峙しました。
戦時中、左翼でありながら戦争に加担する記事を書いたと揶揄(やゆ)され、四方八方から非難を受けても、マスコミから逃げることなく、顔を上げて歩き続けたのです。
彼女はことさら、強い女性だったのでしょうか。
少なくとも、それは強さではなかったことが、彼女の小説や随筆から垣間見えます。
彼女は知っていました。どんなにつまずき、倒れても、立ち上がるのが人生だということを。
94年の波乱の生涯を生き抜いた、作家・佐多稲子がつかんだ、明日へのyes!とは?
6/9/2018 • 13 minutes, 18 seconds 第百四十四話『自信と謙虚の間で生きる』-【長崎篇】俳優 大滝秀治-
長崎県北西部に位置する、平戸市。
高倉健最後の主演作品、映画『あなたへ』のラストシーンは、その漁港で撮影されました。
『あなたへ』が最後の映画作品になった、もうひとりの名優がいます。
大滝秀治。
高倉健は、大滝との平戸で撮られたシーンで、心から涙を流したと言います。
高倉健はこう振り返りました。
「あの芝居を間近で見て、あの芝居の相手でいられただけで、この映画に出て良かったと思ったくらい、僕はドキッとしたよ。あの大滝さんのセリフ。『久しぶりに綺麗な海ば見た』の中に、監督の思いも脚本家の思いもみんな入ってるんですよね」。
大滝は、劇団民藝の創設者、宇野重吉に常に言われていたことがありました。
「台本の台詞の活字が見えるうちは、まだまだ『台詞』だ。活字が見えなくなって初めて、台詞が『言葉』になる。つまり舞台は、言葉だ」
大滝は、とにかく台本を読みました。誰よりも、何度も何度も。
それでも、宇野に注意されます。
「おまえの台詞は、活字が見えるんだよ!」
以来、大滝の台本は、いつもボロボロになりました。
役をもらうと、必ず2冊もらうようにしたといいます。
読んで読んで読み込むうちに、やがてセリフが沁み込み、自分の体に同化していく、そんな瞬間をただひらすら待ったのです。
謙虚さを持って、台本に接し、やがて自信に変えていく。
それこそが大滝の演技の原点だったと言えるかもしれません。
謙虚さと自信の間で役者人生を生き抜いた、大滝秀治がつかんだ明日へのyes!とは?
6/2/2018 • 12 minutes, 49 seconds 第百四十三話『情緒に敏感であれ』−【奈良篇】数学者 岡潔−
日本の数学者で、奈良女子大学名誉教授だった岡潔(おか・きよし)が亡くなって、今年で40年になります。
先ごろ、テレビドラマにもなったその波乱の人生は、全て数学に捧げられました。
現代数学の歴史を一変させてしまうほどの命題を解いた岡は、文化勲章の授賞式で、「数学を研究することは、人類にとってどんな意味があるんですか?」という記者の質問に、こう答えたといいます。
「野に咲くスミレは、ただスミレとして咲いていればいいのであって、そのことが春の野原にどのような影響があろうと、スミレのあずかり知らないところであります」。
岡は数学者でありながら、日本人にとってイチバン大切なのは、情緒だと言い続けました。
情緒が個性をつくり、個性が共感を生む。
彼はある日、奈良の美術館で絵画を見たあと、庭園を散歩します。
そこにはたくさんの松の木が生えていました。
岡は、松の枝ぶりを見て感動するのです。
「この枝ぶりには、ノイローゼ的な絵に感じる、怒りや不満、ましてや有名になりたいという欲などなにもない。ただそこに立ってシンプルに太陽の光を受けている。そいでそいで、いろんなものをそぎおとして生まれる美しさが、そこにある。こういう自然のままのものを見て、美しいと思える心、それが情緒だ。日本人は、それを忘れちゃいかん。そして…学問を極めるためにも、情緒は必要なんだ」。
岡は、日本文化発祥の地と言われる奈良を愛しました。
文化遺産と言われるものだけではなく、なんでもない風景こそ、次の世代に残すべきだと考えたのです。
晩年は、日本の行く末、特に日本の若者を憂いました。
何かを極端にやってみること、とことん極めてみること、そうすれば必ず好きになる。好きになれば、情緒が敏感になる。
恋をしたひとが、落ち葉に心を痛めるように。
孤高の数学者・岡潔が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/26/2018 • 14 minutes, 54 seconds 第百四十二話『日々の努力を怠らない』-【奈良篇】日本画家 小倉遊亀-
あなたは、一本の梅の木を見て、何を思いますか?
立派な枝ぶりに目がいくひともいれば、咲いた花の香りにうっとりするひともいるでしょう。
日本画家・小倉遊亀(おぐら・ゆき)は、庭の梅の木を見て、こう言いました。
「梅は、何ひとつ怠けないで、一生懸命生きている。私も、怠けていてはいけない」
小倉は梅が好きでした。
桜ほどの華やかさはないけれど、人間の目線に寄り添い、けなげな佇まいを崩さない。
鎌倉にアトリエを構えるとき、竹やぶを切り開きました。
伐採しているうちに、一本の梅の木が顔をのぞかせます。
樹齢100年ほどにも思える、古い木です。
小倉は、その木を守りたくて、植木屋さんを呼びました。
「この老木を、なんとか助けてあげてほしいんです」
以来、庭に梅の木は残り続けました。
彼女は毎朝、アトリエの窓をあけて、挨拶するのが日課だったといいます。
このエピソードは、小倉の画風や生き様を色濃く物語っています。
こつこつと、ただ絵を画き続ける。
画き続けることでしか、たどり着けない場所があるから。
仕事とは、桜のように、決して華やかなものではありません。
日々の積み重ね、なんでもない日常の過ごし方にこそ、仕事の難しさと喜びがあるのです。
小倉にとって、奈良女子高等師範学校、現在の奈良女子大学に通った4年間が、のちの画家としての人生を決定づけました。
そこで恩師に言われた言葉。
「自分のために絵を売るな」「へつらうな」。
そして、最も彼女の心を強くとらえたのは、こんな助言でした。
「もっとよく自然の真髄をつかみなさい」
105歳で亡くなるまで、努力を怠らなかった日本画家・小倉遊亀が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/19/2018 • 13 minutes, 24 seconds 第百四十一話『学ぶべきものはいつも目の前にある』-【奈良篇】宮大工 西岡常一-
新しい環境で4月を迎えたひとは、あっという間にひと月が過ぎたのではないでしょうか?
気がつけばゴールデンウィークも終わり、本格的な勝負のときがやってきます。
でも、体と心がバランスを崩し、いまひとつ、うまく波にのれない。
そんな焦りや不安を抱えているひとも多いかもしれません。
ここに、ひとりの棟梁がいました。
法隆寺や薬師寺にたずさわった、最後の宮大工、西岡常一(にしおか・つねかず)。
彼は、祖父、父のあとを受け継ぎ、昭和の大修理など大事業を成し遂げてきました。
伝えられる技は、書物でも手紙でもなく、口伝え。
いわゆる、口伝(くでん)。祖父や父から直接、口頭で教わったのです。
祖父は、常一に農業をさせました。
大工なのに、農業?常一はとまどいます。
農学校を出ると、いきなり田んぼで米づくり。
彼は一生懸命、本を読み、勉強して農作業に取り組みます。
なんとか収穫もできて、ほめてもらえると思ったら、祖父は常一を叱りました。
「おまえは本とばかり話し、肝心の稲と対話しておらん。稲づくりは、稲や土と話し合って決まるもんや。ええか、大工は木と話せなければ、仕事にはならん。目の前のものと対話でけへんやつは、一人前の仕事はできへんのや」。
西岡常一は、気づきました。
「そうか…ひとは、目の前のものから学べばええんや。本に書いてあることを頭で覚えても、体にしみついていないもんは、あっという間に消えていく」。
まず、目の前のひと、もの、事実と対話する。
そこから始めることでしか、不安はぬぐえない。
宮大工棟梁・西岡常一が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/12/2018 • 11 minutes, 40 seconds 第百四十話『たったひとつのことをやり続ける』-【奈良篇】アルベルト・アインシュタイン-
来年、創業110年を誇る、奈良ホテル。
1922年、ロビー「桜の間」に展示していたハリントン社製のアップライトピアノを弾いた、歴史的な偉人がいます。
アルベルト・アインシュタイン。
彼は、12月17日から2泊3日で、奈良ホテルに滞在しました。
日本に来る船の上で、彼が受けた知らせ。
それこそ「ノーベル物理学賞」でした。
アインシュタインは、日本各地で熱烈な歓迎を受けます。
「20世紀最高の物理学者」「現代物理学の父」と評される彼にとって、日本はどのように見えたのでしょうか。
少なくとも、名誉ある賞の知らせを聞いて乗り込んだ異国は、彼にとって幸福の輝きに満ちていたのではと想像できます。
量子力学、相対性理論。
20世紀における物理学史上の2大革命を成し遂げた男は、奈良ホテルで、微笑みを絶やさずピアノを弾きました。
伝説上の人物になることを、彼は嫌ったといいます。
「みんな、勘違いしている。私は、何か特別な人間なんかじゃない。ただひとつ、何かあるとすれば、他のひとより、ひとつのことにずっとつき合えたということだけなんだよ」。
大きく舌を出した、彼の写真を見たことがあるかもしれません。
あれは、1951年、72歳の誕生日のときのこと。
新聞記者に「カメラに向かって笑ってください!」と言われて、アインシュタインは思い切り、舌をペロッと出したのです。
いつもマスコミに追いかけられていることへの反抗もあったかもしれません。
でも、その表情は子どものようで、こんなふうに笑っているようにも思えます。
「誰だって、ボクになれるよ。たったひとつだけでいいから、好きなことを続けていれば」
物理学者・アインシュタインが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/5/2018 • 11 minutes, 52 seconds 第百三十九話『不安と寄り添って生きる』-【東京篇④台東区竜泉】作家 樋口一葉-
小説『たけくらべ』で有名な女流作家・樋口一葉の記念館は、台東区竜泉にあります。
「台東区立一葉記念館」。
彼女が居を構え、名作を産みだした、ゆかりの場所に立つ建物は、外見は現代風なデザインですが、中に入ると一転、町屋の板壁を模した造りで、あっという間に時間をさかのぼります。
名作『たけくらべ』の舞台は、まさしく竜泉あたりです。
吉原の廓(くるわ)に住む14歳の美登利と、僧侶の信如(しんにょ)の、淡い恋を描いたこの作品は、当時の子どもたちの様子や街の風情が色濃く映し出されています。
17歳で父を亡くした一葉は、家計を担う一家の大黒柱になりました。
小説家だけの収入では足りずに、この地で、荒物、雑貨、駄菓子を売る店を始めたのです。
しかし、商売はうまくいかず、結局引っ越してしまいますが、台東区竜泉での暮らしが、彼女の創作の原点でした。
彼女の小説からは、町の匂いが漂ってきます。
彼女の小説の登場人物たちは、本当にそこに生きているように命が吹き込まれています。
森鴎外、菊池寛、島崎藤村らは、一葉の作品を高く評価し、絶賛しました。
人気のすごさは、彼女の日記にしるされた言葉でもわかります。
「雑誌の編集者は、今や競争で私に執筆を依頼する。夜にまぎれて、私が書いた表札を盗むものもある。雑誌は飛ぶように売れた。すでに三万部売り尽くし、大阪だけで、一日で七百部売れた」。
それでも、一葉の心には、いつも不安がありました。
「しばし机にほおづえをついて考える。誠に私は女なのだ。つまらない作品を当代の傑作と言われるということは、明日はおそらく、ののしりの言葉が並ぶかもしれないということ。このような世界に身を置き、まわりには友人も、自分をわかってくれるひとなどいない。私はまるで全くひとりだ」。
不安と闘いながら、わずか24年間の人生を駆け抜けた、樋口一葉がつかんだ、明日へのyes!とは?
4/28/2018 • 13 minutes, 30 seconds 第百三十八話『自分の役割を全うする』−【東京篇③葛飾柴又】俳優 渥美清−
ひとは、誰もが、ある役割を担うことになります。
好むと好まざるとにかかわらず。
会社では部長や課長という役職を背負い、家では、父や母、夫や妻という顔を持ち、舞台が変われば違う役を演じる俳優のように、いくつもの仮面とともに生きていく。仮面には、役割がついてきます。
ここに、一度つけた仮面を、生涯はずすことが許されなかった役者がいます。
渥美清。彼は、フーテンの寅さんで人気を博し、日本を代表する名優として語り継がれていますが、一時期、その車寅次郎という役割から逃れようとしたことがあります。
渥美清イコール寅さんというイメージを払拭したかったのです。
悪役にもエントリーされました。
横溝正史原作の金田一耕助もやりました。
でも、結局、街を歩けば、「寅さん!この間の映画も、よかったよ!」「寅さん、今度はいつ、柴又に帰るんだい?」と声をかけられるのです。」
ある時期、彼はもがくのをやめました。
「これが自分に与えられた役割ならば、それを全うするしかない」
以来、寅さんのイメージを壊すような役は、断りました。
どんなに親しいひとにも、プライベートをいっさい知らせず、自宅も明かしませんでした。
映画の撮影終わり、ハイヤーでおくられても、自宅のずいぶん前で、「あ、このへんでいいや、ここでおろしてください」とクルマを降りました。
徹底した自己管理と、ストイックな日常生活。
晩年、体は満身創痍で立っていられず、すぐに小道具のトランクに座ってしまうほどでしたが、周囲に悟られないように歯を食いしばりました。
亡くなるときも、「オレのやせ細った死に顔を、誰にも見せたくないんだ。お願いだから、骨にしてから世間に知らせてくれないか」と遺言を残しました。
今もひとびとの心に生き続けるフーテンの寅さんを演じきった、俳優・渥美清が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/21/2018 • 13 minutes, 59 seconds 第百三十七話『偉くならない』-【東京篇②池袋】画家 熊谷守一-
もっと上を目指したい、もっとお金がほしい、もっとひとに認められたい。
何かに背中を押されるように、焦る毎日。人生は、もっと、もっとの連続です。
あなたは、そんな毎日に疑問を持ったことはありませんか?
負けたっていい、ダメでもいい、カッコ悪くても仕方ない。
そう弱音を吐きたくなったことは、ありませんか?
ここに、晩年の数十年、自宅の庭から一歩も外に出なかった画家がいます。
彼は、お金とは無縁。文化勲章も断りました。
彼の名は、熊谷守一(くまがい・もりかず)。
昨年没後40年を迎え、特別展が開催されるやいなや、再び脚光を浴びました。
山崎努主演で、彼の晩年の生活が映画になり、5月に公開されます。
東京・池袋にある「豊島区立熊谷守一美術館」。
晩年暮らした家があった場所に建てられました。
彼が住んでいた頃の池袋は、「池袋モンパルナス」と呼ばれ、若く貧しい画家たちが、アトリエ付きの安い部屋で創作に打ち込んでいました。
彼は、自分の家の庭が大好きでした。
来る日も来る日も庭だけを眺め続けたのです。
熊谷は、ある生徒に「先生、あの、どうしたらいい絵が画けますか?」と聞かれ、こう答えたといいます。
「自分を生かす、自然な絵を画けばいい。下品なひとは下品な絵を画きなさい。馬鹿なひとは馬鹿な絵を画きなさい。下手なひとは下手な絵を画きなさい。結局のところ、絵は、自分を出して自分を生かすしかないんですよ。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ねえ、キミ、ロクなことにはならないよ」
ひとにほめられることをいっさい願わず、貧乏なまま、有名になろうとも思わず、ただ己の庭だけを見つめ続けた画家、熊谷守一が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/14/2018 • 14 minutes, 38 seconds 第百三十六話『ひとつの道を突き進む』-【東京篇①神楽坂】作曲家・箏曲家 宮城道雄-
人生は、理不尽。ほとんどの場合、思い通りにはいかない。
あなたは、失望や絶望の淵に立たされたとき、どうしますか?
ここに、幼くして、視力を失ったひとがいます。
彼はわずか8歳のときに、失明の宣告を受けたのです。
「世界中のどんな名医でも、キミの目を治せるひとは、いません」。
彼は、お筝(こと)の道に進みますが、それは自ら望んだというより、仕方なく、他に道がなく、と言ったほうが近いかもしれません。
それでも彼は、筝で世界的な演奏者になりました。
正月に流れる曲の定番『春の海』は、彼が作曲しました。
そのひとの名は、宮城道雄。
今日4月7日は、彼の誕生日です。
宮城の記念館が、東京・神楽坂にあります。
入り組んだ裏路地の坂道をのぼっていくと、やがて、彼が生涯の多くの時間を過ごした新宿区中町に辿り着きます。
そこにある宮城道雄記念館。
館内には、宮城の業績を知る貴重な資料や、彼が発明した筝、十七絃、八十絃、大胡弓などが展示されています。
この記念館では、演奏会や講演会が定期的に開催されていて、日本古来の箏曲(そうきょく)の伝統を今に語り継いでいるのです。
宮城は、昔からあるものをただ残しただけではありません。
西欧の音楽を学び、取り入れ、ときには非難をあびても、自分が目指す新しい音楽のために闘い抜きました。
そんな偉業を成し遂げられたのは、彼が人一倍強かったからでしょうか?
天才芸術家だったからでしょうか?
列車から落ちて非業の死を遂げた、62年間の壮絶な生涯。
箏曲家・宮城道雄が、波乱の人生でつかんだ明日へのyes!とは?
4/7/2018 • 13 minutes, 27 seconds 第百三十五話『目に見えないものを信じる力』-【漫画家篇⑤鳥取県境港市】 水木しげる-
鳥取県と島根県の県境にある空港の名前は、米子鬼太郎空港。
鬼太郎とは、御存知、ゲゲゲの鬼太郎のことです。
その空港からほど近い、美保湾に面した街が、境港。
妖怪漫画の第一人者、水木しげるが、幼少期から多感な青年時代を過ごした場所です。
境港駅から続く水木しげるロードは、2018年7月の完成に向けて、日々、変化しています。さまざまな妖怪のブロンズ像が一個、また一個と増えているのです。
やはり境港市にある『水木しげる記念館』は、今年3月8日、開館15周年を迎えました。
100年の歴史を誇る料亭を改装して作られたこの記念館には、妖怪のオブジェやジオラマ、映像が用意され、水木ワールドにふさわしい重厚感と不思議な空気感を醸し出しています。
水木にとって、境港で幼い頃を過ごしたことは大きな意味がありました。
境港には、妖怪伝説が多かった?そうではありません。
もちろん、海や山、自然豊かでのんびりした風土は想像力を育むのに適していましたが、彼が最も影響を受けたのは、「のんのんばあ」の存在です。
神仏に仕えるひとを「のんのんさん」と言い、それがおばあさんであれば「のんのんばあ」と呼ばれました。
水木家に出入りしていた賄い婦の女性がその「のんのんばあ」で、幼い水木に、目には見えないけれど確実にそこにいる精霊や妖怪の話をしました。
七夕や正月飾りのいわれなど、日本の伝統的な祭事の意味まで教えてくれたのです。
水木は、思いました。
「ボクは、なんだか大きなものに守られている」
特にそれを感じたのが、お盆のときでした。
先祖を大切にするということ、万物に宿る神を感じるということ。
目に見えないものを信じる力は、理不尽な人生に立ち向かう、ただひとつの武器になるのかもしれません。
漫画家・水木しげるが、波乱の人生でつかんだ明日へのyes!とは?
3/31/2018 • 13 minutes, 36 seconds 第百三十四話『哀しみの目線を失わない』-【漫画家篇④東京都世田谷区桜新町】 長谷川町子-
東急田園都市線の桜新町の南口に、サザエさん通りがあります。
そこをさらに行けば、長谷川町子美術館。
国民栄誉賞を受けた漫画家・長谷川町子が生涯を通して集めたコレクションの数々が展示されています。
彼女がかつて暮らしていた当時の桜新町は、畑が拡がるのどかな街でした。
砂利道に、木の電信柱。木造平屋の家からは隣の家族の笑い声が聴こえてきます。
1952年、昭和27年4月11日の朝日新聞に、印象的な4コマ漫画が掲載されました。
ムシロを背負い、ヤカンをぶらさげたみすぼらしい髭面の男が、磯野家の前にやってきます。
幼いワカメが門の影からその様子をじっと見ています。
男は、塀の上からこぼれるように咲き誇る桜を見つけ、地べたにムシロを敷き始めます。
どっかりと座った彼は粗末な日の丸弁当を拡げ、散りゆく桜を眺めながら満面の笑みを浮かべるのです。
その様子をじっと見ていたワカメも、笑顔になります。
セリフはありません。1コマ目と4コマ目のワカメの表情の違いに、長谷川の優しい心が見えてきます。
漫画家・長谷川町子は、弱い者を好んで描きました。
戦争で傷ついたひと、いじめられる動物、貧しい家族。
決して声高なヒューマニズムを歌うことはしませんでした。
あの4コマ漫画のワカメのように、ただ、静かに見守る。
何も言いません。何もしません。
でも、その目線の低さ、あったかさは『サザエさん』の根幹にありました。
ひとは、強く生きなくていい。ひとは、全部持っていなくていい。
弱いから、足りないから、ささやかに助け合い、強調しあい、共に生きていく。
そんなメッセージは、今も私たちの心をつかんで放さないのです。
70年以上もの間、愛され続けている国民的漫画『サザエさん』を世に送り出した、漫画家・長谷川町子がつかんだ明日へのyes!とは?
3/24/2018 • 14 minutes, 53 seconds 第百三十三話『唯一の武器は、優しさ』-【漫画家篇③東京都青梅市】 赤塚不二夫-
『おそ松くん』『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、そして『天才バカボン』。
今も愛される漫画をこの世に残したギャグ漫画の元祖、漫画界の革命児、赤塚不二夫の記念館は、東京都青梅市にあります。
『青梅赤塚不二夫会館』。
青梅市は、町おこしに昭和の匂い漂う映画の看板を掲げました。
かつて漫画家になる前、映画の看板職人をやっていた赤塚不二夫をその象徴として選んだのです。
館内をまわると、赤塚がこの世に産みだしたキャラクターの存在感に、あらためて感銘を受けます。
イヤミ、拳銃をいつもぶっ放す警察官、ケムンパス、ウナギイヌ。
脇役だった彼らの圧倒的な個性は、時に主役をしりぞけ、凌駕してしまいます。
赤塚は、自分が創る全てのキャラクターに惜しみなく愛を注ぎました。
それもそのはず、キャラクターの源には、ほとんどモデルになる人物がいたのです。
『もーれつア太郎』に出て来る、ココロのボス。
しゃべる言葉に必ず、ココロがつきます。
立派なシッポを持ちながらも、人間なのか?タヌキなのか?永遠にわからない。一見コワモテですが、情にあつく、花や小鳥を愛する、本当は心優しいボス。
赤塚が新宿を飲み歩いていて、知り合った中華料理店のおじさんがいました。日本語がうまく話せません。
お酒を御馳走すると、「美味しいのココロ」「ありがとうのココロ」と言ったそうです。
そのおじさんは思いを伝えたくて、いつも赤塚の優しさを受け、語尾にココロとつけました。
「赤塚さん、うれしいのココロ」。
赤塚は、そんなおじさんが大好きだったのです。
戦争の混乱の中、壮絶な少年時代を生き抜いた赤塚が手に入れた武器は、笑いでした。優しさでした。
ひとを笑わすことで己の存在を証明した漫画家・赤塚不二夫が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
3/17/2018 • 13 minutes, 42 seconds 第百三十二話『命をかけて遊ぶ』-【漫画家篇②宮城県石巻市】 石ノ森章太郎-
宮城県石巻市。仙台からおよそ1時間ほどで到着する、JR石巻駅の構内で我々を出迎えてくれるのは、サイボーグ009。
駅舎を出ても、いくつもの漫画のヒーローたちが姿を現します。
仮面ライダー、ロボコン、人造人間キカイダー、佐武と市捕物控。
それらのキャラクターを産みだしたのは、石ノ森章太郎。
彼は宮城県登米市に生まれ、自転車でこの石巻に通いました。大好きな映画を観るために。
石ノ森にとってここは、漫画への夢を育んだ大切な場所だったのです。
東日本大震災の記憶を伝え、つなぐ活動が、石巻でもありますが、その拠点となる「震災伝承つなぐ館」に、震災で流され傷ついた、あるキャラクターが展示されています。
石ノ森章太郎が石巻のヒーローとして世に送り出した『シージェッター海斗』。
シージェッターは、無言で立っています。あの日起こったことを、ただ静かに受け入れているようにも見えます。
石ノ森は、漫画の漫という字に、萬(よろず)という字を使いました。
「マンガはねえ、萬画なんです。なぜそう名付けるか、それはねえ、あらゆる事象を表現できるから。それから、万人に愛され、親しみやすいメディアだからです。萬画は、無限大の可能性を秘めているんですよ」。
そんな彼の思いが詰まった宇宙船のような建物が、石巻にある『石ノ森萬画館』。
入口では、萬画の王様、石ノ森章太郎の大きな写真と、こんな言葉が目を引きます。
「遊びをせんとや 生れけむ」
彼はこの言葉を好み、色紙に書きました。
マンガは本来、落書き遊びの延長で進化したもの。
子どもが遊ぶように、夢中になって生きたい、そんな思いが伝わってきます。
60年という決して長くない生涯を、命を削って生き抜き、今も石巻の、いや、日本中の子どもたちを励まし続ける漫画家・石ノ森章太郎が、私たちに教えてくれる明日へのyes!とは?
3/10/2018 • 13 minutes, 35 seconds 第百三十一話『悔しい思いを糧にする』-【漫画家篇①兵庫県宝塚市】 手塚治虫-
今年、生誕90周年を迎える漫画の神様、手塚治虫。
彼の記念館は、兵庫県宝塚市にあります。
60歳で生涯を閉じた、その5年後に開館しました。
外観は、まるで彼の漫画に出てきそうなヨーロッパの古いお城。
15万枚にも及ぶ作品の歴史を、垣間見ることができます。
手塚治虫が生まれたのは、現在の大阪府豊中市ですが、ほどなく宝塚に転居。
幼少期から青年期の最も多感な時期を、豊かな自然と文化的で洗練された雰囲気が共存する不思議な街で過ごすことになったのです。
宝塚は、明治時代には温泉地。大正、昭和時代には、歌劇場や遊園地、植物園などリゾート施設が充実した最先端の街として発展してきました。
この地は、手塚に二つの大きな宝物を与えました。
ひとつは、ペンネームにもつけられている「虫」。
家の裏の雑木林は、虫の宝庫でした。
小学5年生のとき見た、昆虫図鑑に心をわしづかみにされた手塚少年は、先生も驚くほど、虫を細かく丁寧に描き、「これはまるで写真じゃないか」と言われました。
そしてもうひとつは、宝塚歌劇。母親が大の宝塚ファンだったので、幼い頃から多くのステージを見たのです。
ひとたび幕が開けば、そこは、めくるめく想像の世界。
子ども心に、彼は癒され、高揚し、やがて、感動の源を知りたいと思いました。
虫を注意深く観察し、描くこと。フィクションの世界に身をゆだねること。
そのどちらも、彼の過酷な人生が裏打ちしていました。
執拗なまでにいじめられ、バカにされ、それでも世界に名立たる漫画家になった手塚治虫。彼がつかんだ人生 のyes!とは?
3/3/2018 • 13 minutes, 58 seconds 第百三十話『自信は成功の鍵』-【島根篇】作家 宇野千代-
作家・宇野千代は、島根県雲南市にある八重山を舞台に小説を書きました。『八重山の雪』。
太平洋戦争終結後、松江市の63連隊にいたイギリス人兵士・ジョージと日本女性はる子の、禁断の恋を描きました。
これは実際にあった出来事がモチーフになったと言われています。
父親にかくまわれるように暮らした八重山。
そこには、岸壁にへばりつくように建てられた神社があり、松江藩ゆかりの牛馬の守護神がまつられています。
その地で、ジョージは炭焼きを始めます。
小説の中の一節。
『最初の仕事場は、あの、牛の神さまと言うて諸国のお人に知られています、八重山神社の裏手を廻った奥山でございました』
宇野千代は、イギリス人兵士と日本女性の道行きを、おそらく新聞記事で読み、創作心をくすぐられたのでしょう。
何度も何度も、島根に足を運びます。
シーンと静まり返った山の奥深く。遠く聴こえてくるのは、滝の音だけ。
人里離れたこの場所で、世間から身を隠し、彼らは何を想い、どんな日常を過ごしたのか。
宇野の五感は解き放たれ、人物が動き出します。
彼女は常に「頭で考えるだけのことは、何もしないのと同じことである」と語っていました。
行動することが、生きること。
小説も、まずは現場に赴き、その場に自分を置くことで創造の羽を拡げる。
彼女は行動することで小説を書き、小説を書くために行動しました。
まずは動くこと。そして驚き、不思議に思い、知りたいと思うこと。
動いてする失敗は、財産になる。自信につながる。
作家・宇野千代が、その生涯で見つけた人生のyes!とは?
2/24/2018 • 13 minutes, 25 seconds 第百二十九話『存在証明は、己で成し遂げる』-【島根篇】作家 小泉八雲-
島根県松江市にある小泉八雲記念館は、武家屋敷が立ち並ぶ伝統美観地区の一角にあります。
現在行われている展示は、「文学の宝庫アイルランド:ハーンと同時代を生きたアイルランドの作家たち」。
これは、日本・アイルランドの外交樹立60周年と小泉八雲記念館リニューアル一周年記念の企画展です。
小泉八雲、本名パトリック・ラフカディオ・ハーンは、アイルランド人の父とギリシャ人の母のもとに生まれました。
縁あって日本の島根県に住むことになった彼は、日本を愛し、日本人を愛し、日本文化を愛しました。
記念館に飾られている彼の写真は、羽織袴。
体は左側を向き、右半分の顔しか見せていません。
八雲は、幼いとき左目を失明しています。しかも、右眼もかなりの近視。
それでも彼の眼光は鋭く、まるで彼の生き様を具現化しているかのように思えます。
松江の尋常中学校で英語教師をしながら、翻訳や紀行文、怪談話の執筆にいそしんだ小泉八雲。
『雪女』や『耳なし芳一』も、彼が掘り起こさなければ、どこかに埋もれてしまっていた物語なのかもしれません。
八雲にとって、書くことは生きること。
自らの存在証明に欠かせないものでした。
幼くして両親に捨てられた経験は、彼にこんな試練を与えたのです。
「自分がここにいてもいいという存在証明は、自分でするべきだ」
1904年9月26日。心臓発作で54歳の生涯を閉じるまで、彼の自己肯定への闘いは続きました。
小説家にして稀代のジャーナリスト、小泉八雲が、我々に教えてくれる明日へのyes!とは?
2/17/2018 • 13 minutes, 47 seconds 第百二十八話『二つの自分を手放さない!』-【島根篇】作家 森鴎外-
文豪・森鴎外は、島根県の津和野町に生まれました。
かつて津和野藩亀井氏の城下町だった、古き良き日本の風景をとどめるこの盆地は、小京都のひとつとして注目され、今も観光客が頻繁に訪れています。
津和野には、森鴎外が幼少期を過ごした家とともに記念館があり、直筆原稿など貴重な資料が展示されていて、彼の波乱の人生を追体験できます。
森鴎外の肩書は、もちろん小説家。
でも、実は陸軍の軍医であり、官僚、ドイツ留学を生かした翻訳家、評論家でもあるのです。
彼の実家は、津和野藩の医者の家系。藩の医師はそれなりの権威を与えられ、教育の場も守られていました。
嫡男として生まれた鴎外は、幼い頃より論語やオランダ語を学び、英才教育を受けました。
しかも、まわりの大人が驚くほどの学力を持っていたのです。
フツウに人生を歩めば、陸軍の軍医としてお国のために奉公し、尊敬を集め、勲章ももらえたのかもしれません。
でも、鴎外は、あえて文学の道を捨てませんでした。
いや、むしろ、文学の道を我が本流として貫いたのです。
寝る間もおしみ、なぜそこまで自分を忙しくするのか。
そこには、鴎外自身の存在価値への不安があったのかもしれません。
なんのために命を授かり、何をすれば命を全うしたと言えるのか。
ひとは迷い、探し、なかなか答えを見いだせないまま、この世を去っていきます。
だからこそ、彼は捨てなかったのです。
自らの可能性は全て試し、両手でつかむ。
少しでも指にからんだものは、手放さない。
彼の小説にはいつも、うまく生きられず、運命に翻弄される人物が出てきます。
それは彼自身の投影だったのかもしれません。
文豪・森鴎外が、数奇な人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/10/2018 • 13 minutes, 11 seconds 第百二十七話『おかげさまで、を大切にする』-【島根篇】陶芸家 バーナード・リーチ-
世界的な陶芸家、バーナード・リーチは、昨年、生誕130年。
千葉県我孫子市に窯を築いて、ちょうど100周年にあたります。
リーチは、島根県出雲地方を頻繁に訪れました。
雑誌「ひととき」で「『リーチ先生』が愛した出雲」という特集が組まれるほど、日本神話の里は、イギリス人である彼の魂を激しく揺さぶったのです。
イギリス領だった頃の香港に生まれたリーチは、幼い頃、日本に住んだこともありました。
イギリスに戻ってからも日本への憧憬は強く、たびたび来日して、全国の窯元を歩きました。
そして、出雲は彼に陶芸の道を示した場所です。
彼の目に映った宍道湖は、たとえようもなく美しく、いくつもの作品のモチーフになりました。
彼は窯元で土に向き合う陶芸家に、流暢な日本語で、こんなふうに説いたと言います。
「いいですか、天狗になってはいけません。うまくいったからといって、それはあなたの手柄じゃあ、ないんです。全部、自分以外の誰かのおかげ。他のひとのおかげ、土のおかげ。みんな、おかげさまなんです」。
かつて、日本人の多くが口にした言葉、「おかげさまで」。
それは世界中探してもどこにも見当たらない素敵な言葉だと、リーチは思いました。
万物と寄り添う心。異文化と混じり合う優しさ。
目の前に戦争があった時代に、東洋と西洋の交流を心から臨んだ芸術家、バーナード・リーチ。
彼は、美術品としての陶器より、日用品としての陶器を重んじました。
器は、使われてこそ味が出る。
コーヒーカップを口にあてたときに「唇が喜んでいるか」を大切にしたと言われています。
陶芸を通して東と西の融合を目指した芸術家、バーナード・リーチが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/3/2018 • 14 minutes, 3 seconds 第百二十六話『軽々と、生きていく』-【三重篇】松尾芭蕉-
井原西鶴、近松門左衛門と並ぶ、元禄3文豪のひとり、松尾芭蕉は、伊賀国上野、現在の三重県伊賀市に生まれました。
伊賀の生まれ、しかも先祖には忍者もいたという史実から、芭蕉も忍者ではなかったのか、という説がまことしやかに語られています。
弟子の曾良(そら)との旅をまとめた紀行文「奥の細道」も、仙台藩の謀反を事前に知るための隠れ蓑ではなかったか。
事の真偽はともかくとしても、「奥の細道」の文学性の高さは、世界中からの評価が物語っています。
「月日は、百代の過客にして、行きかう年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらえて老いを迎うる者は、日々、旅にして、旅をすみかとす。古人も多く、旅に死せるあり」。
有名な冒頭部分でも書かれているとおり、当時の旅は、死ぬ覚悟で臨むものでした。
人生すなわち旅、という考え方は、芭蕉が思いついたものではありません。
唐の李白、日本の西行など、多くの歌人が人生を旅になぞらえていました。
では芭蕉の独創性は何処にあったのでしょうか?
それは、実践でした。自ら動き、旅をしてみて、実証していく。
あたりまえのようで、なかなかできないのが世の常なのです。
46歳でめぐったみちのくの地は、奇しくも、東日本大震災の被災地と驚くほど一致しています。
およそ、150日間の旅の果てに、芭蕉は二つの境地に辿り着きました。
ひとつは、不易流行。全ては変化しながらも、普遍であるという考え方。
そしてもうひとつが、軽み。人知を超えたことが起こりうる世の中だからこそ、できるだけ軽々と生きていきたい。
そんな祈りにも似た願いが、彼の心に舞い降りたのです。
俳句の神様、松尾芭蕉が私たちに教えてくれる明日へのyes!とは?
1/27/2018 • 13 minutes, 11 seconds 第百二十五話『理解して、共感する』-【三重篇】国学者 本居宣長-
伊勢国松坂に、日本人の古き良き心を大切にした、国学者がいました。
本居宣長(もとおり・のりなが)。
彼は『古事記』の研究に取り組み、三十有余年、注釈書『古事記伝』をまとめあげました。
それ以外にも『源氏物語』の中の「物のあはれ」という価値観に着目。
日本人が決して忘れてはならないものを必死で守ろうとしたのです。
彼が生きた江戸時代中期は、仏教や儒教などの外来文化が、盛んに取り入れられていきました。
外の風を入れることは決して悪いことではない、でも、それにともなって国学や日本の古代研究がすたれていくのは、いかがなものだろう。
強い危機感を持った宣長は、「物のあはれ」がわかることこそ、日本人の素晴らしい本質であると説いたのです。
彼の生き方もまた、当時としては一風変わっていました。
小児科の医者として地域医療に心を砕きながら、夜は国学の研究に寝る間も惜しむ、二足のわらじ生活。
国学の巨人と評され、再三の江戸への誘いもあったのですが、中央志向ばかりでは国は豊かにならないと、それを断り、70年あまりの生涯をほとんど全て、ふるさと、伊勢・松坂で過ごしました。
彼が説いた「物のあはれ」とは、五感に根差した、感情の動きばかりではありません。
もしそこに哀しんでいるひとがいれば、なぜ哀しんでいるかを理解しようと努め、必死で寄り添い、そのうえで、感情を同化、共感させるということ。
本来、日本人とは、「物のあはれ」を知ることで、さまざまな困難に立ち向かってきたのだと、彼は言います。
時代の波にのまれず、我が道を歩き、日本人の魂を説いた、国学者・本居宣長が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/20/2018 • 12 minutes, 35 seconds 第百二十四話『全力で投げ込む』-【三重篇】元巨人軍投手 沢村栄治-
伊勢神宮にもほど近い、近鉄・宇治山田駅。
そのほぼ正面に位置するのが、明倫商店街です。
この商店街で生まれた、伝説の野球選手がいます。
球速160キロにも及ぶ剛速球でベーブ・ルースを三振にとり、巨人軍創成期のエースとして活躍、27歳で戦争に散った悲劇のヒーロー、沢村栄治。
その背番号『14』は、今も永久欠番として語り継がれ、毎年素晴らしい投手に贈られる「沢村賞」という名誉ある賞に、その名を留めています。
昨年2月1日。沢村栄治の生誕100周年を記念して、商店街に記念碑が置かれました。
その石は、地元の子どもたちの公募により、「全力石」と名付けられ、沢村のこんな言葉が刻まれています。
「人に負けるな。どんな仕事をしても勝て。しかし、堂々とだ」
残念ながら決して賑やかとは言えない昭和の名残りを残す商店街に、この日ばかりは活気が戻りました。
身長は170センチあまり、決して恵まれた体格ではなかった沢村のトレードマークは、大きく左足を上げて投げ込む投球フォームです。
「わしは、真っすぐが好きや」
その言葉どおり、いつも直球勝負。全力投球で相手に向かいました。
昭和9年に行われたアメリカとの交流試合で三振したメジャーリーガーの英雄、ベーブ・ルースは、ベンチに帰ると、片隅にあったバケツを蹴ってこう言ったと言います。
「あんな球、見たことない!まるで生き物のように、手元でふわっと浮くんだ。打てないよ!あんな球!なんてサムライなんだ、サワムラってやつは!」
初めてアメリカ野球に日本人魂を見せつけた男、沢村栄治が、その短い人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/13/2018 • 14 minutes, 2 seconds 第百二十三話『日本人が忘れてはならないこと』-【三重篇】映画監督 小津安二郎-
今年は、日本映画を牽引した名匠・小津安二郎監督の、生誕115年、没後55年にあたります。
日本人のささやかで優しい心を丁寧に描いた映画は、いつの時代にも古びてしまうことがなく、むしろ日本人の原点を気づかせてくれます。
小津は、映画監督になる前、1年だけ代用教員をしていました。
場所は、三重県松阪市。父は、伊勢商人「小津三家」のひとつの6代目でした。
映画監督になりたいという息子の目を覚まさせようと、実家に住まわせ、実業に興味を向かわせようとしたのです。
松阪の飯高町の宮前尋常高等小学校。
子どもたちは、「オーヅ先生!」と慕いました。
小津は、よく生徒たちを連れて、野山を歩き、好きな映画の話を聞かせたといいます。
たった1年でしたが、子どもたちの心に、その姿や教えは鮮明に残りました。
教え子やその家族が発足した「飯高オーヅ会」は、毎年、小津安二郎を偲ぶ催しを続け、昨年23回を数えました。
先生をしながら、やはり思いは映画監督に向かっていきました。
父の思惑とは反対に、伊勢で観た風景、ひとびとの暮らしぶり、子どもたちの笑顔は、小津に創作の原点を教えてくれたのです。
「そうだ、オレは日常が撮りたいんだ。ひとが生まれて死んでいくまでに厖大に繰り返す日常の中にひそむ、ドラマを切り取りたいんだ」
のちに小津は言いました。
「きりっとした簡潔な絵をつくって、洗いあげた完成美を作り出したい、それだけなのにさ、どうかすると、たまには違ったものを作ったらどうだいと言う輩がいるんだ。そんなときは、こう言ってやるのさ。オレは、豆腐屋さ、カレーだの、とんかつだのは作れない。いいかい、豆腐屋は、豆腐しか作れないんだよ」
日本人の原点を照らし出す映画監督、小津安二郎が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/6/2018 • 12 minutes, 23 seconds 第百二十二話『探し続ける』-【鹿児島篇】脚本家・作家 向田邦子-
来年1月、向田邦子原作の『春が来た』が、再びドラマ化されます。
1982年に松田優作も演じたこの作品は、51歳で亡くなった彼女の絶筆と言われています。
飛行機事故で突然この世を去った向田邦子。
彼女の遺品は、かごしま近代文学館に寄贈されました。
寄贈を決めた時、彼女の母はこう言いました。
「鹿児島に、嫁入りさせよう」
保険会社に勤める父の転勤で全国を転々としましたが、向田にとって、小学3年生から小学5年生までの多感な時期を過ごした鹿児島は、特別な場所になりました。
45歳で乳がんを患い、術後の合併症などで右手が思うように動かず、死を覚悟したときも、思い出すのは、鹿児島での日々でした。
「万一、再発して、長く生きられないと判ったら、鹿児島へ帰りたい」
そう、綴りました。
温暖な気候と美味しい地元の食材。父は栄転で支店長。
大きな社宅に住み、給料もあがり、一家の雰囲気もなごやかだったと言います。
このころ、母親が最も笑い上戸だったと回想するほどです。
40年近く経ってから、亡くなる直前に再び訪れたときの思いを、彼女は『鹿児島感傷旅行』というエッセイで、こう書き記しています。
「変わらないのは、ただひとつ、桜島だけであった。形も、色も、大きさも、右肩から吐く煙まで昔のままである。なつかしいような、かなしいような、おかしいような、奇妙なものがこみあげてきた。私は、桜島を母に見せたいと思った」。
直木賞作家にして脚本家だった彼女は、絶えず各地をさまよい、探し続けるひとでした。
その最期も、取材に向かう空の上だった、向田邦子がつかんだ人生のyes!とは?
12/30/2017 • 13 minutes, 24 seconds 第百二十一話『感動は心の扉を開く』-【鹿児島篇】児童文学作家 椋鳩十-
今年、没後30年を迎えた、鹿児島県にゆかりのある児童文学作家がいます。椋鳩十(むく・はとじゅう)。
小学校の教科書に今も採用されている『大造じいさんとガン』は、年老いた狩人と、ガンという鳥の頭脳戦を描いた童話です。
大造じいさんは、いつも正々堂々と戦おうとするガンの頭領に感動して、姑息な戦略を仕掛けていた自分を恥じます。
この物語の舞台は、椋鳩十が愛した鹿児島。
彼は、鹿児島で暮らすことで、動物や自然と向き合い、自分が書くべき作品に辿り着いたのです。
動物を主体とした作品の先駆けとして名を馳せ、日本のシートンとまで呼ばれるようになりました。
彼の作品の特徴は、出て来る動物たちが死なないこと。
ほとんどの作品で動物たちは、人間と触れ合い、あるいは自然の脅威と闘い、傷つきながら、また野山に帰っていきます。
法政大学を卒業して、教師として鹿児島に赴任してきてから、亡くなるまで鹿児島を愛し、鹿児島で旺盛な執筆活動にいそしんだ作家、椋鳩十。
彼の記念館は、生まれ故郷の長野県だけではなく、鹿児島の姶良市にも設立されています。
彼を称える石碑には、こんな言葉がしるされています。
『力一杯 今を生きる
道は雑草の中にあり
活字の林をさまよい
思考の泉のほとりにたゝずむ』
そして、彼がもっとも大切にしたのは、こんな言葉です。
『感動は人生の窓を開く』
児童文学作家・椋鳩十が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/23/2017 • 12 minutes, 42 seconds 第百二十話『人を愛し、運命を呼び込む』-【鹿児島篇】西郷隆盛-
来年、明治維新から150年を迎えます。
幕末の動乱 を生き抜いた偉人は数多くいますが、今あらためて、最も注目を集めそうな人物のひとりに、鹿児島出身の西郷隆盛がいます。
最後の侍と言われる西郷は、実に謎の多い人物です。
まず、写真嫌い、あるいは写真を撮る機会がなかったので、姿かたちがわからない。
彼を知る人物が描いた肖像画が、頼りなのです。
身長178センチ、体重110キロ、目はギョロっとしていて、黒目が大きい、犬が好きでいつも犬を連れていた…どれも伝聞の域を出ません。
上野の西郷の銅像が初めて披露されたとき、妻は、「これは我が夫ではありません」と言ったといいます。
最もこれは、風貌が似ていないということではなく、「西郷は、こんな浴衣姿で外に出るひとではありませんでした。いつも礼儀正しく、礼節をわきまえた服装をするひとだった」そうです。
坂本龍馬は、西郷を評して、こう言いました。
「西郷というやつは、まっこと、わからんやつじゃ。寺の鐘にたとえれば、少し叩けば、少し響き、大きく叩けば、大きく響く」。
西郷が、座右の銘とした言葉は、『天を敬い、人を愛す』。
言葉どおり、私利私欲を捨て、天のために戦い、国家の大業のために奔走、一方で農民の心に寄り添い、主君の死に際し、自害するほど情にもあつい男でした。
数々のエピソードがつくる彼の姿は、聖人君子のそれではなく、涙もろく繊細で人間くさい侍です。
日本が大きく揺れた時代をブレることなく生き抜いた西郷隆盛が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/16/2017 • 13 minutes, 51 seconds 第百十九話『自分の人生に決着をつける』-【鹿児島篇】歴史小説家 海音寺潮五郎-
今年、没後40年を迎えた、鹿児島県出身の直木賞作家がいます。
海音寺潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう)。
上杉謙信の魅力を世に知らしめた傑作『天と地と』は、1969年、NHK大河ドラマの初めてのカラー作品の原作になりました。
石坂浩二演じる謙信は、圧倒的な存在感を放ち、最高視聴率32.4%。
海音寺の歴史小説家としての地位も、不動のものと思われました。
ところがそんな絶頂期、「私は今後一切、仕事は受けません」と、突然の引退宣言をしたのです。
理由は、実にシンプルでした。
「自分の後半生は全て、郷里の偉人、西郷隆盛に捧げたい。彼の長編史伝の執筆に、全精力を使いたいんです」。
海音寺は、自分の作品のジャンルに、歴史の史に伝記の伝と書く、『史伝』という言葉を使いました。
史伝文学とは、歴史上の人物や出来事を作品にするとき、なるべくフィクションを捨て去り、厖大な資料と向き合いながら、真実に近づこうとする形態を指します。
自らの歴史小説が人気を博したとき、一度、西郷隆盛の生涯を書こうとしますが、1年あまりで新聞の連載を休止してしまいました。
小説形式の限界を見たのです。
どんなに売れても、どんなに周りから「先生!」とちやほやされても、彼の心は満たされなかったのでしょう。
だからこそ、筆力も経済力もついた晩年、あらゆるものを捨て去り、再び西郷隆盛に向き合うことを決めました。
まるで西郷に己を見るように、彼は、真実の追及を始めたのです。
残念ながら、76歳で突然この世を去り、『長編史伝 西郷隆盛』は未完となりましたが、彼の思いは、のちのひとに受け継がれています。
小説家・海音寺潮五郎が、西郷隆盛の中に見つけた明日へのyes!とは?
12/9/2017 • 13 minutes, 28 seconds 第百十八話『独自のスタイルを貫く』-【鹿児島篇】画家 東郷青児-
鹿児島県出身の画家、東郷青児(とうごう・せいじ)は、今年、生誕120周年を迎えました。
柔らかい曲線と独特の色使いで描かれた美人画は、オリジナリティにあふれ、ひと目見ただけで、それが東郷青児の作品であることがわかります。
彼は、わかりやすさを大切にしました。
夢見るように目を閉じる女性の絵は、本や雑誌の表紙を飾り、包装紙や喫茶店のマッチにまで採用され、「この絵は、芸術なのか?」と揶揄されたこともありました。
それでも彼は、独自のスタイルを貫き、生涯、確立した作風がブレることはありませんでした。
二科会のドンとして君臨、「帝王」の異名をとる一方で、数々の女性とのスキャンダルは新聞を賑わせました。
特に有名なのが、作家・宇野千代との情事。
宇野は、東郷から聞いた話をもとに『色ざんげ』という小説を書きました。
そんな浮世の出来事を全く感じさせない、静謐で純粋な、彼の作品。
それはまるで、深い深い海の底に光る石のように、見るひとの心に沈黙の感動を呼び起こします。
懐かしい記憶のような、胸の奥のうずき。
鹿児島藩士の名家に生まれ、幼少時代から並外れた才能を持ち、ひとめを惹く端麗な容姿まで手に入れた、稀代の画家。
手に余るものを持ちながら、彼はそれらを投げ捨て、画壇の道に進み、誰もやったことのない画風に挑戦しました。
批評は常に、芸術と通俗の間で揺れ、そのどちらからもバッシングを受けたのです。
それでも、彼は自分のスタイルを曲げませんでした。
独自の画風を貫き続けた画家・東郷青児が、人生でつかんだ明日へのyes! とは?
12/2/2017 • 13 minutes, 57 seconds 第百十七話『子どもの心を取り戻す』-【青森篇】絵本作家 馬場のぼる-
青森県三戸町は、県の南に位置する、のどかな城下町です。
紅玉リンゴの産地として知られるこの町に生まれた、絵本作家がいます。
馬場のぼる。
彼の大人気シリーズ『11ぴきのねこ』は、今年、誕生50周年を迎えました。
とらねこ大将と10ぴきののらねこたちの愉快な冒険物語は、世代を超え、多くのひとに愛され続けています。
三戸町の文化福祉複合施設、通称 アップルドームには、『ほのぼの館』という馬場のぼるの記念館があります。
中に入ると、壁に画かれた11ぴきのねこがお出迎え。
ぬいぐるみ、絵本や原画が、訪れるひとの心をふわっと包み込んでくれます。
館内を見渡せば、大人も子どもも、みんな笑顔。
微笑む『ねこ』たちと、同じ表情をしています。
作者・馬場のぼるのトレードマークは、口ひげとチューリップハット。
親友の手塚治虫は、自分の作品に、馬場と同じ風貌を持ったキャラクターを何度も登場させました。
やはり親交の深かった『アンパンマン』で知られるやなせたかしは、馬場をこう評しました。
「馬場くんは、本当に絵の上手な人だったなあ。全く苦労してないような絵なんですよね。さらさらっと描くから」。
でも、馬場のぼるは作品を生むために、自分を追い込み、七転八倒の苦しみを味わいました。
6巻でシリーズを完結させるのに、29年もの歳月をかけたのです。
彼が心を砕いたのは、どうやったら子どもたちを楽しませることができるか、ではありませんでした。
彼が最もこだわったのは、まず自分が楽しむこと、そしてその楽しさがどうやったら伝わるかを必死で考えることでした。
彼の作品は、読むひとを笑顔にしますが、決してハートウォーミングなだけではありません。
勧善懲悪もなければ、教訓もない。
従来の絵本の常識をひっくりかえす作品でした。
誰も通ったことのない道を独自の観察眼で切り開いた絵本作家、馬場のぼるが人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/25/2017 • 15 minutes, 11 seconds 第百十六話『見えない目で、見る』-【青森篇】板画家 棟方志功-
青森県青森市にある棟方志功記念館は、青森が生んだ世界に誇る板画家、棟方志功の文化勲章受章を讃え、その偉業をのちのひとたちに伝えるために、1975年、昭和50年に開館しました。
建物は、校倉づくり。大切な宝物を後世に残す東大寺正倉院と同じつくりです。
記念館を校倉づくりにしたことに、青森のひとたちが、いかに棟方志功の作品を大事にしているかがわかります。
棟方にとって、青森に生まれ育ったということは、とても大きな意味を持っていました。
彼に絵筆をとれと教えてくれたのは、空を舞う凧の絵と、ねぷたでした。
和紙に墨で絵をしるすねぷたの造形は、彼に壮大な夢を与えたのです。
棟方は、自らを“板画家”と名乗りましたが、その板画家のハンの字は、通常使われる版画のハン、出版社のハンではなく、板という字を使いました。
板に向き合い、板に命を吹き込んだ彼の思いの強さの表れです。
晩年、彼の右目は、まったく見えませんでした。
左目もほとんど見えず、それでも彼は板に刃を入れ続けました。
彼は、こう書き記しています。
「まことにおかしなもので、わたくしの右眼は、刃物を持つと見えてきます。筆で書いている時は、全然判別できぬような細かい字でも、米粒のような字でも、線、点でも、板刀を持つと彫れます。神様がそのように育ててくれているので、有り難い極みです」
板画には、彼がいうところの、間接性があります。
肉筆で画く絵とは違い、板画には、板の特製を知り、板の気持ちに寄り添う優しい心が必要なのです。
生涯、子どものような純粋な魂を持ち続けた板画家、棟方志功が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/18/2017 • 14 minutes, 4 seconds 第百十五話『哀しみに向き合う』-【青森篇】画家 シャガール-
青森県にある日本最大級の縄文時代の集落跡地「三内丸山遺跡」。
その広大な草原に隣接するのが、白い瀟洒(しょうしゃ)な建物、青森県立美術館です。
青森の豊かな自然が育んだ、個性的な作家たちの作品がゆっくり味わえます。
その美術館の、ある有名なホール。
それを観るためだけに全国、いや世界中からひとがやってくる、知る人ぞ知る稀有な展示室です。
その名は、「アレコホール」。
20世紀を代表する画家、ロシア出身のマルク・シャガールが、バレエの演目「アレコ」のために画いた背景画が飾られています。
四層吹き抜けの大空間の白い壁一面に架けられた壮大な絵は、日本で展示されるシャガールの絵で最も大きなものです。
通常は、アレコという演目の四幕のうち、三つの絵しか飾られていないのですが、現在、フィラデルフィア美術館の厚意により、四幕の絵がおよそ10年ぶりにそろいました。
これら4枚の絵を画いたときのシャガールは、決して幸せで順風満帆な状態ではありませんでした。
ユダヤ人である彼は、ナチス・ドイツの迫害から逃れるために、住み慣れたフランスを離れ、アメリカに亡命したのです。
およそ7年間の、異国での暮らし。
この時期、シャガールは、二つの大きなものを失います。
ひとつは、ふるさとロシアの街、ヴィテブスクがナチによって破壊されたこと。
そしてもうひとつは最愛の妻、ベラの死。
深い喪失感と失意の中で、彼は、絵を画くことで自らを保ちます。
ひとは、耐えがたい哀しみをいだいたとき、思うようにならない人生に翻弄されたとき、いったい何で自分を支えるのでしょうか?
マルク・シャガールが数奇な人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/11/2017 • 12 minutes, 56 seconds 第百十四話『一秒の退屈もいらない!』-【青森篇】劇作家 寺山修司-
先月公開された映画『あゝ、荒野』は、前編と後編を合わせると5時間にも及ぶ大作でした。
映画の舞台は、東京オリンピックが終わったあとの、2021年の新宿。
少年院あがりの主人公と、吃音(きつおん)で対人恐怖症の男が、共にボクシングの世界にのめり込んでいく話には、現代の日本が抱える闇が赤裸々に描かれていました。
この原作を書いたのは、寺山修司。
寺山が、1966年に書いた唯一の長編小説です。
50年以上の時を経て、自らの小説が映画化されたと知ったら、空の上の彼はどう思ったでしょうか?
昭和の石川啄木、言葉の錬金術師など、数々の異名をとった、時代の風雲児。
歌人にして、劇作家、カルメン・マキの『時には母のない子のように』という名曲の作詞も手掛け、演劇実験室「天井桟敷」を主宰した、稀代の芸術家、寺山修司。
今年、開館20周年を迎える彼の記念館は、青森県三沢市にあります。
館内には、寺山の足跡を知る、手紙や台本、舞台のセット、残したフィルムなどが展示されていますが、建物自体がまるで彼の作品のようです。
彼は、弘前で生まれましたが、三沢での幼児体験が強烈だったと振り返っています。
「もしかしたら私は、憎むほど、故郷を愛していたのかもしれない」
そう語ったように、寺山にとって青森という土地は、強く彼の精神性を育みました。
父を早くに亡くし、母とも離れて暮らさなくてはならなかった幼年時代。
見える風景は、荒野にも似ていたのかもしれません。
一秒の退屈も許さず、休むことなく駆け抜けた47年の生涯。
寺山修司が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
11/4/2017 • 14 minutes, 16 seconds 第百十三話『自分の五感を信じる』-【大阪篇】作家 司馬遼太郎-
この夏公開された映画『関ケ原』の原作者は、国民的な作家、司馬遼太郎です。
複雑な人間関係や入り組んだ政治や軍事を、わかりやすい平易な文体で描き、壮大な人間ドラマを具現化しました。
『竜馬がゆく』『坂の上の雲』『街道をゆく』など、数多くの名作を世に残した司馬は、大阪府大阪市に生まれました。
東大阪市にある司馬遼太郎記念館は、彼のかつての自宅と、安藤忠雄設計の建物で構成されています。
司馬が愛した雑木林の庭から見える、彼の書斎。
机の上には、愛用の万年筆、そして推敲用に使った色鉛筆が、当時そのままに置かれています。
彼は、厖大(ぼうだい)な蔵書を持っていました。
その数、およそ6万冊。
その迫力を少しでも感じてもらおうと、記念館には、およそ2万冊の蔵書が、天井まで伸びる書架に納められています。
彼は、とにかく資料を読み込みました。
自分で調べ、自分の目で見て感じ、自分の足で稼いだ情報しか信じない、そんな信念を裏打ちしていたのは、「知らない自分」を知り、森羅万象に謙虚であったからに違いありません。
司馬遼太郎、本名、福田定一。
彼がなぜ、そのペンネームを使うことになったのか。
「司馬遷には、遥かに及ばざる、日本の者」。
歴史家の偉人、司馬遷には、遠く及ばないという謙虚さこそが、彼を厖大な資料から調べ尽くすという苦難の道に導いたのです。
簡単に情報が入る今の時代だからこそ、彼が私たちに問いかけることが多くあるように思えてなりません。
歴史とは何か?と聞かれると、司馬は、こう答えたといいます。
「それは、大きな世界です。かつて存在した何億という人生が、そこにつめこまれている世界なのです」。
小説家、司馬遼太郎が、その生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
10/28/2017 • 14 minutes, 9 seconds 第百十二話『自分の中に毒を持つ』-【大阪篇】芸術家 岡本太郎-
大阪の吹田市にある万博記念公園は、日本万博博覧会、いわゆる大阪万博の跡地です。
万博が開かれたのは、1970年。
183日という開催期間に、大阪、千里丘陵に訪れたひとは、のべ6千万人以上。
1964年の東京オリンピックに次ぐ、日本高度経済成長の象徴でした。
テーマは「人類の進歩と調和」。
しかし、このテーマに真向から反対したひとがいました。
しかもそのひとは、大阪万博のシンボルのデザインを担っていたのです。
彼の名前は、岡本太郎。
画家、彫刻家、文筆家。
肩書はいくらでも思いつきますが、ひとことで芸術家と言い切るより、他に言葉が見当たりません。
岡本は、大阪万博のシンボル、アイコンを作るにあたり、万博のテーマと真逆の発想で臨みました。
「進歩と調和」ではなく、「退行と逸脱」。
彼が創造したオブジェの設計図を見て、運営事務局は焦りました。
予定したものより、大きく、背が高かったのです。
運営事務局の責任者が恐々言いました。
「岡本先生、すみませんが、これでは屋根の高さを越えてしまいます」
岡本は、ただひとこと、こう答えたと言います。
「屋根、突き破れば、いいでしょ」
こうしてできた建造物の名前は、『太陽の塔』。
彼の望みはただひとつ。
「オレは、べらぼうなものをつくりたい!」
万博から47年が経った今、オブジェを押し込めようとした屋根は撤去され、太陽の塔だけが残されています。
千里の丘に堂々と立つ、べらぼうなもの。
常に安全な道ではなく、危険な道を選び、それでも自分の中の毒を大切にした、芸術家・岡本太郎。
彼が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
10/21/2017 • 13 minutes, 14 seconds 第百十一話『震える弱いアンテナを大切にする』-【大阪篇】詩人 茨木のり子-
1926年、大正15年に大阪で生まれた詩人、茨木のり子(いばらぎ・のりこ)は、マスコミ嫌いで、ラジオやテレビへの出演をほとんど断っていました。
当時、NHKのアナウンサーだった山根基世は、自らが担当していた『土曜ほっとタイム』というラジオ番組の最終回に、茨木のり子に出てほしいと思いました。
山根は憧れのひとに手紙を書きました。
「詩の朗読をはさみつつ、ぜひ、お話を聞かせていただきたい」。
茨木は、出演を快諾しました。
書いた本人を目の前に、詩の朗読。
「詩を読むのではなく、言葉を音声化させていただきます」
山根は緊張して、そう言ったそうです。
朗読した詩の中に『汲む-Y・Yに-』という作品がありました。
この詩には、作者と思われる主人公が、ある素敵な女性に出会い、感じたことが書かれています。
その女性のイニシャルは、Y・Y。
彼女は茨木さんに、こんなことを教えます。
何よりも大切なのは、初々しさ。
だから、大人になってもどきまぎしても、いい。
顔が赤くなっても、かまわない。
頼りない生牡蠣のような感受性は、そのままでいい。
そうして詩は、こんなふうに結ばれます。
「あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には 震える弱いアンテナが隠されている きっと…」
震える弱いアンテナは、現代社会を生き抜くためには必要ない、そんな風潮を感じる昨今、彼女が山根の出演依頼に応えたのも、山根の震える弱いアンテナに触れたからだと思えてなりません。
感受性は人間が生きる証であると訴えた詩人・茨木のり子が、その生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
10/14/2017 • 13 minutes, 42 seconds 第百十話『負けず嫌いという才覚』-【大阪篇】将棋棋士 坂田三吉-
毎年秋に開催されている、大阪新世界・通天閣の将棋まつり。
将棋を指す子どもたちの真剣な表情。
盤をのぞき込む大人たちの優しい眼差し。
中学生、藤井聡太四段の活躍は将棋界の追い風になり、将棋を習う子どもたちも増えたと言われています。
今から130年以上前に、将棋の虜になった少年がいました。
反骨の棋士、坂田三吉。
彼は貧しさの中から、天賦の才と努力により大阪将棋界の英雄になりました。
その破天荒で、エピソードに事欠かない戦い方や生涯は歌や戯曲になり、今もひとびとの記憶に残り続けています。
通天閣の足元、新世界・演芸劇場の入り口近くにある、王将の駒を模した石碑。
坂田三吉をたたえる碑には、こんな文言が刻まれています。
「王将・坂田三吉は、明治三年六月堺市に生まれる。幼少より将棋一筋に見きわめ恵まれた天分と努力は世の人をして鬼才といわしむ。性温厚にして妻小春と共に相扶け貧困とすべての逆境を克服する。昭和二十一年七月(七十七才)大阪市東住吉区に没す。同三十年十月生前の偉業をたたえられて日本将棋連盟より棋道最高の名人位、王将位を追贈される」
貧しかった若き日の坂田三吉にとって将棋は、生きる術。
賞金稼ぎの道具に近いものでした。
でも、あるときを境に、勝負師からプロの棋士に生まれ変わったのです。
そのきっかけは、後の永遠のライバル、関根金次郎に負けたことでした。
そのときの悔しさ、情けなさが、彼を一人前にしました。
将棋界伝説の男、坂田三吉が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
10/7/2017 • 13 minutes, 31 seconds 第百九話『弱気は最大の敵』-【広島篇】元広島カープ投手 津田恒美-
9月18日、プロ野球セ・リーグでは、広島東洋カープが2年連続8度目の優勝を決めました。
カープの連覇は37年ぶりで2度目。
セ・リーグで複数回の連覇は、巨人に次いで2球団目で、2年続けることがいかに困難であるかを物語っています。
優勝を決めた阪神甲子園球場は、カープを応援する「赤」で埋め尽くされていました。
原爆によって焦土と化した広島という街に、わずか4年でつくりあげられた球団は、「広島市民に元気と勇気を届けたい!」という熱い思いがつまった復興のシンボルでした。
カープが市民球団と呼ばれるのは、他の球団と違い、親会社を持たず、独立採算制をとっているからです。
親会社からの赤字の補填がないため、設立当時は、厳しい台所事情を抱えていました。
それでも、広島を、広島カープを愛する多くのひとの助けにより、独自の道を歩んできたのです。
広島市民球場開設を前に広島財界も動きましたが、当時の東洋工業の社長、松田恒次は、こんな提案をしました。
「広く、球場建設資金を募集しようじゃないか。そうだ、名古屋城再建のときに居金箱を用いているが、あの手は面白い。広島市内のあらゆる料亭、飲食店、キャバレー、喫茶店にその箱を置いて、1ヶ月ごとに集計して、そのつど、中国新聞で発表すればいい。この方法は競争になるから効果があるよ。よし、その箱は僕が寄付しよう…」。
選手獲得に関しては、高い年棒を捻出するより、若手の育成に力を注ぎました。
そうしてできあがったチームは、揺るぎない結束力と地元からの大声援を得たのです。
そんな広島カープにあって、忘れられない伝説の投手がいます。
「炎のストッパー」、津田恒美(つだ・つねみ)。
悪性脳腫瘍のため、わずか32歳でこの世を去った津田は、闘志むき出しの投球でファンを魅了し、優勝を牽引しました。
彼はあらゆるものと闘ってきました。
怪我や病、そして己の弱気。
闘うひとだからこそ、ひとを励ますことができたのです。
剛速球投手、津田恒美が、短い人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/30/2017 • 13 minutes, 54 seconds 第百八話『未知の領域を目指す』-【広島篇】小説家 松本清張-
今年、没後25年を迎えた作家・松本清張には、北九州市小倉生まれという説と、広島県広島市生まれという説の二つがあります。
真偽のほどは藪の中ですが、自身のインタビューで、出生届が出されたのは小倉だが、生まれたのは広島だと答えたと言われています。
松本清張の父は、鳥取県生まれ。
郷里を出て広島県の警察部長の家で書生になったり、広島の病院で看護助手をするなど、職を転々としていました。
母は広島生まれで、紡績工場の女工をしていました。
どういう経緯で二人が知り合ったのかわかりませんが、広島で暮らし、そこで清張が生まれたのではないかと推測されています。
晩年、清張は母の生まれた広島の町を訪ねました。
すでに墓も家もありません。一面田んぼが拡がるあぜ道をゆっくり歩き、彼は路傍の石に腰をおろしました。
遥か遠くの山々を見て、しばらく物思いにふけっていたそうです。
ひとりっ子だった彼は、両親、特に母に溺愛されました。
清張は自叙伝『半生の記』に、こんなふうに書いています。
「もし、私に兄弟があったら私はもっと自由にできたであろう。家が貧乏でなかったら、自分の好きな道を歩けたろう。そうするとこの『自叙伝』めいたものはもっと面白くなったに違いない。しかし、少年時代には親の溺愛から、十六歳頃からは家計の補助に、三十歳近くからは家庭と両親の世話で身動きできなかった。私に、面白い青春があるわけはなかった。濁った暗い半生であった」。
そんな彼の言葉とは裏腹に、作家・松本清張の作風は、自由でした。
純文学、推理小説、歴史・時代小説…。
芥川賞をとった『或る「小倉日記」伝』は、もともと直木賞候補でもありました。
未知の領域に踏み込んだ彼の作品は、誰にも真似できない、ジャンルを超えたオリジナリティに裏打ちされていたのです。
いかにして彼はその自由を手に入れたのでしょうか?
松本清張が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/23/2017 • 13 minutes, 56 seconds 第百七話『志をつなぐということ』-【広島篇】児童文学者 鈴木三重吉-
日本児童文学の父と呼ばれる、鈴木三重吉(すずき・みえきち)は、広島市に生まれました。
生誕の場所には現在、大手家電量販店の本店が建っていますが、三重吉への敬意を表し、壁面にここが生誕の地であるというプレートが飾られています。
さらに原爆ドームの近くには、彼の文学碑があり、彫像の左肩には、小さな鳥がのっています。
『赤い鳥』は、彼が後半生の魂を込めた文学史に残る児童文学雑誌。
彼は、夢の翼を持った赤い鳥、すなわち、若き才能のある作家たちを大切にしました。
芥川龍之介の『蜘蛛の糸』、有島武郎の『一房の葡萄』、新美南吉の『ごんぎつね』も、三重吉の『赤い鳥』がなかったら、この世に生まれてはいなかったでしょう。
自分自身も小説を書き、名作を産みだしたにもかかわらず、ある時期に筆を折り、後進の発掘に全てを賭けた鈴木三重吉。
彼は、世の中とうまく相対することができず、心を病み、身体を壊すことを繰り返しました。
彼の作品にはこんな一節があります。
「どんな人でも孤独を感じる。孤独と必死で闘おうとする執念を持ち続けることこそ、生きる意味を感じさせる。そこに、生きることの喜びを感じるのだろう」。
立ち上がっては倒れ、倒れては立ち上がり続けた孤高の作家。
虚無と絶望の淵にあった彼を激励し、鼓舞したのが、文豪、夏目漱石でした。
三重吉は、漱石がいなかったら、自分はこの世に生きてはいないと思いました。
だからこそ、彼にはやらねばならぬ人生の一大事業があったのです。
児童文学者、鈴木三重吉が、人生でつかんだ明日へのyes !とは?
9/16/2017 • 13 minutes, 52 seconds 第百六話『垣根を取り払う』-【広島篇】革命家 チェ・ゲバラ-
8月、東京・恵比寿で、ある写真展が開催されていました。
『写真家 チェ・ゲバラが見た世界』。
キューバ革命の立役者、チェ・ゲバラは、革命家であるとともに、文筆家であり、写真家でした。
その写真展の中で、ひときわ多くのひとが集まる写真。
それは、ゲバラが31歳のときに撮影した、広島の原爆ドームです。
遠景の中央に位置する原爆ドームは、一見、風景の一部に溶け込んでいるようにも見えますが、ゲバラの特別な思いが感じ取れます。
アルゼンチンの裕福な家庭に生まれたゲバラは、中南米を友人とまわるうちに、この世界の格差や貧困に直面します。
フィデル・カストロと、キューバ革命を牽引。
1959年に、革命政権の樹立に成功。
さらにボリビアで革命を起こそうと戦っているとき、つかまり、銃殺されてしまいます。享年、39歳。
そのゲバラは、革命を成功させた年に、日本を訪れました。
目的は、キューバの砂糖を日本に輸入してもらうための交渉です。
最大の輸出先であったアメリカから拒否されてしまったので、新しい取引先に日本を選んだのです。
東京、大阪、愛知と各地を訪問。
主に見てまわったのは、工場でした。
戦後の日本の目覚ましい復興を目の当たりにしたゲバラは驚きを隠しませんでした。
本来なら、神戸での視察を終えて日本を発つはずでしたが、彼が突然言ったのです。
「広島に行って、ぜひ原爆慰霊碑に花を手向けたい」。
彼は資料館に寄ったとき、近くにいた日本人にこう聞いたと言います。
「君たち日本人は、アメリカにこれほどひどい目にあわされて、腹が立たないのですか?」
彼の瞳は深い海のように澄み切っていたそうです。
ゲバラは祖国の妻への絵葉書に書きました。
「広島を訪れて思った。自分は平和のために断固として戦わなければならない」。
革命家チェ・ゲバラが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/9/2017 • 14 minutes, 27 seconds 第百五話『己を信じる』-【広島篇】女優 杉村春子-
広島市出身の大女優が、今年、没後20年を迎えました。
日本演劇界を支え続けてきたカリスマ的女優、杉村春子。
広島に生まれ、広島に育った彼女は、築地小劇場の入団試験を受けたとき、試験官の演出家・土方与志(ひじかた・よし)にこう言われました。
「キミは、ひどい広島訛りだねえ」。
自分では気づかぬほど、ふるさとの言葉は体に沁みついていました。
試験に落ちたと思いましたが、
「使い物になるかどうかはわからないけど、3年くらいはセリフなど言えないつもりで標準語を学ぶなら、まあ、いてみなさい」
と言われました。
広島の女学校の代用教員をしていましたが、劇団の合否を待たずに辞めてしまっていたのです。
「しかしあれだねえ、こっちに入れるかどうかわからないのに、仕事を棒に振って東京に出てきて、キミってひとは、思い切ったことをするひとだ」
そういって土方は笑いました。
「まあ、いてみなさい」
そのたったひとことが、女優・杉村春子の原点でした。
たまたまオルガンを弾きながら賛美歌を歌う役に欠員ができて、演奏できる杉村が抜擢されました。
女学校の先生をしていたことも役に立ったのです。
でもそのときは、ただ歌うだけで、セリフはありませんでした。
以来彼女は、言葉に敏感になりました。
芝居とはすなわち言葉であると、セリフの勉強に最も心を砕いたのです。
文豪・三島由紀夫は、こう評しました。
「姿の水谷八重子、セリフまわしの杉村春子」。
三島は、杉村の演技、とくにセリフまわしに惚れて、彼女は、三島戯曲になくてはならぬ存在になりました。
幾多の困難を乗り越え、演劇史に残る足跡を刻んだ女優、杉村春子が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
9/2/2017 • 14 minutes, 19 seconds 第百四話『自分にできることを追い求めて』-【盛岡篇】宮沢賢治-
岩手県盛岡市を流れる北上川。
その向こうにそびえる岩手山の美しい稜線は、観るひとの心にやすらぎを与えます。
北上川に架かる旭橋を渡ると、「いーはとーぶアベニュー」があります。
イーハトーブ。岩手に存在すると考えられた理想郷。
それを考えたのが、明日8月27日が誕生日の、宮沢賢治です。
この通りは、詩人、童話作家、教師、農業指導者、地質学者、音楽家、さまざまな肩書を持つ、岩手が生んだ唯一無二の存在、宮沢賢治へのオマージュからできました。
宮沢賢治は岩手県花巻市に生まれ、岩手県立盛岡中学校、現在の岩手県立盛岡第一高等学校に通い、全国初の高等農林学校、現在の岩手大学農学部に学びました。
13歳から24歳までの最も多感な時期を、盛岡で過ごしたのです。
「いーはとーぶアベニュー」には、花崗岩に座る賢治の彫像があります。
何かを思うような、うつむき加減の賢治の姿。
彼は、わずか37年という短い生涯で、およそ800もの詩や、100篇もの童話など、厖大な作品を残しました。
児童文学という枠をも超える彼の作品世界は、今も変わらず、多くのひとの心の中に生き続けています。
彼の作品は、決してわかりやすいものばかりではありません。
むしろ、どのように解釈していいのか、戸惑うものも多いのです。
それでも、その創造物はひとびとの想像力をかきたて、忘れ得ない読書体験を残します。
童話集『注文の多い料理店』の冒頭の言葉。
「これらのわたくしのおはなしは、みんな林や野はらや鉄道線路やらで、虹や月あかりからもらってきたのです。ほんとうに、かしわばやしの青い夕方を、ひとりで通りかかったり、十一月の山の風のなかに、ふるえながら立ったりしますと、もうどうしてもこんな気がしてしかたないのです。ほんとうにもう、どうしてもこんなことがあるようでしかたないということを、わたくしはそのとおり書いたまでです。」
生涯を自然とともに生きた宮沢賢治が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
8/26/2017 • 14 minutes, 23 seconds 第百三話『かぶりついて仕事せよ!』-【盛岡篇】彫刻家 舟越保武-
岩手県盛岡市にある『盛岡てがみ館』では、10月9日まで、岩手が誇る芸術家の企画展が行われています。
「舟越保武(ふなこし・やすたけ)の手紙」。
無数の書簡には、日本を代表する彫刻家、舟越保武の創作への苦悩や情熱、意気込みや逡巡が綴られています。
注文を受けても、なかなか思うように制作が追い付かないことを詫びる手紙には、彼の誠実で繊細な人柄が偲ばれます。
『お手紙いただきました。大変ご迷惑をおかけしていることを知っていましたが、いつも曖昧な返事で申し訳ありませんでした。この夏までには以前に作ったものを仕上げ直して設立したいと考えております』。
同じく盛岡市にある岩手県立美術館にも、舟越保武の展示室が常設されています。
そこには画家の松本竣介の絵も一緒に展示されています。
舟越と松本は、同じ年に生まれ、同じ岩手県立盛岡中学校、現在の岩手県立盛岡第一高等学校の同期生でした。
気品と優美さがあふれる女性像やキリスト教にまつわる聖人を、大理石やブロンズという石で表現した彫刻家、舟越。
東京の街を独自のモンタージュ技法でリリカルに描いた画家、松本。
二人の出会いと交流は、舟越ののちの人生に大きな影響を与えました。
36歳の若さで亡くなった親友、松本竣介の分まで、必死に生きようともがいた舟越。
ひとは、若き日に出会った風景、出来事、そして人に、生涯の糧を得るのかもしれません。
石彫りという、まだ日本で誰も本格的に取り組まなかった題材に果敢に挑戦し、戦い抜いた男、舟越保武。
彼が親友に学び、石を彫り続けることでつかんだ人生のyes!とは?
8/19/2017 • 14 minutes, 30 seconds 第百二話『失敗を尊ぶ』-【盛岡篇】画家 萬鐵五郎-
岩手県盛岡駅から車で10分ほどのところに、近代的な美術館があります。
岩手県立美術館。
ひとたび中に入れば、そこは欧米のミュージアムのような佇まい。
広いエントランスに緩やかなスロープは、開放的な空間を演出しています。
庭に敷き詰められた芝の緑、そして、ひっそりと置かれたテーブルや椅子は、まるでそれ自体がオブジェのように、来館するひとを待っています。
美術館の中には、郷土ゆかりの作家たちの作品。
夭折(ようせつ)した画家、松本竣介、彫刻家、舟越保武、深沢紅子。
そしてひときわ目を引くのが、今年、没後90年を迎えた日本画壇の風雲児、萬鐵五郎です。
萬は、いち早く西欧絵画の技法を取り入れた作家のひとりとされています。
マチスなどに見られる、太いシンプルな線で輪郭を描く画法。
ピカソに代表されるようなキュビズム。
試しては苦しみ、苦しんでも試す。
彼は言っています。
「いまだかつてできなかったことを成し遂げようとする。僕にとって、失敗こそ尊い」。
彼の真骨頂は、自画像でした。
最も有名なのが、『赤い目の自画像』。
全体が赤いだけでなく、目も充血したように真っ赤です。
上目遣いに何かを見つめる、赤い目。
彼が見ているのは、不安か、焦りか、はたまた絶望か。
自分がこれだと思えば、なんでも試し、失敗を厭(いと)わなかった精神は、当時の画壇から揶揄(やゆ)されていました。
それでも彼は、自らの革命をやめませんでした。
鉄人と言われた画家、萬鐵五郎が42年の生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?
8/12/2017 • 14 minutes, 6 seconds 第百一話『覚悟を持つということ』-【盛岡篇】言語学者 金田一京助-
岩手県盛岡市の中心部を流れる、中津川。
その川沿いにユニークな施設があります。
『盛岡てがみ館』。
盛岡にゆかりのある作家や著名人の直筆の手紙や原稿、日記などが展示されています。
字は、ひとを表す。
宮沢賢治や後藤新平の字を見ていると、彼らのひととなりが見えてくるような気がします。
展示された手紙の中で、ひときわ異彩を放つ書簡があります。
3メートルにも及ぶ、長い長い手紙。
それを書いたのは、盛岡に生まれた言語学者、金田一京助です。
彼は盛岡中学校時代の友達に、読みやすい、綺麗な字で思いを綴りました。
内容はほぼ全て、石川啄木のことです。
金田一は、石川啄木と親友であり、啄木の才能にいち早く気が付いた賢人でした。
手紙には、自分の下宿に転がり込んできた啄木の様子や彼の輝かしい未来が、微笑ましい文体で書かれています。
金田一自身、かつて詩を詠んでいましたが、啄木の前には自らの凡才を悟らずにはいられませんでした。
「おまえは、きっと有名になる。おまえはきっと世間をあっと言わせる文人になる。だから、諦めるな!」
ともすればすぐに落ち込んでしまう啄木を鼓舞し、応援しました。
ときには、自分の大切な蔵書を売って、啄木にお金を工面したこともあります。
「ひとがやらないことは金にならない。でもそういうものをやる人間がいなくちゃ、この世は前に進まないよ」
金田一自身もまた、ひとがやらないことを進んで自分に課しました。
その最大の功績が、アイヌ語研究。
裕福な家庭に生まれながら、貧しい生活を選び、アイヌ語を残すために一生を捧げたのです。
言葉に命を賭けた金田一京助が、波乱の生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
8/5/2017 • 14 minutes, 1 second 第百話『ジョンとヨーコ、それぞれのyes!後編』-【軽井沢篇】番組100話記念スペシャル-
先週に引き続き、今週も番組100話記念スペシャルとして、軽井沢にゆかりのある、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの物語をお届けします。
二人のインタビューや数多くの著作物をもとにフィクションでお送りするドラマ『ジョンとヨーコ、それぞれのyes!』。
オノ・ヨーコ役は女優の西田尚美さん、朗読は、私、長塚圭史です。
7/29/2017 • 12 minutes, 2 seconds 第九十九話『ジョンとヨーコ、それぞれのyes!前編』-【軽井沢篇】番組100話記念スペシャル-
今週と来週の2週にわたり、番組100話記念スペシャルとして、軽井沢にゆかりのある、ジョン・レノンとオノ・ヨーコの物語をお届けします。
二人のインタビューや数多くの著作物をもとにフィクションでお送りするドラマ『ジョンとヨーコ、それぞれのyes!』。
オノ・ヨーコ役は女優の西田尚美さん、朗読は、私、長塚圭史です。
7/22/2017 • 10 minutes, 23 seconds 第九十八話『自分の居場所』-【軽井沢篇】彫刻家 イサム・ノグチ-
軽井沢の深い森の中にある、セゾン現代美術館。
木々たちの間をすり抜けた清廉な風が、心地よく、かたわらを行き過ぎていきます。
開け放たれた鉄の門。そこから延びる真っ直ぐな道を進むと、鳥の声が迎えてくれます。
敷地内を流れる小川のせせらぎ。
小さな橋を渡ると、そこに世界的な芸術家たちの作品が、自然と一体化して、訪れるひとを待っています。
その作品のひとつを手がけたのが、彫刻家イサム・ノグチの『雨の山』『雲の山』。
緑と融和した岩が、独特の存在感を持って、迫ってきます。
イサム・ノグチは、日本人の父とアメリカ人の母の間に生まれました。
二つの祖国を持つということ。
そして、母が未婚のまま自分を産んだ、いわば私生児だったという事実。
彼は生まれながらにして、自分の居場所を持てない、流浪の人生を決定づけられてしまいました。
彼は、自伝の書き出しにこうしるしています。
『二つの国を持ち、二重の育てられ方をした私にとって、安住の地はどこなのか?私の愛情をどこに向ければよいのか?そもそも、私とはいったい何なのか?日本か、アメリカなのか、あるいは両方なのか、それとも、もしかしたら私は世界に属しているのだろうか』
彼は、その答えを追い求め、地球に作品を刻みました。
日本のみならず世界中の大地に残された彼の彫刻は、静かに、降ってくる時を受け入れています。
自分の居場所を見失ったとき、ひとは、どう生きればいいのでしょうか?
自らの存在理由に悩み続けながら激動の時代を生きた、芸術家イサム・ノグチがつかんだ、明日へのyes!とは?
7/15/2017 • 14 minutes, 52 seconds 第九十七話『40歳からの生き方』-【軽井沢篇】詩人・思想家 タゴール-
軽井沢の深い緑に包まれた、ある施設があります。
日本女子大学三泉寮。
1906年、明治39年に建てられた、軽井沢初の大学の寮です。
今風に言うならば、セミナーハウス。大学一年次の学生は夏の間、ここで教養特別講義を受けます。
爽やかな風に抱かれ、いにしえの先輩たちと同じように、ノートをとる女子学生たち。
大正5年8月18日午後5時。
特別講師の講演が始まりました。
壇上に立つのは、タゴール。
インドの詩人にして思想家、教育者、そしてアジア人として初めてのノーベル賞の受賞者、ノーベル文学賞に輝いた世界的に有名な賢人です。
『軽井沢高原文庫通信』2003年7月5日発売号に、そのときの講演の内容が掲載されています。
タゴールは、瞑想、メディテーションの大切さを説いています。
「何かを得ようとしてはいけない。大事なのは、宇宙と一体化すること。そうして初めて自由になれる。真の自由は本当の喜びであり、私欲がなくなれば、畏れるものも消え失せる。そこには利己的な活動も差別もない。みんながその境地に立てば、この世から争いは消え、平和が訪れる」。
そう、語りました。
タゴールは、偉大な思想家の家系に育ち、裕福な暮らしの中、自分の思うがまま、生きてきました。
ところが、順風満帆に見えた40歳のとき、突然の災厄が彼を襲います。
その試練に彼はどう立ち向かい、何を思い、何を実行したのでしょうか?
今も世界中のひとから敬愛されている詩人が、40歳でつかんだ明日へのyes!とは?
7/8/2017 • 13 minutes, 33 seconds 第九十六話『自分らしく生きる』-【軽井沢篇】小説家 有島武郎-
軽井沢タリアセン。
塩沢湖の水鳥たちが、気持ちよさそうに泳いでいます。
湖面で踊る陽の光。
木々が枝葉を揺らし、風の行方を教えてくれます。
軽井沢に、夏がやってきました。
数々の作家や詩人、著名人が、避暑地としてひと夏を過ごした、高原の別荘地。
タリアセンのほど近くにある、軽井沢高原文庫は、この地の文学世界を具現化する文学館です。
敷地内には、旧軽井沢から移築した堀辰雄の山荘があり、そしてもうひとつ、ある文豪が最期を遂げた浄月庵という名の別荘が移築されています。
その作家の名は、有島武郎(ありしま・たけお)。
今から94年前の、1923年の夏。
有島は、婦人公論の記者で人妻だった波多野秋子と、浄月庵で心中をはかったのです。
このニュース は、当時の新聞をにぎわすこととなりました。
移築された浄月庵は、その内部も見学することができます。
有島が父から譲り受けた別荘は、木造二階建ての和洋折衷の家。
外壁は、杉の皮でおおわれ、テラスには屋根がつき、窓ガラスは格子状の枠で四角に区切られ、落ち着いた佇まいを保っています。
有島は、ここで夏の間を過ごし、名作『生まれ出づる悩み』を完成させました。
常に世間と闘い、生きるということに誠実だった作家、有島武郎。
浄月庵で散った彼が、45年の生涯で決して手放さなかった、明日へのyes!とは?
7/1/2017 • 13 minutes, 48 seconds 第九十五話『世の中を見る力』-【横浜篇】評論家 草柳大蔵-
評論家、ジャーナリスト、ノンフィクション作家の草柳大蔵(くさやなぎ・だいぞう)は、神奈川県横浜市に生まれました。
彼の座右の銘と言われているのは、『遍界かつて蔵さず』。禅の言葉です。
遍界とは、宇宙、私たちが生きている世の中のこと。
つまり、もし私たちに何か見えていないことがあるとすれば、それは隠されているからではない。
自分がちゃんと見ていない、あるいは、見方がわからないだけだ、という意味です。
この世の出来事には、全てそうなってしまった理由がある。
自分がしてしまったミスや過ちも、あるいは誰かの行動も、ちゃんと見れば、必ず原因や発端がある。
草柳が、その生涯を通じてやろうとしたことは、もしかしたら、我々がきちんと見ていないものを明らかにすること、あるいは、見方を教えることだったのかもしれません。
野球解説者、野村克也は、言葉の大切さを草柳に教わったと言います。
「指導者が部下に思いを伝えるときには、言葉が重要になる。言葉の持っている力を最大限に使わなくてはいけない」。
野村はそう教えられました。
彼が南海ホークスの監督を解任されたとき、現役を退こうと草柳に相談したところ、こう言われました。
「君はまだ若い。人間は、『生涯一書生』だから、ずっと勉強を続けるべきだよ」。
野村克也はその言葉を聞き、『生涯一捕手』一生を野球のポジションのキャッチャーに捧げる覚悟を持ったのです。
言葉をおろそかにしてはいけない。
もっともっと勉強して、自分の言葉を磨くこと。
そうして野村は名監督としてチームを優勝に導いてきました。
週刊誌の草創期に言葉を武器に闘ったジャーナリスト、草柳大蔵が、その人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/24/2017 • 12 minutes, 10 seconds 第九十四話『今、自分がここにいるということ』-【横浜篇】俳優 松田優作-
今から28年前に、40歳でこの世を去った俳優、松田優作。
彼には、横浜という街が似合っていました。
横浜が舞台の連続ドラマ『俺たちの勲章』。
黒い皮ジャン、黒い皮パンに身を包み、サングラスをかけて埠頭を歩く姿は、今も鮮烈に印象に残っています。
セリフがなくとも、そこに立っているだけで圧倒的な存在感を醸し出していました。
主演した映画、その名も『ヨコハマBJブルース』。
松田優作扮するBJは、横浜の場末のバーで歌うブルースシンガー、そして私立探偵でした。
黒のロングコートにグレーのマフラーを巻いたファッションも、多くのファンに真似されました。
この映画の原案は、松田優作本人。
横浜に思い入れがあったのでしょうか。
彼が生まれ育った街もまた、港町でした。
山口県下関市。
しかし、18歳で街を出てから、松田優作は二度と下関に暮らすことはありませんでした。
彼にとって、あまりいい思い出がなかった街でしたが、一軒だけ、日活の映画館がありました。
時は、日活アクション映画の全盛期。
石原裕次郎、小林旭、宍戸錠。
幼い優作にとって、スクリーンの世界に我が身をゆだねる時間だけが、生き生きと輝くひとときだったのかもしれません。
彼が幼少期を過ごしたころは、下関にまだ遊郭がありました。
下関の港にやってくる漁船の漁師を相手に、街に娼婦が立っていました。
彼は幼心にいつも、こう思っていたと言います。
「ここは、俺のいる場所ではない」。
父親の顔を知らないということ、国籍が日本ではないということ、そうした環境も、彼を孤独に追い詰めていきました。
自分の居場所を探す旅は、終生、続いたのでしょう。
でも彼は、ただ探すだけではなく、自分の存在を強く光らせることに、文字通り、命を賭けました。
壮絶な人生を歩んだ俳優、松田優作が、格闘の末につかんだ明日へのyes!とは?
6/17/2017 • 14 minutes, 23 seconds 第九十三話『今を生きる』-【横浜篇】作詞家 安井かずみ-
横浜に生まれ、横浜に育ち、そのグローバル感や文化的な薫りを全身にまとった女性作詞家がいました。
安井かずみ。
アグネス・チャン『草原の輝き』、浅田美代子『赤い風船』というアイドルソングから、『雪が降る』、『ドナドナ』、『レモンのキッス』のような海外の歌の訳詞まで、ヒットを連発する売れっ子の作詞家。
およそ4000曲にも及ぶ創作のジャンルの広さ、歌詞の斬新さ、色濃いオリジナリティは、他の追随を許しません。
そんな彼女の華やかでアーティスティックな人生は、横浜と無縁ではありませんでした。
生まれたのも横浜。病弱のため、療養したのも横浜の郊外。
中学、高校は、横浜にあるフェリス女学院に通いました。
常に流行の発信地だったその場所は、彼女に類まれな感性を授けました。
特にフェリス女学院での6年間は、彼女にとって終生、忘れられない思い出を育みました。
丘に登る石段、道の両側の緑の匂い、礼拝堂と図書館の神聖なたたずまい。
特にキリスト教との出会いは、彼女の心に大きな錨(いかり)を下ろしました。
「作詞をするのは、一枚の絵を画くのと同じだと思う。とても小さな日常の中のきっかけを頼りに、キャンバスに言葉を置く」。
彼女は、過去の歌も未来の歌も書けないと言いました。
「大切なのは、今、このとき。作詞とは、今、今日私がこの世に生きている証拠の産物であってほしい」。
そのために、彼女が自分に課したこと。
それは、正直に生きるということ。
ほんとうに生きていれば、同じ愛の歌でも、ルネッサンス時代の愛の表現と同じ何かに辿り着く。
ほんとうに生きていれば。
55年の生涯を全速力で走るように生き抜いた、作詞家でエッセイスト・安井かずみが人生でつかんだ明日へのyes!とは?
6/10/2017 • 14 minutes, 4 seconds 第九十二話『孤独から逃げない』-【横浜篇】日本画家 東山魁夷-
6月2日は、横浜開港記念日です。
今から158年前の1859年6月2日、横浜は修好通商条約に基づき、国際貿易港として港を開きました。
以来、芸術や文化においても、世界との交流の要として栄えてきました。
横浜に生まれた国民的日本画家、東山魁夷(ひがしやま・かいい)もまた、その名を世界に轟かせ、日本の風景の素晴らしさを普遍的なものへと高めた第一人者です。
戦後の日本画を代表する傑作『道』は、たった一本の道が、画面いっぱいに描かれているだけのシンプルな構図です。
まるで見ているひとを、どこかに誘うように真っすぐ伸びる道。
使った色はたったの三色です。
道の灰色、空の青、草地の緑。
「たったこれだけで絵になるのか」
描きながら、東山魁夷も不安を覚えたといいます。
でも彼は、自らの魂を見つめ、迷いを捨て、最初の思いをそのまま絵にしました。
この道は、これまで歩いてきた過去を振り返る道ではありません。これから自分が進むべき道。
余計なものが何もないからこそ、そこに観るひとの心が投影される。
東山魁夷は、常に孤独と向き合うことを己に課しました。
「風景を見るというのは、自分の心を見るということである」。
同じ景色を眺めても、ひとによってその見え方はさまざまです。
すなわち我々は、景色を目で認識しているのではなく、心で確認しているのではないか、そう彼は語っています。
孤独から逃げず見つめた風景は、生涯、自分の宝物になる。
彼はそれをキャンバスにぶつけ、我々に呼びかけたのです。
群れることばかりに必死にならずに、ひとりの時間を大切にしなさい。
自分と向き合う時間のない人生をおくっていると、見える風景が枯れていく。
日本画家、東山魁夷が、魂の遍歴の果てにつかんだ明日へのyes!とは?
6/3/2017 • 12 minutes, 26 seconds 第九十一話『立ち続ける覚悟』-【日光篇】 美空ひばり-
稀代の歌手にして女優、昭和を代表する大スター、美空ひばり。
5月29日は、彼女の誕生日です。そして、今年が生誕80年。
52年間の生涯は、壮絶な戦いの連続でした。
美空ひばりには、二つの関わりで、栃木県日光市に縁があります。
まず、父親が日光市出身であること。
そしてもうひとつが、彼女が奇跡の復活を遂げた曲『みだれ髪』の作曲者、船村徹(ふなむら・とおる)の記念館が栃木県日光市の今市にあるということ。
船村が『みだれ髪』を書いた頃の美空ひばりは、とても歌を歌えるような状態ではありませんでした。
度重なる身内の死。鶴田浩二、石原裕次郎という親友もひばりの闘病中にこの世を去りました。
50歳になるひばりの体は病魔におかされ、ボロボロでした。
肝硬変。そして大腿骨は壊死を起こし、立ち上がるだけで腰や足に激痛が走ります。
それでも、歌が歌いたい、もう一度ステージに立ちたい、という強い思いは、彼女に奇跡を起こします。
『みだれ髪』という曲で、船村は今まで以上の高い音をひばりに求めました。
真の不死鳥であってほしいという祈りにも似た願いからでした。
プロデューサーでもある母親は、反対しました。
「ひばりには、つらすぎる」
レコーディング前日まで立つこともできません。
でも、その日がやってきたとき、彼女はすっと笑顔で立ち上がり、一発録りを成し遂げました。
そのときの美空ひばりの歌に、船村は鳥肌が立ったと言います。
どれほどの激痛が彼女を苛んでいたでしょう。
それでも、最高の歌声だったのです。
『みだれ髪』の歌詞にある灯台のように、孤独に耐えながら常に灯りを灯し続けた歌姫、美空ひばりが、その生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
5/27/2017 • 13 minutes, 7 seconds 第九十話『逆境の先にあるもの』-【日光篇】 教育者 新渡戸稲造-
世界遺産に登録されている、日光東照宮。
その雅楽の演奏者だった、金谷善一郎は、日光を訪れていたひとりの外国人を自宅に泊めました。
泊まるところがない外国人が途方にくれていたからです。
まだまだ外国人観光客に慣れていなかった日本人。
でも、金谷は困っているひとを見過ごすことができませんでした。
この外国人こそ、のちに「ヘボン式ローマ字」で世界中に知れ渡るヘボン博士だったのです。
ヘボン博士は、金谷に言いました。
「これからもっとたくさんの外国人観光客が、日本に、この日光にやってきます。ぜひ、外国人も泊まれる宿泊施設をつくってください」。
こうして、金谷が開業したのが、『日光金谷ホテル』です。
金谷ホテルには、たくさんの著名人が宿泊しました。
アインシュタイン、ヘレン・ケラー、そして、建築家・フランク・ロイド・ライト。
もちろん、日本の要人も泊まりました。
1908年11月10日。宿帳に記載されているひとの名は、新渡戸稲造(にとべ・いなぞう)。
旧五千円札にも肖像画が印刷された賢人です。
教育者にして、思想家。農業経済学の研究も行っていた重鎮。
彼は『武士道』の精神を尊び、世界に侍魂を紹介しました。
国際連盟の事務次長も務めたグローバルな視点は、今も、私達に日本の未来を示唆してくれます。
そんな新渡戸稲造が自らの人生でつかんだ、逆境に打ち勝つための、明日へのyes!とは?
5/20/2017 • 12 minutes, 41 seconds 第八十九話『誰のための人生か』-【日光篇】 建築家 フランク・ロイド・ライト-
栃木県日光市にある、『日光金谷ホテル』は、1873年開業。
現存する最古のリゾートクラシックホテルと言われています。
そのホテルに宿泊した名立たる有名人は、アインシュタイン、ヘレン・ケラー、そして、建築家・フランク・ロイド・ライト。
再建した本館は、フランク・ロイド・ライトが造った旧帝国ホテルを模したそうです。
ル・コルビジエ、ミース・ファン・デル・ローエとともに、「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる、フランク・ロイド・ライト。
彼の92年の生涯は、真実と虚構が入り混じり、スキャンダルにまみれました。
不倫、駆け落ち、殺人、絶望と失墜。
でも、彼が造った建造物は、今もその姿をリアルに留めています。
彼はよく、こんな言葉を口にしていました。
「あなたが本当にそうだと信じることは、必ず、起こります」。
彼の建築スタイルは、型破りでした。
新しく何かを産みだす力は、90歳を超えても、こんこんと湧いていたのです。
新しいものに、ときに人は反感や違和感を覚えます。
ライトは、何度も非難の対象になりました。
でも彼は、どんな苦難に落とされても、そこから這い上がる強さを持っていたのです。
もしかしたら、それは強さではなく、弱さだったのかもしれません。
弱いと自覚しているから、強く願い、懸命に努力する。
類まれなる精神とは、結局のところ、強さに根差すのではなく、弱さの上にたちあがるものなのでしょう。
アウトサイダーであることを厭(いと)わず、いつも境界線上を歩き続けた男、建築家・フランク・ロイド・ライトが、その数奇な人生でつかんだ明日へのyes!とは?
5/13/2017 • 12 minutes, 4 seconds 第八十八話『未来を語れ!』-【日光篇】 ソニー創業者 井深大-
ソニーを創った男、井深大(いぶか・まさる)は、栃木県の日光に生まれました。
彼が生まれた清滝という村は、東照宮がある中心地から、中禅寺湖に向かう奥日光に位置する山里です。
父は古河鉱業 日光電気精銅所に勤務していて、一家は社宅で暮らしていました。
井深が生涯大切にしていた、1枚の写真があります。
口ひげをたくわえた父は堂々としていて、生後9か月の大を抱く着物姿の母は、驚くほど美しい。
父と同じ紋付き袴姿の大は、目を見開いてこちらを見ています。
この写真のわずか1年後、父は、病に倒れ、亡くなってしまいます。
東京高等工業、現在の東京工業大学の電気化学科を出たエリート技術者だった父。
学生時代に、静岡の御殿場に、日本で最も古いと言われている水力発電所をつくったという功績もあり、将来を嘱望されていました。
志、半ば。さぞ無念だったろうと、井深は述懐しています。
4歳のとき見たある光景を、井深は覚えていました。
それは母と身を寄せた祖父の家に初めて電気がきたときのこと。
「大人も子どもも、工事の現場をワクワクして見ていた。はっぴを着た工夫がなんと、いなせに見えたことか。天井に二本の黒い線をバリバリと、とめていく。ああ、今日の夜、電気がくる、電燈が灯る。夜が待ち遠しい。まだか、もうすぐか。そうしてついに電気が来る瞬間がやってくる。しかし、私は電気のついたそのときを覚えていない。おそらく待ちくたびれて眠ってしまったんだろう。しかし、その工夫たちの手際のよい仕事ぶりだけは、目にやきついていた」。
その原風景こそが、井深の後の人生を決めたのかもしれません。
電気は、今を照らし、未来を映します。
天才的な発明家であり、日本経済界が誇る経営者、井深大が、その生涯でつかんだ明日へのyes!とは?
5/6/2017 • 12 minutes, 19 seconds 第八十七話『自分を越える戦い』-【富士山篇】 レーシング・ドライバー アイルトン・セナ-
富士山の裾野に、モータースポーツの聖地があります。
富士スピードウェイ。
全長4400メートル。創業は、去年50周年を迎えました。
標高およそ550メートルの場所にあること、すぐそばに富士山を抱くことで、天候に関しては決して安定したものではありません。
夕方から急に冷える。霧が深い。そして雨が多い。
0.1秒を争うドライバーにとって、過酷な条件での戦いになります。
富士山は、数々のレースを見守ってきました。
響き渡る爆音。歓声。あくなき挑戦への拍手。
そこには数々のドラマがありました。
5月1日は、日本を愛し、日本人が愛した、あるF1ドライバーの命日です。
音速の貴公子と呼ばれた男、アイルトン・セナ。
1994年5月1日、イタリア・イモラでのF1グランプリ決勝で、彼は開幕から3週連続のポール・ポジションでスタート。
ミハエル・シューマッハを後ろに従え、首位のまま、7週目を迎えていました。
超高速・左コーナー、タンブレロに時速312キロで突っ込む。
そこで悲劇は起こりました。
直進してコースアウト。コンクリート・ウォールに激突して、マシンは大破しました。
享年34歳。世界中が彼の死を悼みました。
彼のドライビングスタイルを危険、無謀というひとがいるかもしれません。
でも、彼は最後の最後まで、生きようとしていました。
コンマ数秒で5速にシフトダウン。わずか1.2秒で、100キロ近く減速していたのです。
この技術は神業としか言えません。
セナは、レースを始めた頃、雨が苦手でした。
でも、なんとか克服したい。
サーキットに水をまき、雨に強い自分を構築しました。
天才、と誰もが言う。でも、その影で、彼はもがき、苦しみ、自分の弱さと闘ってきたのです。
アイルトン・セナが強くなるためにつかんだ、明日へのyes!とは?
4/29/2017 • 12 minutes, 37 seconds 第八十六話『自分に向き合う時間』-【富士山篇】 作家 太宰治-
3か月間、富士山を間近に眺めて、人生を見直した作家がいます。太宰治。
教科書にも掲載されることが多い、太宰治の『富嶽百景』の一文は有名です。
「富士には月見草がよく似合う」。
山梨県河口湖に通じる御坂峠には、この言葉が刻まれた文学碑があります。
文字は太宰の直筆が使われました。
『富嶽百景』の原稿は残っていなかったので他の作品から一字ずつ抜き取り、太宰の署名は、絶筆『グッド・バイ』からとったと言われています。
この石碑を立てるために奔走したのは、太宰の恩師、井伏鱒二でした。
井伏は、不健康で自堕落な暮らしをしている太宰を、この峠に連れてきて、3か月間、天下茶屋に住まわせました。
さらに、甲府に住む女性、石原美知子を紹介し、夫婦の契りを結ばせたのです。
太宰にとって、富士山とは、最も自分と対極にあるものだったに違いありません。
どっしり構えて、ゆるぎない。圧倒的な存在感。
華やかな人気を持ち、万人に愛される。
霊峰と崇められたかと思うと、銭湯の壁面に描かれる。
神と通俗をいとも簡単に行き来する唯一無二の象徴。
太宰は思いました。
「かなわない。富士には、かなわない」。
それでも彼は、3か月間、かすかな風にも揺れる月見草のように、富士山と向き合いました。
この時期を境に、彼は旺盛な執筆活動に入り、『走れメロス』『斜陽』や『人間失格』など、後世に読み継がれる傑作を世に出しました。
ひとには、自分と向き合う時間が必要です。
たとえそのときは無駄に思えても、立ち止まって対峙する。
その勇気と覚悟こそ、成長の礎なのかもしれません。
作家・太宰治が、富士山に教えられた、明日へのyes!とは?
4/22/2017 • 12 minutes, 56 seconds 第八十五話『変化を見逃さない』-【富士山篇】 画家 クロード・モネ-
霊峰・富士山に影響を受けたのは、何も日本人ばかりではありません。
19世紀中ごろの、ジャポニズム。
浮世絵に描かれた富士の山は、世界の芸術家の知るところとなりました。
印象派の巨匠、クロード・モネは、葛飾北斎の『冨獄三十六景』を見て、驚愕します。
「なんだ、この躍動感、ダイナミックな構図、音が聴こえるようだ、水しぶきが、飛んでくるようだ!」
荒々しく襲い掛かる海の向こうに、富士山がありました。
特に、モネの心をとらえたのは、連作という表現方法でした。
さまざまな角度から見える富士山は、時のうつろいを示し、観るひとの心情に寄り添う格好の対象でした。
連続して、同じものを描き続けること。そこから見えてくる、光と闇。
あるいは、時間や空間の流れと、人生が有限であるというテーマ。
やがてそれは前代未聞の大作『睡蓮』での結実に向かっていきます。
86年の生涯で2000点以上もの絵画を描いてきたモネにとって、晩年、最大の試練がやってきました。
両目がほとんど見えなくなったのです。
それでも彼は画くことをやめませんでした。
『睡蓮』は、彼にとってどうしても完成させたい連作。
あらゆる治療を試み、ようやく片方の目の視力が少し戻ると、寝食を忘れて、対象に向き合いました。
浮世絵に描かれた富士山から得たインスピレーション。
変化を見逃さず、変化から学ぶということ。
そこに、モネの神髄が隠されているのかもしれません。
印象派の巨匠、クロード・モネが、その戦いに満ちた生涯でつかんだ、明日へのyes!とは?
4/15/2017 • 12 minutes, 47 seconds 第八十四話『挑戦をやめない』-【富士山篇】 小説家 新田次郎-
小説家、新田次郎は、『武田信玄』などの歴史小説でも数々の名作を残しましたが、彼の代名詞はやはり、山岳小説家。
『孤高の人』『八甲田山死の彷徨』『栄光の岩壁』など、山をかかせれば他に追随を許さない迫力がありました。
最も、彼は山岳小説家だと言われるのがあまり好きではなかったようです。
彼がなにゆえ、山岳小説を書くようになったのか。
それは彼の経歴が物語っています。
大学卒業後、中央気象台、現在の気象庁に入庁。
配属されたのが、富士山観測所でした。
それから足掛け6年余り、通算すると7年間、富士山で過ごしました。
気象職員としての最大の功績は、富士山気象レーダーの建設でした。
このレーダーは、世界的にも画期的なものだったので、国連の気象学会でも発表の機会を得ました。
富士山での過酷な観測所暮らしの中、新田は小説を書き始めました。
処女作『強力伝』は好評を博し、この作品で第34回直木賞を受賞します。
彼はことさら富士山に深い愛情を持っていました。
「私は富士山が好きだ。日本人なら例外なく富士山が好きだが、私の場合は青春時代の何年かを富士山観測所で暮らしたこともあり、また富士山気象レーダー建設ということもあったので、富士山に寄せる愛敬の念は他の人よりも一段と深い」。
新田の小説のテーマは、常に『夢と挑戦』でした。
彼が小説のモデルに選ぶひとは必ず、周りから止められても笑われても、挑戦をやめないひとでした。
「私は思います。冒険がないと、進歩はありません」。
小説家、新田次郎が富士山に寄り添い、富士山に問いかけながらつかんだ人生のyes!とは?
4/8/2017 • 14 minutes, 31 seconds 第八十三話『何度ダメでも諦めない』-【富士山篇】 日本画家 片岡球子-
2013年6月22日に、世界遺産に登録された富士山。
その名目は『信仰の対象と芸術の源泉』。
その言葉のとおり、富士山は多くの芸術家の魂をゆさぶり、創作意欲やひらめきを与えてきました。
2008年に103歳でこの世を去った女性日本画家、片岡球子(かたおか・たまこ)もまた、富士山に魅せられ、富士山に絵を画くことの素晴らしさと恐ろしさを教えてもらったひとりです。
戦前、戦後、混沌と激動の中で、ひたすら絵に向き合い続けた片岡の生涯は、決して平坦なものではありませんでした。
まだまだ女性の社会進出がたやすいものではなかった時代。
特に画壇において、女性が男性に肩を並べるのは、難しい情勢でした。
そんな中、片岡球子は走り続けました。
美術展に何度も何度も出品するも、落選ばかり。
あげくのはてにつけられた呼び名は「落選の神様」。
好きな男性との結婚話も断り、食べていくために小学校の教諭をしながらの創作活動。
そのひたむきな姿勢、向上心は、やがて新しい世界につながるドアを開きます。
70歳の彼女は、こんな言葉を残しています。
「人のかなしみ、苦しみのときに、その人のこころに何かを感じられるような、そういう絵が一枚でも描けたら、と。私は、それをねがいながら、これからの毎日を、生き生きと勉強を続けてゆきたいと、思います」。
何枚も何枚も富士山を画くことで、彼女は何を伝えようとしたのでしょうか?
女性日本画家、片岡球子が富士山を画くことでつかんだ明日へのyes!とは?
4/1/2017 • 12 minutes, 26 seconds 第八十二話『続けることの凄み』-【仙台篇】 評論家 秋山ちえ子-
昨年の4月6日、放送ジャーナリストの草分けとして活躍し、ラジオ番組のパーソナリティを45年に渡って続けた評論家が亡くなりました。
彼女の名は、秋山ちえ子。
大正6年に仙台に生まれた彼女は、99歳で亡くなる最期までラジオを愛し、ラジオでつながったひとたちを大切にしました。
スタジオには、愛用のストップウォッチを必ず持参。
時間どおりにキチンと終わるように気を使いつつ、もちろん、ひとことひとことに、思いを、魂を込めました。
番組の最後には、必ずこの言葉。
「それではみなさん、ごきげんよう」。
秋山は、ラジオの放送をこう表現しました。
「私は、毎日毎日、一粒の種をまくつもりでやっています。毎日まくことが、何より大事。毎日まけば、一粒が、やがて二粒になり、三粒になり、やがて芽を出して、美しい花が咲くでしょう」。
その言葉どおり、彼女が毎年夏に放送し続けた朗読『かわいそうなぞう』は、多くのひとの心を打ちました。
彼女のまいた種は、海外まで届いたのです。
シンディ・ローパーが、秋山の思いに共感して、英語版を朗読してCDにしたのです。
シンディ・ローパーは、こうメッセージをしるしました。
「『かわいそうなぞう』を読んだとき、私は、戦争にはたくさんの哀しみがあるのだということを、とてもとても感じました。戦争は、ほんとうに多くの哀しみに満ちているのです。この本が、世代を超え、若い人にも読み継がれることで、平和のありがたさを忘れないことを願っています」。
秋山ちえ子の願いは、毎年、そして毎日続けることで、たくさんの花を咲かせていったのです。
そんな彼女が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
3/25/2017 • 12 minutes, 27 seconds 第八十一話『幸せは好きの傍にある』-【仙台篇】 小説家・精神科医 北杜夫-
小説家にして精神科医の北杜夫は、東北大学の医学部を卒業しました。
彼が4年間過ごした仙台。
当時の仙台は、戦後間もない頃で、綺麗な並木道も、ひとびとが集うデパートもありません。
彼は『どくとるマンボウ青春記』にこうしるしています。
「いざやってきた仙台は、空爆で中心部があらかたやられていて、砂埃の多い、殺風景な、木の香りなどほとんどない、都会とも、田舎ともつかぬ場所であった」。
でも、北は、ここでの暮らしを満喫します。
大学の講義にはほとんど出ずに、昼は卓球をして、夜は仙台銀座で飲み歩きました。
街中には市電が走っていて、最初は乗り方にとまどったそうです。
仙台市電保存館には、今も、当時の市電が展示されています。
ケヤキ並木が美しい定禅寺通りも、北が大学に通っていた頃は、何もない、ただの広い道でした。
そんな風景も、やがて愛おしく思えてくるほど、彼にとって仙台という町は、決して忘れることができない大切な心のふるさとになったのです。
北杜夫は、躁うつ病を抱えていました。
それを隠さず、むしろその病状をユーモラスに描くことで、世間のイメージを変えたと言われています。
気性の激しい、歌人で医師の斎藤茂吉を父に持ち、船の医者として世界中をめぐるなど、ひとが容易に体験できないことをやってのけて、それを文章にしてきた、北杜夫。
彼が抱えた光と闇、そして明日へのyes!とは?
3/18/2017 • 12 minutes, 40 seconds 第八十話『笑いを借りてくる』-【仙台篇】 作家 井上ひさし-
宮城県仙台市は、多くの文学者たちを受け入れ、包み込んできました。
魯迅(ろじん)、島崎藤村、真山青果。
仙台がそんな文学的な土壌を育んできたことを記念して建てられたのが、仙台文学館です。
この文学館の初代館長は、劇作家の井上ひさし。
彼は、中学3年から高校卒業までの最も多感な時期を、仙台で過ごしました。
「仙台で人間としての栄養をもらった」
そう語った井上ひさしにとって、仙台一高時代は、まさしく自由にしてバンカラな時代でした。
彼は家が生活苦だったので、カトリック修道会の児童養護施設に預けられていて、そこから高校に通いました。
新聞部に属して仲間をひっぱり、読書や映画にあけくれ、野球にも熱中したそうです。
そのせいで成績は落下の一途をたどり、志望大学に落ちてしまいます。
かろうじて早稲田に補欠合格を果たし、あるいは慶応にも受かりましたが、学費が払えず通うことはできませんでした。
結局、カトリック修道会の推薦で上智大学にすすみます。
井上にとって、仙台という町には、青春そのものがつまっていたのでしょう。
『青葉繁れる』という小説には当時の様子が生き生きと描かれています。
仙台文学館の館長として彼は、忙しいスケジュールの合間を縫って、精力的に文学の振興に努めました。
自らが、文章講座を主催。彼本人が赤ペンで添削しました。
最終日には参加者全員で朗読会。
優秀者には井上愛用の辞書がプレゼントされたといいます。
また、戯曲講座や、講演、座談会など、仙台市の方々とのふれあいを大切にしました。
それはまるで仙台という第二のふるさとへの恩返しにも思えます。
波乱の人生と、優れた作品群。
小説家で戯曲家、井上ひさしが、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
3/11/2017 • 13 minutes, 23 seconds 第七十九話『劣等感を武器にする』-【仙台篇】 武将 伊達政宗-
杜の都、仙台。この地の初代藩主となり、今も市民に愛される武将がいます。
伊達政宗。
今年、生誕450年を迎え、さまざまなイベントが予定され、50年後の生誕500年に向けて、仙台城を復元しようという計画もあります。
幼いときにかかった病気がもとで、右目を失った彼は『独眼竜』の異名をとり、大河ドラマにもなりました。
世は、豊臣秀吉、徳川家康という天下人たちが生き残りをかけて戦った激動の時代。
そんな中、独自の哲学と知恵を駆使して生き抜いた、東北の英雄です。
政宗を祀った霊廟(れいびょう)、瑞鳳殿(ずいほうでん)は、仙台市の郊外にあります。
最近の発掘調査で、彼の遺骨が出てきました。
それによれば、彼の身長はおよそ、158センチ。血液型はB型だったそうです。
再現された声は、意外に甲高く、ナイーブで女性的だったという結果が出ています。
瑞鳳殿に祀られている木の像は、右目を開いています。
これは、独眼竜が真ではない、ということではなく、政宗の願いが込められているという説が有力です。
コンプレックスを抱え、繊細で傷つきやすい性格だったからこそ、20歳そこそこで、東北、奥州を治めることができたのかもしれません。
思えば、豊臣秀吉も、生まれや容姿に激しいコンプレックスを持っていました。
政宗は、小田原の陣で、わざわざ死に装束で秀吉に会いに行ったり、大崎・葛西一揆のときは、金箔のはりつけ柱をかかえて持っていったりしました。
そんな派手で、目立つパフォーマンスを最も気に入っていたのは、秀吉だったと言われています。
己のコンプレックスとどう対峙するのか。
武将・独眼竜政宗が、戦乱の世で手に入れた明日へのyes!とは?
3/4/2017 • 11 minutes, 13 seconds 第七十八話『己の役割を全うする』-【函館篇】 女優 高峰秀子-
戦前、戦後を通して50年あまり、日本映画界に燦然と輝いた大女優・高峰秀子。
彼女は、北海道函館市に生まれました。
実家は、祖父の代からの蕎麦屋料亭。
祖父はかなりの実業家で、料亭以外にも、劇場やカフェなどを経営していました。
5歳から天才子役として世間を驚かせた高峰秀子。
しかし、子役から大人の女優へと転身していくのは、至難の技です。
高峰と同時期に、アメリカで大絶賛された子役・シャーリー・テンプルや、終戦後のマーガレット・オブライエンも、その姿を消していきました。
子役は大成しない、そんなジンクスを覆し、50年もの間、女優として君臨し続けた彼女の人生は、決して平板なものではありませんでした。
母の急死、幾人も現れる養父や養母。
「私の養子にならないか」。
実の親の愛を十分に受けられぬまま、人間不信に陥っていきます。
「私は女優でなくてもいい、いますぐ辞めてもいい」。
そう言いながら、辞めることが許されない境遇がありました。
子役時代に、すでに家族親戚を養わねばならなかった彼女にとって、女優とは、己の役割を全うする手段でもありました。
でも、高峰秀子は、心の底から映画を愛しました。
『二十四の瞳』で見せた大石先生の優しいまなざし、『浮雲』で印象的だった愛人に向ける鋭い目つき、彼女ほどさまざまな役をこなし、その役のたびにあらたな顔を見せた女優がいたでしょうか。
彼女は、こんなふうに語ったといいます。
「自分のお財布からお金を払って、私が出た映画をわざわざ観に来て下さった方、その一人一人が、私の勲章です」。
どんな困難に出会っても毅然と己の役割を全うした稀代の女優、高峰秀子が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
2/25/2017 • 12 minutes, 44 seconds 第七十七話『日常から逃げない』-【函館篇】 脚本家 野田高梧-
日本を代表する映画監督、小津安二郎。
その作品の多くの脚本を書いたシナリオ界、伝説のひとがいます。
野田高梧(のだ・こうご)。
彼は、北海道・函館に生まれました。
父親は、函館税関に勤めている役人でした。
野田が、今から65年前の1952年に書いた『シナリオ構造論』は、のちの脚本家たちに多大な影響を及ぼしました。
彼が紐解いた脚本の構成、セリフ、プロットの組み立て方は、時代に色あせることはありません。
その証拠に昨年、復刊されました。
彼は本の中で言っています。
作家がある出来事に感動したのであれば、その原因がどこにあるか探求し、真実としての普遍性を見いだせ、と。
彼自身の言葉をもってすれば、こうです。
「事実から真実へ、真実から空想へ、空想からさらにそれの具象へと。この心的経過が遺漏なく成し遂げられていないかぎり、すぐれた作品とはなり得ないであろう」。
野田は、物語の種になる、事実を大切にしました。
日常を丁寧に見ました。
毎日、判で押したような日々を送る役人の父親の行動に、ささいな変化を見出していたのかもしれません。
日本人の平凡な日常の中の、悲哀や愛情を繊細に描いた小津作品の根幹を担ったのは、野田高梧という脚本家だったと言っても過言ではないでしょう。
小津と野田は、いつも二人で脚本をつくりました。
蓼科の山荘で、酒を酌み交わしながら、脚本づくりに熱中した二人の男。
彼らが格闘した相手は、「日常」でした。
大きな事件は起きない。大それたアクションもない。
でも静かな反乱や革命、出会いや別れは、日常に潜んでいることを知っていたからです。
脚本家・野田高梧が、生涯を通じてつかんだ日常の凄み、そして、人生のyes!とは?
2/18/2017 • 11 minutes, 55 seconds 第七十六話『昨日の夕陽は見ない』-【函館篇】 新選組 土方歳三-
北海道 函館の有名な観光スポットのひとつが、五稜郭です。
徳川幕府が、箱館の港を開くことに伴い、防衛の意味で建てた、我が国初の西洋式城郭。
ここで、旧幕府軍、榎本武揚らとともに、新政府軍と闘った勇士がいます。
土方歳三(ひじかた・としぞう)。
彼は、冷酷無情、新選組の鬼の副長として知られています。
津軽海峡をはるかにのぞむ大森浜に、土方歳三函館記念館があります。
彼が亡くなった場所だと言われている、一本木関門が展示され、足を踏み入れれば、幕末の世界が拡がります。
引き締まった白い顔。涼し気で切れ長の目。
漆黒の髪を後ろになでつけ、颯爽と歩く長身の快男児は、京都で多くの芸者たちから惚れられたという伝説を持っています。
その一方で、厳しい戒律をつくり、規律を守れぬもの、歯向かうものには、容赦なく罰を与えた冷血漢として知られています。
彼は、幼少の時分、こう心に誓いました。
「われ、壮年武人となって名を天下に上げん」。
商人として仕えつつ、いつか武士になり、名をあげようとしていた少年は、未来のために日々修練に励みました。
幼い頃、彼が暮らした家の一本の柱は、稽古の相手でした。
柱に向かい、張り手をする。ぶつかる。投げを試みる。
そうしてできた汗のしみは、彼の思いの強さの象徴です。
ただ、黙って未来を待っていたわけではない。
土方歳三は、己を磨くために、日々の努力を厭(いと)いませんでした。
彼はこんな言葉を残しています。
「昨日の夕陽がどんなに素晴らしくても、今日は見ることができないらしい。それが人の世なら、一日過ぎたら、私はその一日を忘れる。過去は、私にとって何の意味もない。未来だけが、いやにはっきりとした姿で、私の目の前にある」。
幕末を駆け抜けた男、土方歳三が悟った、明日へのyes!とは?
2/11/2017 • 11 minutes, 57 seconds 第七十五話『一秒がいとおしい』-【函館篇】 歌人 石川啄木-
北海道の函館といえば、何を想像するでしょうか?
港、赤レンガ、異国情緒、夜景、五稜郭。
本州に通じる北海道の玄関口として、さまざまな文化や芸術が花開きました。
函館は、横浜、長崎とともに、1859年に日本初の国際貿易港として栄え、そこで最初に営業倉庫を開業したのが、金森レンガ倉庫です。
バカラコレクションもあるレンガ倉庫の一角にあるのが、函館市文学館。
その2階フロアーを占めるのが、歌人、石川啄木の常設展示です。
啄木の直筆原稿は、日本全国からそれを見るためだけに訪れる人もいるくらい、今も人気ですが、実は、彼が函館に滞在したのは、たったの132日間でした。
それでも、啄木の妻、節子は、彼の死後、遺骨を函館の立待岬に葬りました。
啄木一族の墓がある岬からは、函館の港が一望できます。
函館は啄木にとって、生涯で唯一、幸せで穏やかな日々を送ることができた場所だったのです。
彼が詠んだ歌が、記念碑に刻まれています。
『砂山の砂に腹這い 初恋のいたみを遠く おもひ出づる日』
『潮かをる 北の浜辺の砂山の かの浜薔薇よ 今年も咲けるや』
『函館の青柳町こそかなしけれ 友の恋歌 矢車の花』
作家 井上ひさしは、石川啄木を「嘘つき、甘ちゃん、借金王、生活破綻者」などと語りつつ、「日本史の上で五指に入る日本語の使い手」と称賛しています。
ふるさとを追われ、流れ着いた函館で、歌人、石川啄木が見つけたものは何だったのでしょうか?
26歳で亡くなった彼が、人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
2/4/2017 • 12 minutes, 22 seconds 第七十四話『努れば、必ず達す』-【神戸篇】 柔道家 嘉納治五郎-
神戸市東灘区御影の公会堂に、この春、御影出身のある人物の記念資料室が設置されることになりました。
その人物とは、嘉納治五郎。
日本の柔道家にして、教育者。
講道館をつくり、日本のオリンピック初参加に貢献した、日本の体育の父、柔道の父です。
もともと柔術と呼ばれていたのを、柔道という名称に変えたのも、嘉納です。
「柔術というのは、なんだか危険な印象を与えるし、どこか見世物のような気がする。本来の柔道というのは、心身をともに鍛えて成立する、立派なスポーツなんだ」。
アジアで最初のIOC、国際オリンピック委員になり、柔道だけではなく、日本人にとってのスポーツ、そして体育教育の発展にも多大な功績を残しました。
日本人選手団が、世界柔道大会やオリンピックなどの競技会に出場する際、今でも勝利祈願として嘉納治五郎の墓を参るのが通例になっているといいます。
彼の座右の言葉は「努れば必ず達す」。
最も寒い時期の寒稽古。30日間、1日も休まず練習を全うすることを弟子たちに求めました。
「一度決心したことは、必ず遂行しようという精神がなくてはならぬ。眠気にも勝ち、寒さにも屈せぬという意気込みがなければならぬ。一度志を立てたら、容易にそれを変更するようなことがあってはならぬ」。
そう、嘉納が言い切るためには、彼自身、ひとには言えぬ努力があったのです。
身長はおよそ158センチ。体重も60キロあまり。
決して恵まれない体格だった嘉納は、欧米視察から帰る船の上でロシア人士官に勝負を挑まれ、彼を投げ飛ばしました。
柔道の父、嘉納治五郎が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/28/2017 • 11 minutes, 14 seconds 第七十三話『深い仕事はひとを幸せにする』-【神戸篇】 児童文学作家 灰谷健次郎-
児童文学作家、灰谷健次郎は、兵庫県神戸市に生まれました。
都会生まれの都会育ち。しかし、彼の激烈な人生は、彼をさまざまな場所にいざない、やがて、淡路島の山の中で暮らすまでに至ります。
どんな状況下においても、彼の目線は常に優しく、子供たちに寄り添うことをやめませんでした。
その言動はときに批判を生むこともありましたが、彼が残した文学作品には、灰谷健次郎の魂の叫びとも思える言葉が息づいています。
17年間の教師生活を経て書いた『兎の眼(うさぎのめ)』は、従来の児童文学の枠を超え、高い評価を得ました。
この作品は、1979年に路傍の石文学賞を受賞します。
『わたしの出会った子どもたち』、『太陽の子』、長編『天の瞳』など、精力的に執筆を続けました。
子供の目線を大切にしながらも、描かれている世界は、普遍的で示唆に満ちています。
『太陽の子』には、こんな一節があります。
『自分の方に理があると思っているときほど、よく考えて行動しなくちゃいけない。居場所のなくなった相手に、自分の方に理があるからと言って、一方的に攻め立てるのは、本当に勇気のある人がすることなの?人は時に憎むことも必要な場合もあるのでしょうけれど、憎しみや怒りにまかせて行動すると、その大事なところのものが吹っ飛んでしまうのが怖い。憎しみで人に接していると、人相が悪くなるわ。正義もけっこうだけど、人相の悪い人を友達に持ちたくない』。
児童文学作家、灰谷健次郎が人生で見つけた明日へのyes!とは?
1/21/2017 • 10 minutes, 15 seconds 第七十二話『自分の値打ちを把握する感性を持つ』-【神戸篇】 作詞家 阿久悠-
今年、神戸は、港が開いてから150周年。
神戸港は、日本の近代化を牽引し、さまざまな文化が交わる中心地でした。
しかし、この神戸にも受難のときが何度もありました。
記憶に新しいのは、1995年1月17日の阪神・淡路大震災。
このとき、神戸復興のために立ち上がり、復興の唄を作詞した、日本を代表する作詞家がいました。
阿久悠。
兵庫県淡路島に生まれた彼は、瀬戸内を愛し、神戸を愛しました。
都はるみの『北の宿から』、沢田研二の『勝手にしやがれ』、ピンク・レディーの『UFO』。
そのヒット作は、枚挙にいとまがありません。
日本レコード大賞の受賞は史上最多の5回。
シングルレコードの売り上げは6,800万枚を越え、小説『瀬戸内少年野球団』は、直木賞候補にもなりました。
ただ彼の詞は、従来の歌謡曲の底辺に流れていた、いわゆる日本的な故郷を想う湿った感性とは無縁でした。
津軽海峡を唄っても、北の宿に心を寄せても、そこには常に、旅人の視線があるのです。
「この場所は、やがて去るときがくる」。
そんな諦念とも思える哀しさと潔さ。
淡路島で巡査をしていた父親は、島のあちこちの駐在所を移りました。父は言いました。
「友達とは仲良くしろ。しかし、別れるときに辛くない程度に仲良くしろ」。
作詞家、阿久悠は、ひとつの故郷を持たないかわりに、たくさんの故郷を内に育てたのかもしれません。
彼は感性を大切にしました。
エッセイで彼はこんなふうに書いています。
「人間が守らなければならないのは、うまく生きる術ではなく、自分の値打ちを正確に評価する感性だ」。
今も、我々の心をつかんで離さない詞を書き続けた、作詞家で作家の阿久悠が、人生で見つけた明日へのyes!とは?
1/14/2017 • 11 minutes, 40 seconds 第七十一話『影を知って光を愛する』-【神戸篇】 映画評論家 淀川長治-
「さよなら、さよなら、さよなら」
そんなお決まりの言葉で終わる映画の解説。
およそ32年もの長きにわたり、『日曜洋画劇場』の解説者として人気を博した、映画評論家・淀川長治。
彼は、兵庫県神戸市に生まれました。
神戸という街に生まれたことは、ある意味、淀川の人生に多大な影響を及ぼしたと言えるでしょう。
活動写真から映画への転換期。
神戸にいたたくさんの外国人のために、洋画が次々上映され、それを文字通り、浴びるように幼少期から観続けた経験は、彼ののちの人生を決定づけたに違いありません。
時代は明治から大正へ。それは神戸の街に、いち早く電気が灯ったときでもありました。
街中に拡がっていく、光の結晶たち。
光の記憶は、淀川少年の心に深く刻まれました。
ガスの火がぼうっとつく、音。匂い、そして光と影。
電気に目を近づける、遠ざける、そんな行為を繰り返すことで、彼はそこにできる映像を楽しむようになりました。
汽車に乗っても、車窓から観るのは、レールの流れ、曲がり具合、スピードに合わせて動く線の揺れでした。
それはまるで動く「絵」。そう、映画だったのです。
外国人がふつうに街を歩き、電気やガス、汽車や船など、異国の匂いと文明の香りに包まれた街で、彼は独特な感性を育んでいきます。
彼は映画から生きることを学びました。
何本も何本も映画を観る。
それは好きだけではすまない修行のような日々です。
彼は言いました。
「大切な一日をあくびなんかしてふやけている人。いやですねぇ。人間が生きるということはどういうことかといつも考える。すると死ぬことだということに帰着する。死ぬとわかれば今日この一日を十分に生きねば損だと思う」。
映画評論家・淀川長治が人生でつかんだ明日へのyes!とは?
1/7/2017 • 11 minutes, 52 seconds 第七十話『正義と慈悲はひとを動かす』-【熊本篇】 加藤清正-
熊本のシンボルともいうべき、熊本城は、今年4月の地震で甚大な被害を受けました。
修復完了までには、最短でも3年は要すると言われています。
でも、傷ついたこの類まれな名城は、今もその雄姿を残し、市民や、そこを訪れるひとたちを勇気づけてくれています。
日本三大名城には、諸説ありますが、設計の技巧や美しさから、名古屋城、大阪城と並び、この熊本城も選出されます。
この城を築城したのが、加藤清正。
安土桃山時代から江戸時代初期にかけて活躍した武将です。
彼は尾張、今の愛知県の生まれですが、今も熊本のひとに愛され、親しみを込めて「せいしょこさん」と呼ばれています。
清正公のあと、熊本城は、江戸時代200年に渡って、細川家が治めましたが、それでもやはり、熊本城といえば、加藤清正。
明治時代に入って西南戦争が起こり、城の天守が燃えたときも、城下町のひとたちは、「せいしょこさんの城が燃えている」と口々に言いました。
この城を攻め落とそうとした西郷隆盛は、1万4千の兵を率いましたが、4千人の籠城を打ち破ることができずに、誰一人として侵入できなかったと言われています。そのとき、西郷はこう言ったそうです。
「おいは、加藤清正に、負けもうした」。
もともと熊本という地名の熊は、動物の熊ではなく、こざとへんの隈取りの隈でした。
それを、「もっと強い名前にして、栄える町にしたい!」という清正公の強い願いから、字を換えたと言われています。
たまたま赴任した土地で、誠心誠意、そこに暮らすひとの味方であり続けた加藤清正が、なぜ長い長い時を経ても愛されるのか。
そこには、ひとの上に立つべき人間には欠かせない、勇ましさと繊細さを合わせ持つ人徳がありました。
情けと慈悲の心に厚い武将、加藤清正の人生から見えてくる、明日へのyes!とは?
12/31/2016 • 10 minutes, 21 seconds 第六十九話『弱点を武器に変える』-【熊本篇】 俳優 笠智衆-
映画『男はつらいよ』シリーズの御前様、そして何より小津安二郎作品の看板役者として日本の映画界を牽引してきた重鎮、俳優の笠智衆(りゅう・ちしゅう)は、熊本県玉名市に生まれました。実家は浄土真宗のお寺。
もし彼が小津監督に出会うことがなかったら、名優・笠智衆は存在しなかったと言われています。
熊本弁は、終生治らず、彼のデビューを遅らせる要因になりました。
派手な演技で大衆をわかせることもありませんでした。
史上最高の大根役者とまで言われました。
ほぼ10年間に渡る松竹での大部屋ぐらし。
口下手で、アピールするのが苦手。
でも、笠智衆は、唯一無二の役者になり、映画史に刻まれる名演技で記憶に残る存在になりました。
小津作品以外にも、黒澤明、木下恵介、岡本喜八、山田洋次など、巨匠と呼ばれる映画監督から熱烈なラブコールを受け、出演しました。
朴訥(ぼくとつ)であること、熊本弁が抜けないこと、ある意味、弱点とも思える特質を、全て武器に変えたことにいちばん驚いているのは、笠智衆、本人かもしれません。
随筆家の山本夏彦は、こんなコラムを書いています。
「笠智衆がゆっくり語るというが、あれはゆっくりの「ほど」を越えている。笠は朴訥を売り物にして、人格者好きの女の見物をとりこにした。役者に修身の権化を求めるのは戦前にはなかったことだ」。
そんな揶揄(やゆ)も、時間が払拭します。
今もまだ、彼の演技の深みには誰もが共感し、驚愕します。
そんな名優・笠智衆が、人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/24/2016 • 9 minutes, 38 seconds 第六十八話『無駄になる努力はない』-【熊本篇】 元読売巨人軍監督 川上哲治-
現役時代には、『打撃の神様』と言われ、監督としては、王貞治、長嶋茂雄を率いて、読売ジャイアンツにV9という球史に残る栄光を残した男、川上哲治。
彼は、熊本県球磨郡、現在の人吉市に生まれました。
熊本県立工業学校に入り、夏の全国中等学校大会に二度出場し、二度とも準優勝でした。
漫画『巨人の星』の原作者・梶原一騎は父方の祖父が熊本出身ということで、川上哲治には強い思い入れを抱き、物語の中で、相当なカリスマ性を持った存在として描いています。
現役時代は、赤バットを使用して有名になり、第一次巨人黄金時代の中心メンバーでした。
監督になってからの偉業はいまだ前人未到。
9年連続セ・リーグ優勝に導き、プロ野球界に大きな足跡を残しました。
川上が残したものは、記録ばかりではありません。
甲子園の土を最初に故郷に持ち帰る慣例を始めたのも、『弾丸ライナー』という打球を最初に打ったのも、投手でありながら、4番を打ついわば二刀流のはしりも、川上だったと言われています。
『重戦車』と言われるほど足が遅かったにもかかわらず、通算の盗塁は、220。バッテリーのくせを見抜く技術を高めました。
とにかく、努力のひと。それを裏付けるこんな言葉があります。
「疲れるまで練習するのは普通の人。倒れるまで練習しても並のプロ。疲れたとか、このままでは倒れるというレベルを超え、我を忘れて練習する、つまり三昧境、無我の境地に入った人が、本当のプロだ」。
野球の神様、川上哲治が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
12/17/2016 • 9 minutes, 47 seconds 第六十七話『できないと言わない』-【熊本篇】 実業家 立石一真-
『 肥後もっこす』という言葉があります。
熊本人の性質を表すその意味は、純粋で頑固、正義感が強く、こうと決めたらてこでも動かない。
そんな熊本人気質を十二分に備えたビジネス界の風雲児がいます。
オムロンの前身である立石電機製作所を設立した、立石一真。
新しい技術開発を続け、ベンチャー経営の先駆けとも言われた20世紀を代表する経済人です。
立石は熊本城のほど近くに生まれ、熊本高等工業学校、のちの熊本大学工学部を卒業して、エレクトロニクス産業を牽引してきました。
レントゲン写真撮影用のタイマーや、銀行のキャッシュディスペンサー、制御機器から医療用の義手まで、さまざまな電気、電子機器の開発・製造を成し遂げ、50歳を過ぎてから、従業員を100倍、売り上げを1000倍に伸ばしたのです。
彼のモットーは「できませんと言うな!」でした。
彼は部下たちに言いました。
「ダメと決めつけるのはたやすい。しかし、改善の余地ありでなければ、創造の将来はない。『まずやってみる』が我々が築きあげてきた企業文化なのだ」。
小さな工場を、世界的な企業に押し上げた、その手腕と努力は、彼の頑固さ、正義感、純粋さに裏打ちされていました。
企業人、立石一真が大切にしたのはただひとつ、「社会の役に立ちたい」という思いでした。
そんな彼が、人生でつかんだ明日へのyes!とは?
12/10/2016 • 10 minutes, 30 seconds 第六十六話『熱意と誠意にまさるものなし』-【熊本篇】 医学者 北里柴三郎-
今年、ボブ・ディランの文学賞受賞で話題になったノーベル賞。
12月10日、アルフレッド・ノーベルの命日に、スウェーデンの首都・ストックホルムで授賞式があります。
日本からは、医学生理学賞で、大隅良典さんが選ばれています。
第一回のノーベル賞に、ある日本人が候補にあがっていました。
日本細菌学の父と言われた、北里柴三郎です。
結局、ノーベル医学生理学賞をとったのは、ドイツ人の、エミール・アドルフ・フォン・ベーリング。
破傷風免疫、ジフテリア免疫の発見により受賞しました。
ベーリングは、言いました。
「この免疫の発見は、日本のプロフェッサー、北里なくしては、なしえなかった。北里のおかげです」
日本が世界に誇れる医学者、北里柴三郎は、熊本県阿蘇郡小国町に生まれました。
彼の生まれた家は現在、記念館として残っています。
彼が生まれたのは、大政奉還、廃藩置県、開国など、世の中が目まぐるしく動いていた時代。
そんな中、細川藩が熊本に医学所、いわゆる医学学校を開いたことが、のちの彼の人生に大きく影響しました。
最初は蘭学を学ぶくらいの軽い気持ちで医学所の門を叩いた北里でしたが、ひとたび、顕微鏡をのぞいたとき、神の声を聴いた心持ちだったと言います。
医学の世界で生きていく。
それもすぐに生活やひとびとの健康に役立つ実学を学び実践する。
その願いは、彼の人生を貫きました。
北里は若い研究者にこう言ったそうです。
「君、人に熱意と誠意があれば、何事でも達成するんだ。よく世の中が行き詰ったなどと言う人がいるが、これは大いなる誤解である。いいか、もし行き詰ったとしたら、それは単に、熱意と誠意が足りないだけなんだ」
どんな苦境にあっても、熱意と誠意を忘れなかった細菌学の父、北里柴三郎の明日へのyes!とは?
12/3/2016 • 12 minutes, 34 seconds 第六十五話『選んだ仕事に誇りを持つ』-【金沢篇】 実業家 犬丸徹三-
日本ホテル界の草分けと言われる、元帝国ホテル社長、犬丸徹三。
彼は日本経済新聞の『私の履歴書』で、出身地石川県について、こんなふうに述べています。
「北陸は古くから仏教信心の盛んな地である。それも浄土真宗の信徒でほとんどが占められている。むろん私の家も浄土真宗であり、両親もまた熱心な信者だった」
と語り、京都や金沢、小松などから住職をお招きして聴聞したことを述懐しています。
雪に閉ざされる冬と、加賀藩に代表される華やかで文化的な風土。
土地はひとの心を育み、原風景はのちの人生を暗示します。
犬丸は、ホテル経営に命を捧げ、結果、日本のホテル業界全体に多大な財産を残しました。
それは、世界を融和する開かれたホテル事業。
奇しくも2020年に東京オリンピックを控えた日本は今、インバウンドの流れにのっています。
でも、昭和初期、観光が世界平和の一翼を担うという発想は、誰にでもできたことではありませんでした。
戦前戦後、帝国ホテルを守り抜いた男の歩んだ道は、決して平坦とは呼べないものでした。
むやみにひとにアタマを下げぬふるまいから傲岸不遜(ごうがんふそん)となじられ、苦渋の決断にも関わらず揶揄(やゆ)され、いくつもの試練をくぐりながらも、ただひたすらにホテル事業発展のために我が身を捧げた犬丸徹三。
彼が、93年の生涯の中でつかんだ、明日へのyes!とは?
11/26/2016 • 11 minutes, 17 seconds 第六十四話『自分で枠を決めない』-【金沢篇】 実業家 野口遵-
石川県金沢市出身の実業家に、一代で日本における化学工業の基礎をつくりあげた、「化学工業の父」あるいは「朝鮮半島の事業王」と称された男がいます。
野口遵(のぐち・したがう)。
彼は晩年、病の床で自らの死期を悟ったとき、側近を枕もとに呼んでこう言ったと言われています。
「おい、オレの全財産は、どれくらいある?」
側近が意図をはかりかねていると、気が短い彼はこう続けました。
「古い考えだと思うかもしれんがなあ、オレの人生の最終目的は、徳に報いること、恩をお返しすることなんだ。自分は生涯を通じて化学工業に全精力を傾け、今日を築いた。だから、化学工業の明日に、未来に、全財産を捧げたい。全部、寄付してくれ」
「全部って、全部ですか?」
側近が驚いて尋ねると、
「ああ、全額だ。それからオレは一番最初の礎を朝鮮半島で成すことができた。朝鮮にも奨学資金として役立ててくれ、いいな?頼んだぞ」。
現在の金額でおよそ300億を後進の発展のために捧げました。
その言葉からおよそ4年後。彼は72歳の生涯を閉じました。
彼の遺志を継いで設立された公益財団法人野口研究所は、旧加賀藩の屋敷があった東京都板橋区にその本拠を構えています。
去年創立75周年を迎えたこの団体は数多くの研究者の背中を押してきました。
また2年前には野口遵賞も設けられ、研究の助成金の一助として化学工業の発展に少なからず寄与しています。
彼の想いは時代を越え、研究者たちに勇気を与え、パイオニアスピリットを応援しているのです。
金沢の風土が育んだ、挑戦する心。
風雲児、野口遵が人生で大切にした、yes!とは?
11/19/2016 • 10 minutes, 55 seconds 第六十三話『己の道をゆく』-【金沢篇】 哲学者 西田幾多郎-
石川県金沢市にある『石川四高(しこう)記念文化交流館』。
1886年の帝国大学令により、創設された高等中学校。
東京の旧制一高、京都の三高に次ぎ、金沢に作られたのが、四番目の高等中学、旧制第四(だいし)高等学校です。
記念館は今も、当時の姿を留め、そこに学び通った学生たちの幻影を映し出してくれます。
ここに通い、そして後にここで教授の職を持った偉大な人物がいます。
世界に名を轟かせた日本を代表する哲学者、西田幾多郎。
彼が、四高で教鞭をとっていた頃、足しげく通った場所があります。
金沢市にある卯辰山です。
ひがし茶屋街からもほど近いこの場所に、心を洗うと書く「洗心庵」がありました。
西田は、ここで座禅を組んだのです。
跡地には、ささやかに石碑が建っています。
「西田先生は四高教授のころ、約9年間ここへ参拝され教えを受けました」
そう書かれた案内板のあたりには手つかずの自然が残っています。
木々の匂いがします。鳥の鳴く声が聴こえます。
遠く眼下に川をのぞめば、静かな心が降りてきます。
哲学者・西田幾多郎は、ここで何を思い、何を考えたのでしょうか。
西欧文化の波が押し寄せる中、日本的な心、日本的な精神の根幹をひもといた、西田哲学。
彼の人生は哀しみと苦しみの連続でした。
そんな彼が到達した境地は、こうでした。
「哲学の動機は、人生の悲哀でなければならない」
西田幾多郎が、我々に問いかける、人生のyes!とは?
11/12/2016 • 11 minutes, 39 seconds 第六十二話『想像力という力』-【金沢篇】 作家 泉鏡花-
石川県金沢市。昨年、北陸新幹線が開業して、ますます人気が高 まっています。
国内はもとより、海外からの観光客が時期を問わず訪れ、その中心である金沢駅は、アメリカの旅行雑誌で「世界で最も美しい駅」に選ばれました。
江戸時代、加賀百万石として栄えた伝統と、現代に通じる文化的なモダニズムが融和した街並みは、懐かしさと新しさが共存しています。
そして、日本海、いくつもの流麗な川、緑豊かな山々、金沢をとりまく自然も、魅力のひとつです。
この地に生まれ、この地の風土をこよなく愛した作家がいます。
浪漫主義の文豪、泉鏡花。
彼の作品には、多くの頻度で川が登場します。
その水は妖怪や魔界との接点であり、人間を清めるもの。
彼が幼少の頃から慣れ親しんだ浅野川の風景と無縁ではありません。
かつての花街・主計茶屋街(かずえちゃやがい)に向かう暗くて狭い石段の坂は、その名のとおり「暗がり坂」と呼ばれ、当時の旦那衆は、遊びに行く際、ひと目を避けられるこの道を好んで通ったそうです。
泉鏡花は、この坂を通り、小学校に通っていました。
鬱蒼(うっそう)とした木々に覆われた暗い道。
そこに彼は何を見たのでしょうか?
この世とあの世の境界線。
異形のものがたたずむ息遣い。
幼い頃から小説を読むことが好きだった彼には、物語の入り口だったに違いありません。
金沢に生まれ、金沢の土地の妖気をまとった作家・泉鏡花が、「暗がりの坂」の向こうに見つけた、人生のyes!とは?
11/5/2016 • 11 minutes, 3 seconds 第六十一話『転がり続ける』-【福岡篇】 作家 檀一雄-
福岡・博多座。11月の公演は、市川海老蔵演じる『石川五右衛門』です。
石川五右衛門を小説に書いて直木賞を獲った作家がいます。
檀一雄。彼は『真説 石川 五右衛門』と『長恨歌』という二つの作品で第24回直木賞に選ばれました。
檀一雄は、福岡にゆかりのある作家です。
父の実家は、柳川市。祖父は久留米市に住んでいました。
幼い頃から住居を転々としてきた檀にとって、福岡の地は、原風景であり、さまざまな思い出に彩られた場所でした。
晩年、自宅にしたのが、能古島。
博多湾に浮かぶ、小さな島です。
わずか10分ほどフェリーに乗るだけで、福岡の喧騒から逃れることができる憩いの島。
秋には、丘一面にコスモスが咲き誇ります。
ここに檀一雄は居を構えました。
別荘ではありません。彼は生涯、別荘を持ちませんでした。
能古島は、休息の場所ではありませんでした。
ここは、再び立ち上がるための場所。
彼には一生でどうしてもやり遂げねばならぬ仕事がありました。
満身創痍。体は病にむしばまれ、悲鳴をあげていましたが、彼はこの地を再起の地に選んだのです。
彼がどうしてもやりとげたかったもの。
それは自らのことを包み隠さず書いた小説『火宅の人』を完成させることです。
昭和50年8月、着稿以来20年かけて、『火宅の人』はできあがりました。
最後は床に伏したままの口述筆記でした。
翌年の1月、63歳の生涯を終えた、檀一雄。
壮絶な人生の果てに、彼がつかんだ明日へのyes!とは?
10/29/2016 • 11 minutes, 40 seconds 第六十話『一生懸命という凄み』-【福岡篇】 俳優 高倉健-
2014年11月10日。
最後の映画スターと言われた、福岡県出身の稀代の名優が逝ってしまいました。
高倉健。享年、83。
今年の夏、一本のドキュメンタリー映画が話題になりました。
タイトルは『健さん』。
高倉健について、世界中の映画人が証言するフィルムです 。
この映画は、第40回モントリオール世界映画祭 ワールド・ドキュメンタリー部門最優秀作品賞を受賞しました。
「漫然と生きるのではなく、一生懸命生きる男を演じたいと思います」
映画の中で彼はそう語っています。
一生懸命生きる。
彼がこの言葉を口にすると、こちらが背筋を正してしまうような、凄みを感じます。
それはおそらく、高倉健の生き方そのものからくる、静謐(せいひつ)で真摯な迫力ではないでしょうか。
演じていないときこそ、大事。
映画に関わっていない時間こそが、己をつくる。
そんな姿勢が貫かれています。
彼は、こんな言葉を残しています。
「どんなに声を出しても、伝わらないものは伝わらない。むしろ言葉が少ないから伝わるものもある」
映画『八甲田山』のロケ中に、ある夜、酒に酔った森谷司郎監督が、こう聞きました。
「健さんは、どうしてそんなに強いの?」
高倉健は、こう答えたそうです。
「生きるのに必死だからですよ」
映画俳優・高倉健が最期まで守り通した、人生のyes!とは?
10/22/2016 • 10 minutes, 30 seconds 第五十九話『逆境は変革の時』-【福岡篇】 実業家 石橋正二郎-
福岡県久留米市出身の実業家に、「逆境は変革の時、不況こそ商機、起死回生の最大のチャンスである」と説いた人物がいます。
石橋正二郎。
ブリヂストンの創業者であり、当時輸入に頼っていたタイヤ産業をゼロから起こし、世界一のメーカーにまで押し上げたひとです。
そこに至るまでの経緯は、決して順風満帆ではありませんでした。
しかし、彼は不屈の心で、常に挑戦を続けたのです。
晩年、こんなエピソードがあります。
入院していた石橋のもとを、気の置けない友人にして共に戦う同志、ソニー会長の井深大が見舞いにやってきました。
「やあ、元気そうじゃないか」
「全く、ざまはない。こんな姿を見せたくなかったよ」
やがて、井深はゴルフの話を始めました。
「スライスが治らんのだよ。どうしても右に曲がっちまう。それがどうにも悔しくてね」
井深は技術屋らしく、自らのスイングを分析し、「ビデオドクター」なるフォーム矯正器を開発した話を続ける。
「スイングだけじゃない、日本人に合うドライバーについても研究した。あれだな、4番ウッドのシャフトの長さが日本人にはイチバン合う」
そこで、彼はひとつ呼吸を置いて、
「ボールについても分析したんだが、キミんとこのボール、あれはレントゲンで見ると芯が少しずれているよ、はははは」
石橋は、そんな発言を悔しがり、すぐに担当者を呼びつけ、調べさせました。井深の言うとおりでした。
「いくらかかってもいい。真っすぐ飛ぶ、世界一のボールを開発しなさい!」
これがきっかけで、ブリヂストンはゴルフボールの世界市場でトップを争うまでのぼりつめたのです。
石橋は思いました。
「井深は、見舞いに商品開発のヒントと奮起する力をくれたんだ」。
どんなときも挑戦を忘れなかった実業家、石橋正二郎の明日へのyesとは?
第五十八話『夢を持つ資格』-【福岡篇】 洋画家 青木繁-
福岡県久留米市にある石橋美術館は、今年で開館60周年を迎え、今月より、久留米市美術館として再出発します。
美しい庭園を擁するこの美術館に、明治時代の日本絵画のロマン主義的傾向を代表する画家、青木繁の代表作が展示されています。
『海の幸』と題するその作品は、千葉県館山市の布良(めら)海岸で描かれたもので、28歳でこの世を去った彼の代表作です。
横長のキャンバスに、左に向かって列をなして歩いている裸の男たち。獲ったばかりの大きな魚を担いでいます。
この構図は、青木繁が得意とした神話を思わせるイギリス風。
22歳のときの作品です。
唯一、こちらを向いている白い顔の男は、青木の最愛のひと、福田たねのポートレートをもとに画いたと言われています。
『海の幸』を描いている頃が、おそらく彼の全盛期。そこには、青木自身の思いがあふれ、出せる力を全てぶつけた凄みが感じられます。
この絵を画いたのち、展覧会に出す作品が次々に落選し、彼は失意の中、放浪生活をおくり、生き急ぐかのように自らを追い込み、痛めつけ、夭折(ようせつ)します。
将来を嘱望され、才能を約束されたかに見えた彼が、なぜ、落ちていったのか。
そこには、彼自身が自分を追い込む、果てしない夢の存在がありました。
彼が身をもって教えてくれた夢との付き合い方には、明日へのyesが、垣間見えます。
画家、青木繁が、生涯持ち続けた果てしない夢の行方とは?
そして彼の人生が教えてくれる、人生のyesとは?
10/8/2016 • 10 minutes, 44 seconds 第五十七話『置かれた場所で生き抜く』-【福岡篇】 菅原道真-
福岡県の有名な観光名所のひとつ、太宰府市にある、太宰府天満宮。
ここは、学問の神様、菅原道真公が祀(まつ)られています。
参道に並んでいるのは、名物、梅ヶ枝餅を売るお店。
この「梅ヶ枝餅」の名前の由来には、諸説ありますが、絵巻にも残っている言い伝えは、京都から大宰府に左遷された菅原道真が、生活も制限され軟禁状態にあったとき、ある老婆が梅の枝に餅をつけて、格子の間から差し入れした、という説です。
梅といえば、道真の飛梅伝説。
彼は、京の都を去るときに、幼い頃からいつも愛でていた紅梅殿の梅の木にこんなふうに語りかけたと言います。
「東風(こち)吹かば 匂いおこせよ 梅の花 主(あるじ)なしとて 春な忘れそ」
その梅が道真を慕って、一夜のうちに大宰府に飛んだ、それが飛梅伝説。
太宰府天満宮の本殿の横に、飛梅があります。
秋の風が、梅の木をすり抜けて去っていきます。
この木の前に立つと、どこか不思議なたたずまいを感じずにはいられません。
全国におよそ一万二千ある天満宮の、総本宮。
その場所の由来は、道真が大宰府で亡くなり、その亡骸を牛車で運ぼうとしたところ、ある場所で牛が伏して動かなくなった、これは道真の意志であろうとその地に埋葬し、その場所に建てたのが、太宰府天満宮だと言われています。
道真が亡くなると、京の都で不吉なことが次々と起こり、恨みや祟りと恐れられ、それが天満宮建立の理由とされていますが、果たして道真はそれほどまでにルサンチマンのひとだったのでしょうか?
今も太宰府を訪れるひとがあとを絶たない道真の人気の裏には、繊細で真摯な人柄が見えます。
京を去ってもなお、天下泰平を夢見憂えた菅原道真公の人生のyesとは?
10/1/2016 • 10 minutes, 33 seconds 第五十六話『構想力を持つということ』-【東京篇】 建築家 丹下健三-
1964年に開催された東京オリンピック。
開催にあたり、いくつかの競技場が作られました。
大会終了後、国際オリンピック委員会が、特別功労者として表彰した建築家がいました。
丹下健三。「世界の丹下」と呼ばれた、日本人として最初に世界にその名を轟かせた建築家。
彼がつくったオリンピックプールの評判は絶大で、アメリカ選手は、「将来、私の骨を飛び込み台の根元に埋めてほしい!」と言わしめたほどでした。
彼こそ、終戦の焼け野原から、高度経済成長期まで、数多くの国家プロジェクトにかかわり、今もなお、東京をはじめとする日本の景観を作った第一人者です。
1964年の代々木第一体育館や1991年の東京都庁第一本庁舎は、その存在感を多くのひとが記憶に留めていることでしょう。
彼は、こんな言葉を残しています。
「建築家はその構想力によって、民衆を把握していくことが出来る。-構想力のない建築家は、いくら民衆、民衆といっても、民衆を発展的につかむことは出来ない」。
丹下健三が言う、構想力。それは、あらゆる条件を飲み込んだ上で、それでも自らの美、理想のために最良のものを生み出す力。
そこに暮らし、集う人間の心に寄り添う力こそが、建築と都市を融合させる。
構想力の判断基準は、美しさでした。
彼の名言がそれを象徴しています。
「美しきもののみ、機能的である」。
20世紀建築の巨匠、ル・コルビュジエの影響を受けつつも彼を越え、自らの世界観を打ち出した建築家・丹下健三がつかんだ人生のyesとは?
9/24/2016 • 10 minutes, 10 seconds 第五十五話『飛び立つスロープ』-【東京篇】 建築家 ル・コルビュジエ-
東京都台東区、上野公園内にある『国立西洋美術館』は、2016年、「ル・コルビュジエの建築作品―近代建築運動への顕著な貢献―」の構成資産として、世界文化遺産に登録されました。
この美術館を設計したル・コルビュジエという建築家は、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエとともに、「近代建築の三大巨匠」と呼ばれる人です。
『国立西洋美術館』は、今から57年前の1959年に開館しました。入口に、ロダンの「地獄の門」や「考える人」を有し、館内には、モネの「睡蓮」や、ルーベンスの「豊穣」、モロー、クールベ、ミレー、ルノワールにゴーギャンなど、名立たる画家の作品が常設で展示されています。
建物の平面は、正方形。7本の円柱が荘厳な雰囲気を醸し出し、ル・コルビュジエが愛した高床式、ピロティという技法も取り入れられています。
印象的なのは、2階。中央吹き抜けのホールを囲むのは、回廊状の展示室。ル・コルビュジエは、これを「無限成長建築」と名付けました。
将来、拡張すべきときには、外側に建物を継ぎ足せる構造になっているのです。
また日本初と言われる免震構造、地盤から絶縁する本格的な免震レトロフィット工事を行っており、幾多の災厄からこの美術館を守ってきました。
1954年に巨匠への依頼が決まり、彼は翌年の1955年に来日します。このときのわずか8日間の滞在が、最初で最後の日本旅行になります。
1956年に届いた基本設計案をもとに、ル・コルビュジエの弟子たちが、のちに世界文化遺産になる美術館を建てたのです。
彼の設計は、日本の建築家に大いなる影響を与えました。
丹下健三、磯崎新。もしル・コルビュジエというひとがいなかったら、東京の風景は変わったものになっていたことでしょう。
今もなお、その存在感を放ち続ける、そんなル・コルビュジエが人生でつかんだyesとは?
9/17/2016 • 9 minutes, 59 seconds 第五十四話『太陽を追いかける』-【東京篇】 映画監督 市川崑-
1965年に公開された映画『東京オリンピック』は、カンヌ国際映画祭青少年向け映画賞、英国アカデミー賞長編記録映画賞、モスクワ国際映画祭スポーツ連盟賞、国連平和賞など、世界的な映画賞を受賞しました。
この映画を撮った監督は、巨匠、市川崑。
彼がこの映画で試みた手法、挑戦は、のちの映画人や芸術家たちに多大な影響を与えました。
たとえば北野武は、『東京オリンピック』に強い影響を受けたと語り、「フィルムを光にかざして、フィルムを焦がすのがかっこよかった」と話しています。
1964年に東京で開催された世紀の祭典。
その記録映画をまかされた市川崑は、従来のドキュメンタリー映画とは一線を画した作品を創りました。
作品冒頭から観るひとを圧倒します。
「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである」という文字が浮かび、次に大きく映る太陽。
オリンピックの施設をつくるために崩れ去るビル群がスローモーションで映し出される中、オリンピックの歴史が淡々と語られます。
選手たちの息遣いが聴こえてきそうな静寂と闘い。
観客席にいる人々の表情がドラマを暗示します。
勝利と敗北。歓喜と絶望。
それらを、クローズアップを多用して浮き彫りにしていきます。
「なんだこれは!オレにはこの映画はさっぱりわからん!こんなのは、記録映画じゃない!」
当時のオリンピック大臣は、批判しました。
記録映画か、芸術作品か。その論争は日本中をかけめぐりました。
でも市川崑は、そんな外野の論戦とは別の場所にいました。
全ての撮影を終えたあと、彼はインタビューにこう答えています。
「このフィルムはただのフィルムではありません。世界の平和を象徴するオリンピックの記録フィルムであり、それは永遠不滅のものです」
そんな映画監督、市川崑が、生涯、心に秘めた人生のyesとは?
9/10/2016 • 10 minutes, 33 seconds 第五十三話『振り返らない』-【東京篇】 マラソンランナー 円谷幸吉-
2時間16分22秒8。
これは、1964年に行われた東京オリンピックで、陸上競技唯一のメダルを獲得した、マラソンランナー円谷幸吉のタイムです。
1964年、昭和39年10月10日から2週間にわたり開催された、第18回夏季オリンピック。
戦後の日本が復興を遂げ、再び世界の舞台に躍り出る象徴的なセレモニーでした。
そんな大会の、終盤。
陸上競技最終日。10月21日、午後1時。
世界のトップランナーたち68人が、東京・代々木の国立競技場を飛び出していきました。
2時間が経過し、やがて再びトラックに戻ってきた選手たち。
先頭は、エチオピアのアベベ。
そして2人目に入ってきたのが、円谷でした。
日本人としては、ダークホース。
マラソンにおいて、日本人でメダルに最も近いのは、君原健二か、寺沢徹だと言われていました。
決して美しいとはいえないフォームで黙々と走る円谷。
彼の後ろから、イギリスのヒートリー選手が近づいてきます。
円谷は振り返らない。ただ前だけを見つめる。
やがて、バックスタンド前で、抜かれてしまう。
抜かれた瞬間、「あっ」という表情を浮かべ、追走するが再び抜き返すことはできなかった。
それでも、銅メダル。快挙だった。
ゴールして、すぐに芝生に倒れる。
両手をつき頭を垂れる。
彼はレース中、一度も後ろを振り返らなかった。
それは父に言われていたからだ。
「どんなことがあっても、後ろを振り返ったりするな!」
27歳でこの世を去った孤高のランナー円谷幸吉が、人生で守り続けた明日へのyesとは?
9/3/2016 • 10 minutes, 8 seconds 第五十二話『日常に咲く花たち』-【山口篇】 童謡詩人 金子みすゞ-
「遊ぼう」っていうと、「遊ぼう」っていう。
「馬鹿」っていうと、「馬鹿」っていう。
「もう遊ばない」っていうと、「もう遊ばない」っていう。
そして、あとで さみしくなって、
「ごめんね」っていうと、「ごめんね」っていう。
こだまでしょうか。いいえ、誰でも。
2011年3月の東日本大震災。
そのとき、テレビから流れてくるこの詩に、心うたれたひとは数多くいるでしょう。
『こだまでしょうか』。
書いたのは、大正末期から昭和初期に活躍した童謡詩人、金子みすゞです。
金子みすゞのふるさとは、山口県長門市仙崎町。
日本海屈指の漁港を有するこの町は、かまぼこの産地としても知られています。
またここは、終戦後の引き上げ港として、40万人以上のひとたちを受け入れました。
金子みすゞが幼少期を過ごした場所には、みすゞ通りができて、生家跡地には、金子みすゞ記念館があります。
建物は、彼女が20歳ころまで過ごした書店「金子文英堂」を再現しています。
館内には、遺稿集や彼女が着ていた着物などが展示されていて、当時をしのぶことができます。
彼女は、ふるさと仙崎を愛し、山や海、港など、日常的な風景を詩に読みました。
わずか26年の生涯を駆け抜けた詩人が、今もなお、私たちの心に触れる言葉を紡ぐことができたのはなぜでしょうか。
金子みすゞが、人生で譲らなかった明日へのyesとは?
8/27/2016 • 10 minutes, 21 seconds 第五十一話『自力で動く』-【山口篇】 初代総理大臣 伊藤博文-
山口県は、全国最多の総理大臣を輩出しています。
しかも、総理大臣の通算の在任期間も、全国で最長。
なにより、初代総理大臣の伊藤博文こそ、山口県出身です。
伊藤博文は、44歳という 最年少で就任し、通算四度総理大臣の任を得ました。
長州藩の私塾だった吉田松陰の松下村塾に学び、幕末の尊王攘夷や倒幕運動に参加、イギリスへの留学で見聞を拡げ、いち早く開国の必要性に気づきました。
彼のふるさと、光市には、伊藤公記念公園があり、萩市の松陰神社の近くには、国指定史跡の伊藤博文旧宅があります。
旧宅は、生け垣に囲まれた藁ぶき屋根の、どちらかというと、質素なたたずまいです。
もともとは、貧しい生まれでした。
でも、素直な心を持ち、何でも吸収し、いつも行動することで、検証しました。
彼は、こんな言葉を残しています。
「いやしくも天下に一事一物を成し遂げようとすれば、命がけのことは、始終ある。とにかくも、依頼心を起こしてはならぬ。自力でやりなさい!」
自力でやる。誰かの意見、どこかの評判に流されず、自分の力でやってみる。
結局人間は、自分の眼で見たもの、自分の体験の中からしか学べない。
誰かの経験を知ったつもりになって使おうと思っても、ギリギリのところでは、役に立たない。
伊藤博文は、何も持っていなかったからこそ、何かを得ようと必死に動いた。
自力だけを流儀とした。
そんな伊藤博文の、明日へのyesとは?
8/20/2016 • 10 minutes, 20 seconds 第五十話『ポジティブであること』-【山口篇】 写真家 林忠彦-
山口県の東南部に位置する、周南市。
その街中にある周南市美術博物館には、ある写真家の記念室が設けられています。
林忠彦。
戦後の焼け跡にたくましく生きる子供たちをとらえた写真や、太宰治や坂口安吾など文豪の写真でもその名をとどろかせた、名写真家です。
彼は我が国の写真文化発展のためにも、尽くしました。
日本写真家協会設立に加わり、昭和28年には二科会に写真部を創設。
全国のアマチュア写真家の資質向上に、尽力しました。
その功績をたたえ、遺志を継ぎ、周南市は未来を切り開く写真家の発掘のために、林忠彦賞をつくりました。
この賞により、数多くの新人写真家が見出されています。
ここに一枚のモノクロ写真があります。
タイトル『犬を背負う子供たち』。
1946年、戦後の焼け跡がまだ生々しく残る町。
三宅坂の参謀本部跡。坊主頭の子供が二人写っています。
一人は座ってこちらを見ていて、もう一人は、立ってどこかに歩き出そうとしています。
立っている少年の背中には、野良犬がいます。
子供をすっかり信用している様子。
手をちゃんと肩にかけています。
子供たちの表情は、決して暗くない。
それどころか、瞳の輝きがわかる。
自分たちの食べるものもままならない時に、犬に餌をあげ、共に生きる子供たち。
写真家、林忠彦は、この写真にこんなコメントを寄せました。
「こんなに優しい少年たちがいるのであれば、戦後の日本の将来は、明るいに違いない」
どんな状況でも生きようとする心、前に進もうとする意志、ポジティブな思いを写真におさめた、林忠彦にとっての明日へのyesとは?
8/13/2016 • 10 minutes, 22 seconds 本州の最も西に位置する山口県。
三方を海に囲まれ、歴史と文化に彩られたこの場所は、明治維新以降、多くの政治家を輩出したところでもあります。
その流れの源にいる長州の偉人が、吉田松陰です。
山口県萩市には、今も松陰ゆかりの場所がいくつもあります。
松陰神社、誕生の地、墓地、そして国の指定史跡になっている松下村塾。
わずか8畳から始まったこの塾こそが、のちの日本をリードする多くの人物を生み出した原点になりました。
伊藤博文、高杉晋作、山縣有朋、近代日本の礎を築いた彼らは、松陰の教えを生涯、大切にしました。
吉田松陰は、わずか30年の生涯を、己の思いや思想を、行動や言葉で示すことに費やしたのです。
「己に真の志あれば、志無き者は、おのずから引き去る。恐るるにたらず」
「志を立てるためには、人と異なることを恐れてはならない」
松陰の言葉には、『志』という一文字が、数多く入っています。
幕末の混迷の中、己の志を貫くということは、命がけ。
それでも松陰は、日本の行く末を思い、よりよき日本を目指すことを本懐としました。
彼は塾生に言いました。
「死して不朽の見込みあらば、いつでも死ぬべし。生きて大業の見込みあらば、いつでも生くべし」。
自分が何かの役に立つのであれば、死のうが生きようがかまわない。
牢獄に入れられ、ひどい扱いを受けても、その志を曲げなかった吉田松陰が大切にした、明日へのyesとは?
8/6/2016 • 10 minutes, 9 seconds 第四十八話『マイナスをプラスに転じる』-【高知篇】 ジョン万次郎-
四国、高知県の最南端、足摺岬に銅像が立っています。
袴、羽織姿のその人物は、ジョン万次郎こと、中濱万次郎。
手には、コンパスと三角定規を持っています。
彼が見つめるのは、太平洋。海の先には、アメリカ大陸があります。
もともと彼は、好き好んで大好きな母がいる土佐を離れ、アメリカに渡りたいとは思っていませんでした。
海での漁を許される満14歳、初めての航海に出て、いきなり遭難してしまったのです。
無人島に流れ着き、なんとか生き延びた万次郎。
彼を救ったのが、アメリカ合衆国の捕鯨船『ジョン・ハウランド号』でした。
土佐では貧しさゆえに、ろくな教育も受けることができなかった万次郎は、アメリカに渡り、猛勉強の結果、日本に戻ると英語の教授職を得るまでになりました。
さらに、幕末から明治への「日本の夜明け」に、大いなる貢献をしたのです。
万次郎を翻弄する数々のアクシデント。
では、彼はただ運命に身を任せていただけだったのでしょうか?
いいえ、彼は、じっと待つだけの男ではありませんでした。
今やれることは何かを考え、瞬時に行動する。
決して諦めない心を持つ。
そんな彼の気質は、生まれ育った土佐清水の風土が培ってくれました。
どんなときも「生きること」に賭けた男、ジョン万次郎が、生涯でつかんだ、明日へのyesとは?
7/30/2016 • 10 minutes, 51 seconds 高知県の桂浜に立つ、坂本龍馬像は、今日も海の向こうを見つめています。
かつて土佐を治めていた、長曾我部家の最後の居城、浦戸城の本丸跡地に建てられた、龍馬の銅像に会いに来るひとは、後を絶ちません。
でも一説によれば、彼は桂浜に来たことがないのではないか、と言われています。
当時、海水浴、という風習はありませんでした。
桂浜からおよそ13キロ離れた場所に生まれ育った龍馬が、わざわざこの海岸に来る理由はなかったのではないか。
でも、この地に彼の銅像は似合っています。
龍馬は、姉、乙女とともに、何度も浦戸湾を船で渡り、父の後妻の関係で知った川島家を訪れました。
そこで聴いた、長崎や下関の話は、若き龍馬にとって刺激的でした。
まだ見ぬ世界を知り、ワクワクして話の続きを待つ。
今、目の前にある世界だけが全てではないという思い。
人間形成に、幼少期の風景の記憶は多分に影響する、と言われています。
外国につながる海の傍で暮らしたことは、坂本龍馬のスケールの大きさを決定づけたと言ってもいいでしょう。
慶応3年、龍馬が暗殺された年に撮影された最後の写真。
そこには、縁台に座り、彼方を見据える龍馬の姿がありました。
きゅっと結んだ口。彼は何を思い、何を目指していたのか。
司馬遼太郎に英雄として書かれた彼は、実は歴史を大きく動かした立役者ではなく、むしろ縁の下の力持ち、黒子として暗躍した、脇役だったという説もあります。
ただ彼の周りには、いつもひとが集まりました。
彼を慕うひとが、彼を押し上げ、彼と行動を共にしたのです。
激動の時代に痕跡を残した、坂本龍馬が人生で見つけた明日へのyesとは?
7/23/2016 • 11 minutes, 20 seconds 第四十六話『弱きもののために』-【高知篇】 実業家 岩崎弥太郎-
高知県安芸市の市街からおよそ3キロほど離れた場所、当時、井ノ口村と言われた場所に、三菱財閥の創業者、岩崎弥太郎の生まれた家が修復され、保存されています。
岩崎の生家は、決して裕福なものではありませんでした。
藁ぶきの平屋。
建坪も30坪あまりの質素なものです。
その土蔵の鬼瓦に、岩崎家の家紋、重ね三階菱が刻まれています。
これがのちの三菱のマーク、スリーダイヤの原型と言われています。
家の庭には、石が置いてあります。
いくつかの石が並べられた様は、まるで日本列島。
これは、岩崎弥太郎が、いつか日本で一番になるという青雲の志を持って、置いたのだと言われています。
井ノ口村の近くの妙見山にある星神社。
弥太郎は、この苔むした石段を登り、何度も神社にお参りしたといいます。
彼はこの神社に落書きをしたそうです。
そこには、こう書かれていました。
『我、今回、江戸に遊学す。我、志を得ずんば、再び帰りて、この山を登らじ』
立身出世を夢見て、江戸に出向く前に、夢を叶えることができなければ、ここにはもう来ないという彼の強い決意が垣間見られます。
庭の日本列島と、神社の落書き。
人里離れた村の手に負えない風雲児が、自らの中に培った人生のyes!とは?
7/16/2016 • 11 minutes, 40 seconds 第四十五話『絶望の隣にある希望』-【高知篇】 漫画家 やなせたかし-
高知県の東、香美市にある「やなせたかし記念館」。
ここにはやなせたかし自身が画いたタブローや貴重な絵本原画などを通して、「アンパンマン」の世界を体感できるアンパンマンミュージアムがあります。
訪れるたくさんの家族連れ。子供たちの笑い声が、興奮する声が、館内に響いています。
やなせたかしの父方の実家は、高知県香美市に300年続く旧家でした。
幼くして父を亡くした彼は、高知県の南国市で開業医をしている伯父の世話になります。
幼少期から多感な青春時代を自然豊かな高知で過ごしたことは、彼にとって、かけがえのない財産になりました。
やなせたかしがアンパンマンの作者として有名になるのは、彼が60歳をとうに越えた頃でした。
それまで彼は、「自分は何をやっても中途半端、二流だ」と自分を責めてばかりいました。
何より漫画家として代表作がないことが、コンプレックスだったといいます。
「もうきっと売れることなんかない、そろそろ引き際だ」
そんなとき、やってきたアンパンマンのヒット。
彼が漫画を続けてくれたおかげで、どれほどのひとが勇気づけられ、明日に希望を見出すことができたか。
2011年3月11日の東日本大震災のとき、ラジオから流れるアンパンマンの歌に涙し、生きる思いを胸にしたひとがどれほどたくさんいるでしょうか。
あきらめないこと。続けること。
それこそが、夢への、希望への唯一の道であることを、生涯をかけて教えてくれたひと、漫画家、やなせたかし。
彼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
7/9/2016 • 11 minutes, 34 seconds 第四十四話『孤高であること』-【高知篇】 政治家 吉田茂-
かつて5回も内閣総理大臣に任命された、宰相、吉田茂。
彼が父のふるさと高知から、初めて衆議院選挙に出馬したときのことです。
冬の冷たい風が吹いていました。
吉田は元来、選挙が嫌いで、演説も苦手だったといいます。
仕方なく街頭に立って、演説しようとすると、聴衆から野次が 飛びました。
「おい!オーバーを脱げよ!」
とっさに吉田は、こう切り返します。
「うるさい!これが本当の、ガイトウ演説だ!」
このダジャレに、聴衆は湧きました。
一瞬で聴くひとを笑顔に変えた彼のユーモアは、総理大臣になったのちにも、大いに生かされることになります。
高知龍馬空港の片隅に、ひっそりとある吉田茂像。
平成24年、この場所に移されたそうですが、意外な気持ちになります。
かつて、より親しみやすい場所への移設が求められましたが、「坂本龍馬や板垣退助には遠く及ばない」と反対派の意見もあり、退けられました。
首相時代、地元高知県への利益誘導を求められるも、「私は日本国の代表であって、高知県の利益代表者ではない」と言い切った男。
その気概こそが、戦後の日本の再建に大きく貢献した生きざまでした。
時に雷を落とす頑固者、時にユーモアで周囲を笑わせる人情派。
葉巻に白足袋。
和製チャーチルと呼ばれた男の明日へのyes!とは?
7/2/2016 • 11 minutes, 2 seconds 第四十三話『自分の第一義を知る』-【軽井沢篇】 劇作家 岸田國士-
劇作家・岸田國士(きしだ・くにお)は、1931年、41歳のときに、北軽井沢の大学村に別荘を建てました。
オランダの農家を思わせる、山荘でした。
彼は、軽井沢の自然をこよなく愛しました。
浅間山を愛で、山羊や羊を飼い、夏のみならず、一年を通して野山に戯れたのです。
彼が書いた『北軽井沢にて』という文章には、彼の想いがあふれています。
『一年の大部分を山で暮してゐる私は、季節の足音に耳をすます習慣がいつの間にかできました。八月にはいるともう秋の気配が感じられますが、家畜の世話や、魚釣りや、たまに机に向 つての仕事やをひつくるめて、私は今、自然のふところといふものに、大きな魅力と、言ひやうのない不安とを感じてゐます。この時代に、秋の訪れを待つことは、たゞの風流ではすまされぬ気持をわかつていたゞけるでせう』
岸田は、軽井沢で風を感じ、雨を楽しみ、ささやかでひそかな季節の移ろいに、心を揺さぶられました。
彼は、言葉を紡ぐひと。
誰よりも、目の前に見えるもの、自分が感じるものを、言葉に表したいと、もがいたひとなのかもしれません。
だからこそ、彼は言葉の虚しさにぶち当たります。
彼が書いた演劇論の一節に、こんな文章があります。
『「言葉の空しさ」――これをはつきり意識するところに、私の文学ははじまつてゐるのだと思ふ。私が戯曲を書く興味は、今日まで大部分「言葉の空しさ」を捉へる努力に出発してゐるといつていい』
劇作家・岸田國士が、むなしさから出発し、その先に得た、明日へのyes!とは?
6/25/2016 • 11 minutes, 34 seconds 第四十二話『ジョン・レノンからもらったyes!』-【軽井沢篇】 ジョン・レノン-
今月は、軽井沢にまつわるひとたちのyes!の便りをお届けしていますが、今週は、私、長塚圭史が軽井沢を訪ね、ジョン・レノンの足跡を辿りながらyes!に出会う旅を、お届けいたします。
ジョンが亡くなる前に、平和でおだやかで何物にも代えがたい珠玉の時間を過ごした、軽井沢。
駅に降り立った途端、他のどこでもない空気が鼻孔をくすぐります。
「ここは特別な場所だ」。なぜかそれが納得できます。
これから出会う、ジョン・レノンを知るひとたち。ジョン・レノンが好きだった風景。
それらから、私、長塚圭史がもらう、人生のyes!とは?
梅雨の雨 が緑を鮮やかにしています。
さぁ、私の旅がはじまります。
6/18/2016 • 15 minutes, 49 seconds 第四十一話『弱さは優しさ』-【軽井沢篇】 作家 遠藤周作-
作家・遠藤周作が、軽井沢に堀辰雄を訪ねたのは、昭和19年、21歳のときでした。
堀辰雄は肺を病み、入院していました。
ベッドサイドで話し込む二人。
慶應義塾大学文学部予科の学生だった遠藤にとって、堀とのひとときは、暗い戦時中での唯一の安らぎでした。
軽井沢の空気もまた、救いでした。
爽やかに吹き抜ける風。木々の匂い。野鳥のさえずり。
そしてもう一つ、遠藤周作が軽井沢に魅かれた理由があったとすれば、それはキリスト教の香りです。
宣教師が移り住み、異国の文化を根付かせた軽井沢。
自らもカトリック信者であり、文学のテーマとして、キリスト教を核にすえた作家にとってこの地は、ふるさとのように居心地がよかったのでしょう。
その証拠に彼は、出世作となった小説『沈黙』を、旧軽井沢の六本辻の貸別荘で書き上げます。
戯曲『薔薇の館』は、聖パウロ教会を舞台にしましたし、ついには、千ヶ滝に別荘を構えます。
毎年の夏には必ず軽井沢を訪れ、療養しつつ、執筆に励む。
また軽井沢は親しい友人との集いの場所でもありました。
北杜夫、矢代静一らとの文学談義は、楽しく、有意義でした。
彼は、人を笑わせるのが好きだったと言います。
真面目に語ったかと思うと、おどけたり、ジョークを言ったり、妙な扮装をしたりして、周囲の人を笑いに誘いました。
シリアスとユーモア。その二つが彼の根幹にありました。
常に弱さから目をそむけず、弱さを救おうと戦った男、遠藤周作。
彼が人生で見つけた明日へのyes!とは?
6/11/2016 • 12 minutes, 18 seconds 第四十話『寄り添う心』-【軽井沢篇】 政治家 田中角栄-
石原慎太郎が田中角栄に成り代わって書いたと言われている『天才』という小説が、ベストセラーになっています。
今、また巻き起こっている角栄の波。
黒い金にまみれたイメージのその一方で、戦後の日本政治を変えた稀代の政治家として、語り継がれてる人。
田中角栄は、軽井沢に3つの別荘を持っていました。
その額は、およそ4億7千万と言われています。
彼にとって軽井沢は、成功のシンボル。
軽井沢に別荘を持つことは、頂点の証だったのかもしれません。
別荘のひとつ、旧徳川邸は、国が登録した有形文化財になっています。
大きな門。豊かに生い茂った木々たち。
木漏れ日は時間を超え、在りし日の姿を映し出しているように思えます。
田中角栄は、ゴルフが好きでした。
軽井沢ゴルフ倶楽部でプレーしたとき、まわりの人が困ったと言います。
とにかく、速い。
アドレスは一瞬。気がついたら打っている。そして、速足で歩く。
まわりの人は大慌て。ついてまわるのが大変でした。
しかも、スコアにこだわるのです。
「ゴルフは道楽じゃなく、真剣勝負なんだ。ひたすら歩いて体を責める。汗を流す。昨日よりスコアを良くする。ミスは繰り返さない!」
一緒に回る政治家は思ったそうです。
「一国の総理大臣が、これほどゴルフに対して、無邪気に、一生懸命になれるものなのか」。
ロッキード事件で世間を騒がせていた田中角栄が軽井沢でゴルフをしたある日。
彼は、警護にあたった長野県警の警察官40名全員に、秘書を通して白い封筒を渡したといいます。
「若い警官たちを、楽にしてやってくれ」
田中角栄。彼は情の人でした。
悪と善の間で揺れ動く、日本を変えた政治家。
彼が心に持っていた、明日へのyesとは?
6/4/2016 • 10 minutes, 56 seconds 第三十九話『満身の力をこめて』-【京都篇】 作家 夏目漱石-
今年、没後100年を迎えた、夏目漱石には、京都を舞台にした作品があります。
『虞美人草』。
虞美人草とは、ヒナゲシのこと。
真っ赤で妖艶な花が特徴です。
漱石は小説に出てくる、自己愛の強い利己的な女性に、その花の強烈な個性を重ね合わせました。
利己的であることと、己を律する道徳心。
その対立が物語の拮抗を生んでいます。
この小説を書いたのは、明治40年、1907年です。
この年の3月、漱石は、勤めていた東京帝国大学と第一高等学校に辞表を出しました。
4月から朝日新聞社の専属作家になったのです。
いわゆる職業作家としての第一作が、この『虞美人草』でした。
ものを書くだけの人生。
それは彼にとって、夢であり、願いであり、祈りでした。
幼い頃から病と格闘してきた漱石にとって、命はいつなくなってしまうかもしれないもの。
だからこそ、自分がやりたいことをやり遂げて死にたい。
頭の中に沸き起こるアイデアやテーマを少しでも多く具現化したい。自分の力を全て出し切りたい。
そんな思いを最初にぶつけた作品、それが『虞美人草』でした。
読むひとを引っ張るエンターテインメントな図式を守りつつ、彼は文語体の文章を駆使して、まるで全てのセンテンスが俳句のように奥深く、読むひとを物語に引き込みます。
京都を旅する二人の男の運命に、夏目漱石が託した思いとは?
決して順風満帆ではなかった彼が人生でつかんだ、明日へのyes!とは?
5/28/2016 • 12 minutes, 52 seconds 第三十八話『真似る、捨てる、遊ぶ』-【京都篇】 画家 伊藤若冲-
今年、生誕300年を迎えた、江戸時代の画家、伊藤若冲。
21世紀から始まった若冲人気はとどまるところを知らず、さまざまな場所で展覧会が開かれ、連日多くのひとが訪れています。
彼は京都の中心地、錦小路の青物問屋に生まれました。
京のひとが「錦」と呼ぶ錦市場には、今もたくさんのお店が連なっています。
彼の生まれた家は、青物問屋でした。
青物問屋とは、各地の生産者から野菜や果物を買い取り、それを仲買人に売るという商いです。
錦市場ではかなり大きな店でした。
錦小路の先の錦天満宮。石畳の商店街は、不思議な静けさが漂っています。
かつて若冲も、この通りを歩き、この静寂の中にいたのかと想像すると、まるでタイプスリップしたような気分になります。
京都の路地には、そんな特別な空気が流れているのです。
美術史家、辻惟雄は若冲を、奇妙、奇抜の奇に、想像力の想と書いて『奇想の画家』と呼びました。
ひたすら絵を画くことに一生をささげた若冲は、その画法において、先鋭的でした。
中国絵画を真似る。そこに彼独自の手法や視点を入れ込み、やがて今までの対象を捨て去る。
そうしてたどり着いた、遊びにも似たユーモアあふれる境地。
なぜ彼の絵画が時代を超え、こんなにも愛されるのか?
そこには彼が悟った明日へのyesがありました。
「真似て、捨てて、遊んだ」彼の生き方と絵画への思いとは?
5/21/2016 • 12 minutes, 3 seconds 第三十七話『寄り添う心』-【京都篇】 建築家 ブルーノ・タウト-
京都市西京区、桂にある『桂離宮』。
心地よい初夏の風が吹き抜けるこの場所の素晴らしさを世界に広めた外国人建築家がいます。
ブルーノ・タウト。
彼は53歳のとき、初めて日本を訪れました。
そのとき桂離宮の庭を眺め、こんなふうに書き記しました 。
「ここに繰り広げられる美しさは、すぐれた芸術の美に他ならない。本当に偉大な芸術作品に巡り合うと、涙はおのずとあふれだす」
桂離宮は、江戸時代に皇族の別邸として建てられた建築群と庭園の総称です。
敷地面積は、およそ7万平方メートル。
建築は華美さを排した数寄屋風で、特に日本最古の回遊式庭園は有名で、建物と庭との一体感には日本の伝統的な美しさが凝縮しています。
ブルーノ・タウトは、ある意味、簡素ともいえる景色を、まるで小宇宙のように見つめ、深い精神性を感じ取りました。
「ここは、アテネのパルテノン神殿と並ぶ、世界2大建築物と言っても過言ではない!」
彼の心を揺るがしたのは、異国情緒ではありませんでした。
彼は私たち日本人も忘れてしまった、ある意味を教えてくれているのです。
それは、寄り添うという心。
自然に寄り添う。ひとに寄り添う。自分の心に寄り添う。
ブルーノ・タウトの眼に映った、明日へのyesとは?
彼が今、私たち日本人に問いかけるものとは?
5/14/2016 • 10 minutes, 56 seconds 第三十六話『目に見えないものを観る』-【京都篇】 物理学者 湯川秀樹-
1947年、昭和22年。
戦争が終わり、統治下にあった日本において、国民を元気づけるニュースが舞い込みました。
湯川秀樹、ノーベル物理学賞受賞!
日本人初めてのノーベル賞でした。
湯川秀樹は、1907年、東京に生まれましたが、地質学者だった父が京都帝国大学の教授に就任したので、1歳で京都に移り住みます。
「私の記憶は京都に移った後から始まる。やはり京都が私の故郷ということになるのかもしれない」
そう書いています。
父方の祖母は、彼を「ひーちゃん」と言って可愛がりました。
『絵合わせ』という玩具があります。
絵が画かれた幾つかの正六面体を並べて、一枚の絵を完成させるというものです。
湯川少年は、六面体の上の絵の配置を記憶しました。
そして裏側のほうで絵が続くように並べるのが得意でした。
祖母はそんな彼を、誉めました。
「ひーちゃんはすごい!ひーちゃんは、かしこい!」
のちに、父親にあまり評価されなかった時期も、幼い頃、祖母が誉めてくれた声が、いつも彼の心に響いていました。
「ひーちゃんは、かしこい!」
彼は物心ついたときから、「目に見えないもの」の存在に興味を持っていました。
それはときに、恐怖であり、それはときに、やすらぎでした。
ノーベル物理学賞を受賞するまでに、湯川秀樹が見つめた「目にみえないもの」とは?
そこに隠された明日へのyesとは?
5/7/2016 • 10 minutes, 12 seconds 第三十五話『影を濃く描く』-【京都篇】 映画監督 山中貞雄-
山中貞雄という映画監督をご存知でしょうか?
黒澤明や小津安二郎、後には、山田洋次や新藤兼人にも影響を与えた映画界の宝。
1909年11月8日生まれですから、1910年3月23日生まれの黒澤明とは、同年代ですが、なぜ彼の作品があまり知られていないのか。
その理由は何より、彼が若くしてこの世を去ったことに起因しています。
1937年、山中が監督した『人情紙風船』の封切り当日に召集令状が届き、彼は中国に出征しました。
中国各地を転戦した、翌1938年9月17日、赤痢のため、野戦病院で息をひきとります。享年28歳。
彼のお墓は、彼が生まれ育った京都にあります。
上京区大雄寺。
ここには、彼の石碑も建てられています。
石碑には、刻まれた文字。
幾多の名作を世に出したこと、その作品の完成度の高さ、絵の美しさ、日本の文化への多大なる貢献が讃えられています。
今から80年近く前に公開された遺作『人情紙風船』。
タイトルとは裏腹に、長屋で暮す庶民の日常と悲哀が綴られています。
冒頭の雨のシーン。誰もいない夜の長屋に打ち付ける雨。
それはまるで、第二次大戦後に一世を風靡したフィルム・ノワールのようなファーストシーンです。
『第三の男』を彷彿とさせる、光と影の使い方。
俯瞰と、細かいカット割り。
常にキネマ旬報のベスト映画に名を連ねていた小津安二郎は、彼の才能に感動して、わざわざ京都に出向きました。
夭折の天才映画監督、山中貞雄。
どんな苦労の中でも映画を撮り続けた、彼が見つけた明日へのyesとは?
4/30/2016 • 10 minutes, 47 seconds 第三十四話『昨日の自分を捨てる』-【京都篇】 アーティスト デヴィッド・ボウイ-
今年1月に亡くなったイギリスのアーティスト、デヴィッド・ボウイ。
彼は相当な日本好きで知られていました。
特に京都は、彼にとって、イマジネーションの宝庫であり、心を無に戻す大切な場所だったと言われています。
1979年12月。底冷えのする京都市北区西賀茂に、彼の姿がありました。
デヴィッド・ボウイ、32歳。
比叡山を借景にした枯山水の庭を前に、静かに座る金髪の男。
この禅寺、正伝寺をCMの撮影場所に選んだのは、彼でした。
撮影中、焼酎メーカーのスタッフは、彼の異変に気がつきます。
本堂の縁側に座ったデヴィッド・ボウイが、泣いていました。
白い砂の庭に、彼は何を見たのか。
頬をつたう涙のわけは、誰にもわかりませんでした。
京都の街で、何度も目撃された彼には、さまざまな逸話が残されています。
彼が『レッツ・ダンス』で大成功をおさめる前の話。
京都の居酒屋で、ある学生が、偶然、ボウイと隣り合わせになったといいます。
「実はボクは、アメリカから大きなビジネスのチャンスをもらえることになっているんだが…」
学生が「あなたほどのひとなら、間違いなく、そのチャンスをものにできるんでしょうね」というと、ボウイは目を伏せて、こう言ったそうです。
「どんな人間だって、弱いもんだよ。ぜったい大丈夫なんてものは、この世に…ない」
世界的なミュージシャンとしてその名をとどろかせ、俳優としても才能を開花させたアーティスト、デヴィッド・ボウイ。
彼が怖れたものとはいったいなんだったのでしょうか?
そして、彼が自らに言った、明日へのyesとは?
4/23/2016 • 10 minutes, 45 seconds 第三十三話『角を捨てない』-【京都篇】 芸術家 北大路魯山人-
「器は、料理の着物」という有名な言葉を残した、北大路魯山人は、京都市上賀茂北大路町に生まれました。
陶芸家、画家、篆刻家、料理家、美食家。
彼を表す言葉はさまざまですが、ひとことでいえば、当代きっての芸術家。
その多様さ、作品の多さ、領域の深さは、他に類をみません。
今もなお、ひとびとをひきつけてやまない、彼のチカラ。
しかし、旺盛な創作欲の中、彼には常に悪評がつきまとっていました。
傲慢、横柄、虚栄。
世界に名だたるピカソまでも罵倒する、雷のような物言いに、ひとびとは怖れをなし、また尻込みし、去っていくものも少なくありませんでした。
どんなに偉い社長や役人だろうと、容赦しない態度。
「馬鹿者!帰れ!貴様のようなやつに用はない!」
「なにやってんだ!この盗人が!」
「おまえの顔など、二度とみたくもない!」
その叱責や怒号は、ときに逆鱗に触れ、彼はさまざまなものを失ってきました。
それでも、彼は、自らの『角(かど)』を捨てませんでした。
魯山人の人生を丁寧に論じたことで知られる、美術評論家の白崎秀雄は、こんなふうに語っています。
「魯山人にとって生涯消えることがなかった性格、要素は、角ではないか。篆刻も、鈍角ではなく、鋭角に彫る。陶器も四方の鉢を好み、料理にも角を立てた」。
常人は、角を捨てます。
常人は、角をけずることで、世間と調和し、世界に溶け込みます。
しかし、ここに角を生涯持ち続けた男がいます。
どんなにけなされ、嫌われ、うとましく思われても、捨てなかったもの。
北大路魯山人が、自らの角を手放すことがなかったわけとは?
そこに見えてくる、彼にとってのyesとは?
4/16/2016 • 10 minutes, 24 seconds 第三十二話『世界を変えるためには』-【京都篇】 作家 三島由紀夫-
「世界を変貌させるのは、決して認識なんかじゃない。世界を変貌させるのは、行為なんだ。それだけしかない」。
三島由紀夫は、名作『金閣寺』の中で、主人公にそう言わせました。
まさしくこの言葉こそ、三島由紀夫の根幹だったに違いありません。
認識するより、動く、行動するということ。
京都市北区にある鹿苑寺、通称、金閣寺は、今日も春の陽射しを跳ね返し、その輝きを留めています。
鎌倉時代の公卿(くぎょう)、西園寺公経から別荘を譲り受けた、室町幕府三代将軍・足利義満が山荘北山殿をつくったのが始まりだとされています。
1950年7月2日未明、金閣寺が火に包まれました。
舎利殿は、激しい炎に包まれ、足利義満の木像も焼けてしまいました。
犯人は、金閣寺の見習いの僧侶。まだ大学生でした。
彼は行方不明となりますが、自ら命を絶とうとしているところを発見され、一命をとりとめます。
彼はなぜ、寺に火を放ったのか。さまざまな憶測や推論が世間に飛び交いました。
当時の金閣寺はほとんど金箔が剥げ落ちた状態。
火災にあったのち、5年後に再建されたときには、創建当時の金をまとった鹿苑寺を再現することになりました。
放火事件のとき、三島由紀夫は、25歳。
彼は足しげく京都に通い、取材をして、31歳のときに作品を書きあげました。
小説『金閣寺』は、第八回読売文学賞を受賞。
若くして天才の名をほしいままにしていた三島の、あらたなる傑作となりました。
三島は、この作品に自らの人生観や世界観を注ぎ込みました。
その後の彼の人生を暗示するかのような、規範。
『金閣寺』から見えてくる、三島由紀夫が、自分にyes!という為に、人生で大切にしたものとは?
4/9/2016 • 11 minutes, 5 seconds 第三十一話『相反するものを留める強さ』-【京都篇】 喜劇王 チャーリー・チャップリン-
「ユーモアとは、哀しみに裏打ちされたおかしみです」。
そんな言葉を残した世界の喜劇王、チャーリー・チャップリン。
彼は、親日家として知られています。
二度目に日本にやってきたのは、1936年。
そのとき、初めて京都を訪れています。
『鴨川をどり』を堪能して、円山公園を散歩し、宿泊したのは、創業1818年の『柊家』。
川端康成も定宿にしていた格式ある老舗旅館です。
宿のひとは、チャップリンの印象をこんなふうに語っています。
「とても几帳面なご様子から、何か別の人のように感じました」。
この旅館の茶室でお茶を飲む姿が写真に残されています。
黒い蝶ネクタイをした彼は、うれしそうな笑顔。
キチンと正座しています。
翌日は清水寺を参り、嵐山や金閣寺を訪ね、西陣織会館で絹のガウンを進呈されました。
以来、彼はこのガウンをこよなく愛し、晩年まで自宅で着ていたと言われています。
戦後、再び京都を訪れたときは、上七軒の銭湯にいきなり入ると言い、周囲を驚かせました。
京都に本部がある日本チャップリン協会発起人代表で、チャップリン研究家として国際的に有名な大野裕之さんは、この銭湯の一件について、こう記しています。
「チャップリンが幼少時代を過ごしたケニントンにも銭湯があり、恐らくはそのことを思い出したのだと推測されます。72歳の世界的な名士になっていても、極貧のロンドン時代のことをずっと忘れることはなかったのです」
幼少時代の貧しさ、哀しさを生涯心に留め続け、世界中のひとを笑わせ続けた喜劇王。
哀しみと笑い。
常に、その二つを見つめ続けたチャップリンが、明日への風に吹かれながら見つけた、人生のyes!とは?
4/2/2016 • 11 minutes, 45 seconds 第三十話『軽井沢駅からの便り』-駅が見守ってきた歴史-
軽井沢駅の北口に、レトロな赤い屋根の建物があります。
旧軽井沢駅舎記念館。
長野新幹線開通にともない、取り壊された旧駅舎を再建したものです。
1階は展示室。2階には歴史記念館があり、かつての1番線ホームには、電気機関車が展示してあります。
明治26年に碓氷峠を越えて開通した信越本線。
トンネルが26個もあるので、機関車では煤煙被害が深刻でした。
明治45年に、ようやく電化して走るようになったのが、このEC40型電気機関車です。
軽井沢の駅は、特別でした。
夏の避暑地としての地位を得てからは、海外の要人、政財界の重鎮、そして皇室の方々が、清涼な風をもとめてここに降り立ちました。
そのため、駅舎には、待ち合い用の貴賓室が設けられました。
旧軽井沢駅舎記念館には、当時の状態を再現した記念室があります。
カーテンボックス、木製の建具、応接椅子。明治のお歴々の気分を味わいながら、椅子に座ることができます。
往年の天井を見上げ、思いをはせれば、この駅が見守ってきた歴史が、この駅が見送ってきた様々なひとが、見えてきます。
明治21年、1888年12月。
直江津、軽井沢間が開通して、12月1日には軽井沢駅も営業を開始しました。
険しい峠で工事が難航していた横川、軽井沢間も、碓氷馬車鉄道が開業して、鉄道がとおっていない区間を繋ぎました。
それから5年後の明治26年に、碓氷峠の工事が竣工。
アプト式鉄道で、横川、軽井沢間がようやく開通しました。
駅は、見てきました。
苦難を乗り越える勇気を。
駅は、見てきました。
別れと、出会いを。
駅は、見てきました。
ささやかだけど、確かな、心の中のyesを。
3/26/2016 • 11 minutes, 40 seconds 軽井沢が、今のような避暑地として注目されてから、今年でおよそ130年。
明治から大正、昭和と、数々の作家、芸術家がこの地に足を踏み入れ、愛しました。
古くは、森鴎外や正岡子規が、歩いて、あるいは馬車がひく鉄道で碓氷峠を越えてきました。
1893年、明治26年に電気機関車が走るようになると、さらに多くの文人がやってきました。
徳富蘆花、尾崎紅葉、田山花袋。そしてその中に、志賀直哉もいました。
彼は、最初は旅人としてこの地を訪ね、のちに、友人だった室生犀星の別荘を訪れるようになりました。
室生犀星の旧宅は、今も記念館として軽井沢に残っています。
1951年。昭和26年の8月2日。こんな記述が残っています。
68歳の志賀直哉が、軽井沢にいる62歳の室生犀星のもとへやってきました。
2人は、およそ7年ぶりの再会です。
志賀直哉が軽井沢駅に降り立つと、
「やあ、志賀さん、こっちです、こっち」
迎えにきたのは、日本を代表する洋画家、63歳の梅原龍三郎です。
「おお、すまないねえ、わざわざ」
「いえ、お荷物、持ちましょう」
梅原は1913年にパリから戻って以来、白樺派の文人と親交をあたためてきました。
「いやあ、列車の中で偶然、評論家の長與善郎と会ってねえ、しゃべりすぎてノドがかれたよ」
志賀が話しました。
室生犀星は、志賀直哉の交遊関係の広さ、友人との快活なやりとりをうらやましく思っていたと言います。
文壇では常に賞賛と糾弾を同時に受けた、文豪、志賀直哉。
彼の心にいつもあった、人生のyesとは?
3/19/2016 • 10 minutes, 11 seconds 作家、辻邦生の軽井沢の別荘は、軽 井沢高原文庫に寄贈されました。
旧軽井沢にあった木造の家を設計したのは、磯崎新。
彼の作品の中でも名作の誉れが高い建築で知られています。
フランス文学者であり、西欧の影響を受けた芸術性の高い小説で有名な作家・辻邦生は、軽井沢を愛しました。
フランス留学から帰国した、39歳の夏。
初めて訪れて以来、夏は必ず貸別荘で過ごすようになりました。
51歳のとき、ついに別荘を購入。執筆は夏の軽井沢と決めました。
1999年、73歳で亡くなった場所も、別荘でした。
彼は旧制松本高校出身で、信州に強い愛着と思い入れを持っていたのかもしれません。
若かりし頃の寮での生活。そこで知り合った北杜夫とは終生、親交を持ちました。
学習院大学でフランス文学の教鞭をとっていた頃、彼は目白の中華料理店で学生からこんな質問を受けます。
「辻先生、作家になるには、どうしたらいいんですか?」
辻邦生は、しばし考え、端正な横顔を向けたまま、こう言いました。
「ひとと違う生き方をしたいなら、ひとと同じように生きていてはダメなんだ。そういう単純なことを、キミたち学生は忘れがちだ。努力が嫌なら、ひとと同じ道を選びなさい。作家にはね、いいか、努力が必要だ。どんなときも、どんなことがあっても、書き続ける力が必要なんだ」
大学の教授でありながら旺盛な執筆活動を死ぬまで続けた辻邦生。彼が心に培った、人生のyesとは?
3/12/2016 • 11 minutes, 7 seconds 軽井沢の森に響く、鳥のさえずり。
そして湯川のせせらぎの音。ここには、静謐(せいひつ)な風が吹いています。
星野温泉の入口あたりに、ある詩が刻まれた石碑があります。
「 からまつの林を過ぎて、からまつをしみじみと見き。
からまつはさびしかりけり。たびゆくはさびしかりけり」
『落葉松』というその詩を書いたのは、日本の近代文学に多大な影響を与えた詩人、北原白秋。
彼は、1921年の夏、星野温泉で開かれた自由教育夏季講習会に講師として参加するために、軽井沢にやってきました。
そこで見た落葉松の芽吹きにひどく感動した白秋は、歌を詠んだのです。
『落葉松』の最後は、こんな4行で締めくくられます。
「世の中よ、あわれなりけり。常なけどうれしかりけり。
山川に山がわの音、からまつにからまつのかぜ」
白秋は、この詩に関して次のように注釈をつけています。
「読者よ、これらは声に出して歌うべき、きわのものにあらず、ただ韻(ひびき)を韻とし、匂いを匂いとせよ」
すなわち、彼はこう言いたかったのでしょう。
「いいかい、くれぐれも表面的なリズムに惑わされてはいけないよ。大事なのは、底辺に流れるボクの心なんだ。声に出さなくていい。まずは感じてくれ。ボクの哀しさ、人生に対峙する姿勢を」
落葉松の道を、ゆっくり歩く白秋の背中が見えます。
彼は、この歌に何をたくしたのでしょうか?
彼が人生からつかみとった、yesとは?
3/5/2016 • 10 minutes, 52 seconds 第二十六話『人がやらぬことをやる』-実業家・政治家 堤康次郎-
軽井沢、千ヶ滝温泉。
この地の別荘を見渡す丘に、ある銅像があります。
千光稲荷神社の近く、参道横の並木道の先にあるのは、堤康次郎の像です。
台座に刻まれた文字は、元総理大臣の佐藤栄作によるもの。
緑の中に威厳を持って立っている銅像は、右手にステッキを持ち、左手はポケットに入れています。
西武グル ープの創始者にして、衆議院議員、「ピストル堤」の異名を持つ、日本の風雲児。
異名を知っている人には、左手のポケットの先には、ピストルがあるのではと想像してしまうほど、圧倒的な存在感です。
彼は、かつて、何もない平原だった軽井沢の土地を買い、この地をリゾートエリアに変えた先駆者のひとりです。
さまざまな事業に挑戦し、挫折や失敗を味わいながら、西武グループを大きくしていった康次郎の原点とでもいうべき開発。
それが、この千ヶ滝なのです。
後に彼は言いました。
「私は、ひとのやらぬこと、やれぬことのみをやった」。
浅間山麓のゴツゴツした黒い溶岩群を、「鬼押出し」という観光地に変えてしまった男、軽井沢の中心地から離れた沓掛(くつかけ)を、一大レジャータウンにしてしまった男、堤康次郎。
彼が心に持っていた人生のyesとは?
第二十五話『相反するものを留める』-作家・谷崎潤一郎-
旧軽井沢通りに、創業400年を誇る、名旅館があります。
『つるや旅館』。
江戸時代初期に中山道の宿場町軽井沢宿の旅籠として開業したこの宿は、大正時代から昭和初期にかけて多くの文人に愛されました。
芥川龍之介、室生犀星、堀辰雄。そして、谷崎潤一郎。
彼らは夏の間の避暑地として軽井沢を選び、交流を深めました。
執筆が目的でやってきた軽井沢ですが、あまりの快適さゆえ、むしろ筆がすすまず、散歩や友人との会食にあけくれた作家も少なくなかったといいます。
80年近い生涯で、40回以上も引っ越しを繰り返した谷崎潤一郎にとって、この『つるや旅館』は、そこにいけば自分を待っていてくれる心安らぐ場所であったに違いありません。
今年生誕130 年を迎える谷崎は、女性の背中に女郎蜘蛛の入れ墨を彫ることで 彼女の悪女の心を暴き出す『刺青(しせい)』や、高圧的な女性、春琴に隷属的に仕える男を描いた『春琴抄』、良家の夫人の同性愛をモチーフにした『卍(まんじ)』など、ショッキングでスキャンダラスな作風でも知られていますが、ノーベル文学賞候補になるなど、日本文学で唯一無二の存在として今も君臨しています。
芥川龍之介や夏目漱石の作家としての創作期間がおよそ10年しかなかったのに比べて、谷崎は明治、大正、昭和と生き抜きました。
そんな彼にとっての、作風やルーツには、西欧と日本古来の伝統が調和してせめぎあっているのです。
それはどこか、軽井沢の成り立ちに似ています。
作家、谷崎潤一郎が「強く美しい」文章を書くために、心に秘めたyesとは?
2/20/2016 • 10 minutes, 54 seconds 名門『軽井沢ゴルフ倶楽部』に、「PLAY FAST」と書いたシャツを着て現れる、伝説の男、白洲次郎。
その妻、白洲正子もまた、伝説の女性でした。
伯爵家の次女として生まれた正子は、ある意味で、夫次郎に負けるとも劣らない行動力と、強いプリンシパルを持ったひとだと言えるかもしれません。
正子の父方の祖父は、薩摩出身の軍人にして政治家、樺山資紀。
戊辰戦争や台湾出兵に参加し、警視総監や陸軍大臣を歴任した生粋の薩摩人でした。
ここに一枚の写真があります。
永田町の自宅の庭で、祖父、資紀の膝に抱かれる5歳の正子が写っています。
軍服にサーベルを下げ、椅子に座る祖父。
彼の帽子を手に持ち、カメラをにらむように見据える、白いワンピース姿の正子。
その真っ直ぐで大人びた眼差しは、後の正子の運命を暗示しているように思えます。
正子はおそらく、薩摩人である自分を意識していたのでしょう。
彼女にはただ単に、勝気、負けず嫌いでは片づけられないひとつの流儀がありました。
決めたことをやりぬく。欲しいものには粘り強くくらいつく。
その壁が高ければ高いほど、挑む。誰も入ったことのない場所に切り込む。
だからこその、伝説。それゆえの、唯一無二。
ただのお嬢様に留まらなかった彼女を突き動かした、心の中のyesとは?
2/13/2016 • 9 minutes, 52 seconds 第二十三話『二つのJ』-キリスト教思想家・文学者 内村鑑三-
しなの鉄道、中軽井沢駅から歩いておよそ20分。
森の中に、存在感のある建物が姿を現します。
『石の教会・内村鑑三記念堂』。
明治、大正と、キリスト教の布教に邁進し、日本人とは何か、後世に何を伝えるべきかに心を砕いた賢人、内村鑑三。
彼を讃えるために造られた教会は、一階が礼拝堂で、地下が記念堂になっています。
自然と調和する、圧倒的な石の静けさ。繊細なガラスの優しさ。
まるでこの地が出来たときからここにあるかのような一体感が、訪れるひとの心を癒します。
空をゆく鳥も、吹き抜ける風も、石の教会に敬意をはらっているように感じます。
石とガラスのアーチが幾重にも重なる、この建築を手がけたのは、アメリカの建築家、ケンドリック・ケロッグ。
石は男性をガラスは女性を象徴すると、言われています。
内村鑑三がとなえた、無教会思想。
祈れば、そこが教会になる。
彼のしなやかで、真摯な心は、今もここに生きています。
同時代の中でさまざまな軋轢(あつれき)と闘いながら、高尚で勇ましい態度を変えなかった男が 、生涯を通じて見つめ続けたyesとは?
2/6/2016 • 9 minutes, 59 seconds 信濃追分には、分去れの碑があります。
分岐点の分に、去っていくと書いて、分去れ。
言葉どおり、越後へ通じる北国街道と京都に向かう中仙道の分かれ道です。
江戸時代から旅人たちは、ここで別れを惜しみ、たもとを分けて、それぞれの道を目指しました。
この追分の分去れを、詩に詠んだ作家がいます。
立原道造。彼が詠んだ詩は、こうです。
「咲いているのは みやこぐさと
指につまんで 光にすかして教えてくれた
右は越後へ行く北の道
左は木曽へ行く中仙道
私たちは綺麗な雨上がりの夕方に
ぼんやり空を眺めてたたずんでいた
そうして夕焼けを背にしてまっすぐ行けば
私のみすぼらしいふるさとの町
馬頭観世音の草むらに
私たちは生まれてはじめて言葉をなくして立っていた」
立原道造は、帝国大学に入学した20歳の夏に、軽井沢を訪れました。
以来、24歳で亡くなるまで、この地を愛し、たくさんの詩にしました。
14行のいわゆるソネット形式の詩を、まるで音楽を奏でるように詠んだ抒情派詩人。
そんな彼は、建築の分野でも才能を開花させていました。
文学に傾倒しつつ、建築家としての道も歩んでいた、立原道造。
彼が分岐点で選んだyesとは?
1/30/2016 • 10 minutes, 4 seconds 第二十一話『用なき人に用あり』-実業家・鹿島岩蔵-
からまつの林を過ぎて
からまつをしみじみと見き
北原白秋の傑作、抒情詩『落葉松』には、軽井沢の美しい並木道の様子が描かれています。
かつては平原で、見渡すかぎりの湿地帯だったこの場所に、先人たちは樹を植えました。
鹿島組を創立、鉄道請負業に進出し、激動の明治を生 きた日本が誇る実業家、鹿島岩蔵もまた、落葉松を植えました。
その苗木は百年以上を経て、ひとの心を癒す並木道となり、『鹿島ノ森』になりました。
旧軽井沢ゴルフクラブに隣接する『ホテル鹿島ノ森』。
その敷地内には、御膳水と呼ばれている湧水が涼やかな音を響かせています。
江戸時代から名水の誉れ高く、古くから大名や公家、明治天皇の御膳にも出されたと言われています。
清々しい水を育む、鹿島の森。
鹿島岩蔵の百年先を見越した想いがなければ、実現しなかった風景です。
軽井沢は、イギリスの宣教師アレクサンダー・クロフト・ショーに見いだされ、日本唯一無二のリゾート地への道を歩き始めましたが、この地を一気に活気づけたのが鉄道でした。
横川、軽井沢間を結ぶ、碓氷線。
その建設工事を請け負ったのが岩蔵ひきいる鹿島組だったのです。
難関碓氷峠に挑み、8つのトンネルを開通した、不屈の男、岩蔵。
彼が大切にした人生のyesとは?
1/23/2016 • 9 minutes, 8 seconds 「よく生きられた生涯は、たとえ短いものであっても、人々の追憶の中に再びその生涯を生きるだろう」。
そんな言葉を残した作家がいます。
フランス文学者にして西欧文学を日本に広めた小説家、福永武彦。
彼もまた、軽井沢の地にゆかりのある文人でした。
劇作家、加藤道夫から信濃追分の別荘を譲り受けました。
彼はその山荘を、玩具の玩に草に亭で『玩草亭』と名付け、軽井沢の四季に触れ、創作に励みました。
彼は随筆にこう書いています。
「別荘というより山小舎で、初めの年は井戸もなく、貰い水で一夏を暮らした。
それが不便でしかたがないから、無理をして二度ほど建て増しをし、見掛けだけはどうにか立派になった。
といっても、一昨年の夏の建て増しに、田舎大工を相手に大喧嘩をしてさんざん手古摺り、出来た家もよくみればあらだらけというお粗末な代物だ。
しかもそのお蔭で僕は胃を悪くして半年ばかり休養を余儀なくされた。
癇癪(かんしゃく)を起すのはたいへん胃に悪いそうだが、僕は大工とやり合ってまさにその見本を示したらしい。
そのためか近頃では人格円満になって、とんと癇癪を起すこともない。
妻が、あなた近頃は本当に感心だわ、と言ってほめるのも、雷が落ちることがなくなって少々退屈しているのではないかと僕は疑っている」
福永の神経質で繊細な部分と、独特のユーモアが垣間見られる文章です。
名作『草の花』や、『海市』にも描いた軽井沢。
福永武彦が、この地で見つめた生と死とは?
1/16/2016 • 12 minutes, 6 seconds 軽井沢、星野エリア。
湯川のせせらぎの音が聴こえます。鳥のさえずり、そして、緑の香り。
ここでは、気軽に身近に自然を感じることができます。
この地は、大正時代から文人やアーティストが集まる文化の街であり、自然との共生を果たした場所でした。
星野温泉 トンボの湯、軽井沢高原教会、石の教会 内村鑑三記念堂。
モダンでエコなこの小さな街に、ひとびとは集いました。
星野エリアが、いや、軽井沢が文化と自然を満喫できる場所になった、忘れてはならない施設があります。
それは、温泉。
もし軽井沢に温泉がなかったら、今とは違った風景になっていたかもしれません。
今からおよそ100年前。
1915年、大正4年に星野温泉が開湯。
草津で湯治を楽しんだひとが、最後の仕上げに訪れました。
1921年ころには、北原白秋や島崎藤村などの作家たちがこぞってこの温泉にやってきて、執筆に励みました。
さらに「芸術自由教育講習会」を開催し、この地に文化の香りをもたらしたのです。
昭和の中頃には、星野エリアに隣接する森林の野鳥に注目。
のちにこの森は「国設軽井沢野鳥の森」に指定され、自然を壊すリゾートではなく、自然と共生するリゾートの礎を築きました。
ここに温泉を開き、森を守った人物。
特に温泉に多大なる情熱を注いだのが、星野二代目嘉助、国次です。
ひとが集うコミュニティの創生と自然との共生。
その意志は、現在の星野リゾートを率いる、星野佳路に引き継がれています。
星野二代目嘉助が、温泉への挑戦の先に見た、yesとは?
1/9/2016 • 11 minutes, 3 seconds 第十八話『シニカルという希望』-作家・評論家 正宗白鳥-
軽井沢、矢ケ崎川のほとり、室生犀星文学碑から、さらに坂をのぼり山道を行けば、やがて十字架をかたどった石碑が見えてきます。
作家にして評論家の正宗白鳥の文学碑です。
スウェーデン産と言われる黒い御影石には、彼が好んだギリシャの詩が刻まれています。
『花さうび 花のいのちは いく年ぞ
時過ぎてたづぬれば 花はなく
あるはただ いばらのみ』
花さうびとは、薔薇のこと。白鳥が愛した歌には、彼のニヒリズムが色濃く表れています。
軽井沢を愛した正宗白鳥の小説には、全編に、世の中をシビアに見つめる冷徹とも思える鋭い視線があります。
でも、その眼差しには、むしろ希望を、愛を感じざるを得ません。
晩年の彼は講演会でこんなことを語っています。
「例えば、芸術に殉ずるという、そういう人もある 。自分の仕事に、芸術でなくっても、ある仕事に全力を挙げて、一生を安んずるという。それは、僕らの尊い所。ところが、僕はそれほど自分の書くものに対して、何の信仰もない。自分のしていることにも何の信仰もない。と、ともに、そういうふうの信仰も、一方のあらゆる困難にあっても十字架につくという信仰もない。どっちもないで、ぐらぐら一生を終わったということになったんです。第一、自分のものを、自分はやろうと思ったんじゃなしに、今だって、できゃしないし、どうにか今日まであったのは、もっけの幸いだと思っている。それで、元来、遊戯だと思っている。小説なんてものは」
小説なんてものは、遊戯。遊び。
でも、その遊びをとことん突き詰めた男の、yesとは?
1/2/2016 • 9 minutes, 54 seconds 時代小説をこの世に残し、今も読み継がれている作家、池波正太郎。
『真田太平記』の中で、彼はこんなふうに書いています。
「すべてがわかったようなつもりでいても、双方のおもいちがいは、間々あることで、大形にいうならば、人の世の大半は、人びとの『かんちがい』によって成り立っているといってもよいほどなのだ」
池波正太郎は、人一倍、勘違いに敏感だったのかもしれません。
それは誰かに勘違いされる、ということのみならず、自らも、さまざまな事象、人の機微、世の流れやうつろいを、決して勘違いせぬよう、戒めていたような気がします。
彼が物事を正しくとらえるために心がけたこと、それは、おそらく、『身体で覚える』ではなかったでしょうか。
彼は、現場におもむき、五感で確かめ、自分の感覚を拠り所にしました。
初めて友人 と訪れた軽井沢。池波はまだ、十代でした。
南アルプスで遊び、八ヶ岳山麓をめぐり、軽井沢の星野温泉に泊まりました。
江戸の宿場町の風情が残る街並みを、池波は気に入りました。
晩夏の街道に人影はなく、いかにも長脇差を腰に、さんど笠を被った侍が、歩いてくるようでした。
その一方で、静かな別荘地。
ハンモックに揺れる金髪の少女を見ます。
軽井沢という場所は、彼にとって、ワクワクする創作の源になりました。
作家、池波正太郎が軽井沢に学んだものとは?
彼が自分にyesというために、心に決めた流儀とは?
12/26/2015 • 9 minutes, 28 seconds 第十六話『軽井沢クリスマス・ストーリー』-軽井沢を舞台にした二つの物語-
早くから宣教師たちが移り住んだ軽井沢は、いわば、日本におけるキリスト教信仰の聖地です。
1921年に開かれた『芸術自由教育講習会』を原点にできたのが、軽井沢高原教会。
その理念は、「遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり」。
文化を育てるのは、遊ぶ心なのだということを教えてくれました。
教会前のツリーは無数のキャンドルで彩られています。
チャペルの中に響いているのは、ハンドベルの音。
まるで天使が降りてくるのを祝福するような音色が、透き通った空気に溶けていきます。
軽井沢のクリスマスには、奇跡が起こりそうです。
今週は、そんな軽井沢を舞台にした二つのストーリーをご用意しました。
12/19/2015 • 10 minutes, 48 seconds ここに一本の道があります。
軽井沢万平ホテルの裏に伸びる、石畳の小道。
苔むした石垣や何処までも続く木々たちは、時代を越え、ここを歩くひとを見てきました。
外国からやってきた宣教師は、ここを、こんなふうに呼びました。
『ハッピー・バレー』。幸福の谷。
1977年から79年の夏、この幸せの谷を何度も往復した、ある家族がいます。
ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、そして息子、ショーン。
三人は、あるときは万平ホテルを、あるときは、離山房というカフェを訪れるために、この道を歩きました。
彼らは、緑の香りを胸いっぱいに吸い込んで、鳥の声に、耳を傾けました。
オノ・ヨーコの別荘があった、幸せの谷は、彼らを優しく包み込み、まるで世界はひとつだと言わんばかりに、キラキラと輝いていました。
オノ・ヨーコは、隣を歩くジョンに、どんな言葉をなげかけたのでしょうか?
そう、オノ・ヨーコが初めてジョン・レノンに会ったとき、彼女は一枚の名刺を差し出したそうです。
その名刺には、たったひとこと、こう書かれていました。
「呼吸、しなさい」。
12/12/2015 • 9 minutes, 46 seconds 日本で初めてノーベル文学賞を受賞した文豪、川端康成。
彼が軽井沢を訪れたのは、昭和6年の夏、菊池寛に連れられてきたのが最初だと言われています。
その後、彼が37歳の時、今度はひとりで、芥川龍之介や室生犀星が愛した『つるや旅館』に泊まろうとやってきたと言います。
しかし、つるやは、満室。番頭は丁寧に詫びをいい、藤屋という旅館を紹介しました。
川端が藤屋に行ってみると、一室しか空いていません。
しかも、その広い部屋には学生がひとり泊まっていて、相部屋はどうかと持ちかけられました。
川端は「いいよ、それで」とにこやかに承諾。
翌朝、宿泊したのがあの川端康成だと知って旅館中、大騒動。
学生も驚いたと言います。
ぎょろっと見据える大きな目。無 口で無愛想。
そんなイメージの川端康成にも、気さくな一面があったのです。
彼は軽井沢をたいそう気に入り、のちに別荘を購入します。
名作『雪国』がとった文学賞の賞金をその資金にあてたのです。
夏の間、避暑で過ごす軽井沢の空気を、川端は愛しました。
彼の別荘には、いつもたくさんの来客があったと言います。
決して人付き合いがうまい人間ではない彼のもとに、ひとが集う理由。友人や同志の笑顔を見て満足そうに腕を組む彼の姿には、彼が長い年月をかけて得た、人生のyesが見え隠れします。
作家、川端康成が生涯をかけて大切にしたものとは・・・。
12/5/2015 • 10 minutes, 57 seconds 軽井沢のほぼ中央に位置する、離山。
その麓に今も残る、大邸宅があります。
文化遺産に登録されている、旧雨宮邸。
大きな構えの武家門をくぐると、森のように木々がそびえています。
広い庭のその先にあるのは、雨宮御殿と呼ばれた屋敷。
その持ち主だった雨宮敬次郎は、かの大隈重信に、畏怖と尊敬を持って「天下の雨敬」と呼ばれました。
実業家にして鉄道王。
雨宮は、軽井沢の風景を変えた男として、その名を後世に残しています。
今や軽井沢の風物となった落葉松。
荒涼とした大地、火山灰と岩に覆われた荒れ野に、700万本の落葉松を植えたのが、彼でした。
家畜を育てたり、ぶどう作りを試みたり、雨宮は、軽井沢を豊かな土地にするために、心血をそそぎました。
かつて病気だった自分を優しく迎えてくれた風、空、ひとびと。
彼なりの恩返しは、かなりスケールの大きなものでした。
美しい軽井沢の風景をつくった男、雨宮敬次郎が後世の我々に伝えたい 、yesとは・・・。
11/28/2015 • 9 minutes, 50 seconds 芥川賞、第一回の受賞者、石川達三。
彼は、軽井沢をこよなく愛し、軽井沢ゴルフ倶楽部の常連でした。
スコアはシングルプレーヤー。作家仲間の中でもその実力は群を抜いていました。ハンデは、白洲次郎と同じ、3。
ある日のコンペでは、39、42の81。
それでも石川達三は悔しがっていたと言います。
ここに一葉の写真があります。
軽井沢の別荘のバルコニーでくつろぐ、石川の写真。
白いシャツに、ベージュのパンツ。
黒縁メガネの石川が照れたように笑っています。
テーブルの上には、スイーツ。まだ手をつけていません。
彼は別荘での生活をこんなふうに書きました。
「散歩道をつくって、ふろのたきぎをとったり、花をつんだりしています。鳥はうぐいす、かっこう、ほととぎす、かけす、あとはいろんな鳥がいるけど名前がわからないな。りす、きじなんかもいますよ。この家は気に入ったオルゴールの形に似せてあるんです」
作家、石川達三が見つめた、人生のyesとは?
11/21/2015 • 9 minutes, 23 seconds 第十一話『悲しみよ、こんにちは』-フランス文学者・朝吹 登水子-
軽井沢タリアセン。塩沢湖のほとりに建つ、こげ茶色の木造の別荘は、睡蓮の睡に、鳩と書いて、睡鳩荘と呼ばれています。
この建物は、W.M.ヴォーリズの設計によるもので、フランス文学者の朝吹登水子の命
により、この場所に移築されました。
旧朝吹山荘は、もともと小高い丘の上にありました。
帝国生命や、三越の社長を務めた朝吹常吉の別荘でした。
常吉の長女、朝吹登水子。
彼女は、軽井沢を愛し、この別荘を心から愛しました。
フランソワーズ・サガンの翻訳家、ボーヴォワールやサルトルと親交があった彼女の人生は、決して平たんなものではありませんでした。
日本とフランス。二つの国で生きた彼女が見つめた人生のyesとは?
11/14/2015 • 10 minutes, 18 seconds 軽井沢とミステリーには、深いつながりがあります。
数々のミステリー作家、推理小説家が、軽井沢を舞台に、謎解きや、犯人捜しの物語を紡ぎました。
松本清張『熱い絹』、内田康夫『軽井沢殺人事件』、そして、横溝正史の『仮面舞踏会』。
なぜ、かくも作家たちが、こぞって軽井沢を舞台にしたのでしょうか。
彼らが夏の二か月間、避暑に訪れていた、という物理的な理由もあるでしょう。
でも、軽井沢の森が、ある意味、守られた空間が、ミステリーの舞台にふさわしい雰囲気をかもしだしているのは、確かなことに思われます。
横溝正史は、金田一耕助シリーズで人気を博した、日本を代表する推理作家のひとりです。
彼は、五十を過ぎた頃から、軽井沢に別荘をかまえ、旺盛な執筆活動に励みます。
構想十年あまりを経て完成した長編『仮面舞踏会』は、彼の推理文学の集大成であるばかりか、軽井沢の風景を留めた傑作です。
横溝正史が、軽井沢で見つけた、yesとは?
彼のyesから見えてくる、大切なメッセージとは?
11/7/2015 • 11 minutes, 43 seconds 第九話『留まり続けるということ』-建築家 ウィリアム・メレル・ヴォーリズ-
塩沢湖畔にある、軽井沢タリアセン。
その中に、威厳を放ち、姿を留めているのが、旧朝吹山荘の『睡鳩荘(すいきゅうそう)』。
こげ茶色の木の質感。三角の屋根と白い窓が、上品で優しい風合いを奏でています。
湖面にゆらゆらと揺れるその雄姿。
三井財閥のひとりで、のち に三越の社長も務めた朝吹常吉氏の別荘として建てられ、ボーボワールやサガンの翻訳家として有名な朝吹登水子さんが長く住んだ家。
移築され、この場所にありますが、今もその温かみのあるたたずまいは、訪れる人を癒しています。
この別荘を設計したのが、ウィリアム・メレル・ヴォーリズ。
建築家にして実業家、そしてキリスト教の伝道者。
彼は、軽井沢に数多くの建築物を残しました。
ヴォーリズが、残したものとは?そして、彼が今こそ、我々にささやく、yesとは?
10/31/2015 • 9 minutes, 40 seconds 作家・芥川龍之介もまた、軽井沢に魅せられた芸術家でした。
室生犀星や堀辰雄と親交を持った芥川にとって、軽井沢の香りは、友情に満ちた、かけがえのない時間を与えてくれました。
そしてもうひとつ、軽井沢は、芥川にとって、最後の恋とでもいうべき出会いを用意しました。
片山 広子。
歌を詠む歌人にして、アイルランド文学の翻訳家。
芥川龍之介は、自作『或阿呆の一生』の中で、「才力の上にも格闘できる女性」としるしました。
外交官の長女として、東京・麻布に生まれ、東洋英和女学校を卒業した才色兼備。
彼女は42歳で銀行員だった夫を亡くし、その4年後に、軽井沢で芥川に出会います。
彼より、14歳年上。しかも、一男一女の母。
でも、広子の想いはあふれます。
「わたくしが女ではなく、男かあるいは他のものに、鳥でも獣でもかまいませんが、女でないものに出世してお
つきあいはできないでしょうか」と手紙を綴りました。
広子は、誰よりも芥川の文学的な才能を確信していました。
芥川もまた、彼女の才覚、立ち居振る舞いに、魅かれて いきます。
そんな二人が、軽井沢の地で見つめた風景とは?
それぞれが自分に言えなかったyesを言えた、あの夏の日。
誰にも、忘れられない風景があります。
誰にも、心に刻まれた、永遠の時間があります。
芥川龍之介が、死のふちで見つけた、最後の宝石とは?
10/24/2015 • 11 minutes, 41 seconds 軽井沢には、落葉松が多い。
秋を迎え、黄金色に輝く落葉松の葉が、ゆらゆらと地面に落ちています。
枯葉を踏みしめる感触は、ふかふかとしていて、その香りは、鼻の奥に、つんと懐かしさを残します。
森の奥に小道を行けば、瀟洒なホテルが見えてきます。
『万平ホテル』。
ジョン・レノンが愛し、三島由紀夫、池波正太郎ら、文人が、こぞって宿泊し、軽井沢の西欧文化の象徴として威厳を保ち続けた、国内最初のリゾートホテルのひとつ。
120年以上もの歴史を刻む、このホテルをつくった男がいます。
佐藤万平。
軽井沢の地に文化を花開かせた男のロマンが、あなたに語りかけるyes、とは?
10/17/2015 • 10 minutes, 47 seconds 秋の軽井沢タリアセン。
赤や黄色に色づき始めた木々たちが、塩沢湖の湖面に、映っています。
浅間山の山頂には、早くもうっすらと雪が見えます。
タリアセンにある『軽井沢高原文庫』。
その二階にあがり外に出ると、森の奥に一軒の山荘が姿を現します。
軽井沢1412。
昭和初期を代表する作家、堀辰雄の別荘を移築したものです。
小さな階段をきしませながらあがると、そこに、木の香りに包まれた、作家の聖域がありました。
19歳で初めて訪れて以来、48歳でこの世を去るまで、堀辰雄が愛し続けた軽井沢。
『聖家族』、『美しい村』、『風立ちぬ』。
別荘の中には、愛用した鉛筆、ペン皿、ベレー帽、室生犀星からもらったマフラーが展示されています。
クラシックをこよなく愛した堀辰雄が大切にした蓄音機。
ベランダの籐椅子に腰掛け、読書するのが好きだったと言われています。
彼は、ここで何に触れ、誰に会い、何を想ったのでしょうか。
小説の舞台にもたびたび登場したこの場所が、彼にささやいた、yesとは・・・。
風が吹いて、山荘のまわりの木々が、揺れました。
木の葉がいくつか、くるくると回りながら、落ちてきます。
『風立ちぬ、いざ、生きめやも』
10/10/2015 • 12 minutes, 33 seconds 軽井沢駅から歩いてほど近い、矢ケ崎公園。
並木道に、森の香りをふくんだ風が吹き抜けていきます。
池にかかった木造の橋から、同時に見える、浅間山と、離山。
池の水面に映る、五角形の建物があります。
『軽井沢大賀ホール』。
ソニーの元名誉会長であり、声楽家、指揮者としても知られる、大賀典雄(おおがのりお)が寄贈した、音楽堂。
今年10周年を迎えました。
「五角形にすれば、平行壁面がなくなる。どの席で聴いても、音が均一に届き、美しく反響する」。
彼は退職金の全てをなげうって、理想のホールを、創りあげました。
「若い人が、良質の音楽に、安い価格で触れることができるように」。
そんな彼の想いは、時間を越え、受け継がれ、軽井沢の地に、あらたな文化を根付かせました。木のぬくもりに包まれた音楽堂は、年々、音の深みを増していくように感じられます。
ホールに置かれたピアノは、スタンウェイ&サンズ社が誇る、世界最高峰の名器。
20世紀最高のピアニストのひとり、アルトゥーロ・ベネディッティ・ミケランジェリが来日した際、持ちこんだものです。
その音色を今も空の上で、大賀典雄は、聴いているでしょう。
軽井沢の豊かな自然と、音楽の手紙は、この地を訪れる全てのひとに優しく語りかけています。
「yes。あなたはそのままで大丈夫」
10/3/2015 • 11 minutes, 45 seconds 石川県金沢市に生まれた詩人で小説家の、室生犀星(むろう さいせい)。
彼は、こよなく軽井沢を愛した文豪のひとりです。
旧軽井沢の落葉松林を抜け、細い道を歩くと、矢ケ崎川に出ます。
その渓流をのぞむ岸辺に、室生犀星の文学碑があります。
黒い御影石に刻まれた言葉。
「我は張りつめたる氷を愛す
斯る切なき思ひを愛す
我はそれらの輝けるを見たり
斯る花にあらざる花を愛す」
室生犀星夫妻の遺骨は、ふるさと金沢から分骨され、彼らは、この川のほとりの石像の下に眠っています。
その石像に光と影をつくっている、秋の木漏れ日。
せせらぎの音が、かえって静寂を深めます。
犀星が、もっとも愛した場所に、自ら建てた文学碑。
彼にとって、この川の音色は、故郷金沢の川のそれに、似ていたのかもしれません。
『ふるさとは、遠きにありて、思ふもの』。
軽井沢は、彼にとって、心の庭でした。
全ての原風景がつまった、自分にyesと言える、庭。
9/26/2015 • 11 minutes, 2 seconds 第三話『想いは、届く』-イギリス人宣教師 アレクサンダー・クロフト・ショー-
旧軽井沢の森に、ひっそりと建つ、白い十字を掲げた教会があります。
『軽井沢ショー記念礼拝堂』。
イギリス人宣教師、アレクサンダー・クロフト・ショーが建てた、軽井沢最初の教会です。
深い緑 の香り。木々の下には、色鮮やかな苔が夜露を受けて、光っています。
深呼吸するだけで、癒され、浄化されたような気分になる、独特の空気感。小川のせせらぎも聴こえてきます。
足をさらにすすめると、木造二階建ての素朴な建物が姿を現します。
『ショーハウス記念館』。
軽井沢の父と言われるショーが別荘として利用した家。
さまざまな経緯をたどり、別荘第一号が建てられたこの地に、移築、復元されました。
石碑には、こう刻まれています。
「尊敬する大執事アレクサンダー・クロフト・ショー氏を記念して。
師は、夏の居住者として初めて村民と共に暮らし、彼らの永年の誠実な友人であった。軽井沢の村民がこの石碑を建てた」。
ここに暮すひとびとに愛され、受け入れられた初めての外国人。
彼がいなければ、西欧と日本が融合した今の軽井沢はなかったのかもしれません。
別荘地という位置づけも、彼が根付かせたと言っても過言ではありません。
ショーは軽井沢をこう呼びました。
『屋根のない病院』。
清廉な風が、木の葉を、ささやかに揺らしていきました。
9/19/2015 • 10 minutes, 35 seconds 名門『軽井沢ゴルフ倶楽部』に、「PLAY FAST」と書いたシャツを着て現れる、伝説の男がいました。
終戦直後、連合国軍占領下、吉田茂の側近として、堂々と海外と渡り合った官僚にして、実業家、白洲次郎。
彼は「日本のプリンシパル」と呼ばれました。
彼こそが「プリンシパル」すなわち、原則を常に心に刻んでいた痛快人でした。
どんなときも、「PLAY FAST」。行動することで世を見極め、
ふるまいで想いを示した、ブレない男。
彼が残したこんな言葉があります。
「人に好かれようと思って仕事をするな。むしろ半分の人には嫌われるように積極的に努力しないと良い仕事はできない」
そんな白洲次郎のプライベートを支えた場所があります。
別荘があった、軽井沢。
彼が、そこで見つけた、自分へのyes!とは・・・。
9/12/2015 • 8 minutes, 3 seconds 旧軽井沢銀座の一軒のパン屋さん。『フランスベーカリー』。
軽井沢の美味しい水と豊かな空気が育んだこのパンを買い求め、毎朝、自転車でやってくる外国人のメガネの男がいました。
小さな息子、ショーンを連れた、ジョン・レノン。
自転車のカゴの紙袋からフランスパンが顔をのぞかせています。
彼は、妻オノ・ヨーコの別荘があった軽井沢で、しっかり子供と向き合いました。
亡くなるまでの三年間。軽井沢の風が、雨が、陽射しが、彼の心に家族との幸せな日々を、見せてくれました。
9/5/2015 • 11 minutes, 25 seconds